第36話 戸惑いと温もり
◆ ◆ ◆
重厚な絨毯に囲まれた広間の中央――十数脚の椅子が等間隔に並び、そのすべてを貫くように漆黒の長テーブルが伸びていた。
氷のような光を湛えるその天板には銀の燭台が等しく並び、淡く揺れる炎が規則正しく影を落としている。
窓の外では夜風が梢をかすかに揺らし、石の壁面を撫でるように吹き抜けていった。
王城は荘厳にして静寂。
その広すぎる食堂にルナはひとり腰を下ろしていた。
白磁の皿には何も盛られていない。
給仕の気配もない。
だがこの席は間違いなく彼女に与えられたものだった。
だからこそ疑いもせず彼女はそこに座っていた――そう、彼女自身はそう思っていた。
しかし重く響いた扉の開く音がその静寂を破る。
「ルナエレシアよ。なぜ、私よりも先に席についている」
その声は冷たく突き刺すような硬質さを帯びていた。
ルナの肩が小さく跳ねる。
入ってきたのは王位継承第一位たる彼女の実兄だった。
濃紺の貴族服に身を包んだその男は、彫りの深い整った顔立ちと氷のような瞳を備え、沈黙だけを語る肖像画のように無機質な威圧感を纏っていた。
「貴様は、兄であるこの私より偉いのか?」
叱責の言葉は容赦なかった。
ルナは咄嗟に椅子から立ち上がり、うつむいたまま小さな声を絞り出した。
「い、いいえ……兄上様……」
「ならば、この私より先に座ることなど二度とするな」
低く抑えた怒声。
それだけで空気が張り詰める。
その瞬間、鋭い眼光が凍えるほどの圧を放ち、場の温度が一気に冷え込んだ。
次いで、躊躇のない一撃が――ドンッ――ルナの脇腹を穿つ。
無慈悲な蹴りが彼女の身体を跳ね飛ばし、椅子ごと床へ転がした。
額を打ち、視界が滲んだ。
だが彼女は叫ばない。
ただ、痛みに震えながら唇を噛み、呻き声すら漏らさぬよう息を殺した。
空気は冷えきったまま、音一つなく沈黙が食堂を包む。
兄は何事もなかったかのように主座に腰を下ろし、平然と妹を見下ろして告げた。
「次は気をつけろ」
「……はい、兄上様」
微かに震える声。
それが唯一、ルナに許された応答だった。
◆
王宮の回廊は静かだった。
高く広い天井に灯る燭光が石造りの壁を淡く照らしている。
ルナと彼女の兄は並ぶことなく歩いていた。
兄の一歩後ろを、一定の距離を保ったまま歩く。
決して追い越してはならない――それがこの家の掟だった。
コツ、コツ、と足音だけが響く。
その静寂を裂くように兄の足が止まる。
その刹那、ルナは止まりきれず数歩進んでしまった。
「ルナエレシアよ」
凍えるような声が背中を刺す。
彼女は反射的に立ち止まり、顔を蒼ざめさせて振り返る。
そこにあったのは冷ややかで怒りを隠そうともしない視線だった。
「なぜ、私より前を歩く?」
「えっ……兄上様が、急にお止まりになられたので……」
「言い訳か?」
「ち、違います!」
「貴様、この私を愚弄する気か」
バチンッ!
