第1話 幼馴染と御神木
「……助けて、ここから出して……誰か……」
か細く震える声が暗闇の奥からかすかに響いた。
女の子の声……だろうか。
「……だれだ?誰かいるのか?」
声をかけながらも身体は動かない。
足は地面に縫いつけられたように重く、視界がぼんやりとしている。
声の主は姿がはっきり見えなかった。
助けなければという焦りだけが胸の奥に溜まっていった。
だが、その想いも次の瞬間――。
視界が急に明るくなった。
熱風が頬を打ちつけ、まばゆい光が視界を焼く。
どこか熱気に満ちた闘技場の中央にいた。
無数の声が波のように押し寄せ、会場中に響き渡っていた。
まさに格闘技大会の決勝戦そのものの熱狂――いや、それ以上の異様な高揚感だった。
観客席は見えない。
けれど歓声があちこちから聞こえてきて、息を吸うたびに胸の奥がざわつくような不安に襲われた。
一瞬で周囲が変わった……?
いや、まるで別の次元に滑り込んだような、つかみどころのない感覚だった。
闘技場の中央には、まだあどけなさの残る二人の少年がゆっくりと歩み出てくる。
ひとりは銀色の髪をなびかせながら自信に満ちた笑みを浮かべていた。
着ているのは白い空手着。
動き出す前から表情や立ち姿から緊張感がこちらに伝わってきた。
対する少年はこの場の熱気に背を向けるように無関心を装い、ラフな黒髪に色褪せたTシャツとくたびれたズボンを纏っている。
彼の手は自然とポケットに沈み、瞳は虚ろで、その表情は戦いへの興味すら感じさせなかった。
無関心というよりむしろ不快そうな顔つきだった。
自分がなぜここに立っているのか理解していないかのように。
「ああ……懐かしいな」
胸の中で過去の記憶がよみがえった。
そう、あれは小学生の頃の俺だ。
まだ何も知らず、ただ目に映るすべてを斜めから眺めていたあの頃の俺。
銀髪の少年が挑発するように口元を歪めて言った。
「ようやく決勝で戦えると思ったのに何だよそのやる気のなさは。……お前、本当に戦う気あるのか?怖くなったなら棄権してもいいんだぜ!」
嫌な言い方だったが、俺は言い返せなかった。
何だよ急に……と反射的に思ったが、同時に疑問が頭をもたげる。
そもそも何故俺はこんな場所にいるのか――?
混乱しながらも黒髪の少年はしぶしぶとポケットから手を出し、やる気の無さを隠そうともせずに構えを取った。
「……いいからさっさとかかってこい。時間が無いから早く終わらせたいんだよ」
やる気のない声だったが決して逃げる様子はない。
しかし、その構えはどこからどう見ても素人丸出しだった。
バランスが悪く、力の入れどころもズレている。
銀髪の少年は見ていて耐えきれなかったように吹き出した。
「なんだその構え……おまえ、格闘技初心者か?そんな事だからいつまで経っても成長しないんだぜ、天空!」
天空――?
その言葉に俺は一瞬、胸の奥で何か引っかかるものを感じた。
「……天空?なんでこいつ俺の名前を知ってるんだ?しかも、呼び捨てで……?」
夢の中でその名前を呼ばれると、何故か遠い記憶がざわめいた。
まだ会ったこともないはずのあいつが俺の名前を馴れ馴れしく呼ぶ幻のような記憶。
こんな自信たっぷりな銀髪の少年……本当にあいつだったか?
夢の霧の中で記憶と現実がぐちゃぐちゃに混ざり合っているような感覚だった。
「天空~!天空~!」
まただ、しつこいな。
何度も……まるで呼びかけるような声が響き渡る。
「天空~!」
ジリジリジリジリ――!
ピンポーン――!
