第45話 追われる男と王家の秘密
俺は男の背に従い、無言のまま彼と向かい合う席に腰を下ろした。
店内は昼間にもかかわらず光が乏しく、室内の隅には薄暗さが残っていた。
湿った木材の匂いに焙煎豆の香りが混ざり、深く息を吸えば喉の奥まで微かな苦味が染みてくる。
あらためて対面したその男の姿に胸が思わずざわついた。
年の頃は三十代前半か。
だがその佇まいには年齢とは無縁の違和感があった。
黒いスーツに黒シャツという喪のような装い。
頬は削げ、目の下には深い隈。
生きることすら忘れたような顔立ち。
前髪の影に隠れた黒縁の眼鏡の奥、彼の視線がこちらを捉えた瞬間――
心の奥に突き立つような鋭さを感じた。
「……ご注文は?」
そんな緊張の中、不意に店員の声が割って入った。
いつの間にか傍らに立っていたようだ。
俺が気づかなかったほど意識がこの男に集中していたということだろう。
「コーヒーを二つ。ブラックで」
男が先に口を開き、即座にそう言った。
「かしこまりました」
店員は丁寧に一礼し、静かにカウンターの奥へと戻っていった。
……勝手にブラック頼みやがって。
内心で軽く毒づくが、それすらもどこか自分の中の焦りを誤魔化すための反応だった。
店員の足音が消えたのを合図のように、男はようやくその口を真剣に開いた。
「……さて」
その一言にあわせて、眼光が鋭さを増す。
まっすぐに、そして容赦なく俺を射抜くように向けられた。
「話を聞こうか」
俺は咄嗟に息を吸い込み、冷えたテーブルの縁を握りしめた。
「……まずは教えてくれませんか。あなたは一体、誰なんですか。こっちだって正体も分からない相手に自分のことをそう簡単に話せるわけない。――あなたがウェルシュナー博士なんですよね?」
男は俺の目を逸らさずに真っすぐと答えた。
「そうだ。私がウェルシュナーだ。だが、それを証明する手段は何もない。信じてくれとしか言えない……」
ひと呼吸置いて、彼は静かに言葉を継いだ。
「昨日の電話でルナエレシア様がこの世界にはいないと言っていた。……それはつまり――下の世界に戻ったということか?」
沈黙が流れる。
俺はわずかに震える声を押し出す。
「……はい。ルナは……下の世界に行ってしまいました」
それを聞いたウェルシュナーはしばし視線を伏せた。
何かを噛みしめるような沈黙のあと、湯気の立つコーヒーカップを口に運ぶ。
その手の動きはあくまで滑らかだったが、そこにはわずかに力の籠もった緊張が見えた。
「だから俺も……俺も下の世界に行きたいんです……!お願いです……どうすれば俺は下の世界に行けるのか、教えて欲しいんだ……!」
俺の声は自然と強くなっていた。
希望のすべてをこの男に託すしかないと信じていた。
答えの見えなかった日々の果てに、ようやく見つけたわずかな手がかりに俺はすがるような思いで望みを託していた。
だが――
「……きみが行ける保証はない」
その返答に思わず息が詰まりかけた。
頭が真っ白になる感覚だけが残った。
「なっ……!」
立ち上がりかけた腰を止めるようにして俺が反論を口にしかけたその時、ウェルシュナーは眉間に皺を寄せ、急に顔をしかめて頭を押さえた。
「……くそっ……」
苦痛に満ちた低い声。
俺は驚きに息を呑みつつも、どうしても言いたい言葉を止められずにいた。
だが、次の瞬間、彼の声がそれを遮った。
「天空……お願いだから、まずは落ち着け」
眼鏡の奥にある目をわずかに伏せながら、彼はこめかみに指を当て、まるで目を貫くような激しい頭痛に耐えるような仕草を見せた。
その表情には威圧ではなく、明らかな苦悶の色があった。
「下の世界に行きたい気持ちは分かる……だが……まず、きみとルナエレシア様に何があったのかを……順を追って話してくれないと……私も何も考えることができない……」
彼の声は絞り出すように、しかし真剣だった。
俺は喉に詰まった息をひとつ吐き出し、そして頷いた。
「……わかった、話すよ……全部」
『ルナエレシア様』――そう呼んだこの男の言葉を俺は信じることにした。
そして胸の奥に沈んでいたものを拾い上げるように、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
――ルナが異次元から俺の部屋に落ちてきた日のことから。
――突然現れた狼の魔物が俺たちを襲い、命を賭けて戦った夜のことから。
――イヴァンが連れ去られ、彼女が姿を消した瞬間まで。
