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第3話 狼と少女

俺には両親がいない。

正確に言えば小学生だったある日、二人は突然この家から姿を消した。

何の前触れもなく、メモ一つ残さず痕跡も足取りもなく、父さんと母さんはいなくなったのだ。


警察の調査によれば誘拐の形跡も無ければ借金や怨恨の線も考えにくいとのことだった。

それでも俺の知っている両親が、何の知らせもなく家を出るなんてありえなかった。


イヴァンの父さんは俺の父さんと古くからの親友だったという。


「……あいつが何も言わずに消えるなんて俺には信じられん。必ず、理由があるはずだ」


彼がそう言うと、その瞳には悔しさと怒りが入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。


けれど証拠も目撃情報も何ひとつ見つからぬまま月日は何も変わらずに過ぎていった。

捜査の勢いも次第に弱まり、ただ時間だけが淡々と過ぎていった。


それでも俺は諦めなかった。

今もあの日と変わらぬこの家で俺は二人の帰りを待ち続けている。


この家には俺の過去が詰まっている。

俺たち家族が笑い合い、泣き合い、眠ったその痕跡がまだそこに残っている。

だから俺は何処にも行かない。

両親が戻る日まで守らなきゃいけない、たったひとつの場所。


「父さん、母さん、お部屋を掃除するからね」


仏壇に軽く手を合わせ、静かにそう告げてから俺は部屋の隅から丁寧に掃除を始めた。

少しでもこの部屋の空気が澄んでいてほしかった。

この家が二人の帰る場所であり続けるために。


掃除を終えると、風呂に入り、リビングでテレビを眺めながら身体を横たえた。

番組はいつもと変わらぬバラエティで、芸人たちの笑い声が部屋の隅々に響く。

でもそれが急に遠のいていく――どうやら眠気が限界に来ているようだった。


時計を見るとまだ夜の九時を少し過ぎたところだったが、今朝は少し早めに起きていたこともあり、もうまぶたが重かった。

俺は立ち上がって二階の自室へと向かった。

布団に潜り込み深く息を吐くと、そのぬくもりがゆっくりと全身を包んだ。


「……おやすみ」


誰にともなく呟いたその言葉は静かな夜の中に消えた。

ふうと息を吐いた瞬間、身体の力が抜け、自然と目を閉じるとそのまま深い眠りに落ちていった。



どれくらい時間が経ったのだろうか。

気づかぬほどに静かだったが部屋の空気が微かに変わる気配があった。


俺の眠るベッドの真上――天井が淡い光を帯びはじめた。

それはまるで、そこにもう一枚の別の空が重なっているかのように見えた。

だが疲労で深く沈んだ俺の意識はその異変にまったく気づかなかった。


そして光の中心に細く鋭い亀裂が走る。

空間がゆっくりと裂けていき、わずかな隙間ができた。


裂け目の向こう――その先から白く細い手が伸びた。

その手に導かれるように一人の少女がふわりと浮かびながら現れ、重力に引かれるようにして俺のベッドの上に落ちてきた。


ストン、と小さく音がして少女の軽い身体が布団に沈む。

天井の裂け目は直後にまばゆい光を放ち、そのまま何事もなかったように閉じていった。


少女は薄く瞼を開けた。

そして眠る俺の顔を確かめるように覗き込み、安心したように微笑むとそっと目を閉じる。

やがて穏やかな寝息が部屋に満ちていった。


……暑い。

それに、なんだか重い。

身体に乗る何かの感触に俺はゆっくりと目を覚ました。


「……えっ?誰かいる?」


寝起きの頭が状況を理解するより早く体が反応していた。

体温、匂い、これは――幽霊なんかじゃない。

肌のぬくもり、微かに感じる汗の気配。

確かにここに誰かがいる。

しかもどうやら女の子――みたいだ。


「……っ、どういう……状況?」


混乱と警戒が入り混じる中で俺は息を殺しながらそっと身を起こす。

そして目に飛び込んできたのは――

布団の上に俺の隣で眠る少女の姿だった。


金色の髪が月明かりを受けて滑らかに広がっていた。

肌は驚くほど白く透き通り、その顔立ちは整っていて、どこか古い時代の雰囲気を感じさせた。


彼女が着ているのは細かなレースのあしらわれた純白のドレス。

普段着どころか現代の服ですらない。

まるでどこか別の時代、あるいは――


「……な、なんで俺のベッドに女の子が……?」


かすれた声がようやく喉からこぼれた。

目の前の光景が現実だとまだどこか信じきれないままだった。


俺はそっと布団から抜け出し、息を殺して彼女の顔を見つめた。

寝息を立てて眠るその穏やかな表情にはどこか幻想めいた美しさを湛えていた。


信じられない――


女の子が今、俺の部屋にいる。

言葉も動きも失ったまま、ただその非現実的な光景に立ち尽くしていた。


「……コスプレイヤーか……?」


思わず口をついて出たその言葉は状況の不可解さをどうにかして現実の枠に収めようとする脳の必死の抵抗だった。

あの服装はどこからどう見ても現代のものではない。

むしろ中世ヨーロッパの王宮か映画のセットから抜け出したようなものだった。

だがそれでも「何かのイベント帰りかもしれない」「誰かの悪ふざけかもしれない」と考えようとしたのは理解不能な事態を少しでも手なずけたいという本能に他ならなかった。


けれど、どうやって……?


俺の頭にすぐさま現実的な疑問が押し寄せてきた。

あの子はどうやって俺の部屋に入った?

玄関には確かに鍵をかけてあった。

窓も閉まっていたはずだ。

誰かが俺の留守中に連れてきた?

