第6話 携帯電話と迷いの森
俺はゆっくりと足を引きずるようにして立ち上がった。
途端に不安定な足元に一瞬だけたじろぐが、ぐらつく身体を無理に踏ん張りながら目の前で倒れた狼の化け物を見下ろす。
その巨体は地面を抉るように崩れ落ち、もはや微かな動きすら感じられなかった。
鋭く伸びた爪は肉を引き裂くためにあるようで、牙は凶暴な獣のそれを越えた獰猛さを湛え、そして獣離れした密度の筋肉が醸し出す威圧感――まるで悪夢の具現化そのものだった。
理屈も理性も超越し、人間をただただ屠るためにだけ存在する化け物。
そんな化け物を自分の拳だけで沈めたという事実が重く、胸の奥底にずっしりと沈み込んでくる。
……よく、こんな化け物を倒せたな。
本当に俺ひとりで……?
その思考が揺らぎ始めた瞬間、不意に視界の端で異変が起きた。
倒れていた狼の化け物の身体が薄く赤い光を帯び始めたのだ。
最初は皮膚の下からじんわりとにじみ出る程度だったが、次第にその光は炎のようにほとばしり、やがて全身を包み込む勢いで広がっていった。
「これは……一体、何が起きているんだ……?」
思わず漏らした声に横から女の子の冷静な声が返る。
「魔物は――こっちの世界には長くいられないの」
「……魔物って?」
「だから、こっちで弱ると元の世界に戻るしかないのよ」
俺はその言葉を脳内で何度か繰り返したが、意味はすぐには飲み込めなかった。
こっちの世界、そして元の世界――その言い回しはまるで今自分が立っているこの場所が本来の現実ではないとでも言っているかのようだった。
わけが分からない。
でもそれ以上に――体が限界だった。
意識が深い沼にゆっくり沈んでいくような感覚に襲われ、次の問いを生み出すより先に俺の中で理性が眠ろうとしていた。
やがて狼の化け物の輪郭は霞み、赤く輝く光の残像だけが残り、その巨大な身体は音もなく消えていった。
代わりにその場所には何かが落ちていた。
それは小さな赤い宝石のようなものだった。
俺は膝をつき、震える指先でそっとそれを拾い上げた。
「これは……宝石か?」
「きっとルビーの石ね。魔物が消えると時々そういうのが残るの。戦利品として持ち帰りましょ!」
女の子は軽い調子で言いながら、笑って俺の隣にしゃがみ込んだ。
戦利品という言葉に俺はあまり馴染めなかったが――少しだけそのルビーの輝きが報酬に思えてくる。
「……戦利品ねぇ」
素直に受け入れるにはまだ時間がかかりそうだった。
すると少女がふいに俺の顔を覗き込んできた。
その瞳はどこか眠たげで、けれど悪びれた様子もなく、まるで当然のようにこう言った。
「今日はすっごく疲れたわ。ねぇ、キミの家に泊めてくれない?」
言葉のあまりの自然さに思わず口を開いたまま固まってしまった。
――何を言い出すんだこの子は、と心の中で思いながらも声には出さなかった。
本当なら「さっさと自分の家に帰れ」と一蹴したところだったが俺の口から出てきたのは、意外にも違う言葉だった。
「……まあ、今夜だけなら。後で聞きたいこともあるしな」
どこか無防備な彼女の態度とこの不可解な世界の仕組み――
全てが絡まり始めていて、何か一つでも答えが欲しかった。
そしてその答えをこの女の子は知っている気がした。
俺はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を起動し、位置情報アプリを立ち上げる。
GPSの現在地を確認すると、どうやら思ったほど深く森に入り込んではいなかったようだ。
すぐ近くに道路がある。
あと五分も歩けば舗装された道に出られるだろう。
あとは道なりにまっすぐ進めば自転車を止めておいた場所に戻れるはずだった。
「その手に持ってるものは何?」
女の子がじっと俺のスマホを見つめながら問いかけてきた。
大きな瞳に浮かんでいたのは警戒でも恐怖でもなく純粋な好奇心だった。
「これは携帯電話。今、帰り道を調べてるところ」
口ではそう答えながら心の中ではため息をつく。
