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第56話 変装と脱走

アジトの粗末な寝床で夜更けに起こされ、俺は反射的に体を起こした。

薄暗い松明の灯りが揺らめき、目の前に立つナターシャの蒼白な顔を浮かび上がらせた。

目の前にいるのはタリーシャの妹――ナターシャ。

俺より少し年上、十八歳前後だろう。

砂漠の生活に馴染んだ薄手の長袖チュニックに簡素な腰帯、膝上までの軽やかなスカートを合わせ、白色のマントを羽織っている。

その装いは質素ながら清潔で、彼女の雰囲気に自然に溶け合っていた。

彼女は背筋を伸ばしていたが、マントの裾をぎゅっと握りしめ、張りつめた緊張を押し殺すように息を整えていた。


――こんな夜更けにどうしてここに?

疑念と同時に眠気が完全に吹き飛んだ。


「……目を覚まさないって、どういうこと?」


俺が問いかけると、ナターシャの声が震えた。


「……お姉ちゃんの容態が急に悪化したの。体が冷たくて、息も浅くて……何度呼んでも反応がない……!」


彼女は拳を握り、涙を堪えてかすれた声で続けた。


「どんな手当ても効かない。こんなの初めて……このままじゃお姉ちゃんが――」


「危ないって……どのくらいなんだ?」


俺が遮るとナターシャは目を閉じ、唇を噛み締めた。


「正直…あと数日。持つかどうかも分からない。今すぐ何とかしないと…!」


声はかすれ、息に溶けるように途切れた。


「治療法はないのか?」


俺の問いに彼女はかぶりを振った。


「普通の手当てじゃだめ……思いつく限りの処置はすべて試した。でも効果がないの。だけど……」


ナターシャは苦しげに呼吸を整え、俺をまっすぐ見た。


「回復魔法を宿した魔導具なら、お姉ちゃんを助けられるかもしれない」


俺は息を呑む。


「……回復魔法?」


「そう。でも、回復魔法を扱える人なんて限られてる」


彼女の視線は鋭く、だが切実さを帯びていた。


「狂おしき風の砂塵の谷――そこへ行けば回復魔法を唱えられる者がいる。彼らなら魔導具を持っているかもしれない。だから……お願い。一緒に来て」


「待てよ!ゼリオクスはあんなに必死にタリーシャを助けるために動いてたじゃないか。どうして自分たちで行かないんだ?」


俺の言葉にナターシャは視線を逸らし、苦しげに唇を噛んだ。

沈黙ののち覚悟を決めたように顔を上げる。


「……狂おしき風の砂塵の谷はスコロピオス軍の支配地域なの。ゼリオクスたちが動けば敵に気づかれるのは時間の問題。すぐに戦闘になってしまう」


「じゃあ…俺なら、バレないとでも?」


「ええ。あなたはまだ敵に知られていない。ゼリオクスの仲間だとも思われていないし、スコロピオス軍にはただの旅人にしか見えない。もしゼリオクスたちが行けば大規模な戦闘は避けられない。でも……あなたとなら潜り込める可能性がある。それに――」


ナターシャは言葉を飲み込み、絞り出すように続けた。


「……お姉ちゃんだけじゃない。私の水の魔法もまだ汚染されていない。だから、ゼリオクスはお姉ちゃんが助からなくても私さえ生き残ればいい、そう思っているのかもしれない」


その言葉で部屋の空気が一気に重くなった。

彼女は身を抱くように腕を組み、それでもなお俺を真っすぐ見つめて言った。


「……私を手伝って、スカイ。私なら、あなたをこのアジトから逃がせるわ」


「……逃がす?どうやってだよ。見張りがうじゃうじゃいるだろ。それに俺は明日にはここを出られるはずだ。ゼリオクスがそう言っていたからな」


俺が答えると、ナターシャは苦しげに目を伏せた。


「ゼリオクスは…昨夜、部下に『スカイを閉じ込めておけ』と命じてた。あなたを外へ出す気はないわ」


「……何?」


「あなたからまだ聞きたい事がたくさんあるから、どうすればいいかを考えてた。それに……あなたがこのままずっとここにいれば、スコロピオス軍を倒すための大きな戦力になるかもしれないって。だから……最初から、あなたを外に出すつもりなんてなかったのよ」


