第30話 親友同士の共闘とミラーフェイス
俺はカンヌキに手をかけたまま固まっていた。
外ではイヴァンの声が繰り返し響く。
「天空!早く開けろってば!もうヤツが――」
だが、ルナは頑として首を振っていた。
「おかしいわ……足音が一つしか聞こえない」
俺も感じていた。
何かが決定的におかしい。
声だけが異様に焦っていて空気の密度と合っていない。
音の響きにも体温がない。
そんな時だった。
「……さっさと開けてくれよ!レッド大佐!」
――その一言が空気を引き裂いた。
俺は思わず目を見開く。
その言葉は誰にも知られていない「合言葉」だった。
小学校時代に夏のキャンプに行った時に作った探検の遊び。
それを本当に危ない状況になった時、自分たちが本物であると示すために使う――おふざけのようでいて俺たちにとっては絶対の証明だった。
「……イヴァン!!」
すぐにカンヌキを外し、勢いよく扉を開ける。
「おい、やっと開いたかよ!」
イヴァンが転がり込むように入ってきた。
肩で荒い息をつきながら、放心したように壁に背を預ける。
「イヴァン、よかった……!無事だったんだな……!」
「無事じゃねーよ!こんな不気味な場所で、俺一人だけ森の中とか……死亡フラグがビンビンに立ってるだろ!だから引き返してきたんだよ!」
「そ、そうか……戻ってきてくれて本当によかった……!」
俺とルナはほっと息をついた。
だが――その安堵はほんの一瞬だった。
ギシッ……。
「ん?」
天井の梁が軋む音。
まるで何かが上から這い寄ってくるような嫌な気配。
次の瞬間だった。
――ドガァァンッ!!!
天井が爆ぜた。
破片が飛び散り、埃と木くずが舞い上がる。
「うわっ……!」
俺たちの頭上から黒い影が降ってきた。
それはちょうど俺とルナの間に音もなく着地する。
鏡のような仮面。
どっしりとした体。
歪んだ呼吸音と手にした斧の鈍い光――。
ミラーフェイスだ。
「ルナッ!」
俺が叫ぶよりも先にルナが視線を向けてしまっていた。
ルナは反射的に振り向いてしまい、ミラーフェイスの仮面に自分の顔を映してしまった。
ミラーフェイスが斧を振り上げた。
「やめろ!!」
俺は咄嗟に飛び込もうとするが距離がある。
そして俺は――叫んだ。
「やめろ!相手は俺だ!逃げるのはもうやめた……俺を見ろ、ミラーフェイス!」
自分の中で何かがはっきりと切り替わった。
息を吸い、目を見開きはっきりとその姿を睨み据える。
「見てやるよ。俺の体も、顔も、全部だ。――ほら、映せ。逃げも隠れもしねぇ。お前がずっと追ってきた獲物と俺は違うってことをてめぇに教えてやる。かかって来いよ、ミラーフェイス!」
挑発するように俺は大きく腕を広げる。
その瞬間――
ミラーフェイスの動きが止まった。
ゆっくりと斧を振り上げた姿勢のまま、こちらを振り返る。
鏡面のマスクが俺を正面から捉えた。
静寂が満ちた。
まるで時間そのものが粘土のように重く、ぬるりと固まっていく。
そして――
俺とミラーフェイスの視線がぶつかった。
反射する俺の顔。
その目、その声、その意志をミラーフェイスはじっと見つめ返してくる。
まるで、初めて逆に見られた事に戸惑っているかのように。
斧を握る手がかすかに震えていた。
次の瞬間、ミラーフェイスはゆっくりと斧を下ろし、まるで――俺という存在を確認するかのように真正面から向き合ってきた。
「天空……お前を殺す」
その声は紛れもなくイヴァンのものだった。
でも違う。
俺のすぐ隣で肩を震わせているイヴァンが喋ったわけじゃない。
声の主は目の前の鏡の顔――ミラーフェイス。
仮面の奥から響くその声は機械のように無機質なのに記憶の中のイヴァンそのものだった。
そして現れたその怪物の姿に俺は目を奪われた。
異常な鍛え上げられ方をした常軌を逸した肉体。
身長は2メートル半を超え、肩幅は常人の倍ほどもあり、岩のように隆起した筋肉が皮膚の下で異様な圧力を放っている。
しかしその肌は土気色に変色し、死人のように冷たく、乾いた質感が骨の近くでひび割れていた。
かつては服だったものも今となっては、ただのぼろ切れと化していた。
破れたシャツがその分厚い胸筋に張りつき、泥と血に染まったズボンの破れ目からは岩のような脚の筋肉が露出していた。
右手に握るのは人間の肩幅ほどもある巨大な戦斧。
その刃は無数の切創痕と乾ききった黒い血で彩られ、もはや鉄ではなく――呪われた道具のように見えた。
そして――顔。
鏡。
それは顔面全体を覆い尽くす巨大な鏡のようなマスクで、俺の姿を映していた。
――いや、違う。
映っているのは俺ではなかった。
そこに映る俺は口元を引きつらせ、無理に笑ったような不自然な笑みを浮かべていた。
ぞっとするような違和感。
自分の顔を見たはずなのに、そこには自分ではない何かがいた。
「ヤベぇ……ガッツリ見ちまった。これは……リアルでは絶対に体験してはいけないやつだったな……」
俺はゆっくりと一歩踏み出し、ミラーフェイスの正面に立って自分の顔が映る角度を取った。
見ろ、ミラーフェイス。今、映っているのは俺だ――。
「でも……これで確実にターゲットはルナじゃなく、俺になるはずだ」
そう願った。
いや、願うしかなかった。
「イヴァン、ルナを外に連れて行ってくれ!」
「わかった!」
次の瞬間――
ミラーフェイスが斧を振りかぶった。
ブォン!!!
