第53話 スコロピオス軍の砕滅将と圧倒的な力
戦況が一気に覆った――。
しかし、その勝利の余韻を打ち砕くかのように崩れ落ちたドラキグナスの巨躯を包んでいた砂塵の中から異様な気配が立ち上った。
熱を孕んだ風が巻き上がり、灰混じりの煙が渦巻く。
その奥から低く響く声が揺らめくように漏れた。
「……ふっ、雑魚どもがここまでやるとはな。少しは俺の暇つぶしになりそうだ」
砂煙が裂け、巨大な影がゆっくりと姿を現した。
倒れた魔獣の残骸を踏み越え、一人の男が音もなく歩み寄る。
「俺の軍を壊滅させた報い……きっちりと受けてもらうぜ」
男の姿はもはや人の範疇を超えていた。
鋼のように張り詰めた筋肉が皮膚越しに脈打ち、その繊維は金属の光を帯びてわずかに波打っていた。
それは人間の皮を被った戦闘兵器――いや、兵器すら凌ぐ威圧感を放っていた。
肩には鋲の打たれた重厚な肩当て。
破れた黒い毛皮のベストが野性味を帯びた体躯の迫力を際立たせている。
無数の古傷が刻まれた両腕には、血で染まったバンデージがきつく巻かれていた。
腰には大きな金属製バックルのベルト、下半身には激しい戦闘の痕跡を残す荒い裁断のズボン。
血の色を帯びた瞳が鋭く光り、口元には獰猛な薄笑いを浮かべていた。
「さあ……まだまだ楽しませてくれよぉぉぉ!」
男はゆっくりと首を回す。
――ゴリッ。
骨が軋む重い音が広大な砂漠に異様なほど鮮明に響き渡った。
「ありえねぇ……あの爆発の中から、何事もなかったかのように現れるなんて……!」
ヤニスが震える声で呟く。
後方では捕虜たちが魔力《 マギア》を使い果たし、ぐったりと横たわっていた。
奪い取った魔導装甲車は動きを止め、再び撃つことはできない。
一方、乗ってきた魔導装甲車もその場に止まり、ゼリオクスの魔力は枯渇していた。
「……くそっ、どうやら万事休すってやつか……?」
誰もが絶望に飲み込まれかけた、その刹那。
砂漠の風に混じり、ひとつの足音が響いた。
――ザッ……ザッ……
俺は静かに前へと歩み出る。
「……なんだ、まだこんな化け物が残っていたのか」
「ほう、小僧……貴様が俺の相手をするってのか?」
鋼の巨漢はにやりと唇を吊り上げ、両腕をゆっくりと広げた。
「いいぜ……俺の名はロートス。スコロピオス軍の砕滅将。戦場で生きることしか知らねぇ男だ」
「なっ……ロートスだと……?」
ヤニスが再び声を震わせる。
その名は戦場を知る者なら誰もが知っていた。
「スコロピオス軍の砕滅将ロートス……まさか、そんな奴がドラキグナスに乗っていたとは……。ロートスの名は戦場で数々の恐怖の噂がある。その悪名は誇張ではない。どんな武器も彼の肉体を貫けない。ある軍の騎士団長が全力で放った斬撃が、まるで木の枝を打つように弾かれ、ロートスの手に捕まると、そのまま甲冑ごと握り潰されたという。そして――ロートスと戦った者の遺体は決して見つからない。ただ血の跡だけが残り、殺された者たちは忽然と消える。まるで地獄に引きずり込まれるかのように……」
ゼリオクスが怒鳴った。
「バカ野郎!死にたくなかったらすぐにでも逃げろ!」
ロートスは拳で自分の胸を力強く打ちつけた。
ズン――胸を打つ衝撃と共に空気が震え、砂漠全体が低く唸った。
「お前の泣き叫ぶ声をたっぷり聞かせてもらおうか。逃げるなよ、小僧」
「はっ……逃げる理由なんてねぇよ」
俺は静かに構えた。
人と一対一で真正面から向き合うのは久しぶりのことだった――。
ロートスは砂漠の熱気など気にせず、口元を歪めて薄笑いを浮かべた。
鋭い眼光は獲物を捉え、呼吸はすでに戦いの昂ぶりを伝えている。
「さあ……来るがいい。俺が貴様を砂に還してやる」
言葉と同時にロートスの足が砂を踏み固める音が響いた。
「上等だ……!」
バシュッ――。
砂が爆ぜ、ロートスの姿が瞬きの間に掻き消えた。
気づけばその影は目の前――拳一撃の距離まで迫っていた。
「ふんぬうぅぅぅぅ!」
反射的に体を捻る。
風圧が頬を裂き、背後で砂が炸裂する轟音が響く。
わずかに避けただけで拳は砂漠の地面を粉砕し、細かい粒子が熱を帯びて舞い上がった。
ロートスの筋肉が脈動し、腕の中で力が収束していくのが目に見えた。
拳を引いた瞬間、周囲の空気がたわみ、熱が一層濃くなる。
「俺に逆らう奴はどんな相手でも容赦しねぇ!くらえ、メガトンブラスト!!」
岩塊が落ちるような拳が振り下ろされ、空気を裂く衝撃音が辺りに響き渡った。
俺は咄嗟に横へ跳んだ。
余波だけで砂嵐が巻き起こり、肌を焦がす熱気が襲った。
「……やべぇな」
息を吐く間もなく、迫る影が視界を覆った。
今度は一撃ではない。
容赦のない連打が休みなく迫る。
「ふんぬうぅぅぅぅ!ビーストキング バラージ!!」
空気が裂け、拳圧が肌を突き抜けた。
直撃すれば骨が砕ける──そう悟って、俺は退かずに踏み込み、拳を固めた。
「こっちも……本気でいくぜ!インフィニット デストラクション パンチ!!」
振り抜いた右腕が砂塵を裂き飛ばし、一直線の衝撃波がロートスの連撃を押し戻した。
ゴガァァァン――!
