第77話 真実の瞳と戦う理由
遠くで響いた咆哮が俺の足を止めた。
鋭く乾いた空気が胸の奥を切り裂くように突き刺さる。
――砂漠の夜は静かすぎる。
そのせいで音の一つひとつが妙に鮮明に響く。
悲鳴の余韻さえまだ耳の奥に焼きついたままだった。
砂を蹴る足音にもう一つの足音が重なる。
隣にいるのは……少年の俺だ。
そして、見えた。
六匹のサンドスネークハウンドが犬の魔物を囲んでいた。
その体は傷だらけで息も絶え絶えだった。
それでも犬の魔物は牙を剥き、力を振り絞って唸り声を上げていた。
「……間に合え」
思わず呟いた声と同時に俺の体が駆け出す。
砂を跳ねて一歩前へ。
だが――
先に飛び込んだのは少年の俺だった。
その瞬間。
サンドスネークハウンドの一匹が気づき、砂を滑るような速さで突進してくる。
だが、少年の俺は恐れなかった。
むしろ――真正面から迎え撃つようにその拳を突き出した。
「くらえ!」
短く叫んだ声が風を裂き、拳が一直線に突き進む。
ズドン――!
重い音が砂に沈み、衝撃が地面を震わせた。
サンドスネークハウンドの頭部がねじれ、勢いのまま地面に叩きつけられる。
砂が舞い、沈黙が一瞬だけ訪れるがすぐに咆哮。
残りの五匹が牙を剥きながら一斉に跳びかかってきた。
俺は立ち止まりながら拳を握る。
幻だと思っていたこの少年が本当に自分だったのかそれすら分からなくなっていた。
それでも――今はそれでいい。
「よし、行くぞ!」
砂を裂いて跳びかかってくるサンドスネークハウンド。
獰猛な牙が月光を反射し、唸りとともに俺の喉元へと突き刺さらんと迫ってきた。
それでも退く理由なんてどこにもなかった。
「うおおお!アポカリプティック バニシング アッパー」
名を叫んだ瞬間、拳が走る。
真下から突き上げるその一撃は、まるで隕石のような重量と熱を纏い――
「っらぁああああっ!!」
ドガァアアン!!
地鳴りのような衝撃と共に拳がサンドスネークハウンドの顎を完璧に捉えた。
牙ごと砕かれた顎は上に弾け飛び、体ごと宙を舞い――
まるで空に吸い込まれるように闇夜に消えた。
砂煙がゆっくりと降り注ぐ中、次の一匹の気配を背後から感じた。
「こっちも来たか……」
素早く振り返り、低く腰を落とす。
目に映ったのは腹を地につけて滑るように接近してくる別のサンドスネークハウンド。
狙いは明らかに首。
喉を噛み千切ろうという意志が蛇の瞳には宿っていた。
だが、俺は静かに息を吐いた。
「ユニバース リバーサル キック」
重力が反転したかのように体を回転させ、夜空に向かって足を跳ね上げる。
サマーソルトキックの軌道は星をなぞるような弧を描き、襲いかかるサンドスネークハウンドの頭部を正確に捉えた。
バギィィィィィンッ!!
甲高い破裂音。
サンドスネークハウンドの頭部が捻じ曲がり、体が地面を転がっていく。
砂が舞い、足元にサラサラと流れてくる中、俺は静かに着地する。
すぐ後ろで立っていた少年の俺が目を丸くして口を開いた。
「……へぇ、やるじゃねーか」
その声に俺は振り返らずに返す。
「当たり前だ!俺はこんな所で足を止める訳にはいかないんだ」
砂の波が唸りを上げる。
闇に沈むようにして残る三匹のサンドスネークハウンドが俺たちを囲む。
蛇の顔から、ぞわりと這い出る冷たい殺気。
尻尾が砂の上を擦り、まるで獲物を嬲る前の儀式のように低く構えていた。
「来るぞ!」
「分かってる」
少年の俺が右へ跳び、俺は左に回り込む。
視線を交わすまでもない、呼吸のように自然な連携。
――まず一匹。
跳びかかってきた獣の腹に少年の俺の拳が深くめり込んだ。
その拳には捻りが加えられ、地面が爆ぜるような鈍い衝撃が走る。
「おらぁ!」
残る二匹が俺へと集中する。
牙を剥き、同時に飛びかかってきた瞬間、俺は砂を蹴って滑り込んだ。
「連撃――ハリケーン スイング キック!」
身体を反転させながらの連続蹴り。
一撃目で一匹の顎を跳ね上げ、二撃目で横からもう一匹の頭を撃ち抜いた。
ガシャアア!!
