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第42話 限界と突破

「……なんだ、このスピードは……?」


息を呑むような声が漏れた。

魔導士は驚愕と混乱の色をその目に浮かべながらもなお俺を睨みつけてくる。

感情の激流が揺れるその双眸が敗北を認めまいと抗っていた。


「この男……急に速くなった……いや、違う。速さだけじゃない――力まで格段に跳ね上がっている!」


魔導士は胸に手を当てて体を支え、震えながらゆっくりと立ち上がった。

指先はわずかに震え、かつての余裕は感じられなかった。

それでも、青い瞳は鋭く俺を見つめていた。


けれど俺は一歩も引かなかった。

次の瞬間、溜めていた呼吸を解き放つように全身を勢いよく前方へ突き出した。


「うおおおおぉぉぉ!!」


拳が風を裂き、一直線に突き進んだ。

その軌道はあまりに速く、魔導士が避けるより早く――


――ドガッ!!

鈍い打撃音が夜気を震わせた。

拳は真っ直ぐに魔導士の顔面を捉えていた。

銀の髪が乱れ、首が大きく仰け反る。

魔導士の体がぐらりと揺らいだ。


だが、終わらせはしない。

すでに俺の右足が次の一撃のために地を蹴り上げていた。


バシュッ!!

二の矢のように放たれた俺の蹴りが魔導士の腹部を鋭く打ち抜いた。

衝撃が波紋のように広がり、魔導士の体が弾き飛ばされ宙に舞う。

地面に崩れ落ち、血と砂に汚れた地面に手をつき、ようやく身を起こそうとする。

もはや威厳も余裕もなかった。


「くっ……死にぞこないの悪あがきか……。だが、その体ではもう限界だろう。立っているのがやっとと見える……ならば――次で終わらせてやる」


風が唸った。

魔導士の足元の空気が渦巻き、やがて魔力を帯びて膨れ上がっていく。


「覚悟しろ!!」


吼えるように叫ぶと魔導士は大地を踏みしめ、一歩を踏み込む。

その瞬間、膝が空を貫くように跳ね上がり、踏み込んだ衝撃で周囲の空気がうなりを上げた。

鋭利な魔力が周囲の空気を裂き、蹴りの軌道が竜巻のようにうねりながらこちらへ迫ってくる。


「ストロビ アネモス キック!!」


その一撃は、風そのものが刃と化した収束する突風。

ねじれた渦が牙を剥き、あらゆるものを巻き込みながら俺を薙ぎ払おうと迫る。


だが俺もまた――踏み込んだ。


「うおおおおぉぉぉおっ!!」


気力のすべてを込め、地を蹴り上げる。

体を捻り、勢いを乗せ、回転の力を最大限まで引き上げる。


「ハリケーン スイング キック!!」


俺の蹴りは風の咆哮を纏い、風圧を裂く唸りとともに爆発的な旋風となって駆け抜けた。

一瞬にして魔導士の蹴りとぶつかり合い、衝撃が地面を震わせる。


――ドォンッ!!