地面がうねり、衝撃が広がるように響いた。
拳がぶつかった瞬間、爆風が弾け、砂の表面に深い裂け目が刻まれた。
「な……なんだと……!?」
ロートスの分厚い拳がわずかに押し込まれ、足が砂を滑った。
信じられないという表情が浮かぶ。
「この俺が……こんな小僧に押されるだと!?」
だがその動揺は一瞬で消え、次の瞬間には瞳に獰猛な光が戻っていた。
「面白い……ならば、これでどうだ!ヘルズ クラッシュ!!」
両腕を天へ突き上げ、全体重をかけて振り下ろす。
反射で腕を交差して受け止めると、鈍く重い衝撃が骨の奥まで響き渡った。
「がはっ……!」
受け切ったはずの衝撃は容赦なく体を押し込み、俺の背中を砂地へ叩きつけた。
砂地がえぐれるように崩れ、砂埃が視界を白く覆う。
ロートスはその中で勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「どうした?さっきの勢いは……これで終わりか?」
腕の奥に鈍い痛みが走り、脈打つたびに痛みが広がる。
それでも俺は砂の中で拳を握り直した。
脚が震えながらもゆっくりと立ち上がった。
「終わるわけがねぇだろ……ここからが本番だ!」
全身の筋肉が限界を訴え、骨まで響く鋭い痛みが走った。
だが、それでも――まだ立てる。やれる。
呼吸を一つだけ整え、俺は砂を蹴り上げて一気に間合いを詰めた。
視界の端でロートスの巨体がわずかに揺らいだ。
その瞬間を逃すはずがない。
拳を握り込む。
全身から絞り出した最後の力を右腕に注ぎ込む。
「――アポカリプティック バニシング アッパー!」
轟音と共に弾丸のような拳がロートスの顎を強打した。
ロートスの首が大きく仰け反り、その巨躯が一瞬浮いたように見えた。
鋼のような肉体も、急所への直撃には抗えなかった。
「う……げっ……!?ど、どういうことだ……!」
呻き声を洩らすロートスの瞳に確かな動揺が走った。
「ば、馬鹿な……!貴様の細い腕のどこにそんな力を……!」
その動揺――まさに今だ。
俺は呼吸も置かずに踏み込み直し、低く身を沈めてから再び両腕に力を込めた。
「まだ終わらねぇ!さっきの連続パンチ、そっくりそのまま返してやる!」
砂を蹴り、重心を前へ。
拳が空気を裂きながら無数に突き出される。
「――喰らえ!オメガ インパクト ストーム!」
砂を踏み裂く足音とともに、拳が次々とロートスの胴、肩、顎を打ち据えた。
鈍い衝撃音が幾重にも重なり、ロートスの装甲のような筋肉がきしみを上げる。
拳を受けるたびにその巨躯が大きく揺れ、踏みしめた砂を蹴り返しながら後退していく。
「ぐっ……こ、この俺が……!こんなガキに……」
その呻きも俺の最後の一撃にかき消された。
「――インフィニット デストラクション パンチ!!」
全身の力を絞り切り、息と同時に叩き込んだ。
衝撃は手首から肘、肩へと駆け上がり、背中から脚の先まで一気に走り抜けた。
「グアァァァァァッ!!」
巨体が浮き上がる。
空中へ弾き飛ばされ、数メートル先の砂地へと叩きつけられた。
砂煙が激しく舞い上がり、やがてゆっくりと晴れていった。
その向こうでロートスは仰向けに倒れ、わずかに痙攣するだけで動かなくなっていた。
俺は肩で息をしながら、その姿を静かに見下ろした。
「……これが、俺の本気だ」
沈黙を破ったのは後方から漏れた驚愕の声だった。
「ば、馬鹿な……!相手はスコロピオス軍の砕滅将ロートスだぞ!?いとも簡単に倒しやがった……」
砂に膝をついたゼリオクスが汗と血に濡れた顔で俺を見上げていた。
「な、なんなんだ?あいつは……」
ヤニスもまた、額の汗をぬぐいながら呆然とこちらを見つめていた。
だが、彼らの顔に浮かぶのは感嘆だけではない。
「お、お前……何者なんだよ……」
押し殺した声の奥に確かな震えが混じっている。
「……まさか、あのロートスを真正面から倒すなんて……そんな真似、俺には想像すらできなかった」
言いながらも視線は信じがたいものを見るように揺れ、何度か瞬きを繰り返す。
