第38話 失踪とオーウェンの決意
病院で入院しているはずのイヴァンが突如として姿を消した。
意識のない状態のまま、あの酷い怪我で自力で病院を抜け出せるわけがない。
誰かが連れ去ったのだ。
そう考える他に説明の余地はなかった。
そしてそんなことをする人物はこの世にたった一人しか思い当たらなかった。
「……あの魔導士のやろう」
俺は怒りを押し殺すように呟いた。
するとすぐにスマホ越しにオーウェンの声が響く。
その口調から彼も俺の苛立ちを察していたのがわかる。
『おい、天空。まずは落ち着け。とにかく今は体を休ませろ。いいな?絶対に勝手な行動はするんじゃないぞ。ここは俺に任せろ』
「だけど、今すぐイヴァンを助けに行かなきゃ……!」
喉の奥から絞り出した言葉は感情のままに溢れ出していた。
『天空!イヴァンを死なせたいのか?今は動くなと言ってるだろうが!』
怒声が響いた。
スマホ越しとは思えない迫力に胸が痛んだ。
オーウェンにこんなふうに怒鳴られたのは初めてだった。
「……わ、分かった。オーウェン、ごめん」
ようやく出た言葉はどこか乾いたように口の中に引っかかった。
『……いや、いい。俺もお前に伝えておきたいことがあって電話した』
「伝えること……?」
『学校から帰ったらお前の家のルナの部屋に行け。服の上から羽織れるものを適当に持って、18時にうちに来い。俺たちもその頃に戻る。それから、きちんと戦略を練ってから――あの魔導士との戦いに臨む』
「……分かった。18時に行くよ」
俺はスマホを強く握りしめた。
手のひらに残るわずかな熱だけが、乱れた気持ちをどうにかつなぎとめていた。
そうだ、俺一人で突っ走ったところでイヴァンを助けられる保証なんてどこにもない。
むしろ焦って無策に動けば事態をさらに悪化させるだけかもしれない。
でも――オーウェンと一緒なら、あのめちゃくちゃに強いオーウェンとなら必ずイヴァンを救える。
今は焦らず、学校が終わるのを待つ。それが最善の選択。
だけど、18時……か。
◇ ◇ ◇
だが、事態はすでにそれよりも前から動いていた。
あの電話が鳴る一日以上も前のことだった。
オーウェンはルナを連れてイヴァンが入院している病院を訪れていた。
彼女の診察と、イヴァンのお見舞い。
静まり返った病院の廊下を歩いていたその時、ちょうど病室の前で一人の医師と鉢合わせる。
「あの……イヴァン・アポロンズさんのご家族の方ですか?」
「はい、イヴァンは俺の弟です。今日は様子を見に来ました」
「ああ、それなら……。実は先ほど、病室を見回りに行ったのですが……イヴァンさんがベッドにいらっしゃらなかったのです。どなたかご家族の方と外出されたのかと……。ですが、確認が取れず……」
「イヴァンがいない?まさか……意識を取り戻したってことですか?」
「それが……。現時点では分かりません。ただ、あの怪我の状態で動けるとは考えにくいです。もし意識が戻っていたとしても、普通は誰かの助けがなければ……」
「……そうですか。多分、親父が動かしたんだと思います。あいつ、病院が大嫌いなんで。俺のほうで一度連絡を取ってみます」
「承知しました。それではよろしくお願いします」
そう言って医者は軽く会釈し、静かな足音を残して廊下の奥へと去っていった。
その背中が廊下の奥に消えていくのを見届けたあと、ルナがためらうように声を落とした。
「本当に……お父さんが連れていったんですか?」
「いや、そんなはずはない。親父が何の相談もなしに勝手に連れて行くなんてありえない。それに、スマホも置きっぱなしだ。何の連絡もよこさないなんて、なおさらおかしい」
オーウェンは眉を寄せ、短く息を吐く。
「……たぶん、あの魔導士の仕業だ」
「……えっ……?」
ルナの顔が一瞬でこわばり、言葉を失った。
その名が出た瞬間、ルナの瞳に微かに影が差した。
あの日の記憶が蘇ったのだろう――恐怖に足を掴まれるような、あの光景が。
オーウェンは視線を病院の廊下へ戻す。
この場所がすでに敵に知られているのだとしたら――。
「ルナ、すぐに行くぞ。あの山だ」
「えっ?今から?」
