第4話 恐怖と逃走
俺は呼吸を殺しながら、太い木の幹の影に身を伏せた。
月明かりの差し込まない深い森の奥――その中に、あの狼の化け物が潜んでいる。
視界の先、黒い影がゆっくりと動くのを確認した瞬間、全身が緊張で固まった。
――でかい……。
想像を遥かに超えていた。
見上げるほどの体躯は目測で二メートルを優に超えている。
獣のような腕には鋭い鉤爪が輝き、その一本一本が人間の指ほどもある。
そしてその腕一本で少女の体を軽々と抱え、あれほどの速度で森を駆け抜けていた――あんなのとまともに戦って勝てる相手じゃない。
「……人間の子供、いるのは分かってるぞ。さっさと出てこい」
低く重い声が森の中に響き渡った。
その唸りは木々を震わせるかのように森全体を揺るがせた。
俺の心臓が一瞬、壊れたみたいに跳ねた。
化け物は確実に俺の存在を察知している。
だが、今のところ位置までは正確に絞れていないようだった。
視線ではなく――鼻だ。
あいつは俺の匂いを追っている。
となれば、同じ場所に長く留まるのは危険だ。
俺は草をかき分ける音すら殺すように、慎重に物陰を移動した。
足音も気配も一切立てず、風と同化するように静かに影の中へと潜んだ。
――逃げようと思えば今が最後の機会だろう。
俺一人ならこのまま森の端まで逃げ切れるかもしれない。
でも、それで本当にいいのか?
あの子は――まだ、あの化け物の手の中にいる。
いや、違う。
俺はふと気づいた。
化け物の腕には少女の姿がなかった。
……どこに行った?
疑問が胸に浮かぶと同時に視界の端で何かが動いた。
木々の間、わずかに月光の漏れる一角――そこで誰かがゆっくりと身体を起こしている。
思わず身を乗り出して目を凝らした。
――いた!
あの金髪の少女、白いドレス……間違いない。
どうやら気絶していたのが幸いして落とされたらしい。
そして偶然にもその場所は俺が隠れているすぐ近くだった。
彼女の視線がこちらを捉えた。
怯えきった瞳が光を求めるように俺を探している。
俺はすぐに腕を振り、声を出さずに口を動かした。
――逃げろ!
言葉ではなく動きで伝える。
少女は一瞬きょとんとしたが、すぐに目を見開き、小さくうなずいた。
そしてそっと身体を低くして音を立てぬよう森の奥へと歩き出した。
その瞬間――
「……くくくっ」
笑い声がすぐ背後で響いた。
狼の化け物が俺の隠れていた方向に更に数歩、近づいてきた。
踏み出す足音が地面を揺らし、鼻先がこちらを向く。
ヤバい――!
心臓が激しく打ち、息が詰まりそうになった。
逃げ道はない。
女の子はまだ完全に離れていない。
見つかる訳にはいかない。
一瞬の判断ミスで全てが終わる。
俺は息を止めたまま茂みの奥にさらに身を沈めた。
わずかに草が揺れただけでも音が出る。
だから呼吸も、筋肉の動きさえも封じ込める。
それでもあの化け物の鼻は確実にこちらを嗅ぎ取っていた。
――あいつは俺の匂いを追っている。
……そして、笑っている。
まるで追い詰めた獲物が逃げ場をなくす瞬間を、楽しんでいるかのように。
……くそっ、今度は俺が逃げなきゃいけない。
胸が締めつけられるような息苦しさ。
心臓が激しく鼓動を打ち、額からは冷や汗が滲み落ちる。
肺が酸素を求めて激しく呼吸を繰り返し、頭は危機を察知し続けていた――逃げろ、逃げろ、逃げろ。
咄嗟に足元の石を拾い上げて反対方向の茂みへと力いっぱい投げた。
――コツンッ。
乾いた音が森の中に響き渡った。
だが、次の瞬間に期待は裏切られる。
「くくくっ……無駄だ。人間の子供よ……その怯えた匂いが、たまらんのだ……!」
音を無視し、狼の化け物は一直線にこちらへ突進してくる。
猛獣が標的を見つけた瞬間の、あの容赦ない加速――
目が合っていないはずなのに俺の位置は完全に見透かされていた。
ヤバい、完全に嗅がれてる……!
