第29話 映画館の罠とザ・ミラージュ・スラッシャー
転送魔法によってどこかへ連れ去られたイヴァンを救い出す為、俺はハンドルを握り締め、全速力で自転車を漕いでいた。
後部座席にはルナが乗っている。
しがみつく彼女の腕越しに伝わる温もりが胸の焦燥をさらに煽り立てる。
心臓が喉元を叩くように早鐘を打った。
朝の通学時間を過ぎているせいか商店街の通りは静まり返っていた。
人影はまばらで、店のほとんどはまだシャッターを閉じたままだ。
活気の欠片もない。
まるで誰かに時間ごと切り取られたかのように、色も音も街の息づかいさえ失われていた。
ここにイヴァンがいるというのか――?
「本当に……ここで合ってるのか?」
スマホのGPSが示す地点は商店街の最奥。
その指し示す先に俺たちは思わず息を呑んだ。
そこにあったのは長い年月の中で忘れ去られたような古い映画館だった。
数年前に閉館して以降、誰の記憶からも徐々に抜け落ち、立ち入る者などもういないはずの場所。
外壁のコンクリートには無数のひびが走り、看板は風雨に晒されて色が褪せ、文字の輪郭すら消えかけていた。
「……ここ、か?けど、どう見ても廃墟じゃねぇか……」
苔むした地面に立ち尽くし、俺はルナと顔を見合わせた。
彼女もまた不安を隠しきれない様子で小さく首を振る。
「イヴァン、本当にこんな場所に……?」
ただ、胸の奥をかき乱すような不穏な予感だけがそこにあった。
ゆっくりと手を伸ばし、重そうな鉄の扉に触れる。
――ギィ……
拍子抜けするほどあっさりと扉は開いた。
「ルナ、何があっても俺から離れるなよ。いいな?」
「……うん。どんな事があっても、絶対に」
緊張をまとった声で返事をくれたルナとともに俺は一歩、足を踏み入れた。
中は時間が止まったように静かだった。
ロビーには黴の匂いが立ち込め、床には破れかけたポスターや、もう何の映画だったかも判別できないチラシが無数に散らばっている。
照明は切れたまま、わずかな外光だけが吹き抜けから差し込んでいた。
「……イヴァン、どこにもいないな」
ぽつりと呟いたその時。
――ザザッ……
耳を疑うような音が建物の奥から聞こえてきた。
……フィルムの回る音。
「……なんだ?今の……映画?」
電気も通っていないはずの閉鎖された映画館で映画が上映されている――?
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「ルナ、行ってみよう」
うなずき合い、足音を抑えながら奥のホールへと向かう。
カーテンの隙間から中を覗いた俺たちは思わず息を呑んだ。
ステージ照明の落ちた巨大な劇場。
その中央にイヴァンがいた。
彼は何十体ものゾンビのような敵に囲まれながら孤独に戦っていた。
裂けた制服、額から流れる汗、そして何よりもその目には諦めぬ意思。
「イヴァン……!」
「天空!遅かったな……こいつら、倒しても倒してもキリが無いんだ」
イヴァンの拳がゾンビの頭を砕いた。
だがその瞬間、砕かれたはずの身体は黒い影となって音もなく消滅し――代わりにスクリーンの表面がぼんやりと歪む。
映像の中で蠢いていたゾンビの手が、まるで水面を突き破るように現実の空気を裂いて這い出してきた。
映写室の奥――割れたガラス越しに軋みを上げる映写機が誰の手も借りずフィルムを回し続けている。
まるであの機械こそが呪われた物語の牢獄であるかのように。
「……もしかして、映画の中から出てきてるのか……!?」
スクリーンには映像が映っていた。
白黒のノイズ交じりの画面の中で無数のゾンビがうごめいている。
そいつらが一体、また一体と現実世界へと踏み出していた。
「イヴァン、俺も手伝うぞ!」
「私も!ゾンビなら、きっと炎に弱いはず!」
俺とルナは迷いなく駆け込んだ。
「ハリケーン スイング キック!」
俺の足が床を滑り、唸りを上げた回し蹴りがゾンビの首を強かに打ち据える。
骨が砕ける感触。
だが振り返ればもう一体が呻き声と共に迫ってくる。
「正拳一閃突き!」
イヴァンの叫びが轟くと同時に一直線に繰り出された拳がゾンビの顎を突き上げ、ぐしゃりと頭蓋が潰れた。
「ランベリ フローガ!」
炎の奔流が天井まで燃え上がり、数体を丸ごと飲み込んだ――
黒煙とともに叫び声をあげて消えていくゾンビたち。
まるで悪夢のような光景だったが、確かに今――俺たちは並んでそれを打ち払っている。
スクリーンから滲み出る映像の呪い、そのまま形を得たかのような化け物たちを相手に俺たちは声もなく拳を振るい、魔法を放ち続けた。
だが俺たちがゾンビの群れを次々となぎ倒していく中――異変は突然起こった。