爆音と共に風と風が激突する。

衝撃が地面を揺るがし、近くの異界樹の枝が悲鳴のようにしなった。

砂塵が舞い上がり、視界が一時的に遮られた。


そして、その向こう――


「ぐはぁっ……!!」


魔導士の体が大きく弾かれ、無様なまでに地面を転がった。

泥まみれのローブを引きずるように膝をついた姿――そこに支配者の面影など微塵も残っていなかった。


「ば、馬鹿な……この私が……!?あの男は魔法を持たぬというのに……何故だ……私の魔力に打ち勝つことなどが……!?」


魔導士は顔をゆがめ、震える声で言葉を絞り出しながら手を地面について体を支え、俺を睨みつけた。


「……そんな馬鹿な、そんなことが受け入れられるはずがない……いや、断じてあってはならない……!」


信じたくないというその目が俺を見つめ返す。

だがその中に確かに――恐れが芽吹いていた。


◇ ◇ ◇


理解が及ばない――それが率直な実感だった。

あの男にここまで追い詰められる理由がどうしても掴めない。

肉体の力だけでは到底説明がつかない。

だが――蹴りと蹴りが交錯したあの一瞬、確かに感じたのだ。

魔力に似て非なる、もっと根源的で濁りのない波動を。


――精霊の言霊の力。


その名を口にしたとき、技はもはや単なる動作ではない。

精霊が名を与える事で技に宿る意志は言霊としてその力を爆発的に増幅させる。

それは己が説明し、誰よりも理解しているはずの法則だった。にもかかわらず。


「……馬鹿な、あれは精霊の言霊の力なのか……?」


あの男が放った一撃――『ハリケーン スイング キック』。

それは掛け声などではない。

無意識にせよ彼は技に名を与え、精霊の言霊の力を呼び起こしたのだ。

本来、精霊の言霊を扱うには長い年月をかけて儀式と交信を積み重ね、精霊と心を通わせねばならぬとされてきた。

それにも関わらず――あの人間はそれをまるで当然のように使いこなしている。


「……信じられん……だが、現実に起きている……」


築き上げてきた理屈が、今、目の前の男の存在によって音を立てて崩されていく。

あれは偶然の産物だったのか。

あるいは――最初から定められていた必然か。


魔導士の視線が微かに揺れる。

あの男は精霊の導きがなければ入れないはずの、異界樹の結界で覆われた森に入った。

そして本来なら決して突破できぬはずの迷域を通り抜けてきた。


「いや……あの時もそうだった」


脳裏に浮かぶのはもう一人の男――オーウェンの姿だった。

精霊の導きなしに森へ踏み入り、そして脱出できるはずのない男が突如としてこの場所に現れた。

彼は「声が聞こえたから」と言っていた。

誰の声か――あの男の叫びである。


(まさか……)


あの瞬間、精霊の加護を受けた声が媒介となって空間の隔たりを越え、森の中にいた者を呼び寄せたのではないか。

そうだ、単なる偶然ではない。

森の結界を破り、この領域に導かれるように侵入してきたのは――

あの男によって導かれたのだ。


「……まさか……あの声までもが精霊の力だったというのか……?」


魔導士の震えを孕んだ吐息が、思わず唇から漏れ出る。


(……あの男は精霊力を持っている……?)


否定したい。認めたくはない。

だが、それを否応なく押し潰してくる――目の前の現実が。


理解の及ばぬ存在。

それまで信じてきた理を否定する力。

そしてそれをあの男は意図せず自然に――本能で使っていた。


(……違う。あの男は精霊に選ばれたのではない。もとより……精霊と何かを共有して生まれた者――そんな錯覚さえ覚える)