二匹の魔獣が弧を描いて宙を舞い、音もなく砂に沈む。
だがその時、少年の俺が殴ったサンドスネークハウンドが鈍く呻きながら立ち上がった。
「あと一匹……だな」
そいつは地を蹴り、俺たちへと突進してくる。
尻尾をバネのように使い、跳ねながら変則的な動きで迫ってきた。
他の獣たちとは一線を画す、獰猛さと知性を併せ持った個体――
その瞬間、俺と少年の俺の目が合う。
「行くぞ」
「おう!」
同時に跳んだ。
背後には煌々と月が浮かぶ。
砂が舞い、俺たちは闇を切り裂くように進む。
「はぁあああっ!!」
俺が先に踏み込み、飛び蹴りで獣の顔面を撃ち抜く。
瞬間、少年の俺も続く。
サンドスネークハウンドの胴体にもう一発の飛び蹴りが加わった。
左右から同時に放たれる鋭い軌道のダブルジャンピングキック。
宙に交差する二本の閃光。
バギィィィン!!!
サンドスネークハウンドの顔と胴体が挟み撃ちにされ、砂漠の地にめり込むように崩れ落ちた。
静寂が戻る。
月光が静かに俺たち二人を照らしていた。
地に降り立った瞬間、少年の俺が笑う。
「やるじゃねーか!」
しんと静まり返った砂漠の夜。
空気にはまだ戦いの残響がほのかに漂っていた。
「……よし、終わったな」
俺は拳を下ろして大きく息を吐く。
月明かりの中、二つの影が並んで砂に伸びていた。
――あの犬は無事か?
俺は倒れ伏したサンドスネークハウンドたちの間を抜けて、さっき襲われていた犬の姿を探す。
すると、砂の陰にうずくまる小さな影が目に入った。
近づくと、それは犬のようでありながらどこか異様な気配をまとっていた。
「……たす、けて……」
「なっ……?しゃべった?」
俺は驚いた。
けれどもその声は確かに女の声だった。
その体は震え、毛並みは砂にまみれ、喉はひどく乾いているようだった。
「大丈夫か……ちょっと、待ってろ」
腰の水筒を外し、蓋を開けて犬の口元に差し出す。
犬は喉を鳴らしながら、水を少しずつ、少しずつ口に含んでいく。
そして飲み終えたその時――
犬は俺の顔を見上げ、優しい声で囁いた。
「ありがとう、天空……」
「なっ……!?」
その声に心臓が跳ねた。
忘れるはずがない。
その声は俺の記憶に深く刻まれたものだった。
「ルナ……?」
次の瞬間、犬の体がふわりと淡い光を放ちはじめた。
その毛並みが月の光を受けて揺らぎ、輪郭が柔らかくほどけていく。
小さな犬の姿はゆっくりと――人の形へと変わっていった。
金色の髪が夜風にそよぎ、月の光を優しく受ける。
透き通るような肌に、砂に汚れた頬。
そしてどこか疲れをにじませながらも、彼女は儚げに微笑んだ。
「ルナ……!?本当に、ルナなのか……!?」
俺は思わず声を上げていた。
そこに座っていたのは間違いなくルナだった。
「ええ……助けてくれてありがとう」
ルナはふわりと笑った。
その声も、表情も――俺が知っている、あのルナそのままだった。
「……どうして、こんなところにいるんだよ」
俺の問いに、彼女は少し照れたように目を伏せながら静かに言った。
「天空がこの砂漠にいるって知って……居ても立ってもいられなくて、アルテミスハースト城から一気に飛んできたの。でも、ずっと走ってる天空が凄く速くて……走っても走っても追いつけなかったから、犬になる魔法を使って……ずっと後ろから追いかけてた」
彼女はそっと視線をあげる。
その瞳には確かに疲れがにじんでいた。
「でも、途中で魔物に囲まれて……逃げられなくて……」
けれど俺の心には違和感が渦を巻きはじめていた。
「……でも、それっておかしくないか?」
彼女の言葉を遮るように俺は問い返す。
「ルナは……イヴァンを助けに行ったんじゃなかったのか?絶対にイヴァンを連れて帰るって手紙に書いただろ!」
そう、あの時、確かに手紙に書かれていた――
……それに俺は下の世界に絶対に来ちゃ駄目。
俺に上で待っててって。
……なのに、なぜここにいる?