鋭い音が廊下に響き渡った。
兄の掌が容赦なく彼女の頬を打ちつけた。
ルナの身体がよろけ、そのまま床へ崩れ落ちる。
頬に熱が走り、視界がじんわりと霞んだ。
それでも彼女は声を上げなかった。
唇を噛み、震えながらうつむいたまま静かに膝をついている。
兄はもう彼女を見ていない。
足音を再び鳴らし、何事もなかったかのように歩き出していた。
ルナにとって兄は抗うことのできない存在だった。
王家の頂点に立つ者。
彼女はそれに仕えるだけの血。
誰にも認められず、ただ「従うこと」だけを定められた存在。
それがこの家に課された揺るぎなき支配構造だった。
それは彼女の中で常識として塗り固められていた――抗うことなど決して許されない絶対の掟。
◆ ◆ ◆
「おい、もう大丈夫だ。――すぐに怪我を治療してやるからな」
優しく低い声が、微かな揺れと共にルナの耳奥に届いた。
まぶたがかすかに動く。
ぼんやりとした視界の中で見覚えのある輪郭が浮かび上がる。
彼女が見たのは、かつて何よりも恐れていた顔。
鋭く整った顎、深く刻まれた眉間の皺、そして――あの眼。
「あ……兄上様……?」
声は細く掠れていた。
だが、確かにそう言った瞬間、ルナの顔が一気に青ざめる。
まるで悪夢の続きに落ちたかのように怯えたまま体を震わせ、そして息を飲む暇もなく再び気を失った。
オーウェンは驚いたように目を見開いたが、すぐに眉をひそめ、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
「なぁ、天空……俺の顔、そんなに怖いか?よく言われるけど……さすがにこれはちょっとショックだな……」
ルナの蒼白な顔を見つめながら、どこか呆れたような――それでいて傷ついたような声を漏らす。
「いや、多分……幻覚を見たんだよ。オーウェンのことを兄上とか呼んでたし……何か、嫌な記憶でも思い出したんじゃないか?」
俺がそう言うとオーウェンはわずかに息を吐いて頷いた。
「そうか。……なら、いいんだ」
納得したように言いながら彼はルナの身体を片手で軽々と抱き上げる。
もう片方の腕でイヴァンの体を支えると二人を抱えたまま迷いなく歩き出す。
「さっきの化け物……こいつが帰り道を案内するとか言ってたな。おい、土野郎、帰り道を教えろ」
オーウェンの言葉に反応し、命令を失っていた土のゴーレムがゆっくりと顔を上げる。
そして無言のまま森の奥へと向かって歩き出した。
俺とオーウェンはその巨大な背を追って歩き出す。
木陰の深い森に踏み込むと、湿った木々の匂いと静かな風が肌を撫でた。
しばらく進むと木々の合間からやがて山の入り口が見え始める。
「なあ、土野郎。お前はこれからどうするんだ?」
歩きながらオーウェンが肩越しに問いかける。
ゴーレムはわずかに振り返り、石のような口から低く呟く。
「……私はもう誰の指示も受けない。この山に残り、精霊の道案内をするだけの存在になろう。それが……望まれた役目ならば」
「そうか。つまらねぇやつだな」
オーウェンは少しだけ首を傾けて興味を失ったように背を向けた。
その瞬間、ゴーレムはふと立ち止まり、森の入口でゆっくりと石塊へと還るように、静かに崩れ――風に溶けるように姿を消した。
「……オーウェン、これからどうするつもりなんだ?」
俺が問うと、彼は少しの間だけ歩みを止めて空を見上げてから淡々と答えた。
「お前は自転車でゆっくりでいいから俺の家に向かえ。イヴァンとこの子は……親父の車で先に運ぶ」
そう言うと、オーウェンはポケットからスマホを取り出し、呼び出し音を待った。
「あー、もしもし?親父?イヴァンと天空が怪我してる。それと女の子も一人いる。すぐ車で来てくれ。場所は山道の入り口――わかるな?」
手短なやり取りを終えて電話を切ると、こちらへ振り返って言った。
「もう大丈夫だ。すぐ迎えが来る。お前は自転車で先に行っていい。だが無理すんなよ」
俺は頷いた。
痛む身体でペダルに足をかける。
森を抜け、山の道を進むにつれて風が背を押すように吹き、緊張が少しずつ剥がれ落ちていった。
安堵という言葉がようやく現実の感触を持って心に広がった。
――帰れる。
ただそれだけのことが今の俺には何よりも大きな意味を持っていた。
◇
一方その頃、オーウェンはルナとイヴァンを抱えたまま舗装された道の脇に佇んでいた。
山の静けさを破るようにエンジン音が近づき、一台の黒い車が木陰を抜けて姿を現した。
やがて車はぴたりと停まり、運転席の窓が下がる。
そこから顔を覗かせたのはオーウェンの父だった。
「オーウェン、大丈夫か?」
「ああ、助かった。こいつらを頼む」
オーウェンは慎重にルナを後部座席に寝かせ、その後にイヴァンを運び入れる。
すべてを終えると自分も乗り込み、物音を立てずにドアを閉じた。