スクリーンの前に密集していたゾンビたちが、まるで何かに操られているかのように突如として動きを止めた。
喧騒が消え、重たい沈黙が劇場内を覆う。
「……何だ?こいつら、もう襲ってこないのか……?」
イヴァンが警戒の声を漏らしたその時、天井近く、古びたスクリーンの上部に黒い影がゆらりと現れた。
揺らめく煙のようなそれは徐々に形を取り――やがて不気味な笑い声と共に人影となる。
「ほっほっほ……!ルナエレシア王女、やはりあなたも来てくださいましたか」
その声を聞いた瞬間、全身を冷たいものが駆け抜けた。
スクリーンの上に立っていたのは、かつて商店街の一角で「大当たりのみ」と大書されたくじ引き屋台を営んでいた、あの老人――店主だった。
「あ……あの顔……まさか、あのくじ引きの――!」
背筋に氷を流し込まれたような錯覚が走った。
「やっぱり、てめえの仕業だったんだな!」
俺が怒鳴ると店主はまるで観客を迎える司会者のように両手を広げて、にこやかに言った。
「ほっほっほ。ようこそ。三人揃ってこの場所に至る――それはもう、ずっと前から決まっていたことなのですよ。……たとえば、このフィルムが最初から最後まで用意されていたように」
その口ぶりに俺は鋭く言葉を返す。
「……まるで俺がイヴァンを助けにここに来ると分かってたみたいな言い方だな」
店主は満足げに頷いた。
「ええ、あなた方がお互いを見捨てないことは他の精霊たちから聞いております。ですから、どちらか一方を捕らえさえすればルナエレシア王女を連れてくるのは時間の問題でした」
その言葉と共に老人の姿がゆっくりと変化を始めた。
肌が土のようにざらつき始め、服は腐食した紫のローブへと変わっていく。
目の前の男は、まるで仮面を剥いだかのようにその本性を露わにしていった。
そして――その手には長くねじれた杖が握られていた。
「……杖を持った、魔導士……?」
俺が思わず呟くよりも先にイヴァンが冷ややかに言い放つ。
「他の精霊だと?はっ、笑わせるなよ。今はただの魔物だろうが。お前もな!」
その言葉に魔導士は僅かに表情を曇らせ、ゆっくりと首を振った。
「……その呼ばれ方は心外です。私は今でも、土の精霊としての誇りを持っております」
「へぇ~、今度は土の精霊かよ。……当然、狙いはルナなんだろ?」
俺が問いかけると魔導士は穏やかな微笑みを浮かべた。
「ええ、まさにその通りです。ルナエレシア王女をこちらへ渡してくだされば、あなた方二人の命は見逃しましょう。……さあ、どうなさいますか?」
その瞬間、俺とイヴァンは言葉も交わすことなくルナの前に立ち塞がっていた。
どちらからともなく、ごく自然に。
身体がそう動いていた。
魔導士はその反応に満足げに頷き、杖を軽く一振りした。
「ええ、分かっておりますとも。だからこそ、あなた方をここへ誘き寄せたのです」
「……誘き寄せたって……?」
「私はこの世界の知識を学びました。そして、恐怖という概念を調べるうちに、ある映画にたどり着いたのです。それは、人の心に深く突き刺さる絶望の記録でした」
「……一体何の話をしている?」
俺が不審げに問い返すと魔導士は静かに目を細めた。
「あなたが一番怖いと思う映画は……なんですか?」
「……映画?何を言ってるんだ?」
意味がわからない。
だがその曖昧な問いかけが妙に生々しく胸に引っかかった。
魔導士は口角を持ち上げ、まるで悪夢劇場の開演を囁くかのように口元だけで呟いた。
「あなた方を殺すなど、いつでも可能なのです。けれど――それではあまりにも味気ない。私はただ滅ぼすためにここへ来たわけではありません。せっかく下の世界からこの舞台へと顔を出したのです。この世界にあふれる恐怖と映像美、そして何より――時間という贅沢を楽しみに来たのですから。さあ、役割を演じてくださいませ。あなた方には今からこの映画の登場人物として生きてもらいます。では、始めましょう――シネマ ナイトメア!!」
――その言葉と同時に、杖が天を穿った。
爆音も衝撃もなかった。
ただ、世界の骨組みそのものが反転するような、ぞっとする静けさと共に空間が裂けた。
視界を覆う白。
それは輝きではなかった――すべてを呑み込む無音の白、虚無の幕。
音も、匂いも、皮膚の感覚さえも塗料のように一枚一枚剥ぎ取られていく。
思考が薄れ、身体が解体される。
浮遊感。
それは飛ぶのではなく、落ちる直前の一瞬の浮き。
この感覚……記憶の底で確かに一度触れたことがある。
そう――あの時、ループ魔法に引きずり込まれた直前の、あの浮きだ。
(また……時間を飛ばされたのか?)
