第33話 転送と真実
手術室に辿り着いた瞬間、俺たちは何かの終着点に触れたような感覚を覚えた。
逃げ惑い、息を切らし、ようやく辿り着いた――
けれどその安堵は足元から崩れ落ちていった。
音もなく違和感が空間を満たしていく。
「ルナ!ここは手術室で合ってるんだよな?」
荒い息のまま問いかけるとルナは壁に手を這わせながら慎重に歩き、短く答えた。
「ええ……配置は映画と同じだと思う。でも……触った限り、手術台の上には何も……無いの……」
その声には戸惑いが滲んでいた。
――鏡が無い。
あるはずのものが、ない。
決定的なピースが欠けていた。
映画『視線病棟』。
この部屋の手術台の上にある鏡を砕くことで物語は終幕を迎える。
登場人物は解放される。
それこそがこの異常な映像の中に用意された唯一の出口だったはずだ。
だが今――手探りでこの部屋を探ってもどこにも鏡は存在しなかった。
「……無い。鏡が、無い……」
その言葉は呪文のように空間へと染み渡る。
部屋全体が沈黙し、どこかで息をひそめる気配だけが残った。
やがてイヴァンが低く、地の底から搾り出すように呟く。
「なあ……おかしくないか?俺たちは本当に映画と同じ方法で脱出しなきゃいけないのか?今回は――その鏡が最初から無いんだ。……どう考えても不自然だろ」
その声に俺は反射的に頷いていた。
「ああ、映画の通りならここには鏡があるはずなんだ。けど、ここには無い。ってことは……ここはあの映画そのままの世界じゃない。何かが違う、作り替えられてる……」
言い終える前にルナが戸惑いを隠せぬ声音で問い返してきた。
「……どういう意味なの?ここは『視線病棟』の中なんでしょ?違うの……?」
イヴァンが重く息を吐いた。
その表情には思考が結論へと至った者にだけ許される陰りが差していた。
「魔法で映画の中に引きずり込まれた。それは、ほぼ間違いない。けど――これは普通の映画とは、明らかに何かが違う……」
俺もルナも声を失ったまま、ただイヴァンの言葉に聞き入っていた。
その声にはもはや一切の迷いがなかった。
「どの映画にも必ず終わり方がある。この映画なら手術室にある鏡を割れば物語は終わる。それが脱出のルールだと思っていた。けど、今回は……終わりが用意されていない。むしろ、最初から意図的に外されているような気がするんだ」
「意図的に……?」
「そうだ。もし本当に俺たちを閉じ込めるのが目的なら、『ザ・ミラーズ・スラッシャー』の時点で終わらせ方なんて用意せず、ミラーフェイスに殺させればよかった。わざわざ弱点を作って別の映画に移動させて、しかも出口だけを消す必要なんてない。……だからここはただの模倣された映画の中じゃない。あの魔導士が明確な意図を持って再構築した場所なんだ」
「再構築した場所……もしかして罠なのか?」
「そうかもしれない。映画をなぞるように見せかけておいて、俺たちをここに誘い込むために作られている。鏡のない手術室。解放のない物語。……出口のない病棟。もしかしたら名前だけ借りた全く別の場所なのかもしれない」
ルナの呼吸が浅くなるのが傍にいるだけで伝わった。
胸が激しく上下し、息をするのも辛そうだ。
「そんな……じゃあ、あの魔導士は何のためにこの場所に……?」
イヴァンは厳しい口調で告げた。
「目的はわからない。だけど一つだけ確実に言える。――あいつは俺たちの行動も記憶も把握している。映画の脱出手順すら熟知していた。でなければ、あえて鏡だけを消すなんてできない。偶然でこんな状況は起きない。……これは、明確に俺たちに何かを仕掛けてきているんだ」
その時、イヴァンがポケットに手を伸ばし、舌打ちを鳴らした。
「……やばっ。スマホ、映画館に置いてきた……!」
「え?」
「もう時間が無い。天空、お前、スマホ持ってるか?」
「あ、ああ……ポケットに――」
「貸してくれ。……そして絶対に目を開けるなよ。何があってもだ。いいな」
その一言が胸の奥に鈍く響いた。
不安が波紋のように広がる。
質問しようとした瞬間、イヴァンが素早く俺のポケットからスマホを取り出した。
「お、おい……イヴァン!?なっ――何する気なんだよ……!」
「じゃあな、天空」
声が終わるより早く、衝撃が来た。
――ドンッ!!!