「親父、急いでくれ。家まで頼む」
「ああ、任せろ」
エンジンの低い唸りを残しながら車は音を抑えて走り出した。
沈黙だけが取り残されたまま山道の曲線をなぞるように進んでいく。
オーウェンの胸にはまだ言葉にならない感情が渦巻いていた。
そして、その後部座席で深く眠るイヴァンの顔をじっと見つめていた。
頬にはまだ薄く土埃が残り、腕や手の甲には乾きかけた擦過傷がいくつも浮かんでいる。
けれど、その胸は規則正しく上下し呼吸は穏やかだった。
それだけで十分だった。
オーウェンはそっと瞼を伏せ、わずかに息を吐いた。
「……ひでぇ目にあったな」
思わず漏れた独り言に前席の父親がルームミラー越しにちらりと視線を寄越す。
「お前も無事でよかった。……で、その子は?」
後部座席の隣――白く透けるような肌をした少女がシートに身を委ねるように横たわっている。
まだ意識は戻っていない。
額には冷や汗が浮かび、震える指先が不安定に揺れていた。
「名前は……ルナ。俺も詳しくは分からない。イヴァンと一緒にいたらしい。今は休ませてやりたい」
それ以上は説明しなかったし、できなかった。
それでも父親はそれ以上何も問わなかった。
目を前に戻し、再びハンドルをそっと握り直す。
「そうか……事情は後で聞こう。まずは――家に帰ろう」
車は音も立てずに加速し、曲がりくねった道を木漏れ日の差す山道へと進んでいった。
◇
しばらく経って俺はようやくオーウェンの家の前まで辿り着こうとしていた。
息が切れ、膝が笑い、背中は汗で張りついていた。
それでも――ペダルを踏むたびに少しずつ現実に戻っていくような感覚があった。
あの森の気配。
冷たく肌を逆撫でるような風。
見上げれば枝葉が陽の光を覆い隠すように伸びていた。
それら全てがもう背後に置かれていく。
見慣れた舗装路が家へと続いている。
「……帰ってこられたんだな」
低く呟いた声が自分でも驚くほど掠れていた。
それでも胸の奥に確かなものが宿っていた。
痛む身体の中でひとつだけはっきりとしていた感覚――
――生きている。
――帰れる場所がある。
それが今の俺には何よりも重たく温かかった。
前方に見えてきた一台の黒い車。
すぐに分かった、それがイヴァンの父親の車だということ。
ちょうどその時、玄関へ向かって歩いていく後ろ姿が目に入った。
腕にルナを抱きかかえ、慎重に足を運ぶオーウェンの背中があった。
「天空、遅かったな」
振り向いた彼の顔にほんの僅かに笑みがあった。
俺は自転車のブレーキを握りながら深く息をつき、首を軽くまわして力を抜く。
「言われた通りゆっくり漕いで来たんだよ。こっちも怪我してんだ。……今にも体がバラバラになりそうだぜ」
玄関をくぐり、リビングに入るとそこにはイヴァンの母がいた。
洋服の手入れをしていたのか、アイロンを手に持ったままこちらを振り返り、その目が一瞬で見開かれる。
「まあっ……!どうしたの、みんなそんなにひどい怪我をして……!」
その声に俺は一瞬だけ答えるべき言葉を探したが、やがて視線を伏せて短く言った。
「……ちょっとだけ、色々あって……詳しくは後で話すから今は、とにかく……中で傷の手当てをしてほしいんだ」
あまりに多くのことがあった。
何が現実で、何が異常だったかも判別がつかない。
説明出来る事と出来ない事がある。
でも、確かなのは今ここにいるということ――それを見届けられただけで、胸の奥にじわりと安堵が滲んだ。
イヴァンの母はわずかに表情を曇らせながらもすぐに落ち着いた声で言った。
「……わかったわ。こっちの部屋を使って。ベッドは空いてるから」
その導きに従ってオーウェンはまずルナを、そしてイヴァンを一人ずつ別の寝室へと運んだ。
ベッドに寝かせ、掛け布団を整え、息を確かめ、体温をそっと確かめるように指を添える。
最後にルナの額の髪をそっと撫でると、オーウェンは小さく息を吐きながら呟いた。
「しばらく……このまま眠らせてやろう」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥でも何かがほどけるように緩んだ。
張りつめていた糸は切れずにすんだ。
むしろ一度ほどけて、静かに結び直されたような――そんなじんわりとした安堵が胸に広がっていた。
戦いも、恐怖も、怒りも、悔しさも、理不尽も――全てが少しだけ遠ざかった。
ここに帰ってきた。
たったそれだけのことが――今の俺にとっての全てだった。
◇
あれから数時間が経ち、窓の外には静かな夕焼けが滲んでいた。
茜色が雲の端に広がり、街の喧騒がゆっくりと宵闇に飲み込まれていく。
その静寂の中でベッドに横たわるルナが微かにまぶたを動かした。
「……ここは……どこ……?」
かすれた声が部屋に響く。
弱々しくも確かに現実を求めるその声に、傍らの男がゆっくりと口を開いた。