(ああ……まだ異世界設定続けるつもりなのかよ。もう勘弁してくれ、こっちは疲れ切ってるんだって)
「キミは凄いんだね!それも魔法の道具なの?」
「まぁ、魔法みたいなもんだよ。これがあれば他は何もいらない。……たぶんね」
適当に相槌を打ちつつ、スマホの指示に従って歩き出した。
地図が示す方向にためらいなく足を進める。
――だが、数分歩いても一向に見覚えのある道が現れない。
五分で道路に出られるはずだった。
だが目の前にはただ木々が連なり、変わり映えのしない緑の壁が続いている。
不安がじわりと胸の内を侵食してくる。
十分、いや、十五分は歩いただろうか。
それでも森は終わらない。
進めば進むほどまるで森の内部に引き込まれているような錯覚に囚われる。
あの出入口へと繋がるはずだった道路の気配がまるで最初から存在しなかったかのように、どこにも見当たらない。
「……あ~、ごめん。ちょっとスマホ再起動するね」
焦燥を隠すように軽く笑ってそう言うと隣の女の子が不満げに顔をしかめる。
「再起動?もう、全然森から出られないじゃない。その携帯電話とかいうもの全然役に立たないわね」
口調こそ呆れ気味だが彼女の視線はスマホに釘付けだった。
地図やアイコン、数字や文字――そういったもの一つ一つに目を凝らし、珍しいものを見るように見入っている。
(……この子、言葉だけじゃなくて文字も読めるのか。しかも漢字すら迷いなく目で追ってる。いったい何者なんだ)
再起動を終えたスマホをもう一度手に取り、GPSの地図を拡大する。
現在地を再確認し、方向を見定めながら再び歩き始めた。
この森は子どもの頃から何度も訪れた場所だ。
GPSが一時的に不調を起こしていても地形の感覚には自信があった。
道に迷うはずがない。
……なのに。
また十五分が経過した。
それでも道路は現れない。
見慣れた木の形もいつも聞こえる鳥の声もどこにもなかった。
隣を歩く女の子は文句を言いながらも足を止めずに俺についてきている。
そのことだけがかろうじて現実との接点のように感じられた。
けれど俺の胸の内には確かな違和感が芽生えていた。
それは疲労による錯覚などではない、もっと根の深い不穏さ――
スマホのGPSはずっと同じ場所を指したままだ。
何メートルも、いや何百メートルと歩いたはずなのに画面の現在地は動かない。
まるで、俺たちがまったく動けていないかのようだった。
目に映る景色は変わっているのに座標は動かない。
進んでいるのに、進めていない。
――また十五分は歩いただろうか。
時間の感覚が曖昧になっていた。
歩きすぎたせいだろうか、頭の中がぐらぐらと揺れている。
視界が滲み、木々の輪郭が時折歪んだ。
目を凝らせば何か得体の知れない影が木の間をすり抜けているようにも見える。
だけどそれは思い込みだと自分に言い聞かせる。
ただの疲労で脳が妙な映像を勝手に作り出しているだけだと。
それでも隣を歩く女の子は俺の背中にぴたりとついてきていた。
不満を口にしながらも足を止めることなく、決して置いていかれまいとするように。
「もう~!いい加減にしてよ。道があるって言ったの、キミでしょ?」
文句を言いながらもなぜかその声に焦りはなかった。
むしろどこか芝居がかった軽やかささえ混じっているように感じられる。
そんな彼女の声を背に受けながら俺の胸には確かな異変が膨らんでいた。
仮に進む方向を間違えたとしても三十分以上も歩いて道路も、民家も、一切目にしないのはおかしい。
そもそもこの森はそんなに広くはないはずだった。
そして――
スマホのGPSは最初に立ち止まった場所を指したまま、まるで時間が止まったかのように微動だにしない。
電波が悪いのか?
アプリの不具合か?
再起動しても症状は変わらず、画面上の現在地はまるでそこが俺に固定された座標であるかのように沈黙を続けていた。
……おかしい。
ありえない。
だがそのありえなさが徐々に現実の重みとなり、胸に重くのしかかるような感覚だった。
ここは――本当に俺の知っている森なのか?