俺は反射的に隣の茂みに転がり込んだ。
わずかな葉擦れすら命取りになる極限の静寂の中、奴の声が響く。
「どこへ逃げようと無駄だ……お前の恐怖は最高のスパイスだ!ヴォオォォォォ……ッ!!」
その咆哮と共に地面をえぐるような足音が迫ってくる。
もはや隠れる猶予もない。
俺は着ていた上着を脱いで、汗で濡れたままのそれを地面に投げ捨てて全力で跳び退いた。
「……いない?上着だけ……?」
化け物が戸惑った瞬間を俺は逃さなかった。
身を起こし、頭上の木の枝をがっしりと掴む。
全身の力で体を振り上げ、その反動を利用して宙へと飛び出す。
「くらえ……!これが俺の全身全霊の――ドロップキックだ!」
重力と意志と怒りを乗せた渾身の蹴りが狼の化け物の顔面に炸裂した。
手応えがあった。
狼の化け物の巨体が大きく後方へ吹き飛ぶ。
その隙を突き、俺は振り返ることもなく駆け出した。
少女が逃げた方角を目指して必死に足を動かす。
枝をかき分け、転びそうになりながらも前へ前へ――
やがてかすかに白い後ろ姿が視界に入った。
……足、遅っそ……。
すぐに彼女の隣に並ぶ。
肩で息をしながら声をかけた。
「よう、大丈夫か?」
少女は振り返り、顔を輝かせる。
「ええ……助けてくれてありがとう。やっつけてくれたの?」
「いや、たぶん……すぐに追ってくる。俺たちが捕まるのは時間の問題だろうな」
少女の表情が曇った。
「どうしよう……あいつ、匂いで追ってくるの?隠れても意味がないみたいだね……」
その言葉に俺の中で引っかかっていた疑問が再び浮かぶ。
「なあ……さっきの化け物、どうしてお前を無傷で地面に置いてたんだ?」
普通なら――あんな怪物に捕まったら助かるはずがない。
なのに彼女は生きていた。
傷一つないまま。
少女は小さく息を吐き、顔を伏せて呟いた。
「うん……あの怪物は私を傷つける気は無いみたい。あれは……多分、狼の精霊で、普通の魔物とは違うの」
「精霊……?魔物……?なんだそれ」
「あなた、魔法は使える?」
唐突すぎる質問に俺は思わず顔をしかめた。
「……はいっ?」
「炎の魔法ならあの精霊を一時的に退けられるかもしれない。あなた、火は使える?」
少女は真剣な表情だった。
まるで俺がそれを使えることが前提であるかのように。
(魔法……?火……?)
突如、現実感がぐらついた。
さっきからこの子、何言ってるんだ?
狼の精霊?魔法?まるでファンタジーの世界にいるみたいじゃないか。
俺はつぶやいた。
「……もしかして……君、ちょっと変わってる?」
その言葉に少女は微かに笑った。
けれどその笑みにはどこか諦めにも似た静けさがあった。
――その時だった。
音は聞こえなかった。
正確には――音を超えた速さで何かが迫ってきた。
突風のような衝撃が走り抜ける。
気づけば狼の化け物が俺のすぐ隣にいた。
冷気が走る。
肌を刺すような冷たさだった。
全身の毛穴が凍りつき、喉が声を絞り出そうとした、その瞬間――
「――うわっ!?」
警戒も判断も間に合わない。
視界が一瞬で反転した。
――ゴッ!!