「うっ……!?がはっ……!」
腹に衝撃。呼吸が弾け、視界がぐらつく。
理解が追いつく前に、イヴァンの蹴りが俺の身体を叩き出した。
なぜ……?そんな疑問が声になる前に、俺は手術室の外へと放り出されていた。
意識が揺らぎ、身体が重力を感じられなくなる。
背中が床に叩きつけられて思わず目を見開いた。
だが、そこにあったのは――手術室の扉ではなかった。
突然、鋼鉄の格子扉が天井の隙間からゆっくりと降りてきた。
無骨で冷たい鉄格子が鎖の唸りとともに俺の視界を完全に遮断する。
ガシャンッ――
自動で閉まったその格子扉は確かに閉ざされた現実を突きつけていた。
「なっ……?」
その理不尽さに思考が追いつかない。
言葉が形になるより早く喉が叫んでいた。
「イヴァン!!ルナ!!返事してくれ!!」
呼吸が荒くなる。
喉が焼ける。
返事の代わりに聞こえてきたのは鉄格子の向こうで小さく鳴る――カチャリという鍵の音だった。
冷たい金属が噛み合うような、あまりにも機械的で無機質な音。
格子越しにイヴァンの姿が薄暗い光の中で見えた。
その目は冷静で、どこか深い闇を湛えている。
「どうやらお前は無事に出られたようだな」
その直後、イヴァンの低く落ち着いた声が届いた。
「……イヴァン?なんだよ、これ……!どういうことなんだよ……?」
声に怒りも嘆きもなかった。
ただ、混乱だけが乗っていた。
理解が追いつかない。
あまりに急な展開、あまりに歪な現実。
言葉の輪郭が今この空間の重力にすら負けていた。
だがイヴァンは静かに、そして一語一語を明確に区切るように語り始めた。
「分かったんだ。ようやくな。……俺たちは、映画の中に閉じ込められているとずっと思ってた。だけど――違った。俺たちは映画の記憶をもとに作られた幻覚を見せられながら、実際には別の場所へ転送されてたんだ」
「……記憶の幻覚?でも、あの魔法は時の魔法だったって……」
「そう思わされていただけだ。信じさせられていた。ミラーフェイスのときは、確かに過去の映像の中に入り込んでいた。映画の世界が現実と重なってるのが分かった。けど、今回の映画は――決定的に違っていた」
言葉の熱量が変わる。
イヴァンの口調に確信の熱が宿る。
それは自らの思考を吐き出すようでもあり、真実の全容を突きつける裁断のようでもあった。
「最初の『ザ・ミラーズ・スラッシャー』は本物だった。物語そのものに閉じ込められて、ルナちゃんの魔法でミラーフェイスの本当の顔を焼いた。だからこそ脱出できた。でも――『視線病棟』は違った。あの廊下、奇妙な階段、見えない患者たち、どれも似ているけど決して同じじゃない。そして……鏡がない。終わりが存在しない」
「ようするに……俺たちは視線病棟の映画に入ったんじゃなくて……視線病棟の映画の記憶を見せられてるだけで、今は現実の別の場所にいるってことか……?」
「その通りだ。この魔法の本質は時の魔法なんかじゃない。映像記憶と空間転移だ。あの魔導士は映画という構造体を装置として利用していた。俺たちがそれを映画だと信じている限り、自分たちで疑うことなく進んでくれると思ったんだ」
「じゃあ、俺たちはずっと、知らず知らずのうちに操られていたってことか……?」
「そう。終わらせる手段そのものが最初から存在しなかったんだからな。脱出なんて最初から想定されてなかった。ただ、俺たちをここへ誘い込むためだけのシナリオだった――全ては、俺たちをこの牢に導くために」
沈黙が落ちる。
頭の中に冷たい霧が広がる。
その瞬間、部屋の気配が変わった。
視線を落とすと、牢の床面にうっすらと青白い光が浮かび始めていた。
円形を描くように伸びるそれは、明らかに魔法陣の構造を持っていた。
「くっ……これは、魔法……陣……!?」
「きゃっ……な、なにこれ!?足が……っ、動かない……!」
ルナの悲鳴が鋭く響く。
彼女の足元、そしてイヴァンの足元にも光の輪が絡みつき、うごめいていた。
拘束でも攻撃でもない。
これは――連れ去るための魔法だ。
「天空!!」
イヴァンが叫ぶ。
魔法に飲まれながらも、なおその声には焦燥が込められていた。