なぜこの砂漠に?
なぜ、俺がここにいる事が分かった?
月が俺たちを照らしていた。
砂漠の冷えた風が吹き、静寂に包まれる夜の世界に彼女の声だけが優しく響く。
「イヴァンなら……もう、上の世界に戻ったわ」
ルナがそう言いながら微笑む。
「みんな、もう帰っていったの。イヴァンのお父さんとオーウェンがアルテミスハースト城に来て……父神様に話をつけてくれた」
俺は思わず眉をひそめた。
「……ルナの父さんが?」
「ええ。姉上が縛られていたのも……あれは治療のためだったのよ。拘束しておかないと王家の血のせいで魔力が暴走するからって」
さらりと語られる言葉に心の奥で警鐘が鳴り響く。
「上の世界に戻った時……天空の姿がなかった。だから、私だけ……あなたを探しに来たのよ」
あまりにも出来すぎていた。
あまりにも――俺が願った通りの都合の良い話だった。
だからこそ俺は静かに目を細めた。
「……なあ、ルナ。……それで済むと思うのか?お前の兄貴が何もしないはずがないだろ」
その問いにルナはわずかに顔を曇らせたが、すぐに笑みを浮かべて答える。
「……きっと大丈夫。兄上様は……話せば分かってくれる人なの。私、ちゃんと説得してみせる!」
その瞬間、俺の中で何かが爆ぜた。
「そんなの信じられるかよ!!」
一歩、砂を踏み締め、俺はルナを睨みつけた。
「ルナなら……そんなことは言わない!!」
風が吹き抜けた。
月の光が俺の背を照らし、長い影が地面に伸びる。
「ルナは……この世界がこんな事になってるって知っいたら、絶対にこのままにして上の世界には戻らない!どれだけ絶望してても苦しんでる人達を見捨てたりなんて……絶対にしない!」
拳を強く握りしめる。
王国と帝国の果てなき戦争――
その後にもなお続く無数の命の嘆きと痛み。
支配に苦しむ人々。
その全てを生み出したのはルナの父さんが治めるアルテミスハースト王家だった。
そして、その頂点に立ち、この世界最強とも言われる男、それがルナの兄貴だ。
「話し合って通じる相手じゃないだろ!?ルナの兄貴は……もう戻れない場所に行っちまってる!」
言葉を吐いた瞬間、俺は目の前のルナに違和感を覚えた。
――言葉はルナのものなのに、心が感じられない。
瞳の奥には、あの光がなかった。
すると、突如として砂漠がうねりを上げた。
大地が脈打つように波打ち、空へ向けて砂嵐が巻き上がる。
その嵐の中心に誰かが立っていた。
風が唸り、砂が舞い踊り、そして闇の奥から姿を現した男。
その男の瞳には凍てつくような光が宿っていた。
その体から放たれる威圧は、かつてのオーウェンを彷彿とさせる……いや、それ以上だった。
「……!」
身体が勝手に震えた。
喉が乾く。
視線を逸らすことができない。
ただ、息を飲むしかなかった。
「その通りだよ、天空」
男――あのゼニトスを思わせる風貌を持つ者が砂の渦から悠然と歩み出る。
「ルナエレシアは……お前をおびき寄せるための囮。いや、もう少し正確に言えば、餌だ」
囮?餌?