口にすることも許されぬ異質な感覚が心の奥底から這い上がってくる。

敵への警戒などではない。

それは滅びの兆し――自らが築き上げた理の系譜が今まさに音もなく砕けようとしている。


魔導士は黙って胸に手を当てた。

心臓の鼓動が激しく速まっているのがわかる。

先ほどまで聞こえていた精霊の力の声が、自分の身体の中まで響いているようだった。


◇ ◇ ◇


「どうした。立てよ」


倒れた魔導士を見下ろしながら俺はわざと冷たく言い放った。


魔導士は地面に片膝をついたまま、苦しげに息を吐く。

しかし――その顔にはかすかな笑みが浮かんでいた。

震える指先で胸元を押さえ、ゆっくりと立ち上がる。


「ふっふっふ……面白い。まさか、私の魔力を込めた技が……力で押し返されるとはな」


口元を歪めた笑みには敗北の悔しさだけでなく、理解を超えたものに対する驚きと興奮が入り混じっていた。

次の瞬間、魔導士の瞳が鋭く俺を射抜いた。


「貴様……本当に人間か?」


その問いに俺は思わず首を傾げた。

あまりに唐突で意味が掴めなかった。


「はあ?何が言いたい?」


「ふっ……貴様は自分が何者かを本当に理解しているのか?」


魔導士のその低く抑えた声には確信にも似た重みがあった。

何かを見透かすような、俺の知らない何かを知っている者の声。


思わず息を呑んだ。

だがすぐに冷笑と共に首を振る。


「俺が誰だろうと関係ねぇ。俺は俺だ。今は……てめえを倒して、無理やりにでも下の世界の行き方を吐かせるだけだ」


その言葉が終わるや否や――魔導士の目が鋭く光を帯びた。


「ならば教えてやろう。貴様がどれほど愚かで、どれほど無力な存在かを」


魔導士が地を鳴らすように一歩踏み出した。

次の刹那、足元を中心に幾つもの魔法陣が時計の文字盤のような幾何学模様が浮かび上がり、肌にまとわりつく空気は湿った網のように呼吸を妨げ、血流すら鈍くしていた。

時間そのものがねじれて揺らぎ出したかのように周囲の空間が歪んで見えた。


「……なんだ、これ……」


構えたまま思わず呻くように声が漏れる。

だがすでに遅かった。

気づけば俺の足は魔法陣の中心へと引き込まれるように踏み出していた。

次の瞬間――異変が起きた。


周囲のすべてが一気に加速したように感じた。

風の流れが速すぎて目で追えない。

葉が空を裂く音すら耳に届かない。

だが最も異常だったのは――俺自身の動きだけが、まるで遅れていたことだ。


「なっ……なんだ、この感覚は……!?」


腕を振ろうとしても、脚を蹴り出そうとしても、思考だけが先に進み、体が追いつかない。

いや――置き去りにされているのは俺のほうだ。


「――クロノス スタマトー」


魔導士の微笑が見えた。

その声が頭の中で音になった瞬間、理解が追いつく。


「時間を操作する魔法だ。普通の動きを封じる魔法ならば、今の貴様では突破される恐れがあるからな。だが時間そのものを奪えば、動きを阻害する隙すら生まれない。お前がいくら速くなろうと、強くなろうと――私の時の支配には抗えん」


時の魔法――それは力でも速さでも抗えない。概念そのものを封じる絶対の力。

魔導士の周囲で魔法陣がさらに強く輝きを放ち始めた。

空間が歪み、視界が流れ、時間の魔法陣が全身に巻きつく。


「ぐっ……!」


動けない。

視線すら自由に動かせず、まるで硝子の中に封じ込められたようだった。


(この魔法がある限りどれだけ攻撃を仕掛けても届かない。俺は止められていて、奴だけが動ける……このままじゃ一方的にやられるのを待つだけだ……どうする?)


体は動かない。

足も、腕も、声すらも――封じられたまま、奴の魔法陣が網のように空間を覆い尽くしていくのを目の端で感じた。

その時、心に浮かんだのはイヴァンの姿だった。


(……それなら、これしかない。イヴァン、あいつのように、自分のオーラだけで攻撃できれば――)


だけど俺には自分のオーラがどうなっているかも分からない。

見えたこともない。

感じられたこともない。


バクン……

バクン……バクンッ……!

バクンッ、バクンッ、バクンッ――!!


鼓動だけが全身に響き、不気味な刻みを激しく打ち続ける。


(……俺に、できるのか……?)


分からない。

けれど――感じる。


体の奥底から湧き上がる熱が右腕に集まり、掌が焼けるように脈打ち始める。

鼓動が波のように全身を駆け抜けているのを感じる。


「頼む……イヴァン……。今だけでいい、力を貸してくれ……」


時の魔法の影響で目を閉じることすら許されない。

だが、今は――外の感覚に頼ってはならない。

見てはいけない。

俺は目は開けたまま心だけで奴を捉えた。


焦燥が全身を這い回る。

だが、それすら遠ざけるように俺は冷静さを選んだ。

体が動かない中でこの意識だけが唯一の武器だと信じていた。

心を研ぎ澄ませば心臓の鼓動が鋭さを増し――やがてその音が体の隅々に力を呼び覚ましていく。

全身の血が沸き立ち、灼けた脈が肌の裏を駆けた。


動かないはずの体の中でただ一つ、俺の心臓だけが音を立てていた。

その鼓動が、次第に全身に力を送り込むように響き渡る。


ドクン――

ドクンッ――ドクン――!!