だが今回はもっと根が深い。
もっと演出が効いている。
誰かの手でこの空間全体が意図的に構築されたものだと、そう直感できた。
気づけば俺は見知らぬ風景の中に立っていた。
場所は――湖畔のキャンプ場。
濡れたように黒光りする湖面。
湿気を孕んだ冷たい夜風が肌を撫でる。
静寂を切り裂くように遠くの森の奥から獣の遠吠えが響いた。
どこまでも静かで、どこまでも不穏――その沈黙は自然のものではない。
まるで、これから何かが起こると知っている者だけが隠れて息を潜めている、そんな不気味な沈黙だった。
「ルナ!イヴァン!無事か!?」
声を張るとすぐそばでルナが頷いた。
「ええ、大丈夫……でも……ここは一体、どこ……?」
立ち尽くしたまま見回すルナの声が微かに揺れている。
そのすぐ後ろでイヴァンが肩を震わせながら、落ち着かない目つきであたりを見渡していた。
「おい、どうした!イヴァン……?お前何震えてんだよ……」
「……うそだろ……て、天空、ここヤバいって!……俺、この場所……映画で見たことある!」
「……は?何の話だよ?」
イヴァンは真っ青な顔のまま、絞り出すように言った。
「この場所……映画『ザ・ミラーズ・スラッシャー』の中だ!」
一瞬、頭がついてこなかった。
けれどその直後、湖の向こうの森から、カァ……カァ……と乾いたカラスの鳴き声が響き渡る。
耳に張りつくような乾いた鳴き声。
それはただの効果音のはずがなかった。
現実と演出の境を溶かす、ねじれた合図だった。
「おい、ルナ!これって……時の魔法か?それともまた幻覚を見せられてんのか!?」
俺が叫ぶとルナは首を振り、唇をかすかに震わせて答えた。
「……たぶん時の魔法だと思う。でも、普通じゃない。あの魔物……シネマ ナイトメアとか言ってたわよね?下の世界にそんな魔法体系は存在しないわ。……きっと、あいつがこの世界で独自に編み出した魔法よ。どんな体系にも属さない、けれど強力で――だからこそ危険な創作魔法」
創作魔法――勿論俺には聞いたこともない概念だった。
だがこの異常な状況はそれでしか説明がつかない。
「イヴァン!この映画はどんな話なんだ!?」
イヴァンは言葉を探すように一度口を閉じ、それから震えを堪えながら続けた。
「場所の名前は……クリムゾンレイク。この湖のことだよ。それで、ここに夜になると出てくるんだ、ヤツが――ミラーフェイスが」
「ミラーフェイス……?」
「そうだ。鏡みたいなマスクをつけた殺人鬼。夜になると出てきて森にいる人間を……鏡越しに狩るんだ。鏡に自分の姿が映った瞬間に呪いが発動する。魂を奪うためにミラーフェイスがその人間のところに現れて……」
イヴァンは言葉を詰まらせ、空を仰いだ。
「映画の中じゃ結局誰一人として逃げられなかった……最後は全員アイツに殺される。全滅エンドなんだ……!」
言葉が夜の静寂に吸い込まれていく。
そして俺たちは気づいてしまった。
これはただの魔法ではない。
これは、映画の物語だ。
精霊だったはずの魔物がこの世界の娯楽を取り込み、殺戮のために作り上げた。
それは――逃げ場のない物語という名の牢獄。
そして俺たちは今、その中に――観客ではなく、出演者として閉じ込められている。
ルナが腕を組み、鋭く目を細めた。
「……それなら、ミラーフェイスのマスクに自分が映らないようにしなきゃいけないわね」
だが、それを聞いたイヴァンは苦々しい顔でゆっくりと首を振った。