「おう、起きたか。ここは俺の家だ――ルナ」
穏やかで低く、しかし芯の通った声だった。
まるで安心させるように優しく、それでいてどこか静かな力強さがあった。
ルナはぼんやりとした瞳でその声の主へと視線を向けた。
やがて、目元が、顔が、そして輪郭が――はっきりと映った瞬間。
「……えっ……」
その言葉と同時に彼女の顔から一瞬にして血の気が引いていく。
その男の顔は――かつて彼女が恐れた存在とあまりにもよく似ていたからだ。
眉の形、鋭い眼差し、輪郭の硬さ、声の低さまでもが兄と酷似していた。
思わずシーツを握りしめた手が震える。
心臓の鼓動が強くなる。
空気が、喉の奥に詰まっていく――
「……!」
ルナの瞳に浮かぶ恐怖は、かつて彼女が味わった痛みと屈辱の記憶を呼び起こしていた。
それは簡単に癒えるような傷ではない。
癒すには時間が――いや、それ以上のものが必要だった。
彼女は言葉もなく、ただ怯えるようにオーウェンの姿を見つめたまま再び深く布団の中へと潜り込んだ。
オーウェンはしばらく無言のまま、ベッドに身を沈めた少女をじっと見つめていた。
その瞳に宿るのはただ静かで、どこか遠くを思うような眼差しだった。
ルナはその視線に気づき、思わず身をこわばらせた。
逃げ場のない閉ざされた空間で彼女の過去が再び息を吹き返す。
兄と似た男の視線を受ける――それだけで身体が恐怖に反応してしまう。
けれど、オーウェンはそんな彼女の怯えた様子にも気づいていながら、どこか不器用な優しさを湛えた笑みをふっと浮かべた。
「寒いか?体が冷えてたからな。……ルナのためにシチューを作ったんだ。出来立てだから温かいうちに食べてくれ」
「えっ……?」
思いがけない言葉にルナのまばたきが増える。
恐怖の記憶と現実の優しさが食い違い、脳が追いつかない。
心のどこかでまた罠なのではと思ってしまう自分に戸惑いが生まれていた。
「先に……食べても、いいんですか……?」
彼女のかすれた問いにオーウェンは気取らず、あっさりと答えた。
「おう。遠慮すんな。食え食え。それ食べたらすぐ夜ご飯だからな。俺のことは気にせず先に食べとけ」
ぶっきらぼうな言い方ではあったが、その言葉の端々には妙に真っ直ぐな気遣いがにじんでいた。
オーウェンは湯気を立てる皿をテーブルに置くと、それ以上何も言わずにルナの前に立っていた。
しばらくの間、ルナはその皿とスプーンを交互に見つめ、何かを葛藤しているようだった。
けれど――その手はやがておそるおそるスプーンを持ち上げる。
白く柔らかな蒸気の中、彼女はそっと一匙を口元へ運んだ。
そして――
「……!」
ふわりと口の中に広がったのは、優しい塩気とほのかな甘み。
とろけるようなじゃがいもと柔らかな鶏肉が体の奥深くにまで染み込んでいく。
じんわりと――まるで芯から温められていくようだった。
張りつめていた心の壁が少しずつ溶けていき、痛みと悲しみの奥底にひそんでいた飢えがようやく満たされていく。
「どうだ、うめえか?」
その声に演技はなかった。
あるのはただ、素直に彼女の感想を聞きたいというまっすぐな気持ちだけ。
ルナはゆっくりとスプーンを口から引き抜いた。
そして――ぽつりと、まるで夢の中で独り言のように呟く。
「……うん……すごく……美味しい……」
その言葉とともに、ぽたり、と頬を伝う一粒の涙。
続いてもう一滴、止まることなく零れていく。
彼女の手は止まらなかった。
スプーンを握りしめたまま再びシチューを口へと運ぶ。
一口、また一口。
口に運ぶたびに冷えきった心の奥にぽたりぽたりと何かが落ちていくようだった。
それはただの温かい料理ではなかった。
彼女にとってそれは――与えられたことのない愛情の形だったのかもしれない。
やがて全てのスプーンが空になった時、ルナはそっと手を止めた。
そして涙の残る頬を袖で拭いながら静かに深呼吸を一つ――
それを見届けたオーウェンは満足げにふっと笑みを漏らす。
「よし、全部食ったな。……さすがに腹は少し落ち着いたか?」
ルナは迷いながらも小さく頷いた。
恐怖も戸惑いも、まだ完全には消えない。
けれど今、彼女の中にほんの少しだけ灯った火があった。
「……はい」
その言葉は微かだったが確かに届いた。
窓の外では夕陽がゆっくりと沈みつつあった。
茜色の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をやわらかく染めている。
その温もりに包まれながらルナは今、ほんの少しだけ「自分の存在を認められた」気がした。
それは、彼女がずっと夢に見ていたもの――血ではなく、心で結ばれる兄妹のぬくもりだったのかもしれない。
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