そして――異界樹が燃え尽きてしまったその最期の光景まで。
それは単なる説明ではなかった。
胸の奥から噴き出すような思いをどうにか言葉にしてぶつけていた。
たった一人に届いてくれと信じながら、俺は全身の想いを言葉に乗せて語り続けた。
俺の語るひとつひとつの言葉をウェルシュナーはまるで一滴も零すまいとするかのように真剣に聞いていた。
ときおり短く頷き、時に言葉を挟み、細かな点に至るまで執拗に突き詰めるように質問を重ねてくる。
だが、どれほど理知的な応答を装っていようとも、その顔に浮かぶ険しさだけは隠せなかった。
彼の表情にはどこか苦しげな影があった。
語られなかった過去が今も彼を縛っているかのように。
「それからは、俺はずっと下の世界に行く方法を探している。でも、何を調べても、どこを探しても――何も見つからなかった。そんな時にあのリサイクルショップで、あなたがあのアクセサリーを買ったって知って……」
言葉を吐き出すと同時に俺はウェルシュナーの顔を睨みつけた。
心の奥にあった苛立ちが一気にあふれ出す。
「あんたは……ルナをこの世界に連れて来た研究者なんだろ!?だったら――だったら教えてくれよ!どうすればいいんだ……!俺はイヴァンを、ルナを助けに行きたいんだ!!」
胸の奥から迸るような叫びだった。
すべてを失いかけて、それでも諦められずに生きてきた――その想いがたった一人、この男にぶつけられた。
しかし。
ウェルシュナーはその叫びを怒りでも動揺でもなく、深い痛みと共に受け止めていた。
彼の目は伏せられ、長く影を引くまつげの奥でその光だけがわずかに揺れていた。
痩せた手はコーヒーカップを握り締めたまま小刻みに震えている。
「まさか、ルナエレシア様がそんな目に遭っていたとは……」
その声は震えていた。
謝罪にも近い、深い後悔が滲んでいた。
俺はそこで、ルナが語っていたこと――彼女がなぜこの世界に来ることになったのか、ルナの言葉をありのままに伝えた。
言葉を紡ぎながら胸がきしむ。
思い出すたびにその瞬間がまた鮮やかによみがえる。
ルナの笑顔も、涙も、苦しみも――そして、異界樹に飲まれていった最後の光景のイメージも。
ウェルシュナーは目を閉じ、自身を責めるような表情で顔を歪めた。
そして己の口から語り始めた。
「……私のことも話しておこう。知りたいことがあれば何でも聞いてくれて構わない。……私がこの世界に来たのは、今から五ヵ月以上前のことだ」
「……五ヵ月?じゃあ、ルナより……四ヵ月も早く?」
「そうだ。つまり……ルナエレシア様は四ヵ月以上もの間、異次元の空間を彷徨っていたことになる」
「な、なんだって……!?なんで……どうして、あんたの方が先に着いたんだよ!」
気づけば声を荒げていた俺にウェルシュナーは一拍置いてから答えた。
「「私の作った薬には、いわゆる精霊の魂片を混ぜてあった。閉じ込められた時にルナエレシア様の王家の血と合わせて即興で作った薬だ。……あれは奇跡のようなものだった。精霊の導きを得たわけではない。ただ、その魂片が異次元の力の干渉を一時的に押し留めてくれた――それによって私はこの世界へと命をつなぐことができたのだと思う」
「……それじゃあ、あんたはルナを置いて自分だけ助かろうとしたってことかよ……?」
その言葉にウェルシュナーの肩がわずかに揺れた。
「……結果的にそうなってしまった。責められても仕方がない。……けれどあの瞬間、他に選べる道はなかったんだ。……私がこの世界に生きて辿り着ける可能性など本来ほとんど無に等しかった」
声はかすかに震え、だがそれでも言い訳の色を見せようとはしていなかった。
ただ淡々と自分の無力さを悔いるように話し続ける。
「私は……王家の血を引いているわけではない。だから異次元空間に入った瞬間に肉体はバラバラになるはずだった。彷徨うどころか、その場で魂が壊れることすら覚悟していた」
ウェルシュナーは俯いたまま続ける。
「だが――あの薬は予想を超えて作用し、異次元を生き延びる力と精霊の導きを得て、この世界に辿り着いた。……勘違いしないでくれ。私は自由に下の世界を行き来できるような人間ではないんだ」
それはただ事実だけを淡々と告げる声だった。
けれどその声の奥底には――救えなかった少女への拭いがたい後悔が滲んでいた。
「…………」
俺は何も言えなかった。
怒りをぶつけることも、慰めることもできなかった。
ただ胸の奥が静かに、重く沈んでいく。