その言葉が胸に突き刺さり、心臓が跳ねた。
「な、にを……」
かすれた声が漏れる。
「……何を言ってるんだ……!」
「お前がここに現れるよう、彼女に魔法をかけて追わせた。お前が自ら姿を現すように、な。……よく来てくれた。これで上の世界からの者は全て排除される」
男の口元がわずかに歪んだ。
「お前はここで死ぬ。そう定められた運命なのだよ」
その言葉とともに空気が一気に張り詰めた。
まるで天と地がひっくり返るような圧倒的な力の奔流。
全身の血が逆流するような恐怖に包まれ、足がすくんだ。
――逃げたい。
逃げなきゃ……!
でも、脳裏に浮かんだのは、あのアジトで空腹に耐えながらも笑おうとしていた子どもたちの顔。
怯えながら、それでも生きようとしていた老人。
そして、ゼリオクスの言葉。
「必ず生きて戻ってこいよ、スカイ」
――逃げられない。
いや、逃げたくない。
――ズオオオォォォ!!
男の身体から砂嵐が爆発したかのように広がり、牙のような暴風が俺に襲いかかる。
だけど俺は目を閉じることなく、その中心へと踏み込んだ。
「……だったら……だったらよ……!」
足が砂を蹴った。
心の奥底から力が湧き上がる。
「俺の中に秘められてる力があるなら……今ここで、全部使わせてくれ……!」
俺は全力で叫んだ。
「うおおおおおおお!!エタニティ スピリット エクスプロージョン!!」
拳を突き出した瞬間、俺の体が眩い光に包まれた。
その光の中に異界樹のオーラが重なっていく。
大地の鼓動、天の祈り、命の叫び、その全てが俺の拳に宿る。
放たれた拳――
大気が震え、砂漠そのものが揺れた。
俺の背後から舞い上がったオーラは巨大な美しい孔雀となった。
七色に煌めく羽根を広げ、幻想のような輝きが砂漠の夜を鮮烈に照らす。
孔雀が咆哮する。
風が吠え、砂が舞い、そして――
辺り一帯が爆発的な光と風に包まれた。
――その後の事は、何ひとつ覚えていない。
目を覚ますと俺は岩陰にうずくまるようにして眠っていた。
風は冷たく、砂の匂いが鼻を突く。
まるで嵐の中心にいたはずなのに、何もかもが静まり返っていた。
周囲を見渡してもルナの姿はなかった。
あのオーウェンに似たゼニトスらしき男の気配も跡形もなく消えていた。
「……あれ?俺、寝てたのか?」
まるで全てが夢だったかのような感覚が胸をよぎる。
隣にいたはずの少年の俺の姿すら今はどこにもなかった。
「俺はこんな所で寝てる場合じゃねぇ……」
そう呟いて立ち上がる。
まだ修行は終わっていない。
あの、狂おしき風の砂塵の谷まで走らなければならない。
「よし!行くぞ、俺!」
再び砂の大地を駆け出す。
冷えた砂が足裏を刺し、澄んだ夜気が肺の奥に凍るように沁み込んでくる。
それでも俺はひたすらに前を見つめていた。
何も考えず、ただ走る事だけが俺の全てを支えていた。
……と、その時だった。
遠く、地平線の先に何かが立っていた。
砂のように淡く揺らめく三つの人影。
その姿は人の形をしていながら体の輪郭は風に溶け、まるで砂そのものが命を得たようだった。
一人は大人のように高く、二人は子供のように並んでいた。
何も言わず、ただこちらを見つめている。
──けれど、俺はその視線に気づく事は無かった。
風が鳴き、砂がうねる。
俺は走り続ける。
その先に何があろうとも――今度こそ、止まらない。