それとも――まさか、俺が寝ている間に勝手に?


不法侵入……?

いや、それにしても俺が寝てる上で寝落ちするなんて――そんな事があるか?


自分の中で飛び交う疑問に対して一つも答えが出ないまま俺はとにかく部屋を出て階段を下りて一階へと向かった。

まずは落ち着こう。

状況を整理するんだ。


あの子は泥棒……か?

でもあの格好で俺の家に盗みに入るとは考えづらい。


だったら迷子?家出?

いやいや、家出少女が勝手に入って来ようにも無理があるはずだ。


頭の中がぐちゃぐちゃだった。

警察に連絡するべきか?

いや、通報しても「女の子が勝手にベッドにいた」なんて言ったら俺が疑われかねない。

強引に連れ帰ったとか、誘拐扱いされたらたまったもんじゃない。

かといって、このまま放っておくわけにもいかない――


「……困ったな……こういう時は……イヴァンの父さんにでも相談するしか――」


その時だった。


ガシャーンッ!!


激しい破裂音が家中に響き渡った。

何かが割れる音――いや、確実に何かが「壊された」音だった。

そして直後に――


「きゃあああっ!!」


高く切迫した悲鳴。

あの女の子の声だ。


「今度は一体何なんだよ……!」


とっさに脳が警鐘を鳴らし、俺は反射的に階段を駆け上がっていた。

足音が大きく響いても気にせずに全速力で自室の扉を開け放った。


そして俺の目は信じがたい光景を捉えることになる。


部屋の中央、砕け散ったガラスの破片の中。

そこにいたのは――人間ではなかった。


それは狼のような姿をした獣だった。

いや、狼と呼ぶには大きすぎる。

肩幅は成人男性の倍はあり、全身を覆う黒い毛皮は鈍く光り、口元からは鋭利すぎる牙が露出していた。

赤く光る目がギラつき、まるで何かを捕らえた獣のように鋭く細められている。


その怪物の片腕には――あの少女がいた。

ドレスが引き裂かれ、金色の髪が宙に舞っていた。

その身体は小さく、あまりにも無防備だった。


「おい……やめろ!!」


俺は叫びながら一歩踏み出した。

恐怖で震える足を必死に前へと押し出す。


「お願い……助けて……!」


か細い声が、確かに俺に向かって叫ばれた。

少女は化け物の腕の中でもがきながら、涙に濡れた目でこちらを見つめていた。


その声に応じるように化け物がゆっくりとこちらへと振り返る。

赤黒く光る目がぎらりと俺を射抜いた。


「……おい、人間の子供」


喉の奥から絞り出すような、いや、地の底から響くような低い声だった。

それは獣の唸りのようなどこか人間離れした音だった。


「引き裂かれて食われたくなければ……今見たことをすべて忘れろ」


一語一語をかみ砕くように、そして冷酷に告げるその声に背筋が凍りついた。

全身が本能的に危険を感じ取っている。


そして次の瞬間――


怪物は少女を抱えたまま軽々と窓枠を蹴り、夜の空へ飛び出した。

風にカーテンが揺れ、破れた窓ガラスが静かに揺れていた。

俺は動けなかった。

いや、何もできなかった。


足が床に縫い付けられたように固まり、視線だけが空っぽの窓の向こうを見つめていた。

脳が現実を処理できず何も考えられない。


だが耳に残っていた。


「お願い……助けて……!」


少女の叫びだけが胸の奥に、鋭く、深く、刺さっていた。

その声が身体の奥深くに響き渡り、固まっていた思考が急に動き出した。


気づけば俺は窓際に駆け寄っていた。

夜の暗がりに逃げていく何かの気配がある。

それを追うように俺は階段を駆け下り、玄関を蹴るように開けた。

靴を履いて自転車に飛び乗る。


行かなきゃ――逃がせない。

あの子の声がまだ頭に響いている。


ペダルを力任せに踏み込み、闇の中へと消えるように走る。

夜の住宅街を抜け、細い道を抜け、ひたすらに前だけを見つめた。

やがてかすかに――聞こえた。

遠くで響くか細い悲鳴。


「聞こえた!こっちだ……!」


声を頼りに道を曲がってスピードを上げる。

その先、電灯の届かない小さな森の入り口。

そこへと化け物の黒い影が滑り込んでいくのが見えた。


……何も考えられなかった。

ただ――追わなきゃという衝動だけが身体を押していた。


俺はブレーキをかける暇もなく自転車をその場に倒して勢いのまま駆け出した。

夜の森は視界が悪く、足元もぬかるんでいる。

木々の間をかき分けながら進むたびに枝が顔をかすめ、靴に泥が跳ねた。


それでも足は止まらない。

止まる理由なんてどこにもなかった。


すると突然闇の奥から――声が響いた。


「……俺はなぁ、鼻が利くんだよ」


低く唸るような声。

それはまるでこちらの心臓の鼓動に合わせて響いてくるようだった。


暗闇の先。

黒い影が音もなく姿を現す。

木々の隙間から現れたそれは真っすぐにこちらを見据えていた。


「食われたくなけりゃ……忘れろって言ったよな、人間の子供?」


赤い目が光を帯びた。


次の瞬間、心臓が強く鼓動し、全身の血が逆流したような感覚が襲った。

手の指先がじんわりと痺れて呼吸が浅くなる。

脳だけが異様に冴えている気がした。

背筋に冷たいものがゆっくりと伝わった。


――バレていた。


どこまでも追いかけていたつもりが、最初からこちらの動きなどお見通しだったのだ。

俺は闇に足を踏み入れた事を心の底から後悔していた。

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