「もし、俺たちがどこかに転送されたら――映画館に置いてきた俺のバッグを探せ!中にスマホがある!パスワードはいつものやつだ。すぐにメールで位置情報の地図を送る!」
「……イヴァン!!」
「必ず追ってきてくれ、天空!!……頼んだぞ!!!」
次の瞬間、光が爆ぜた。
音も気配もすべてを呑み込み、牢獄全体が真っ白に染まる。
イヴァンとルナの姿は爆光の中で溶けるように消えていった。
――そして、残されたのは俺ひとりだった。
静寂。
鼓動だけが鳴り響く。
息を飲む音がやけに大きく聞こえた。
けれど――
「絶対に見つけ出す。イヴァン……ルナ……待ってろよ」
俺はそう呟き、振り返った。
ここに留まっている暇はない。
少しでも早くあの魔法の痕跡を辿らなければならない。
廊下はやけに長く、冷たい風が壁の隙間から流れてくる。
やがて、行き止まりかと思ったその先に古びた階段が現れた。
一段一段、慎重に足を置きながら冷え切った空気の中を下へと降りていく。
階段の軋む音が静寂に響き、不安を煽る。
だが、止まるわけにはいかなかった。
とにかく進め――出口を探せ。
そして階段を降り切った先の扉を開けたその瞬間。
目の前に広がった光景に思わず息を呑む。
「ここは……!」
天井から吊るされた映画のポスター。
色褪せたカーペット。
崩れたチケットカウンター。
――イヴァンと合流した、あの映画館のロビーだった。
それならイヴァンのバッグはここにあるはずだ。
彼が残した手がかり――希望の糸。
俺はすぐに辺りを見渡し、物音を立てぬよう静かに動き始めた。
スマホさえ見つかればイヴァンの居場所が分かる――。
その時だった。
「おやおや……一匹、取りこぼしましたか」
冷たい声が背後から響いてきた。
思わず振り返る。
そこには、舞台の幕が開くようにゆっくりと姿を現した男がいた――かつては土の精霊だったその存在は、今や王家の血の力に呑まれ、老いた人間の姿を借りた魔物と成り果てていた。
そして、そしてその手には――見慣れたバッグ。
「あなたが探しているのは、これですか?」
そう言いながら、やけに丁寧な仕草でイヴァンのバッグを掲げて見せてきた。
「てめえ……!」
思わず拳を握りしめ、一歩踏み出す。
「イヴァンのバッグを返せ!」
魔導士はあっさりと笑い、拍子抜けするほど素直にそのバッグを俺のほうへ投げてよこした。
「どうぞ。必要なのでしょう?」
「……なっ?」
俺は警戒を解かず、慎重にバッグを拾い上げた。
あまりに素直すぎる。
罠じゃないか?
そう思うのは当然だったが時間が惜しい。
俺はバッグの中のスマホを探す。
その様子を魔導士は愉快そうに眺めていた。
「イヴァンとルナをどこへやった……!」
「携帯電話で位置情報を確認なさればよろしいでしょう?我々は包み隠すことはいたしませんよ」
その声には明らかに余裕があった。
……全部知ってやがる。
イヴァンが俺に指示を出したことも、その先の行動すらも、まるで最初から読まれていたかのように。
魔導士はゆっくりと片手を上げ、無駄のない滑らかな動きでまるで全てが予定通りであるかのように言葉を発した。
「この近くに妖霧の山と呼ばれる場所がございます。その麓には濃霧に包まれた森が広がっております。その森を越えた先、草原にぽつんと立つ一本の木――我々はそこで待っております」
「……我々?」
その言葉に妙な引っかかりを覚えた俺が尋ね返した瞬間だった。
ギィ……と重い音がホールに響いた。
ロビーの反対側、朽ちた扉の向こうから――ゆっくりと一つの影が現れた。
ゆっくりと姿を現したその影に背筋が凍る。
「な、何……!?ミラーフェイス……?」
あの不気味な仮面。
映画の中で倒したはずのあの恐怖の存在がホールの奥から姿を現していた。
だが、魔導士は薄く笑って否定した。
「いいえ。今はその姿を借りているだけ。本来の形は……こちらです」
その言葉と同時に魔導士は静かに指を鳴らした。
パチン――乾いた音が空間に響いた瞬間、空気が軋むように揺れ、まるで幻が剥がれ落ちるように視界が歪む。
ミラーフェイスの仮面にひびが入り、ずるりと滑り落ちた。
それに続き、肌のように見えていた外皮がばらばらと砕け落ちる。