そんな疑念に囚われた瞬間、ふと横から冷ややかな視線を感じた。
振り向くと女の子は静かにこちらを見据えていた。
それは敵意でもなければ親しみでもなく、優しさとはほど遠い、無感情に近い冷たい瞳。
まるで俺の錯乱も疑念も、無力さまでも見透かしているかのような視線だった。
軽蔑とまではいかないが決して信頼は寄せられていない――そんな視線。
――そんな少女の心の声が鮮明に俺の頭の中に響いた。
「イライライライラ、この人本当に、大丈夫なの?」
――その刹那、耳に微かに水音が届いた。
さらさらと絶え間なく流れ続ける音。
森の静寂を破るその小さな音が現実の確かさを告げるようで、同時に異常の輪郭を明確にした。
「やったじゃん!ほら、ようやく進んだわよ!」
少女が目を輝かせながら軽やかに声を弾ませた。
その言葉に現実感がふいに戻る。
俺も耳を澄ます――たしかに聞こえる。
水の流れる音がすぐそこにある。
だが違和感は消えなかった。
俺の家の近くに川はある。
けれど、この森の中でその川に繋がる場所なんて聞いたこともない。
過去何度も来たこの森に川など存在しなかった。
それなのに……。
「ぼーっと突っ立って何してるの?こんな場所さっさと抜けてお家に帰りましょうよ!」
少女に急かされるまま俺は足を引きずるように水音の方へと向かった。
そこに出口があると信じたかった。
だが――
木々を抜けた先に現れたのは想像を遥かに超える光景だった。
俺たちの前に広がっていたのは、まるで境界を遮るかのような幅十メートル以上はある大きな川だった。
濁流ではない。
けれどその流れは一定ではなく、まるで呼吸するかのようにうねり、岸を撫でていた。
俺はその場に立ち尽くした。
心の中で何度も言い聞かせようとした。
こんな川なんて知らない。
いや絶対に存在しない。
この森の中にこんな大きな川があるはずがない。
川の音すら今まで聞いたことがなかったのに。
スマホのライトを点けて周囲を照らしてみる。
そこにあったのは俺の知る森ではなかった。
生えている木々の幹は異様に太く、葉は不自然に大きくねじれ、まるで呼吸するようにわずかに震えていた。
空気の匂いも違う。
乾いた腐葉土の香りではなく何か甘く湿った腐敗とも発酵ともつかない気配が肺に沈んだ。
そこへ無数の虫がスマホの光に群がってくる。
が、それもまた異形だった。
四枚の翅を持つ生き物が目の前を横切るたびに、冷たく硬い金属音のような羽ばたきが響き、その振動が顔に伝わった。
見た事もない虫が空中を這うように漂っていた。
「うわっ……!気持ち悪っ!」
そのうちの一匹が指先に止まりかけ、反射的に腕を払った。
と同時に手から滑ったスマホが跳ねて地面に落ちる。
転がったライトが偶然にも巨大な樹木の幹を照らした――そして。
その幹に絡みついていた一匹の蛇。
いや、それはもはや蛇というにはあまりにも巨大だった。
鱗は石材のように鈍く光を跳ね返し、身体は木の幹と同じ太さを持ち、うねるたびに幹全体が軋んだ。
「いやいや……さすがにおかしいだろ……。ここはまるでジャングルじゃねえか……」
喉が勝手に震えるのを誤魔化すように独り言を吐いたが、足元はすでに無意識に一歩後ろへ引いていた。
女の子も沈黙のまま周囲を見渡している。
動揺を声にできないまま、目線だけが彷徨っていた。
「と、とにかく戻ろう……今来た道を」
「うん……。この場所には居てはいけない気がする……」
俺たちは言葉の続きを飲み込み小走りに引き返した、が――。
おかしい。
足は進んでいる。
間違いなく進んでいるはずなのに見覚えのある風景は現れない。
いや、違う。
風景そのものが追いついてくるかのように変わっていく。
さっきまでいなかったはずの木が、気づけば隣にある。
歩いた距離と風景が噛み合わない。
逃げているはずなのにまるでどこにも出口がない。