心に意識を集中させると沸き立つ熱が血と共に体中を駆け巡るのが分かった。

動かない筋肉に言葉にならぬ衝動が宿る。

まるで内からあふれ出る鼓動がどこかでこの時間に抗っているような気がした。

そしてその音は、止められたはずの時の幕にひびを走らせていた――。


「無駄だ!」


魔導士の声が鋭く響いた。


「時の魔法には抗えん!」


そんな決めつけに黙っていられるわけがなかった。


「――てめえだって俺の時間をずっと止めていられる訳じゃねえだろ」


(確かにこの魔法は俺の動きを封じる……けど、それ自体が攻撃ってわけじゃない。じゃあ、奴が狙ってるのは――この時間停止を利用した別の技……)


唇がかすかに動いた。

わずかな隙間から俺は絞り出すように声を返した。


「分かってるさ。お前のこの時の魔法は攻撃魔法じゃない。お前の本当の狙いの強力な魔法があって……その発動には、何かしらの条件が要るんだろ?」


腹の底から沸き上がる焦燥と戦いながら俺はその発動条件に思いを巡らせる。

一瞬、魔導士の眉がわずかに揺れた。


「やはり、この魔法で本来なら貴様の意識も全てが止まるはずだった。だが……貴様は精霊力を通して微かに時間の外側と繋がっているようだな」


「……精霊力、だと……?」


「精霊力。それが貴様の内に響いているのだろう。その力が時の魔法の支配すら及ばぬ余韻を持っている」


魔導士は視線を細め、重いため息を漏らした。


「……まさか、それを人間が自然に起こすとはな」


俺は喉の奥で笑った。動けはしない。だが、完全には止められていない。


「なるほど、だから……話ができるわけだな」


「ふん、たかが言葉が通じる程度で得意になるな。貴様の動きは封じられたままだ。もはや抵抗も叶わん」


――再び魔導士が指を翳す。

魔法陣の輝きが臨界に達し、時の呪いが周囲の空間ごと俺を飲み込もうとしていた。

空気がねじれ、風が沈黙する。

時という名の鎖が今まさに周囲を締め上げようとしていた。


「ところで、さっきお前は『発動の条件が揃わないと』と言っていたな。ふっ、だがもうとっくに満たしておるわ。貴様自身が気づかぬうちに――貴様の流したその血でな」


「……なっ?地面に落ちた俺の血が赤く光ってる……?」


「消えるがいい!この現実から、貴様の存在ごとな」


魔導士は左手を前に出すと下から上に救い上げるような動作で呪文を唱えた。


「時の果てより響け、因果をほどく沈黙の針よ――契約によりて我が呪に従え、存在の痕ごと消し飛ばせ……クロノス アフォニゾー!」


言葉と同時に空間が反転するような感覚が走った。

次の瞬間、俺の目の前は真っ白に染まった。


――いや、それは光と呼べるものではなかった。

それは白というより、この世のすべてを漂白し、記憶ごと塗り潰すような――静寂だった。

時間が止まる感覚とは違う。

空気も、体温も、音すらも――感覚の痕跡ごと静かに消えていった。


心音は消えた。

鼓動も、存在も、輪郭までもが引き裂かれていく。

視界の端が揺らぎ、やがて現実そのものが溶けてゆく。

まるでこの時間から自分が切り離されていくかのような――幻想などではなく、紛れもない真実の感覚だった。

手の先が、足の感覚が、皮膚の温度が、少しずつ、確かに消えていく。


(……死ぬ……)