「ああ。親父にも天空にもまだ連絡はしない。まずは状況を見てからだ。何か手がかりがあるかもしれない」
そう言うとオーウェンは迷いなくスマホを取り出し、タクシーを手配した。
やがて病院の前に車が止まる。
彼は運転手にスマホのGPS画面を見せながら山の入り口から少し離れた地点を指示した。
ルナは言葉を飲み込みながら静かにその後に続いた。
タクシーの中は沈黙に包まれていた。
何かを言いたげな空気が漂っていたがルナは一言も発さなかった。
車窓の外は緩やかに傾いた午後の光が木々の間を照らし、やがて道は険しい山道へと変わっていく。
その景色をオーウェンは無言のままじっと目で追っていた。
タクシーを降りてからしばらく山道を歩くと濃い霧の中から――あの場所、妖霧の山の入り口が浮かび上がってきた。
立ち止まったオーウェンは霧の向こうへ向けて声を張り上げた。
「おい、土野郎!出てこい!昨日のあの木の場所まで案内しろ!」
その声に応えるように大地が低く唸った。
足元の土がかすかに波打ち、小さな石ころがカラカラと音を立てて転がる。
次の瞬間――。
地面がもり上がり、まるで大地そのものが息を吹き返したかのように土のゴーレムが姿を現した。
「……こっちだ」
低く響く声とともにゴーレムはゆっくりと重々しく足を踏み出した。
オーウェンとルナは無言のまま、その後に続いた。
山の奥へと進む道中、鳥の鳴き声ひとつなく、ただ風が葉を揺らす音とゴーレムの足音だけが耳に届いていた。
やがて、あの戦いの地――土のゴーレムたちと対峙した広場へとたどり着く。
その中央には異界樹がそびえていた。
午後の光を浴びて輝くその木は、この世のものとは思えないほどに美しかった。
その姿はまるで別の時空から差し込んだ神話の断片のようですらあった。
枝葉は静かに揺れ、木漏れ日がその隙間から零れ落ちる。
幻想的なほどの光景――だが、その美しさの奥には底知れぬ不気味さが潜んでいた。
オーウェンは木の根元に足を踏み入れた瞬間、肌に走る違和感に目を細めた。
何かが歪んでいる。
見た目には何も変わらぬはずの風景が、ほんのわずかに軋んでいるような――そんな感覚だった。
「おい、魔導士!そこにいるのは分かってる!さっさと姿を見せろ!」
声が木霊した瞬間だった。
空間がふっと揺らぎ、影の中から人影がにじむように浮かび上がる。
紫のローブに身を包んだその姿――あの魔導士だった。
口元にはどこか芝居がかった薄く歪んだ笑み。
「ほっほっほ……我が意図を正しく読み取られたようで何よりです。知恵ある者との対話は、実に愉快です」
「意図も何もやることがあからさまだっただろうが。……イヴァンを囮にしてルナを引きずり出すなんて、やり口が汚ぇんだよ!……さっさとイヴァンを返せ!」
怒気をはらんだ声に魔導士はあからさまに残念そうに首を振る。
「返したくとも、残念ながら――イヴァンさんはもう私の手元にはおりません」
「……なんだと?」
その一言でその場の空気が一瞬にして凍りついた。
ルナの瞳が大きく見開かれ、オーウェンは無言のまま拳を固く握りしめた。
「イヴァンさんは、今……下の世界におられます」
「な、なに……!?」
「どうして!?イヴァンを連れて行く理由なんてどこにもないはずでしょ!?あなたの狙いは私だったじゃない!」
「ええ、変わっておりませんとも。あくまで狙いはあなたですから。ですが――人間の王にあなたの存在と、あなたに弟がいることを報告したところ、即座に『その弟も連れて来い』との命が下りまして。だから彼を……下へ送らせていただいた、というわけです」
「……イヴァンが下の世界に……?」
その言葉はルナの唇を伝って流れ出たのではない。
感情ごと崩れ、ただ震える声となって零れた。
困惑と恐怖が混ざり合い、彼女は立っているのがやっとというようにオーウェンの袖をかすかに掴んだ。
だが、魔導士はその様子をどこ吹く風とばかりに口元に笑みを浮かべたまま続けた。
「幸運なことに、イヴァンさんには王家の血が必要ありませんでした。おかげで異界樹の門を通るのも実にスムーズでしたよ。どうやら――彼にもその血が流れているようですな」