狼の化け物と死闘を繰り広げた疲労が腕や足に重くのしかかる。
喉は乾いて引きつり、口の中の温度がじりじりと上がる。
このまま歩き続ければ確実に体力は尽きる。
その予感が首筋に冷たく貼り付き、俺はスマホを取り出した。
「……もしもし、イヴァン?」
プー……プー……プー……。
呼び出し音は鳴っているのにイヴァンは出ない。
画面の隅を見ると電波はある。
圏外ではない。
それなのに繋がらない――この時点で、すべての理屈が崩れ落ちた。
俺たちは道に迷ったのではない。
この場所に囚われている。
「電波はあるから……とりあえず、メールだけでも送っておくか」
短く状況を打ち込み、指先に力を込めて送信を押す。
その横で女の子がぽつりと問いかけてくる。
「……どうやって戻るの?」
「なぁ……これって、もしかして……違う世界に来ちまったんじゃないのか?」
「世界……って言えるのかどうか分からない。でも……違う場所に移動した感じはする」
「魔法の仕業か?」
「分からない。でも私の知ってる限り、こんな規模の転移魔法なんて存在しない。事前の詠唱も、魔法の痕跡も何も感じなかった。こんなの……見たこともない」
少女の声がかすかに震えていた。
だが俺はその時、確信していた。
――あの狼だけじゃない。
もう一匹ここにいる。
俺たちの動きをどこかから静かに見下ろしている。
獲物が自ら罠にかかるのを黙って見ているやつがいる。
俺が警戒の意識を前面に押し出した、そのわずか数秒後だった。
足首に冷たい何かが這い上がるのを感じた――
瞬間、脳が遅れて悲鳴を上げる。
「うわっ……!」
見ると足に巻きついていたのは乾いた蔓ではなかった。
濡れた粘膜のように光を反射するそれは、もはや植物の域を超えていた。
自ら動いているかのように蠢き、俺の足首に食らいつき、絞り上げるようにして引き寄せてくる。
「おい、冗談だろ……」
次の瞬間、身体が地面から持ち上がった。
重力が反転する。
視界が回転する。
俺は逆さ吊りのまま幹の途中にぶら下げられていた。
息が荒くなり、冷たい汗が背中を伝う。
血が頭に下りていく感覚と共に顔の皮膚が引きつり、耳の奥で脈拍が乱れ、鼓動が頭の中を暴れ回っているようだった。
「おーーい、大丈夫?」
少女の声が地上から届いた。
遠く聞こえる。
「……ああ、問題はねぇ!だけど気をつけろ!もう一匹いやがるぞ!」
俺の声に彼女が素早く反応するのが分かった。
空気が一瞬で張り詰める。
――何かが動いている。
木々の間で枝が揺れるわけでもない。
音すらない。
それでもそこに何かがいた。
気配だけが森の深奥から滲み出る。
悪寒では済まされない侵入してくるような、こちらの内部に染みてくる感覚。
やがて木立を押し分けて異形が姿を現した。
それは巨大な花だった。
直径が人間の身長を超えるほどの、濃密な色彩に染まった花。
花弁は虹色に輝き、毒々しさと崇高さを両立する艶やかさで視線を吸い寄せる。
美しさという言葉で済ませられるものではなかった。
見つめるだけで意志を吸い取られるような――拒絶できない誘惑。
ただ見ているだけなのに何故か意識が飲まれそうになる。
そしてその中心に立っていたのは緑色の人型――人間に似ているが、人ではないものだった。
輪郭は滑らかすぎる。
腕は長すぎる。
足の関節は逆に曲がっている。
「……最悪だ」
喉の奥でかすれた声が漏れた。
気づかないうちに俺たちは罠に踏み込んでいた。
狼の襲撃ですら導入に過ぎなかったのかもしれない。
本当の狩人はここにいた。
逆さまの視界の中で少女の表情が強張っているのが見える。
俺の足を縛る蔓はまだ力を緩めない。
逃げ場はない。
退路もない。
相手の力も、正体すら測れない。
脳裏が熱く焼かれる。
このまま様子を見るか――いや、駄目だ。
この森そのものが俺たちを引き込もうとしている。
どうする……?
どう切り抜ける――?