「っ――うおぉっ!!」
俺は反射的に身を捩って横に跳んだ。
だが、その巨大な刃が俺の頬をかすめた。
ズバッ!!
「いってぇっ!」
斧は皮膚を裂き、頬から血が流れ落ちる。
「ふざけんな……!」
痛みよりも恐怖が先に来る。
ミラーフェイスは動きを止めない。
咆哮もなく何の感情も宿らない仮面の奥で淡々と、しかし確実に俺を殺すつもりで斧を振るってくる。
ブォンッ!ブォンッ!ブォンッ!
連撃。
どれもが空気を押し潰すような音を伴い、俺を的確に追い詰めてくる。
「くそっ……デカい図体してんのに速ぇ……!」
一撃でも食らえば終わりだ。
俺は小屋から逃げるように外に飛び出した。
だかしつこく追ってくるミラーフェイスの攻撃をギリギリで回避を続けるこの動きも、そう長くは続かない。
「だったら――突っ込むしかねぇ!!」
俺は息を吐いて覚悟を決めた。
地面を蹴って一気にミラーフェイスの懐に飛び込む!
「おらぁぁぁっ!!」
そのまま体勢を低くし、右の拳で腹を狙って渾身のボディブローを叩き込んだ。
ドンッ!!
が――ミラーフェイスは全く動かない。
衝撃を受け止めた筋肉が微かに揺れた程度。
「うそだろ……効いてねぇ!?」
「……無駄だ」
仮面の奥から響いたのは俺の声だった。
だが、俺は何も言っていない。
今度はミラーフェイスが俺の声を――真似ていた。
「なに――っ」
ゴゥッ!!!
気づいた時にはもう遅かった。
斧の柄が風を裂き、俺の腹に突き刺さるように叩き込まれる。
「ぐはぁああああああっ!!!」
肺が潰れたかと思うほどの衝撃。
視界が一瞬、ぐにゃりと歪む。
食道から逆流する酸の味が口に広がり、膝が砕けるように落ちた。
だが――倒れなかった。
「まだだ……まだっ……!」
腹を押さえながら、しゃがみ込んだ体勢から全身のバネを使い、一気に跳ね上がる!
「痛くねぇ……それでもくらえっ!!ユニバース リバーサル キィィィック!!」
狙いは顎。
体を捻りながら繰り出した回転蹴りがミラーフェイスの下顎を正確に打ち抜く!
バキィィィィン!!!
鈍い音。
わずかに仮面が傾き、その体がのけぞった。
「効いた……!やっと効いただろ、これ……!」
「遅い!」
言い終える前にその声が仮面の奥から響いた。
仮面の奥から聞こえたその声はイヴァンでも俺でもなかった。
ただ、完全に俺たちの内側に触れているような、不気味な声だった。
そして――
ズドォォォン!!!
ミラーフェイスが渾身の一撃を振り下ろした。
巨大な斧がまるで天地を割るような勢いで迫る。
俺は動けなかった――まるで、心ごと何かに縫いとめられたかのように。
仮面の奥に宿る何かが、俺の叫びも、蹴りも、存在ごと嘲笑うようにこちらを見下ろしていた。
避けきれない――!