「……イヴァンが王家の血を……?」
「そして、あなたも同じく」
「なに……?俺も……だと……?」
魔導士はその反応すら待っていたかのように満足げに頷く。
「ええ。似ているだけではありません。あなたの血にも門を通す力が備わっているのです。……これはあまりにも出来すぎている――ただの偶然で片づけられる話ではありませんね」
オーウェンの顔が険しさを増す中、魔導士は声をひそめて言った。
「――イヴァンさんを助けたければあなたが下の世界へ行くしかありません。ですが、私はすでに目的を果たしました。王家の血から作る特別な薬を褒美として頂いた今、あの王とも下の世界とも、これ以上の関わりは不要です」
「貴様……!」
怒りを露わにしかけたオーウェンをいなすように、魔導士はゆっくりと手を広げた。
「とはいえ、情けのつもりで申し上げます。――私が異界樹の門を開く手助けをすることは可能ですよ。ただし待つのは今日限りです。さあ、どうなさいますか?」
その言葉の最後まで聞いた後もオーウェンは黙ったまま動かなかった。
握りしめた拳が震え、怒りが内側で激しく渦巻いていることがルナにも伝わってきた。
だが次の瞬間、その拳をそっと開き、静かに言った。
「ルナ――一旦、引き上げるぞ」
「え……でも……!」
「焦って突っ込んだところで、イヴァンを救える保証なんてどこにもない。戦うべき時はもっと後だ。今は……準備を整えるべきだ」
「……わかりました……」
名残惜しそうに異界樹を振り返るルナだったが、それ以上の反論は口にしなかった。
オーウェンとルナは無言のまま振り返り、土のゴーレムの案内で霧の中を引き返した。
不気味な静寂が包む中、彼らの背中に魔導士の視線がいつまでも刺さっていた。
タクシーを呼び出してはみたものの山奥という場所柄もあって到着にはしばらく時間がかかるという返答だった。
二人はベンチに並び、言葉を交わすこともなくただその時を待ち続けた。
沈黙の時間――けれどそれは静けさというにはあまりにも重たかった。
二人の間には触れずにいられないものが息をひそめていた。
しばらくしてオーウェンがぽつりと呟くように口を開いた。
「……俺はイヴァンを助けに下の世界へ行く」
その言葉はまるで決意そのものだった。
ルナは一瞬、耳を疑ったように彼を見た。
「えっ……そんな……」
「弟なんだ。放っておけるわけがない。兄貴として当然のことをするまでさ」
オーウェンは遠くを見つめるように言ったあと、視線をルナへと戻した。
「そうは言っても一度家に戻って準備を整えないとな。それと……下の世界についてもっと詳しく聞かせてほしい」
その言葉にルナはただ小さく頷いた。
タクシーがようやく到着した頃には空に淡い茜色が滲みはじめていた。
乗り込んだ車内には終始沈黙が流れていた。
言葉を交わす必要がないほど二人の間には既に共有された覚悟があった。
やがて車がオーウェンの家の前に停まると無言のまま玄関を開ける。
そのまま部屋に入った瞬間――ルナの足が止まり、次の瞬間、ぽつぽつと涙がこぼれ落ちた。
「ルナ……?」
彼女は声にならない嗚咽を必死に押し殺そうとしたが、それでも感情は抑えきれなかった。
イヴァンを救えなかったこと、自分の代わりに連れていかれたこと、すべてが心を押し潰していた。
その罪悪感と恐怖に肩を震わせながら彼女は唇を噛んだ。
そして、涙の中で震える声を押し出すように言った。
「オーウェン……私はもうこの世界にはいられない。だから、私もあなたと一緒に下の世界へ戻る。兄上を、そして……父上を止めるために。あの場所で何が起きているのか、私自身がこの目で知らなければならないの」
オーウェンはしばし沈黙したまま彼女の瞳を見つめた。
そして低く抑えた声で問う。
「……本当にいいのか?俺が守り切れる保証なんて、どこにもないんだぞ」
だが、その言葉に対する答えはすでに決まっていた。
彼女の瞳には恐れよりも覚悟の光が宿っていた。
「ええ……怖いけど、それでも戻らなきゃいけないの。私は城の外の世界を知らなかった。ただの無知な王女でいる自分にもう耐えられない。王家の人間として真実を見届けなければならないの」