内側から現れたのはざらついた土塊――そして岩のような胴体。
赤く光る双眸がじっとこちらを見下ろしていた。
土と石で形作られた異様なまでに重厚な身体。
人型を模した巨大な造形。
温度の無いはずの空間がじわじわと熱を帯び始める。
思考の奥を焦がすような異様な気配が空気を這うように満ちていく。
「元は土より生まれし精霊。今はただ――命じられるままに動くだけの存在。土のゴーレムです」
「ゴーレム……?」
仮面の怪物を演じていた異形は自らの本性を露わにしたのだ。
これが――奴の本当の姿。
「では――お待ちしております」
魔導士は静かに右手をかざした。
その掌から音もなく波紋が広がり、足元に淡く魔法陣が浮かび上がる。
空間の歪みが滑らかな回転を描きながらじわじわと広がっていく。
まるで見えない力が渦巻くかのように館内の空気がざわめき始めた。
同時に背後のゴーレムの足元にも光が走る。
鈍く重たい石の身体に魔力の輝きが滲んでいく。
「待てっ!!」
俺が怒鳴った瞬間――だが、もう遅かった。
魔法陣は一気に光を増した。
存在ごと薄れていくように二体の姿がかき消える。
砂嵐のように空気が乱れた。
残ったのは静寂と――わずかな魔力の残滓だけ。
……くそっ。
俺は唇を強く噛みしめ、無言で再びイヴァンのバッグを開いた。
中に手を突っ込むとすぐに硬い感触が指先に触れた。スマホだ。
慌てて画面を点け、イヴァンが設定していたパスワードを入力する。
だが、メールボックスには何の通知も届いていなかった。
イヴァンの言葉が脳裏に蘇る。
――どこかに転送されたらすぐにメールで位置情報の地図を送る!
あいつなら必ずやってくれると信じていた。
だが、現実には何も起きていない。
もしくはもう何かが阻まれたのかもしれない。
冷静になれ。
魔導士は確かに言っていた。
妖霧の山へ来いと。
そう、GPSが機能しなくても行くべき場所はすでに知らされている。
そこに向かうしかない。
俺は深く息を吐き、イヴァンのスマホをバッグにしまい込んだ。
肩にそのままバッグをかけると、映画館の外へと走り出す。
舗道に停めてあった自転車に飛び乗り、ペダルを全力で踏み込んだ。
風を切る。
何もかもを振り切るように――。
だが、その背後ではあの魔導士の声が脳裏に焼き付いたままだった。
――「これは、単なるお遊びなのですよ」
魔法陣が展開される直前、奴が口にした最後の言葉が耳の奥で反響する。
あの狂った笑みを思い出す。
演技じみた上品さを保ちつつ、底にひたすら冷たいものを潜めたあの声。
――「あなたがたを殺そうと思えばいつでもできたのですよ。扉を開けた瞬間に刺すことも、魔法で焼くことも、いくらでも。」
それでも奴はそれをしなかった。
理由はただ一つ。
――「ですが、それでは退屈すぎるのです。恐怖というものは、焦燥と希望の交錯があって初めて美味なのです。追い詰められていく者の表情、声、目の動き……あれこそが映画では決して味わえぬ最高の演出です。あなたたちが恐怖に怯える姿を、私はずっと楽しませていただいておりましたよ」
まるで観客席に座る者が愉快な悲劇劇を眺めるかのような口調だった。
――「映画を真似た舞台に観客は私ただ一人。演者はあなた方三人。なかなか愉快な舞台だったと思いませんか? ええ、配役も上出来でしたよ」
そう言っていた――まるで俺たちの苦悩も恐怖も全て舞台の一部にすぎないとでも言わんばかりに。
その言葉の端々からにじみ出ていたのは圧倒的な自信と嗜虐、そして――底知れぬ悪意。
「くっそおおおおおお!!!」
……だからこそ止まれない。
あの魔導士を止めなければならない。
イヴァンとルナをあんな連中の遊戯に使わせてたまるか。
やがて住宅街を抜け、国道に差しかかったところで――
「おい、あいつ、狭間天空じゃね?」
「ああ、そうだな」
「こんなとこで何やってんだ?」
制服姿の高校生たちがすれ違っていく。
その中に、どこかで聞いた覚えのある声が混ざっていた。
だが、今は振り向かない。
振り向いている場合ではない。
俺はペダルを踏み込む脚にさらに力を込め、進み続ける。
その背中を――
高校生の集団の中の一人だけが――じっと俺の姿を追っていた。