第15話 王家の血と上の世界への道
「ただいま──」
玄関のドアをくぐると同時に俺はそう叫んでいた。
声に元気を込めたつもりだったが足取りはまるで鉛のように重い。
イヴァンと合流して命を賭けた激闘をようやく生き延びた俺たちは体中から疲労と痛みを滲ませながらボロ雑巾のような足取りで帰宅したのだった。
階段を昇る気力もなく靴を脱ぐとそのまま居間へとなだれ込み、俺は躊躇なくソファに身を投げた。
柔らかいクッションが背中を包み込むと同時に全身の力が一気に抜ける。
目を閉じれば血の匂いと怒号と重たい空気が脳裏をよぎった。
まるで現実感が薄れていく。
「すんげー疲れた……」
俺の呟きにイヴァンが無言でうなずく。
隣の椅子に腰を下ろした彼もまた疲弊し切っていた。
だが休んでいる暇などない。
俺たちには確認すべきことが山ほどあった。
すべては昨日の夜──俺の部屋にルナが現れた瞬間から始まった。
彼女はなぜ俺の前に姿を見せたのか?
なぜ化け物に姿を変えた精霊たちに追われていたのか?
あの異様な力と怯えの裏にいったい何があるのか。
問いは尽きない。
謎ばかりだ。
俺はまずイヴァンと合流する前の深夜に起きた出来事を順を追って語り始めた。
部屋の静寂を埋めるように淡々と、だが慎重に。
イヴァンは何も言わずに黙って耳を傾けていたが、やがてスマホを取り出して何かを検索し始めた。
彼もまた何か確信に近い違和感を感じていたのだろう。
ひと通り俺の話が終わると今度はイヴァンがあの水の化け物とのやりとりを語り始めた。
その言葉には冗談も誇張も一切なかった。
俺は彼の言葉を一語一語噛み締めながら自分のスマホで同時に今日の異常を探し続けた。
ニュースでもSNSでもいい。
何かがきっと表に出ているはずだと信じて。
その時だった。
「ちょっとー!!」
ルナの怒声が部屋に響き渡った。
振り返ると彼女はテーブルを挟んで仁王立ちになりながら頬を膨らませていた。
「あんた達!私が真剣に話をしようとしてるのに、なんでそのスマホとかいう機械をいじりながら片手間に聞いてるわけ!?」
「ご、ごめん!本当ごめん!」
慌ててスマホを伏せるとルナはふぅっと息をついてゆっくりと座り直した。
今度こそとばかりに目を細めて口を開く。
その瞳の奥に隠しようのない真剣さが宿っていた。
「ちゃんと聞いてね。いい?私は……この世界の人間じゃないのよ。ここは上の世界。私のいた場所からはそう呼ばれていたの」
「上の世界……?」
思わず繰り返すとルナは静かに頷いた。
「ええ。そして私の世界は下の世界。そう、あなた達の視点から見れば異界かもしれない。けれど私にとっては現実の世界なの」
空気が変わった。
さっきまでの軽口はもうない。
俺もイヴァンも息を殺し、ルナの言葉に耳を傾けた。
「私たちの世界ではマギアと呼ばれる魔力を持つのが当たり前なの。魔法を使えるのは特殊なことじゃないし、人間と魔物が共に生きている世界なのよ。町では魔物たちが人間の代わりに働いていたりするの。店の店主が魔物だったり、警備兵が魔物だったり──ね」
「……魔物が働く?あの水の精霊は姿を変えられてたって言ってたけど、それが魔物ってこと?」
イヴァンの問いにルナは少し首をかしげながら言葉を選ぶように口を開いた。
「正直、私にもそれは分からないの。下の世界には精霊も野生の魔物もいて、町から少し離れた森や山に行けばいろんな種類が暮らしてる。でもね──町にいる魔物は人間と共存してきた歴史があるの。私が生まれるもっともっと前から」
「共存……か」
「ええ。そして重要なのは野生の魔物も町の魔物も誰も言葉を話さないってことよ。人の言葉を使えるのは私たちの世界では精霊だけなの」
「でも、今ここに現れてるやつら──アイツらは言葉を喋ってた」
「そこなの。元が精霊ってことは……誰かの手によって精霊が魔物に変えられてしまったってこと。そして──私はその秘密を、知られてはいけないかもしれない事を知ってしまったのよ……」
言葉の重さに喉が詰まる。
俺はあることを思い出した。
あの水の化け物。
こっちの世界に来た理由をルナの父親の命令だからと言っていた。
まるで、慕うように。
それは──
「……まさか、精霊を魔物に変えたのってルナの父さん……なのか?ルナの父親って一体何者なんだよ」
しばしの沈黙の後。
ルナは小さく息を吸いながら言葉を絞り出すように言った。
「私の父は……アルテミスハースト城を治める王──グラザール・アルテミスハースト。それが彼の名前よ」
「……はぁ?」
耳を疑った。
だが彼女の目は冗談などではなかった。
「そして……私の本当の名前はルナエレシア・アルテミスハースト。王の娘──つまり私はこの名の通り王女なの」
沈黙。
俺もイヴァンも思わず互いに顔を見合わせた。
事実を受け入れるまで数秒どころか数十秒が必要だった。
「え、えっと……ルナエレシアちゃんって、マジで……お、王女様……?」
イヴァンの声がひときわ高くなるとルナはどこか得意げに胸を張った。
「そうよ。だから私に対してもっと礼儀をわきまえなさい!」
「う、うそだろ……」
「まぁまぁ!でもそんな堅苦しいのは嫌だし、私のことはこれまで通りルナって呼んでちょうだいね?」
「……はぁ~~……」
混乱と驚きと戸惑いと──いろんな感情をひとまとめにして俺は長いため息を吐いた。