「甘いな……あいつは、ただのスラッシャー系の怪物じゃないんだ。あいつは声を使う。人の声を真似てくるんだよ――親しい人間の声で呼びかけて、油断させて……そして、振り向いたその瞬間に襲ってくる!」
ぞわり、と背筋を何かが這い登った。
夜の森の冷気とは別種の得体の知れない寒気だった。
「……おいおい、それじゃ、どうやって戦えばいいんだよ……」
無理に軽く笑ってみせたが声が震えていた。
心臓の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされ、皮膚の下を不安が走る。
ルナはしばらく黙っていた。
やがて真剣な眼差しで湖面をじっと見つめながら呟く。
「……でも、まだ希望はあるわ。これはあの魔物が創り出した魔法の空間……映画の世界よね。なら、逆に言えば――映画としての終わり方が存在するはず。結末に到達すれば、魔法も解ける。私たちもこの中から出られるんじゃないかしら」
その言葉にわずかな光が差し込んだ気がした。
俺はすぐさまイヴァンに向き直る。
「おい、イヴァン。お前、この映画のオチ、覚えてるか?どうやってミラーフェイスを倒すんだ?」
イヴァンは肩を強張らせ、言葉を選ぶように口を開いた。
「……たしか、この話だと終盤で主人公が湖の底に沈んでる顔を見つけるんだ。それがミラーフェイスの本当の顔で――それを火にくべて燃やすと呪いが解ける。それで初めてミラーフェイスが消えて夜が明けるんだよ」
「湖の底……!?こんな広さの湖のどこに落ちてんだよ……!」
思わず頭を抱えた。
どこまでも広がる黒い水面がまるでこちらを嘲笑うかのように、静かに波紋を打っていた。
そのときだった。
「て……天空……」
イヴァンがかすれた声で俺の名を呼んだ。
見ればその顔が引き攣っている。
「お前の横に……何かいる!……けど、絶対、見るな……見るなよ……!」
背中が凍りついた。
目を逸らすな。
動くな。
そう本能が叫んでいた。
だが、ゆっくりと湖面に視線を落とす。
夜の鏡のような水面に、俺たち三人の影がくっきりと浮かび上がっていた――
……三人分ではなかった。
湖面にあり得ない影が一つ、紛れ込んでいた。
それは俺のすぐ横に――鏡のように滑らかな顔をした、誰かの姿だった。
俺のすぐ横にもう一つの輪郭。
鏡のように滑らかな――人の顔の形をしたマスクの男。
人のようで人ではない。
無音のまま、まっすぐこちらを見ているそれが――
ミラーフェイスだった。
言葉は出なかった。
足が、冷たい杭に打ち付けられたように動かない。
そして――その影が口を動かした。
「……天空、俺の顔に何かついていて取れないんだ。なんだよこれ!気持ち悪いな~」
声が――イヴァンだった。
まったく同じ。
笑い声のクセもイントネーションも記憶のままのイヴァン。
隣でイヴァン本人が目を見開いたまま凍りついている。
「イヴァンの……声……?」
俺の喉から自然と問いがこぼれ落ちた。
答えるはずもない影が、わずかに首を傾げ、にやりと笑ったように見えた。
そっくりな声で呼びかけて振り向いた瞬間に襲ってくる。
さっきイヴァンが言っていたその言葉がずっと後になってようやく、血肉の温度を持って襲ってきた。
振り向いてはいけない。
鏡を見てはいけない。
奴はもう――狩りを始めている。
息を呑んだその瞬間――
ルナが叫んだ。
「ランベリ フローガ!」
ルナが咄嗟に両手を突き出し、輝く炎の魔法を放った。
その中心から迸った炎がミラーフェイスの顔面を直撃する。
シュゴォッ――!