その強さにオーウェンはわずかに目を細めた。
「……分かった。ルナがそこまで言うなら止める理由はもうない」
そう言いながらも彼は背中をわずかに向ける。
「けどな、あの魔導士には今日限りしか待たないって言われてる。だから、もう一日だけ待ってもらえるようにこれから俺一人でもう一度話をつけに行ってくる。ルナ、お前は天空のところで……最後の時間を過ごしていてくれ」
「……えっ?」
「あいつとはしばらく会えなくなるだろう。……けど、まだこの事は天空にも親父にも話さないでくれ。巻き込めば家族も天空も危険に晒される。それだけは避けたい」
ルナはしばらく戸惑った表情で彼を見ていたが、やがて、何かを抱え込むようにゆっくりと頷いた。
「……ええ、分かったわ」
その後、オーウェンは夕方の街を歩き、ルナを天空の家まで送り届けた。
合鍵で扉を開けると、ルナは「ありがとう」と一言だけ残して家の中へと消えていった。
ルナの姿を背にオーウェンは迷わずその場を後にした。
茜に染まる街を抜け、彼は一人――再び妖霧の山へと向かっていった。
◇ ◇ ◇
俺はその頃、学校が終わったあとでイヴァンの家に顔を出していた。
だがイヴァンの母から『ルナちゃんなら、あなたの家に行ったわよ』と聞かされ、そのまま自分の家へ戻った。
玄関を開けると聞き慣れた声が耳に入った。
「おかえり、天空!」
「あれ、ルナ?今日はどうしてイヴァンの家にいないんだ?」
「オーウェンが今日は夜まで忙しいから、ここにいた方が安全だって。だから今日は私の部屋で寝るわ」
「ああ、そうか。じゃあコンビニで何か食べ物と飲み物を買ってくるよ」
「うん!行ってらっしゃい!」
俺はやや不思議に思いながらも、財布を手に取って家を出た。
コンビニで手早く食料を買い込み、すぐに戻ると、ルナは居間のソファに座ってテレビを見ていた。
番組の内容はどうでもよかった。
ただ、笑っている彼女の横顔を見ていると胸の奥に少しだけ安心が灯る。
俺はソファの端に腰を下ろし、ルナの隣でぼんやりと過ごす時間に身を委ねた。
なぜ彼女が今日ここにいるのか、その本当の理由を聞こうとは思わなかった。
ただ――彼女がここにいるという事実だけを何も言わずに受け入れていた。
「ルナ、俺……もう眠くなってきたから寝るわ。明日も早いし」
「うん、おやすみなさい、天空!」
「おう。また明日な」
彼女にそう言い残して俺は部屋の明かりを落とし、自分の部屋へと向かった。
背中越しにテレビの音とルナの微かな笑い声がしばらく続いていた――。
俺は自分の部屋に戻ると、魔導士との戦いの疲労がまだ身体の奥に残っているのを感じながらベッドに身を沈めた。
シーツの柔らかさが体に沿うように馴染んでいき、瞼が自然に重くなる。
あの異界樹の光景が脳裏にぼんやりと浮かんでは滲んでいき、気づけば深い眠りの中へと落ちていた。
◇ ◇ ◇
――眠りに沈んだ家の中で、ただ時だけが過ぎていった。
部屋の扉がわずかに軋みを立てて開く音。
そこからそっと入ってきたのはルナだった。
「……天空、まだ起きてる?」
その声はまるで風に紛れるくらいに小さく、優しい囁きだった。
だが、完全に熟睡していた俺の耳には届かない。
返事のない部屋の中で彼女はしばらく迷うように立ち尽くしていた。
けれど――そっと一歩を踏み出し、ベッドの傍らへと近づく。
そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた――まるで夢の中に語りかけるように。
「……ねえ、覚えてる?最初にあなたと出会ったのも、この部屋だったんだよ」
そう呟きながらルナはそっと部屋の天井を見上げた。
目線の先には、あの日――この部屋の天井にぽっかりと開いていた異次元からの出口があった場所。
出会いの記憶がまるで昨日のことのように鮮やかに甦る。
「私、この部屋のちょうど真上から落ちてきたんだよね。ふふっ……信じられないような出会い方。でも、あなたのベッドに落ちた瞬間に見た、眠ってるあなたの顔が……あまりにも優しくて、安心しちゃったんだ。こんなに綺麗な顔をした人がこの世界にいるんだって、すぐに分かったの」