そう思った。

恐怖という感情さえ遅れて届くほど、あまりに静かすぎる終末だった。


どこまで落ちるのかも分からないまま俺は光の深みに沈んでいった。

それは吸い込まれるような優しさを装っていたが、実際は拒絶に似たものだった。

二度と戻れぬ場所へと静かに誘う、冷たくも優しい断絶。

すべてを終わらせるための永遠の静寂がそこにあった。


その瞬間だった。

沈んでいく意識の底にかすかな光が差し込んだ気がした。

それは懐かしくて、優しくて、どこか切ない――

今はもう戻れないはずの――触れようとすればすり抜けてしまう、あの頃の記憶の光。


「ねえ、天空、どうして泣いてるの?そんな顔してちゃ駄目でしょ」


――母の声が聞こえた。

夕暮れの帰り道。

膝を擦りむき、泣き出しそうになった俺に母は笑顔のままそっと頬に手を当ててくれた。

その手のぬくもりが今でもどこかに残っている気がした。


「天空、きっとあなたは優しい子になるわ。だからどうか信じて。間違えても、戻れなくても、それでも前を向いて……」


――あんな俺だったのに。

何もできなくて、ただ怒ったり拗ねたりしてばかりの、ちっぽけで生意気なだけのガキだったくせに。


それでも母さんは信じてくれてたんだ。

俺の中のまだ見ぬ優しさを。

俺自身が疑ってしまっていた未来を――あの人は、初めから信じてくれてたんだ。


記憶の奥底から今度は別の声が浮かび上がってくる。


「ちゃんと見てなさい。風の流れや葉っぱの揺れ方――そういうものに今という時間は宿っているんだ」


父の低くて重い声だった。

山の上で風に吹かれながら彼は何かを伝えようとしていた。

だけど当時の俺にはそれが難しすぎて分からなかった。分かろうともしなかった。


「世界は流れている。だが、自分の心まで流されてどうする」


「……父さん」


「お前は自分らしさを見つけろ。何にも縛られない心を持て。それを信じて歩け。泣いても、倒れても、最後までだ」


その言葉の裏にあったものが――今なら分かる。

父は自分ができなかった生き方を俺に託してたんだ。

強くなれ、と言っていたのは、誰よりも自分が弱かったから。

俺が流されるのを恐れて、あんなにも厳しかったんだ。

なのにあの時の俺は――


(逃げていた。過去を言い訳にして、目の前の大切なものからも目を背けていた。選べたはずの道も、手を伸ばせたはずの未来も……自分で諦めていた)


「ねえ、覚えてる?あの夜、一緒に星を数えたこと。天空にもいつかきっと叶えたい夢ができるわ。その時は後ろを振り向かないで前を向きなさい」


母の声が続いた。

笑っているようで、どこか泣きそうな声だった。

それは手を離す覚悟をした人の声――最期の願いだけを残していく声だった。


「なのに……俺は、星なんか数えてなかった。見ているふりだけで、何も見えてなかった。どうせ無理だって、いつも心のどこかで決めつけてた……!」


情けなさが溢れてきた。

悔しさと、自分の弱さと、もう二度と触れられないその温もりが胸をかきむしるようだった。


「何度も……時間が戻ればいいって思った」


「小さい頃に両親がいなくなった理由を、ずっと知りたかった」


「イヴァンが連れていかれて、ルナとオーウェンがいなくなって、エドワードさんまで……!全部、やり直せたらって……何度も、願った……!」


けれど――


「……もういいんだ、過去は」


震える声で俺はそう呟いた。

誰に届くでもなく、誰のためでもなく。

ただ、この瞬間だけは自分自身に嘘をつきたくなかった。


そしてその言葉が口を離れた瞬間――

まるで封じられていた何かが静かにほどけていくように白く染まっていた空間に亀裂が走った。


風が戻る。音が蘇る。

止まっていた時間が再び動き出す。


――俺の中に確かに何かの力がある。

これは誰かに与えられたものじゃない。

俺自身の意志だ。

何を選び、どこへ向かうかを、自分の心で選んだその力が――今、応えている。


「……もう、後悔に縛られた時間には戻らない」


眩しい光を押し返すように目を開いた。

視界の先に驚愕に目を見開いた魔導士が立っていた。

その顔が信じられないという色に染まる。


「貴様……まさか、時の外から戻った……だと……?」


「違う。戻ったんじゃない。俺は――そこから抜け出したんだ。お前を倒すために」


膝が震えていた。

けれど、確かに地を踏みしめている。


「たとえそれが精霊の力だったとしても――奇跡なんかじゃない。俺が生きてきた全部の後悔と想いと願いが……今、俺を前に進ませてるだけだ」


手のひらが温かく脈打つのを確かめた。

かすかに光るその掌にこれまでの想いが宿っていた。

幼い自分が泣きながら手を伸ばしたあの夜。

何も出来なかった俺の手が、今――前に進む覚悟を決めた。


ぶちっ、と何かが断ち切られた音がした。

次の瞬間、全身を覆っていた白光が一気に四散した。

吸い込まれそうな静寂の中に、風が、音が、重力が、戻ってきた。


俺は目を見開いた。

視界の先には驚愕に歪む魔導士の顔がある。


「さぁ、どうする?俺はまだここにいるぜ!」


「確かにこれは想定外だ――だが貴様の動きはまだ封じられたままだ。もはや抵抗も叶わん」


(その通りだ、ここから先は……俺次第だ)