鏡面の仮面に赤黒い火が弾けて燃え広がる。
炎はマスクの光を歪め、ミラーフェイスの身体がのけ反った。
音もなく仰け反ったまま、こちらを見ているかのように硬直したその姿は――異様なほど不気味だった。
「今だ……逃げるぞ!!」
俺が叫ぶと同時に三人で一斉に駆け出した。
月明かりだけを頼りに森の細道を走り抜ける。
湿った枯葉を踏みしめ、枝をかき分け、息も絶え絶えに走り続けた。
そして――視界の先、暗がりの中に古びた木造の小屋が姿を現した。
「こっちだ!」
俺が先に飛び込み、ルナも続いて小屋の中へ駆け込む。
後ろから足音――イヴァンが来ている。
だがその瞬間、突如として突風が吹き荒れた。
バァァンッ!!
「なっ!?」
木製の扉が音を立てて暴れ、イヴァンの目前でバタンと閉まった。
鍵などかけていない。
なのに、風だけで勝手に――?
「イヴァン!今開けるから、早く入るんだ!!」
俺は取っ手に手をかけ、必死に開けようとするが、まるで見えない何かが外側から抑え込んでいるようにびくともしない。
その時だった。
「イヴァン!後ろの窓が開いてる!そこから中に入れ!」
俺の声――にそっくりな声が、小屋の外から聞こえた。
「……え?」
イヴァンが硬直する。
「それは俺じゃない!聞くな、イヴァン!それは……俺の声じゃない!!」
必死に叫ぶ俺の声をイヴァンの目が捉えられずにいる。
怯えと混乱に満ちた顔で辺りを見回し、息を切らしながら後ずさりする。
「おい、待て!行くな!!」
だが、遅かった。
「何だよこれ……もう無理だよこんなの……!」
イヴァンは掠れた声で叫びながら、森の奥へと駆け出した。
その背中が夜の闇に呑まれていく。
葉擦れの音がだんだんと遠ざかっていく。
「……イヴァン……!」
俺が扉の前で呆然と立ち尽くしていると突如としてドンッ!と凄まじい衝撃音が鳴り響いた。
「なっ――!?」
再び、ドンッ!ドンッ!
戸が震える。
外から何かが――いや、誰かが、力任せに押し破ろうとしている。
そして斧が突き刺さった。
バキィン――!
戸板が割れた。
木屑が飛び散る。
仮面――。
鏡面のあの顔が戸の隙間からこちらを覗いていた。
「やばい!ルナ!奥の部屋に移動するぞ!」
「うんっ!」
二人で小屋の奥、物置のような小部屋に飛び込む。
扉を閉めて木製のカンヌキを下ろす。
外から、またしても重い足音が近づいてくる。
――ドンッ!
「天空!」
イヴァンの声だった。
「俺だ!早く開けてくれ!ヤツが……ヤツが戻ってくる前に!!」
「……!」
俺はドアに手をかけかけて動きを止めた。
ルナの手が俺の腕をぎゅっと掴んだ。
「待って。おかしいわ」
「え?」
ルナは小さく首を振った。
「さっき逃げたばかりのイヴァンが、あの森の奥から戻ってくるなんて……そんなに早く辿り着けるわけがないわ」
「……でも、声は……」
「それが本当にイヴァンなの?」
ドンドンッ!
さらに激しく扉が叩かれる。
「天空!頼む!見捨てないでくれ!開けてくれよ!」
――見捨てないでくれ。
その言葉が妙に引っかかった。
イヴァンがあんな風に俺にすがるような事を言うだろうか……?
外の声が微かにかすれている。
どこか感情の温度がズレている気がした。
だが――もしかしたら本当にイヴァンかもしれない。
助けを求めているのに俺たちは気づかないふりをしてるだけかもしれない。
ルナの顔を見た。
彼女は眉をひそめたまま真っ直ぐ俺を見ていた。
「天空……本当に開けるの?」
俺の手は扉のカンヌキの上にある。
開けるか、開けないか。
それが――命取りになる。
その声はまだ扉の向こうで俺の名を呼び続けている。
けれど――それが誰なのか、もう確かめる術はなかった。