沈黙の中、ウェルシュナーはふたたび顔を上げる。
目には、はっきりとした悲痛の色が浮かんでいた。
「……私とルナエレシア様が閉じ込められていたあの部屋……あそこは魔物の処理場だった」
「……処理場……?」
俺は言葉を詰まらせながらも問いかけた。
「ああ。失敗作や制御不能になった魔物たちを廃棄するための場所だ。……元々は森の中で静かに処分していた。だが、ある時――処理されたはずの魔物が敵の手に渡り、改造され、王城を襲撃するという事件が起きた」
言葉のひとつひとつが胸に重くのしかかり、逃れられない現実を突きつけてくるようだった。
「その再発を防ぐため、魔法訓練所に密閉された『無帰還領域』を設け、二度と外に漏れぬよう廃棄が行われるようになった。……それが、あの部屋の正体だ」
彼の声にはどこかあきらめにも近い響きが混じっていた。
まるで自分が生きていることすら間違いだったとでも言いたげな――そんな声だった。
ウェルシュナーの言葉が胸に重く響くたびに、俺の心は静かに沈んでいくようだった。
悲しみや無力感とは違った。
ただ、理解したからこそこみあげる、言葉にできない複雑な感情が心の奥でまとわりついていた。
「……なぁ。あんた達は……何のために魔物なんかを作っていたんだ?」
静かに問いかけたつもりだった。
だが自分でも気づかぬうちに声に僅かな震えが混じっていた。
ウェルシュナーは目を伏せ、短く息を吐いた。
その仕草があまりに人間臭く、弱さを見せられたようで――俺は逆にそのもろさを受け入れられず苛立ちが込み上げた。
「……それがあの城に古くから受け継がれている王家の伝統なのさ。私たち研究員はルナエレシア様の父君――『神王』と呼ばれた御方の命令に、ただ忠実に従っていただけだ」
「……今度は神王かよ」
口の中で繰り返すようにその言葉をつぶやいた。
ひんやりとした重さが頭の中を何度も巡った。
ルナが口にする「父神様」の姿と、どこか同じものを感じさせる声だった。
「……お前らの言う敵って……魔物のことじゃないのか?」
「確かに魔物の中にも敵は存在する。だが――アルテミスハースト城にとっての本当の敵は魔物ではない。……人間だ。あの国はあまりにも多くの人間に敵意を向けられ過ぎていた。だからこそ、王国は王家の血を使って、意志すら持つ兵器――魔物の製造をやめなかった」
「…………」
胸が締めつけられるような嫌悪感がこみ上げてくる。
それは怒りか、失望か――もはや言葉にならなかった。
「……じゃあ、ルナが下の世界のやつらに追われてるってのも……」
「――王家の血は、魔物の力を増幅させる触媒であり、新たな生命体を生み出すための特異素材として利用されている。ルナエレシア様の姉君――セレネエレシア様は、かつてその血を捧げる生贄とされていた。そして……アルテミスハースト城を守るため、近隣の王国では絶えず激しい戦が続いていた。アルテミスハーストは、その戦場に造り出した魔物を送り続けていたのだ」
「…………」
「だが、魔物の製造には代償が要る。供物が足りなくなれば次が必要になる……そして、セレネエレシア様の後を継ぐ生きた生贄として――ルナエレシア様が選ばれることになったのだ」
その言葉を告げたところで、彼は言葉を詰まらせて止まった。
胸の奥で怒りが静かに燃え広がった。
そんな理由で、そんな理屈でルナが苦しめられているなんて……。
「ふざけんなよ……!」
テーブルの縁を握りしめた手に力がこもる。
「……何であんたは今、下の世界のやつらに追われてるんだ?」
「……それは、私が生きたままこの世界に来てしまったからだ。本来なら、精霊の導きなしにこちらの世界へ到達するなど不可能なはずだった。だが私はそれを――成し遂げてしまった。彼らにとってそれは明確な裏切りであり……同時に新たな可能性の証明でもある」
淡々と語るウェルシュナーの声にはどこか皮肉な響きが混じっていた。
「下の世界の連中は私からこの世界への渡航手段を聞き出し、あるいは強奪し――この世界を新たな植民先のように開拓しようとしているのかもしれない。下の世界の勢力を上の世界に押し広げ、足がかりを築くために……その鍵として私は追われているのだろう」
「……じゃあ、下の世界の人間も……こっちに来ようとしてるってことか」
「おそらくは。私は誰かに閉じ込められたせいで結果的にこの世界に辿り着いた。しかし彼らの目には――私がその手段を独占し、無断で持ち出した裏切者に映っているのだ。だが、あの研究室には確かに誰かがいた。薬を調合していた時、ずっと気配を感じていた。……おそらくは監視だろう」