ナターシャの言葉に、胸の奥が冷たく締め付けられた。

俺は思わず舌を打つ。


「くそぉ……」


つまりゼリオクスは、俺を解放するつもりなんて初めからなく、戦力として閉じ込めて利用しようとしていたのか。

……待っていれば出られると思っていた俺は、甘かった。


「だから……お願い。お姉ちゃんを助けるためにここを抜け出して」


必死な眼差し。ナターシャの表情に嘘はなかった。

俺は長く息を吐き出し、胸の奥に渦巻く苛立ちを押さえ込む。

ゼリオクスを全面的に信用していたわけじゃない。だが、ナターシャの声に滲む切迫感を前にすれば、これは罠ではないと理解できた。


「……わかった。協力する」


俺の言葉に、ナターシャはぱっと顔を輝かせた。

安堵が広がると同時に堪えていた涙が一気に溢れ、頬を濡らした。


「ありがとう、スカイ……!さあ、行きましょう!」


俺は牢の外へと踏み出した。

だが、ここからが本当の問題だ。

牢を抜けた先には長い廊下が続いており、その奥に出口がある。

当然、途中には見回りの護衛が配置されている。


「それでどうすれば外に出られるんだ?他に抜け道はあるのか?」


声を潜めて問うとナターシャは少し考え、そして首を横に振った。


「裏口はない。あるのは正面の扉だけ……でも、そこには必ず見張りがいるはず」


「それじゃあどうやって外に行くんだ?見張りがいるなら気づかれてしまうだろ?」


「私に任せて!」


きっぱりとした声。

ナターシャは頷くと小さな木箱を取り出した。


「その綺麗な服だと目立つわ。この中に見張りの服が入ってる。スカイ、これを着て」


俺は箱を覗き込む。

中には砂にまみれたマント、色褪せた上着、くたびれた帽子、ほころびだらけのズボンが入っていた。

どれも長年の汗と砂埃が染み込み、乾いた土の匂いが鼻に漂った。


「えぇぇ……これ、本当に大丈夫か?」


思わず眉をひそめる俺に、ナターシャはすぐに言い返した。


「夜だから細かいところは見えない。帽子を深くかぶって堂々と歩けば疑われないはずよ」


仕方なく俺は立ち上がり、用意された衣服に袖を通した。

ざらついた布が肌にまとわりつく。肩にかけたマントの端はすり切れ、指先で触れると砂漠の塵がぱらりと落ちた。

帽子を深くかぶると顔の半分が影に覆われ、元の姿を隠すことができた。

確かに、ぱっと見ならこのアジトに紛れ込んだ見張りの一人に見えるはずだ……少なくとも、この暗闇の中なら。


「どうかな?これ、見張りに見えるか?」


俺が尋ねるとナターシャはじっと見て、すぐにうなずいた。


「え?ナターシャは着替えないのか?」


「私はこの箱の中に入るの。今日、倉庫で荷物の積み替えがあるって見張りが話してたから、運ぶふりをすれば怪しまれないはずよ」


……そういうことか。


「てか、俺が運ぶのか?」


「そう、スカイはとても強いって聞いたし、私の方が軽いから」


そう言うと、ナターシャは迷いもなく箱の中に身を縮め、手際よく収まった。


「分かった。じゃあ、絶対に音を立てるなよ」


「……うん」


小さな返事を最後に蓋が閉じられる。

俺は箱を慎重に持ち上げた。

重みが腕に食い込み、背中では冷たい汗が筋を描いて流れた。

それでも運べる──問題は気づかれずに切り抜けられるかどうかだ。

深く息を吸い、扉に手をかけた。

軋む音とともに、俺は暗い通路へと足を踏み出した。


アジトの内部は夜の深い静けさに包まれていた。

遠くでかすかな風のうなりが聞こえるほかは人の気配をほとんど感じない。

だが、だからこそ一つ一つの足音がやけに響き、心臓の鼓動すらも外に漏れているのではと錯覚させた。


俺は大きな箱を抱え、肩を張って足音を揃え、堂々と歩く。

箱の中からはナターシャが小声で方向を示してくれる。

その声を頼りに、迷路のように入り組んだ通路を進んでいく。


壁際には松明が等間隔に掛けられており、炎がゆらめくたび影が長く伸びたり縮んだりして、通路を不気味に揺らしていた。

まるで無数の目がこちらを監視しているかのように感じられ、背中に冷たい汗が伝う。


──落ち着け。今はただの見張りの一人だ。疑われるな。


そう自分に言い聞かせながら進んでいると背後から鋭い視線を感じた。

見張りの兵士の一人が、じろりとこちらに目を向けていた。


胸がバクバクと暴れ出した。

俺は足を止めず、そのまま歩き続けようとした――


「おい」


低い声が背中を射抜いた。

脈が一気に跳ね、抱えた腕が細かく震えた。


「……何だ?」


振り向く時、できる限り落ち着いた声を作る。

ゆっくりとした仕草で相手を見返すと見張りは松明を掲げ、俺の顔と箱を交互に睨み、怪訝そうに唇を歪めた。


「そのデカい箱、どこに運ぶ?」


箱の中でナターシャが息を殺しているのが伝わってくる。

その沈黙が余計に重くのしかかり、汗が額を伝った。

俺は冷静さを装い短く答える。


「倉庫だ。今夜の荷物の積み替えだ」


「……そうか」


見張りは片眉を上げ、松明の炎に影を揺らしながらしばらく黙り込んだ。