この鼓動が続く限り意識は奪われない。


「ならば、とっておきを見せてやろう」


言葉と共に魔導士の右手に燃え盛る炎が渦を巻き、左手には荒れ狂う竜巻が纏わりついていく。

空間が震え、大気が軋む。

魔力が密集しすぎて空間そのものがひび割れそうなほどの緊張に満ちた。


「右手に宿るは灼熱の言霊――ランベリ フローガ パンチ。左手には嵐を統べる言霊――ストロビ アネモス パンチ。これらが交わる時、精霊の言霊の理すら超える災厄が生まれる……どうなるか見ものだな」


魔導士の目は血のように紅く染まり、口から技の名が紡がれた。


「……そして、名を授けよう――アネモス フローガ インフェルノ」


その名が告げられた瞬間、力は象徴となった。

それはもはや魔法ではなく精霊の言霊が宿った災厄そのものだった。


魔導士が両手を天高く掲げる。

そして咆哮と共に両手を振り下ろす。


「これで終わりだ!アネモス フローガ インフェルノ!!!」


その瞬間、炎と嵐が融合し、灼熱の咆哮と暴風の咬爪が荒れ狂う奔流のように襲いかかってきた。

大気が焼ける。

肌を切り裂く嵐が、空間に深々と亀裂を刻みながら地面を裂く。

逃げ場など、どこにもなかった。


「くそっ……!」


体が動かない。

あれを防御もせずに正面から受けきれるのか?無理だ。

その時、俺の中で恐怖が叫ぶよりも早く、背後から温かな気配が差し込んだ。


「……な、何だ!?」


俺の背後――そこにそびえる異界樹がふいに淡く輝き始めた。

静かな息遣いのように緩やかに、だが確かに脈打つその光が俺の体を包む。

その光は優しくもあり、同時に強烈な覚醒の一撃のようでもあった。

背中に――誰かが手を添えてくれているような。

無言の「恐れるな」と、優しく語りかけられた気がした。


異界樹の力が俺の中に流れ込んでくる。

温かく、けれど激しい奔流が体中を駆け巡る。

その瞬間、俺の体は――動いた。


「……うっ、動く……!背中から、熱い力が……体中に流れ込んでくる……!」


前方から焼き潰すような熱気と大地を引き裂く暴風が押し寄せてくる。

だが俺は引かなかった。

両拳を構え、すべての力を込めて正面から受け止めた。


グオオォォォオオオ……ッ!!


吼えるような爆音が耳を突き抜けた瞬間、体の芯まで灼かれるような熱が襲った。

熱と圧力、風と重さ、それらが一体となって俺の体を潰し、筋を裂き、骨の奥にまで深く入り込んでくる。

関節が限界まで歪み、骨と軟骨が擦れ合う不快な感触が断続的に波打ち、その振動が脳裏に刺さるように響いた。

視界の端で閃光が炸裂し、焦点が狂ったかのように赤い霞が視野を覆い尽くした。


だが、それでも――俺の脚は折れなかった。

倒れない。屈しない。潰れきったはずの腕になおも力が宿っていた。

それは俺自身だけの力ではない。

背後から――異界樹のあの脈動が俺を支えている。


焼き焦げるような風圧の中で、俺は足を踏み締める。


「なっ……!?あの技を受け止めた……、だと?」


魔導士の声が震えた。

表情が――驚愕に染まっていた。


「貴様……その背後の光は……まさか、異界樹のエネルギー……!?」


ズガァァァン!!