ウェルシュナーは一度目を伏せ、記憶をなぞるように息をついた。
「……あの研究室は、もともと上の世界への到達を目的とする研究を進めるための場だった。つまり、こちらの世界への渡航は王国の長年の目標だったのだ。私が作っていた薬も、正確にはその目的に沿って生み出された試作品の一つにすぎない。未完成ではあったが――私はそれを即興で再調合し、王家の血と精霊の魂片を混ぜて自ら薬を飲み込んだ。そして奇跡的に生きたままこの世界へ至ることができた」
彼の言葉は静かだったが、その中には確かな決意と後悔が同居していた。
「だが――なぜ私がこちらの世界で生き延びていると王国側に知られたのか。それだけは今も分からない」
しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと目を細めた。
「……ただ一つ、思い当たる節があるとすれば――私がこの世界に来てから、ほんの数日も経たないうちに精霊を起源とする魔物に襲われたことだ。その魔物は異常なほど執拗で……まるで最初から私の居場所を知っていたかのように動いていた。偶然とは思えなかった」
その時の記憶がよみがえったのか、彼の声にわずかな緊張が走る。
「……精霊をベースに造られた魔物であればこの世界に来ることは可能だ。彼らは言葉を操り、高い知性を持っている。精霊の力があれば異界樹の門を通過できる――それが王国が辿り着いた手段なのだ」
ウェルシュナーは真っすぐに俺を見つめ、言葉を続けた。
「だが……その魔物たちを安定して送り込むには、さらに多くの王家の血が必要となる。精霊の力と王家の血、それがそろって初めて異界を越える器が完成する。――だからこそ、ルナエレシア様は危険だ。下の世界に戻った今、生きたまま血を抜かれ、魔物の核として使われる。彼女の存在そのものが連中にとっての鍵なのだ」
何もかもが異常だった。
ルナの話を聞いた時もそうだった。
だが、今目の前で語られるこの現実はそれ以上に……常識の限界を越えていた。
そしてウェルシュナーは静かに俺の目を覗き込む。
その視線はまるで俺の心の奥を探ろうとしているようだった。
「……天空。君は、魔導士と出会う前――異界樹までの森を精霊の導きなしで通り抜けた。あの森は普通の人間なら足を踏み入れた時点で正気を失う。迷い、方向感覚を奪われ、ついには魂を喰われるはずの異界樹の結界に覆われた森なんだよ」
「……ああ。けど……俺にも分からないんだよ。あの時、ただ……気づいたら足が勝手に動いてて、いつの間にか異界樹の目の前に立っていたんだ」
「……それは常識では考えられない。異界樹が生み出す境界森は精霊の導きを得た者か、精霊そのものでなければ通れない」
「……だから何なんだよ」
思わず語気が強くなる。
「……君は精霊なのか?」
「……は?俺が……精霊……?」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「君の姿かたちは人間そのものだ。だが、何か不思議な気配を君からは感じる。そしてなにより――君があの森を通れたという事実だけがすべてを証明している。君の中には精霊の力……あるいは精霊そのものの欠片が眠っているのかもしれない」
まさか、俺が――精霊?
そんなはずはない――そう否定したかった。
だが……あの魔導士の言葉が脳裏をよぎる。
――「お前、本当に人間か?」
あれもまさか、この事を……?
混乱の渦が思考のすべてを巻き込んでいく。
自分は何者なのか?
なぜ、自分がここまで来れたのか?
ただの偶然では説明できない何かが俺の背後にずっとあったというのか。
「……いや、今は……そんなことは、どうでもいい」
気づけば俺は言葉を吐き出していた。
「……俺が知りたいのはそれじゃない。……下の世界に行く方法だ。俺は、それさえ分かればいいんだ。ルナと、イヴァンを助けるためなら……他のことはどうだっていいんだ」
それは問いではなく強い決意の表れだった。
ウェルシュナーは答えを探すように短く目を閉じた。
そして沈黙の奥から重々しく言葉を紡いだ。
「……異界樹を探せ」
その一言が放たれると場の空気が止まったように感じた。
考える間もなく呼吸が浅くなる。
体の奥で疼いていた何かが再びうごめき始める――忘れたはずの痛みと共に。
「……異界樹……?」