だが、その驚きは長く続かなかった。
ゼリオクスの目がふと鋭くなり、表情から熱が引いていく。
「……それより大問題だ。俺たちの魔力が尽きて、どこにも行けねぇじゃねぇか」
彼の視線が戦闘中に沈黙したままの二台――奪った敵の装甲車と、元々自分たちが乗っていた装甲車へ向かう。
次の瞬間、ゼリオクスは乗って来た装甲車の運転席に駆け寄り、乱暴にドアを開けて飛び込む。
だが、ハンドルを握った途端、淡い光が一瞬だけ灯り、すぐに消えた。
「……くそっ、完全に魔力が尽きてやがる。これじゃ動かせねぇ」
ヤニスも焦ったように奪った装甲車の操縦部に手を伸ばし握り込んだが、すぐに首を振った。
「俺もダメだ……まったく反応しねぇ」
熱を孕んだ砂漠の空気がじりじりと肌を焦がすように三人を包み込んでいた。
「な、なぁ……俺たちを……この檻から出してくれないか……?」
装甲車の上に据えられた鉄檻の中、捕虜たちがこちらを見下ろしていた。
痩せた頬、乾いた唇、怯えを滲ませた瞳。
それでも生き延びたいという必死の光だけは消えていなかった。
「頼む……俺たちも、もう魔力なんて残っちゃいねぇんだ……」
疲れ切った声は砂漠の熱気の中にこだまし、胸の奥までじわりと響いた。
俺は無意識にゼリオクスとヤニスの顔を見やった。
「こいつら、どうするんだ?」
わずかな沈黙ののち、ゼリオクスは口の端をゆっくりと吊り上げ、ニヤリと笑った。
その笑みには迷いなど一切なかった。
「決まってんだろ。助けるさ」
言い終えるや否や、彼はためらいなく装甲車の荷台に跳び上がる。
腰から抜いたナイフの刃を鍵穴にねじ込み、腕の筋肉を躍動させながら力任せにこじ開けた。
錆びついた鉄が軋み、乾いた空気に金属の音が響き渡った。
ガリガリ……ガチャ――!
数度の試みの末、鈍い音を立てて錠前が砕けた。
重く閉ざされていた扉がわずかに揺れ、解放を告げるように開く。
「出ろよ。もう檻の中にいる必要はねぇ」
その一言に捕虜たちは戸惑いを浮かべつつも恐る恐る足を踏み出した。
錆びた鉄枠を抜けた瞬間、彼らの顔に一瞬だけ安堵の色が差す。
「ありがとう……!」
だがそのまま力尽きるように装甲車の影へ腰を下ろし、かすれた息を吐いた。
魔力を完全に使い果たした者の身体は立っているだけでも酷なほど重いようだ。
その時、ゼリオクスが息を吐きながら俺の肩を軽く叩いた。
「おい、ガキ。タリーシャが近くに落ちたはずだ。一緒に探すぞ。あいつだけは死なせてはならねぇ」
「お、おう」
「ヤニス!お前は周囲を警戒してくれ!」
「了解だ!」
俺たちは砂の上を駆け抜け、視界の果てに広がる砂の海を見据えた。
魔導装甲車から投げ出された距離を考えれば、そう遠くへは行っていないはずだ。
だが熱気のせいで景色は揺らぎ、砂は何もかもを呑み込むように均してしまう。
「くそっ……どこだ……」
ゼリオクスの声には焦燥が色濃く滲んでいた。
砂の中を踏みしめる足取りは重く、しかし一歩ごとに速度を増していく。
その時、視界の端で微かに動く影が見えた。
「おい!いたぞ、あそこだ!」
俺が指差す先、砂に埋もれかけた人影。
ゼリオクスは一気に距離を詰め、声を張り上げた。
「タリーシャ!!」
砂塵にまみれた彼女は意識を失ったまま静かに横たわっていた。
その顔には細かい砂埃と汗がこびりつき、戦いの痕が痛々しく顔に浮かんでいた。
「……良かった。まだ息はある」
ゼリオクスは脈を取ると、わずかに安堵の息をついた。
その指先は驚くほど慎重で、けれどその目は必死だった。
「タリーシャ、しっかりしろ!」
肩を揺さぶるが、彼女のまぶたはぴくりとも動かない。
砂漠の乾燥した熱気が彼女の体温を徐々に奪っているのがわかった。
「ここに長くはいられねぇ……とにかく車まで運ぶぞ」
そう言ってゼリオクスは慎重にタリーシャを抱き上げた。
その腕の中で彼女の体は頼りなく揺れ、呼吸の浅さがひどく不安を掻き立てる。
俺たちは言葉を交わす余裕もなく、魔導装甲車へ向けて駆け出した――。