彼女の視界に映ったのはベッドに仰向けで眠る天空の顔だった。
……その顔はあまりにも穏やかで、安らかで、あたたかかった。
「知らない世界で、一番最初に出会ったのがあなたで良かった。……本当に、そう思ったの」
彼女の指がためらうようにベッドの端へと伸びていた。
その指先は微かに震えていた。
「こっちの世界に来てから、私はたくさんのことを知ったよ。パソコンの使い方も、ファッションも、新しい食べ物の味も、見たことのない機械も……全部が驚きで、全部が楽しくて……どれも全部、あなたといたから知れたの」
ゆっくりと彼女は眠る天空の顔を見つめた。
その眼差しは恋しさと愛おしさと、どうしようもない別れの予感に揺れていた。
「魔法もね。下の世界じゃどれだけ練習してもダメだったのに、こっちの世界で初めて使えたの。たぶん、それも天空、あなたがそばにいてくれたからなんだと思う。あなたと過ごして……私はずっと、救われてた」
一瞬、言葉が詰まる。
唇が小さく震え、それでも彼女は続けた。
「あなたって、本当に不思議な人だね。強くて、優しくて……イヴァンのことをあんなに大事にして。……そして、私のことも、ずっと特別に扱ってくれてたでしょ?……気づいてたよ、ずっと、気づいてた。どれだけそれが嬉しかったか、言葉じゃ言い表せないくらい」
その声はすでに涙を含んでいた。
彼女は身をかがめるように膝を折り、眠っている俺の唇にそっと――そっと、キスを落とした。
ほんの数秒の、けれど永遠に続いて欲しいほどの切ないほどに甘く、胸を締めつけるようなキス。
それはいつか時が戻るのなら、もう一度だけ会いたいと願う、最後の契りのようだった。
永遠に続いてほしかったキスがそっと終わりを迎えると――彼女の唇が微かに震え、堪えていた涙が一気に溢れ落ちた。
「ごめんね、天空……ごめん、ごめん……私のせいで、イヴァンが下の世界に連れていかれちゃった。……私さえいなければ、あなたたちは普通に暮らせた。学校に通って、時々ケンカして、それでも笑い合える毎日を……そんな当たり前を私が壊してしまった」
嗚咽が胸からこぼれ、肩が小さく震える。
ルナは手で目元を押さえながら、それでも言葉を絞り出すように続けた。
「だから……これ以上ここにはいられないの。私がいると、今度は……天空まで巻き込んじゃう。あなたまで、あの場所に引きずってしまうかもしれない。それだけは……それだけは、絶対に嫌なの。私のことなんかで、あなたの未来までも奪いたくない……」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
その背中に迷いはもうなかった。
最後にもう一度だけ、ルナは天空の顔を見つめた。
「ありがとう、天空。あなたに会えて、本当に良かった」
目を閉じたまま、何も知らずに眠る天空を――まるで永遠に別れる恋人のように。
「さようなら、天空。……大好きだったよ」
そう呟くように告げた言葉は、まるで祈りのように部屋に溶けていった。
ルナはそっとドアノブに手をかけ、音を立てないようにゆっくりと扉を閉めた。
◇
自室を後にしたルナは、あらかじめ用意していた荷物を手に、そっと玄関を出た。
夜空に浮かぶ真珠のような月は、彼女の決意を静かに見守るようだった。
門の前ではオーウェンが待っていた。
「……ルナ、もういいのか?」
「ええ。これ以上この家にいたら……きっと、天空に気づかれてしまうから」
オーウェンは何も言わなかった。
ただ彼女の選択を静かに受け止め、そっと肩を並べる。
二人の影が夜の道を歩き出す。
交わすべき言葉はすでにすべて心の中にあった。
月は淡い光で二人を照らしていた。
淡く、儚く、まるで別れという名の光のように――。
異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。
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