目覚まし時計のアラームと玄関のインターホンの電子音が重なって耳を貫いた。
意識がぐらりと揺れ、夢の感覚が一気に遠ざかっていくようだった。
「天空~!いつまで寝てるんだよ!?」
ぼんやりとした意識の中で誰かの声が現実の音と重なりながら響いた。
まぶたをこじ開けるようにして俺はゆっくりと目を開けた。
「あれ……夢、か……?」
寝起きの頭は重く、夢の内容は思い出そうとしても曖昧で、すぐに忘れそうだった。
けれど胸の奥に妙なざわめきだけが残っていた。
それにしても――ヤバい。
眠気を振り切って意識をはっきりさせながら俺は寝返りを打ち、時計を見た。
「……あ、やばっ!今日って、あいつに三十分前に迎えに来てもらうよう言ってたんだった……!」
最悪だ……よりによってこんな日に寝坊するなんて――。
慌てて手を伸ばし、枕元の目覚まし時計に目をやった瞬間、時間が視界にすっと入ってきた。
完全に……アウトだった。
「やっべ!」
掛け布団を蹴り飛ばし、ベッドから飛び降りる。
二階の自室を半ば滑るように飛び出すと階段を駆け下りながら玄関に目をやる。
すりガラス越しにぼんやりと映る人影――そのシルエットに見覚えがあった。
「天空~!」
声が扉越しに響く。
慣れ親しんだどこか呆れの混じったトーン。
「わりぃ、あと5分だけ待って!」
「……でたよ、いつものパターン」
半分怒って半分諦めてるような返事が返ってくる。
こちらの事情はすっかり見透かされていた。
洗面所へと駆け込み、鏡の中の自分と向き合う。
黒髪は寝癖で乱れ、まぶたの奥には夢の記憶がまだ頭に残っている。
俺の名前は狭間天空、中学二年生。
今日は学校に行く前にあいつにどうしても見せたい場所があった。
だからわざわざ30分も早く迎えに来るよう頼んだのに――まさかの寝坊。
最悪だ。
歯ブラシをくわえながら夢の断片を思い出す。
――歓声の渦巻く闘技場。
その中央で立ち尽くす銀髪の少年。
久しぶりに見たな。
小学生の頃のあいつの妙にムカつく顔を。
最初に出会った時は正直苦手だった。
やけに自信に満ちていて態度も堂々としていた。
何より関わるのが面倒くさそうなタイプ。
だから俺は自然と距離を取っていた。
――なのに気がつけばいつも助けられていた。
今では俺にとってあいつはかけがえのない親友だ。
毎朝一緒に登校するのが当たり前になっていた。
ほんと、人生って何が起きるかわかんねぇよな。
顔を洗い、寝癖を手早く整え、タオルで拭きながら玄関へ向かう。
そして扉を開けた、その瞬間――
玄関の前に立っていたのは夢に出てきたあいつだった。
ただし、成長した姿で。
「……よぉ、天空」
低めの声に思わず目を細める。
かつての生意気な雰囲気はすっかり影を潜め、
欧州人らしい端正な顔立ちは年齢とともにさらに洗練されていた。
名前はイヴァン。
ムカつくガキだったあの頃から比べればまるで別人だ。
「うぃーす、イヴァン。ちょっと靴紐だけ締めさせて」
声をかけるとイヴァンは小さくため息をついて口元に苦笑を浮かべた。
「別にいいけど……今日はどこ行くんだ?しかも、こんな朝から自転車で」
自転車を引き出し、彼も無言でサドルにまたがる。
ペダルを踏み込み、朝の風を受けながら二人は並んで走り出す。
「あと5分くらいで着く。俺がよく行ってた神社なんだ」
「はぁ?神社?」
訝しむように聞き返すイヴァンに俺はにやりと笑う。
「細かい事はいいから黙ってついてこいよ!」
そうして風に背中を押されるように俺たちは朝の街を駆け抜けた。
やがて鳥居の前に到着する。
「着いたぜ」
「へえ……こんな所に神社があるなんてな」
イヴァンは少し感心したように赤く塗られた鳥居を見上げた。
「イヴァン、お前は神頼みとかあんまりしなさそうだな」
「神頼み?……まぁ、教会で祈る人もいるけど、俺はこういうのは初めてだな」
口ではそう言いながらもどこか興味深そうな表情だった。
石段を登ると小ぢんまりとした社が姿を現す。
木々に囲まれた境内には冷たい澄んだ空気が漂っていた。
「せっかく来たんだから、とりあえず手合わせとこう」
そう言って俺は賽銭箱の前に立ち、静かに目を閉じて手を合わせる。
隣に立ったイヴァンも戸惑いつつも俺の動きを真似て手を合わせた。
ぎこちない手つき。
でもその仕草にはどこか誠実な思いが滲み出ていた。
お参りを終えるとイヴァンはあっさりと引き返そうとした。
「すぐに帰ろうとするなよ。まだ見せたいもんがあるんだって、こっちこっち」
俺がそう言って手招きするとイヴァンは面倒くさそうに眉をひそめた。
「え~、その細い道に入っていくのかよ……」
神社の拝殿の脇から延びるその道は雑草に覆われていて、とても人が通るような道には見えなかった。