俺は心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを必死に抑える。


「お前、そんなデカい箱持って、初めて見る顔だな」


「人手が足りないから今日だけ手伝ってる。ゼリオクスの命令でな」


喉が乾くのを感じながらも平然を装って言葉を返す。

ゼリオクスの名を出せば軽々しく疑うことはできないはずだ。


「なんだか重そうにしてるけど、手伝おうか?」


その言葉に全身が緊張で固まった。

もし触れられたら、中身が人だと一瞬でばれる。


「いや、大丈夫だ。迷惑をかけないようにって言われてるから」


短く切り返し、さらにゼリオクスの権威を暗に匂わせる。


「……へぇ。まあ、いいさ。さっさと運べよ」


見張りは小さく鼻を鳴らし、手を振って俺を促した。


──危なかった……。


俺は努めて落ち着いた歩調を崩さず、その場を離れた。

しかし額には冷たい汗が滲み、呼吸は浅く速い。

箱の重みよりも緊張の方がずっと体を重くしていた。


倉庫の入り口が見えてきた頃、箱の中からごく小さな囁きが漏れた。


「……やった、ね」


震える声だったが、それでも奥底には安堵が混じっていた。


「まだ安心するのは早い。倉庫に入ったらすぐに箱を開ける。見張りに見つかる前にな」


「分かった」


俺は扉の前で一度立ち止まり、周囲を入念に確認する。

幸いにもこの時間帯に倉庫を見張る兵士はいない。

松明の火もここまでは届かず、影が濃く沈んでいる。


──今しかない。


俺は扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。

倉庫の中は闇に沈み、乾いた木箱と樽の埃っぽい匂いが鼻についた。

木のきしむ音が静かに響く。

その隙間へと足を踏み入れ、静かに扉を閉ざした。


俺は倉庫の奥まで進み、大きな箱を床に静かに下ろした。

周囲を確かめ、息を殺して蓋を開けると、閉ざされていた闇の中からナターシャが静かに身を起こした。

その頬は汗に濡れており、暗闇でもその緊張の色が伝わってくる。


「はぁ……はぁ……。よし、ここまでは順調だ」


ナターシャは短く息を吐き、俺に小さく笑みを向けた。

俺も頷きながら彼女の隣に腰を落とし、倉庫の陰に身を潜める。

木箱の山が高く積まれ、わずかな隙間から漏れる松明の光が床を赤く照らしていた。


「それで?ここからどうやって出る?」


俺の問いに、ナターシャは視線を巡らせ、窓の方へと軽やかに歩み寄った。

彼女は埃をかぶった小窓に手をかけ、外をうかがう。


「ロープを使って降りるわ」


そう言うと彼女は箱から長いロープを素早く取り出し、床に広げた。

砂に擦れた丈夫な縄が薄暗い光にざらついて見えた。


「高さは?」


「……それなりにある。でも、見張りの光は届かないし、ここなら誰にも見つからずに脱出できる」


俺も窓から外をのぞいた。

闇に沈む砂漠の大地が広がり、遠くでは風に舞う砂塵が月明かりを反射して淡く霞んでいた。

見張りの光は届かないが足を滑らせれば岩場に叩きつけられる高さだ。


ナターシャは迷うことなく窓枠にロープを巻きつけ、素早く結び目を作る。

その手際は驚くほど確かで、彼女の決意を雄弁に語っていた。

俺は結び目を力強く引き、強度を確かめる。


「……よし、これなら問題なさそうだ。先に行ってくれ。俺は後から行く」


ナターシャは一瞬だけ俺を見つめ、それから力強く頷いた。

細い手でロープを握り、軽やかな身のこなしで窓の外へと体を滑らせる。

彼女の動きは驚くほど静かで、衣擦れの気配すら夜に吸い込まれていった。

やがて足が砂に触れると、彼女は影のように地上に降り立った。


俺も続いてロープを握り、ゆっくりと体を外へと滑らせる。

ひやりとした夜風が頬を撫で、背後にはアジトの黒い影が小さく遠ざかっていく。

砂漠の広がりと冷たい空気が自由への一歩を実感させた。


やっと地面に降り立つとナターシャが静かに指をさした。

闇の中で鱗が月光を反射し、巨大な影が低く唸っていた。


「サリゴフォラスよ。これで砂漠を一気に抜け、狂おしき風の砂塵の谷を目指すわ」


砂漠に生きた巨獣――サリゴフォラス。

その体躯は頑丈で、背中には人が乗れるほど広い鱗の地が重なっていた。

瞳は夜の光を反射して煌めき、その姿は砂漠を見守る守護者を思わせた。

俺たちは無言のまま、急いでその背に飛び乗る。

砂と獣のむせ返る匂いが鼻につき、体温が皮膚に染みついた。


「さあ、行こう」


ナターシャが微笑み、声を震わせながらも希望を込めて言った。

俺は力強く頷き、腰のベルトを握りしめる。


次の瞬間、サリゴフォラスは砂を蹴り上げ、闇の砂漠を疾駆した。

夜の空気を切り裂き、背後にアジトの灯りが小さく遠ざかっていく。


俺は自由を掴むために――そして狂おしき風の砂塵の谷へと全速力で駆け出した。

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