炎と風の衝撃を正面から受け止め、俺の両足が地をえぐる。

それでも――立っていた。


「はぁ……っ、はぁ……どうだ……。耐え抜いてやったぞ……!」


肩で息をしながらも、俺は立ち尽くす。

拳を下ろさず、視線を逸らさず。

勝ったわけではない。だが、屈してもいなかった。


「ば、馬鹿な……何故……なぜあの人間に、こんなことが……?」


魔導士の言葉がもはや呟きに変わっていた。

拳を握った瞬間、心の奥から迸った熱が全身を貫いた。


「立ち上がるたびに感じていた……俺の背を押し返してくれる存在がいたからだ――お前の力だったんだな。異界樹……!」


問いかけるように呟いた声が、まるで返答を求める祈りのように宙に溶けていく。

異界樹が再び命のような光を放ち、夜の空気に脈動を刻む。


その光が、俺の体に沁み込んでいく。

命そのものを流し込むように、優しく、そして強く――確かに支えてくれている。

細胞の一つ一つに火が灯るような感覚があった。熱いのに、どこか安らかな光。

そのぬくもりは恐怖を溶かし、迷いを焼き払い、すべてを超える覚悟だけを残した。


「……異界樹よ。もう一度だけでいい。あと一撃、あの魔導士を倒すための力を……貸してくれ」


これは願いじゃない。

それを口にした瞬間、俺はすでに「そうする」と決めていた。

これは誓いだ。覚悟そのものだ。


イヴァンを――ルナを――

俺が守るべき仲間たちを救うために。

誰にも絶対に譲れない想いを拳に込めた。


心が灼けるように熱を帯びる。

身体の芯から熱い衝動が波のように押し寄せ、震える筋肉の隙間を駆け抜けていくようだった。

全身の力が一箇所に集まり、暴発寸前の核のように拳の奥でうねりを上げる。


そして、俺は叫んだ。


「全部見せてやる……これが俺の――すべてだ!!」


声が空気を突き破り、周囲を震わせる。

その声は言葉以上の意味を持っていた。

それは俺という存在のすべて――怒りも願いも、絶望すらも包んだ魂の爆発だった。


「――エタニティ スピリット エクスプロージョン!!!」


異界樹の幻影が眩い光の中で浮かび上がった。

幹は天を衝くほどに伸び、枝葉が星のような輝きを放って広がっていく。

異界樹の幹から解き放たれた光が、羽根のように広がり、ひとつの形を成していく――それは森の記憶を象った神秘の孔雀だった。

幾千もの羽を広げ、すべての色を抱きながら、夜空を翔けるように羽ばたいた。


――そして、その羽が爆ぜた。

色とりどりの閃光が炸裂し、夜空すら塗り潰すような暴風が魔導士を呑み込む。

轟くような破砕音とともに魔導士の体が光の渦に巻き込まれ、天へと吹き飛ばされていった。


「ぐああああああああっ!!!」


ドゴォッ!!!


地鳴りのような爆発音が辺りを貫いた。

衝撃波が地面を裂き、巨木が軋むように森が揺れる。

吹き飛ばされた魔導士は大地に叩きつけられ、砂煙の中へと消えていく。


そしてその場所に燃え上がるような赤い光が残された。

それは炎ではない。

魔物としての残滓――灼かれ、砕かれ、散らばり、それでもなお残された敗北の形。


「ば、馬鹿な……こんな……力が……あの男に……」


呻く声が虚空にこぼれ、夜風に飲まれていった。

魔導士はもはや立ち上がる力すらなく、砕かれた体を地面に投げ出していた。


――終わった。


俺は拳を握ったまま、ゆっくりと顔を上げる。

夜空を彩る無数の光が静かに息づく生命の囁きのように俺の胸を震わせた。


「……イヴァン。ルナ……」


その名を唇の奥からこぼれるように呼んだ。


「――やっと倒したぞ。魔導士は終わった。次は……お前らを迎えに行く。必ず迎えに行くからな」


夜空に誓うように静かに言葉を置く。

風が吹き、背後の異界樹がまたひとつ柔らかな光を放った。

まるで静かに頷くように――異界樹が光を返した。

その光は、道を示す灯火のように……俺の背を押した。

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