「疾風空斬旋風脚!」
イヴァンが駆け抜ける風のような速度で滑り込み、回し蹴りがミラーフェイスの右手に炸裂する。
刹那、鋼の斧が宙を舞い、飛んでいった。
「おい!ミラーフェイス!お前だけ武器持ってるなんてフェアじゃねえだろ!」
息を荒げながら叫ぶイヴァンの声が響く。
だが、斧を弾かれたミラーフェイスは動じることなく首をわずかに傾けただけだった。
その仕草は感情の欠落を思わせる冷たさと同時に――まるで戯れを見物する観客のような歪んだ好奇心すら滲ませていた。
「なら、こっちも本気で行くしかねぇな……天空!」
「おう!イヴァン、大丈夫か?」
「当たり前だろ!ビビってお前が死ぬのを黙って見てるわけにもいかねぇしな!」
俺とイヴァンは息を合わせ、同時に構えた。
先に動いたのはイヴァンだった。
風のごとく駆け出し、迷いなくミラーフェイスの懐に踏み込む。
「くらえ!疾風瞬閃脚!」
音すら置き去りにする速度で――イヴァンの蹴りがミラーフェイスの腹部を貫いた。
ドガァッ!!
鈍い音が響く。
その巨体が、わずかにだが揺れた――そう思った瞬間。
バッ!!
ミラーフェイスの腕が信じられない速さで振るわれ、イヴァンの肩を掴もうとする。
その動きに巨躯のもたらす鈍さは一切なかった。
「ちっ……こいつ、全然効いてねぇのかよ!」
イヴァンは地面を蹴って後方に飛び退き、すぐに距離を取る。
「今だ、天空!」
イヴァンが作った一瞬の隙――それを逃す手はない。
俺は無言で地面を蹴り、一直線にミラーフェイスの背後へと突っ込む。
「ハリケーン スイング キック!」
踏み込みと同時に全身を回転させ、体重と加速度を乗せた回し蹴りを叩き込む。
足が沈む感覚とともに、手応えのある衝撃が返ってきた。
バキィィィ!!!
ミラーフェイスの背に蹴りが炸裂し、巨体が前のめりにぐらつく。
「効いてる……!」
だが――倒れない。
それでも俺たちは止まらない。
「イヴァン!」
「任せろ!」
イヴァンが素早く駆け寄り、俺の肩に飛び乗ると、そのまま高く跳躍する。
「これでトドメだ!真空かかと落とし!」
空中で一回転、渾身の勢いを乗せたかかとがミラーフェイスの頭頂部へと直撃。
ズガァァン!!!
鈍い音とともに巨体が前のめりに崩れ、重たく地面へ叩きつけられた。
俺たちは荒く息を吐きながら互いに立ち上がる。
「……はぁ、はぁ……どうだ……?」
だが――
ギィ……ギギギ……
地面に沈んでいたはずのミラーフェイスが、まるで何事もなかったかのようにゆっくりと起き上がった。
仮面越しの瞳孔すら感じさせない鏡面が再びこちらを映す。
「……マジかよ……。あれだけ食らってすぐに立つのかよ。おい、天空、まだいけるか?」
「……はは、タフすぎだろ、こいつ……。だけど……やるしかねぇ!」
「よし、いくぞ!」
俺は拳を握りしめ、イヴァンと再び並んで構えた。
再び風のごとく先陣を切るイヴァン。
地を蹴り、一直線にミラーフェイスへと飛び込む。
「まずは足を止める!疾風瞬閃脚!」
その一撃は膝を正確に射抜いた。
巨体が軋みを上げるように、わずかにバランスを崩す。
「なら、もう一発!空斬旋風脚!」
イヴァンの連撃。
続けざまの二撃目が空気を切り裂いてミラーフェイスの側頭部へと打ち込まれる。
「天空!今だ!!」
その叫びに応えるように俺は駆けた。
踏み込む。
全神経が拳に集まる――迷いも、恐れも、もう残っていない。
「行くぞ……ミラーフェイス……!」
拳を固め、渾身の力を籠めたその拳を――
「喰らえ!!インフィニット デストラクション パンチ!!」
ミラーフェイスの正面へと叩き込む。
「うおおおおおらああああぁぁぁ!!」
バキィィィン!!!
甲高い破砕音と共にミラーフェイスの仮面についに深々としたヒビが走った――!
だが、次の瞬間――
ブォンッ!!!
「うわっ!?」
警戒する間もなくミラーフェイスの巨腕が信じがたい速度で振るわれ、風を裂いて俺へ迫ってくる。
避けられない――と反射的に両腕を交差させて防御の構えを取った。
ズガァァァン!!!