鬱蒼と茂った木々が周囲の光を遮り、昼間だというのに足元は薄暗い。
「ほんとにこの先、道あんのかよ……」
イヴァンは制服のズボンを気にしながらしぶしぶと俺の後に続いた。
「……うわっ、マジで汚い。この道、草だらけじゃん。制服にくっついたら最悪だな」
「もうちょいだって。いいからついて来いよ」
俺は慣れた足取りで道を進む。
何度も来ているこの道は俺にとっては秘密の抜け道みたいなものだった。
やがて視界がふっと開ける。
そこにあったのは一際大きな御神木だった。
幹は太く、いくつもの時代をくぐり抜けてきた事を感じさせる深い皺が木肌を覆っている。
枝葉が大きく広がっていて、風が吹くと葉同士が擦れて静かな音が鳴った。
「……おお」
イヴァンが思わず声を漏らす。
その目が驚きに見開かれているのを見て俺は少し嬉しくなった。
「すごいな、これ……。こんなにも自然のオーラを放ってる木、見たことない」
そう呟く声にはさっきまでの軽口が影を潜めていた。
イヴァンは幼い頃から空手や合気道を学んでいたせいか、人や場所が発する「オーラ」や「流れ」みたいなものに敏感だった。
俺には全く縁のない感覚だけど、彼には本当に何かが見えているらしい。
昔、イヴァンにオーラの流れの見かたってやつを教わったことがある。
でも俺には全くセンスが無いようで、見えるどころかコツすら掴めなかった。
ただ、気配を感じ取るのは俺の方が得意だった。
イヴァンが「見る」ことが得意なら、俺は「感じる」ことに自信があった。
「ここは……俺しか知らない秘密の場所なんだ」
「まじで?こんな立派な御神木を誰も知らないなんて信じられねえよ」
「普通の人はあの神社の奥までは入ってこないからな。それにこの木に触れて願いごとをすると――叶うんだぜ」
そう言うとイヴァンは鼻で軽く笑いをこぼした。
「……嘘くせぇ。でも、なんかわかる気がするわ」
御神木に向かってふっと視線を落とすイヴァンの表情はさっきまでとは違っていた。
半信半疑といった様子だったが、どこか気になるものを感じているようだった。
「そういえば、俺、小学生の頃に出たあの大会の前にもここに来たんだ」
「は?なんだそれ……。てか、それ今言うか?あの大会、俺の中では完全に黒歴史なんだけど!」
笑いながらもイヴァンは御神木に近づき、ゆっくりと手をかざした。
真剣な目をしている。
まるで木の反応を探るように、じっと静かに見つめていた。
「うん、凄く立派な木だな……。こんな場所にひっそりと存在していること自体が不思議に思えるくらいだ……」
そう言いながらイヴァンは少し間をおき、俺を見つめながら静かに問いかける。
「で、どうして俺をここに連れてきたんだ?」
俺は少し顔を背けて呟いた。
「イヴァン……お前、隣のクラスの詩織ちゃんに振られただろ」
その言葉を聞いたイヴァンは表情を曇らせて目を伏せた。
何も言わず肩を落とす様子から動揺しているのが伝わってきた。
平然を装おうとするもその動きはかえって痛々しい。
「天空ぅ……」
その声は力がなく、どこか沈んでいた。
しばらく言葉を交わしながら時間を忘れて話し込んでいたが、気づけばもう学校へ向かわなければならない時間になっていた。
俺は最後にもう一度御神木に手を合わせてお参りをしようと思い、その大きな幹にそっと手を伸ばした。
その瞬間、手に奇妙な感触が走った。
ぐにゃり――
「……んっ!?」
普段とは違う感触が手に伝わってきた。
硬いはずの幹がわずかに沈み込むような柔らかさを感じたのだ。
「おわっ!」
驚いて手を引っ込めて慌てて様子を確認するが、見た目には何の異変もない。
「どうしたんだ、天空?」
イヴァンの声に振り返るも俺は首を振りながら呟いた。
「いや……気のせいかもしれない」
だが、胸の奥には確かに違和感が残っていた。
幹に触れた瞬間、手がじわりと吸い込まれるような感触があったからだ。
「そろそろ学校に行こうぜ!天空。遅刻しちまう」
「ああ、そうだな」
俺はその場を後にし、来た細い道を戻り始めた。
だけど背後にある御神木がいつもとは違う、呼吸をするかのような不思議な気配を漂わせているのを感じずにはいられなかった。
最後に振り返って御神木を見た。
――そこには変わらずに静かに立ち続ける一本の御神木。
だが、その時放たれていた空気はいつもの温かみとは明らかに違う、どこか異様で神秘的なものに満ちていた。
【2025.06.16追記】
異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。
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