殴打や破砕ではなく、ただ一撃で重心を強制的に変えられる衝撃だった。
体が宙を舞い、空も地面も分からなくなった。
「が、はっ……!」
やがて重力が戻り、肩から地面に叩きつけられた衝撃が骨を震わせる。
全身を転がりながら受け流そうとしたが、腕は痺れ、指先も思うように動かない。
視界が歪み、土の冷たさすら遠く感じられた。
次の瞬間――
「きゃあああっ!!」
少女の悲鳴が森の奥へと響き渡った。
……息が詰まる。
焼けつくような痛みに肺が激しく動いたが、膝はまだ折れてはいなかった。
喉奥で無理やり空気を飲み込み、震える脚を踏み出す。
「痛ってぇ……」
砕けた肋骨が息をするたびに軋んだ――それでも目を逸らせなかった。
目の前に「死」がいた……すぐそこに。
狼の姿をした死神。
黒い毛並みの奥にむき出しの皮膚がざらつき、鈍く光っていた。
その瞳だけが異様に冷たく、獲物に牙を向ける直前の冷たい表情で笑っていた。
ぬるり、と一歩。
間合いはもう、呼吸一つ分の距離。
振り上げられる前肢――風が裂けるような音を立てた。
(――来る!)
反射だけが体を動かす。
沈み込んだ体を捻り、爪の軌道を紙一重で逸らす。
爪が空気を切り裂く轟音、鼓膜を突き破る風圧、首筋に触れた冷たい何か――それはまるで氷の刃のようだった。
遅れて理解した。
ほんの数ミリ遅れていたら今、首はなかった。
「ほう……動けるか。面白い」
低く濡れたような声が耳にまとわりつく。
冷笑を崩さず、鉤爪が真上から振り下ろされる。
俺は這うように身を低く転がりながら、ぎりぎりで回避した。
背後の地面が爆ぜ、土と岩が飛び散った。
続いて尾が唸りをあげ、ムチのようにしなって横に薙ぎ払う。
俺は姿勢を沈め、滑るように地を抉ってかわす。
風が鼻先をかすめ、鼓膜を突き刺すような轟音が響いた。
さらに突進。
重い足音が轟き、巨体が地を踏み砕いて迫る。
背後の木に身を隠そうとした瞬間、バキッという大きな音とともに木が割れた。
無数の木片が俺の背に叩きつけられ、辺りに散らばった。
「逃げ足だけは速いな。だが、すぐに終わりにしてやる」
怒声が轟くと同時に空気が振動し、巨大な影が頭上から襲いかかってきた。
化け物は両腕を振りかぶり、上空から叩き潰すように振り下ろした。
逃げ場はなかった。
だが、俺は跳んだ。
枝を掴み、反動を利用して木の上へ身を逃がそうとした――しかし、その先の動きまで読まれていた。
足元の地面が爆ぜ、衝撃波が吹き上がる。
肺が押し潰されるような圧迫感に息が止まりそうになった。
上空からの着地に合わせて化け物の爪が横一文字に薙ぎ払われようとした。
反射的に体をひねり、ぎりぎりで回避した。
だが――着地に失敗した。
膝が軋み、骨が悲鳴を上げた。
「どれだけ足掻いても無駄だ……人間の子供よ。お前の肉は、きっと柔らかくて美味いだろうなあ――すぐに食ってやる……!」
その声はまるで獲物をいたぶるような嗜虐の響きを帯びていた。
嗅覚で居場所を追い、逃げても騙しても必ず狩る、底知れぬ飢えと残虐を滲ませた存在だった。
その瞬間、恐怖が思考を押し流し、何も考えられなくなった。
判断も、策も、すべて霧散する。
あるのは――死。
心臓が暴れる。
喉は乾き、足は震える。
恐怖が体の隅々まで浸透していくようだった。
けれど目を逸らせない。
この化け物から目を逸らしたら――それで終わりだ。
そしてその時だった。
視界の隅に女の子の姿が映った。
逃げない。
叫ばない。
彼女は何かを――呟いていた。
唇が細かく動いている。
(……いったい、何を……?)
まるで祈るように、あるいは詠唱するように、彼女は静かに言葉を紡いでいた。
風が彼女の周囲だけをわずかにざわめかせていた。