「ぐっ……!!」
その衝撃は凄まじかった。
まるで全身を岩壁に叩きつけられたような一撃。
防御の姿勢を取っていたにもかかわらず俺の身体は宙を舞い、数メートル先まで吹き飛ばされる。
ゴロゴロッ……!
地面を転がる中、背中に走る鈍い痛みと息苦しさ。
土埃が視界を覆う。
「天空!!」
イヴァンの叫びが遠くで聞こえる。
だがミラーフェイスの攻撃は止まらない。
振り払うように俺を弾き飛ばしたその巨体が次はイヴァンへと突進していく。
「――はっ!俺を捕まえられると思うなよ!」
イヴァンの体が霞のように揺れ、ミラーフェイスの巨体の懐に滑り込んだ。
反動を殺すように腰へと腕をまわし――
「瞬影呼吸投げ!」
しなやかな動きで足を絡めると、重心を崩された巨体が一瞬浮き上がった――
だが。
「……!?なっ……何ぃ……!?」
空中に浮いたはずのミラーフェイスが重力など存在しないかのように空中でねじれる。
背骨が音を立てて逆方向にねじれ、骨格の理を逸脱した動きで空中を反転すると、巨大な腕を横薙ぎに振り抜いた。
ドガァァァ!!
「ぐああっ!!」
渾身の横撃がイヴァンを直撃し、彼の身体が森の中を吹き飛んでいく。
木々を弾き飛ばしながら転がるその姿がようやく茂みの奥で止まった。
俺とイヴァン、二人とも吹っ飛ばされた。
「天空!イヴァン!大丈夫!?」
ルナの悲鳴混じりの声が響く。
俺は痛みに顔をしかめながらも腕を突いて何とか体を起こした。
肺に入る空気がひどく重く、咳き込みながら答える。
「ぐっ……なんとか……」
目を向ければイヴァンも痛みに耐えながら立ち上がろうとしていた。
「マジで……やべぇな、こいつ……」
「待って、今行くから!」
ルナが足を踏み出しかける。
だが、一歩踏み出したその足は寸前で固まった。
今、飛び出せば邪魔になる――分かっていても心が叫びを上げていた。
だが俺は手を上げて彼女を制した。
「ルナ、来るな……!」
「でも……!」
「俺たちがやる!」
その一言にルナは立ち止まった。
そして俺とイヴァンは互いに頷き合い、再び構えを取る。
――だが、その瞬間だった。
ドクンッ……!
身体の奥底から不穏な振動が走る。
胸に押し込められた何かが暴れ出すように心臓が不規則に鼓動を打ち始めた。
ドクンッ……ドクンッ……!
視界の隅が揺らぎ、鼓膜が自分の鼓動で塞がれていく感覚。
息が詰まり、肺が苦しくなっても、心臓だけが昂ぶっていく。
(……くそっ、落ち着け……落ち着け!)
必死に自分を律しようとするが指先には汗がにじみ、膝が僅かに震えていた。
「おい、天空?大丈夫か!?」
イヴァンの声が遠くから聞こえる。
焦りが滲むその声に俺は自分を取り戻そうと深く息を吸った。
「天空、無理すんな!深呼吸しろ!」
「イヴァン……大丈夫だ。何も問題ない」
「……天空?」
俺は荒い呼吸のまま胸の奥に渦巻く鼓動を感じていた。
先ほどまでとは違う。
心臓は確かに早鐘のように打っているのに、その感覚が妙に心地いい。
体の内側からせり上がる熱が骨を焦がし、血管を駆け巡る血液が火のように滾る。
風の流れ、空気の匂い、地面の振動……全てが異常なまでに鮮明に感じ取れた。
(……体の中で何かが起きている。俺の中の何かが……目を覚まそうとしている)
まるで野生の本能が限界を超えて暴れ出す寸前のような感覚。
全身の細胞が戦えと叫んでいた。
俺は深く、静かに息を吸い込み――
イヴァンのほうを真っ直ぐに見据えた。
「なあ、イヴァン」
「ん?」
「……頼む、ここは俺に任せてくれ」
その言葉にイヴァンは驚いた顔で目を見開いた。
「は?何言ってんだ……?」
「分かってる。無茶だってことは。でも今、こいつと戦っても……この世界から抜け出せない」
俺はゆっくりと拳を握りしめた。
その拳の中には、確かな力の感覚があった。
「だから、イヴァン、お前はこいつを倒す方法を探してくれ」
俺はゆっくりとミラーフェイスに向き直り、一歩、前へと踏み出す。
――こいつをここでくい止める。
それが、俺の役目だ。