俺はソファに身を沈めたまま目の前に座るルナを見据えた。
彼女の顔には疲労と不安が入り混じっていたが、迷いはなかった――だからこそ俺は率直な疑問をぶつけた。
「なあ……それで、どうしてルナはこっちの上の世界に来たんだ?お前は王女なんだろ?だったら本来は国に戻るべきなんじゃないのか?」
ルナはわずかに眉を寄せた。
封じ込めた記憶をひとつずつ手繰り寄せるような慎重で静かな沈黙だった。
やがて落ち着いた声がこぼれた。
「……あの日、私はいつも通り魔法訓練のために城を離れて森の訓練所へ向かったの。でも、いつもと少しだけ違っていた。父上は他国との会談に出ていて、多くの兵が同行していたわ。残されたのは数えるほどの兵士だけ。……当然、訓練所の見回りも手薄になっていた」
語るうちにルナの目が過去の一点を見つめるように揺れる。
「私はね、昔から他の王国に足を踏み入れることを禁じられていたの。だから、訓練所以外に外の空気を感じられる場所なんて存在しなかった。せめてもの自由を求めて……その日は魔法の練習を中断して、誰もいない部屋を探して訓練所の奥へ向かったのよ」
「ようするに魔法の練習をサボってたって事だな?」
茶化すように言った俺にルナは鼻でふっと笑った。
「――まあ、そんなところね。私はもともと魔法に向いてなかったし、王女の私が戦場に出ることもないでしょう?だったら退屈な訓練よりも未知の扉の向こうを見てみたいと思った。それだけよ。……そして私は訓練所の一番奥にある古びた扉の前に辿り着いたの」
その言葉とともに彼女の声がわずかに沈む。
まるでその扉の記憶に触れた瞬間、胸の奥で何かが軋んだかのように。
「扉は半開きだった。私を誘うかのように。……私は深く考えもせず、そのまま足を踏み入れてしまった。だけどすぐに違和感が全身を覆った。そこは訓練所の一部なんかじゃなかった。空気も匂いも、何もかもが――別物だった」
一拍の沈黙が落ちる。
「部屋の中には大きなカプセルがずらっと並んでいて、その中にいたのは……小さな精霊たちだった。でも……標本みたいで動いていなかった」
言葉を発するたびに彼女の表情がかすかに揺れていた。
思い出す事、そのものが彼女の心を削っていくのだと伝わってきた。
「その時の私には何が起きているのかなんて分かってなかった。でもね、強く感じたの。ここでは精霊が……ただの道具みたいに扱われてる。命であるはずの存在が、命じゃないものにされてた。そんな、何か……決定的に間違ってることが起きてるって」
「……だからもっと奥まで行こうとしたんだな」
「うん。私はそのままカプセルの並ぶ廊下の奥へ進んだの。そしたら次にあった部屋にいたのは精霊じゃなかった。今度は……魔物だった。だけど、見た瞬間に分かった。見たことのあるやつだった」
ルナは遠い記憶をたぐるようにゆっくりと続けた。
「町で暮らしてた魔物たちとそっくりだった。私の国で人と一緒に生きていたあの魔物たち……姿も、雰囲気も……ほんとにそっくりで……違いが見つからないくらいだった」
俺とイヴァンは同時に顔を見合わせた。
ルナはその反応を見て、少し目を伏せながらも続けた。
「……でもね。あの魔物たちは自然に生まれた魔物じゃなかったのかもしれない。そう思ったの。だって、訓練所の奥で眠らされていた魔物たち――あれは誰かの手で作られたみたいだった」
「……じゃあ、その町にいた魔物たちも……もしかして――」
「ええ。実験で生み出された魔物だった可能性があるの。そして私は魔物たちが入れられていたカプセルに無数のケーブルが繋がってるのを見つけた。そのケーブルがどこへ続いてるのか……どうしても知りたくなったの」
そのとき、ルナの瞳が一瞬だけかすかに揺れた。
それでも彼女は話すのをやめなかった。
「ケーブルをたどっていったらね……最後に行き着いたのは、これまで見てきたどの部屋とも違う場所だった。扉には幾重もの魔法の封印が刻まれてた。鉄の鎖も何重にも巻きつけられていて、誰にも触れさせないように――いいえ、誰にも近づかせないためのものに見えた。厳重どころじゃない、見た瞬間に分かったわ……中には特別な何かある。だからこそ、あんなふうに封じられてるんだって」
ルナの声が少しだけ低くなった。
「でもその扉には小さな覗き窓がひとつだけあって……遠くから中を覗いてみた。……最初は怖かった。見たら後悔するかもしれないって思った。でも――一瞬だけ見えたの。その中に人がいたの」
彼女はそっと唇を噛み、言葉をつなげた。
「信じられなかった。でも……その顔に見覚えがあった。私の記憶にずっと焼きついていた顔。忘れたくても絶対に忘れられない顔。きちんと確かめたかった。だから……私はもう一度見て確かめたの」
声がかすかに震えていた。
ルナの胸が早く上下しているのが分かった。
呼吸が詰まり、思い出を押し返すようにこらえていた。
「ルナ、大丈夫か?無理に話さなくてもいいんだ。休憩しよう」
俺の言葉に彼女は小さく首を横に振った。
「ううん、平気。……ちゃんと話すから最後まで聞いて……」
ほんの少し息を整えてから再び語り出す。
「そこにいたのは……病気で死んだはずの姉上だった。カプセルの中で両手を手錠で固定されて……動けないままじっとしてた。生きてるのか眠ってるのか分からなかった。でも……身体には無数のケーブルが巻きついていた。全部が姉上に繋がっていて、血を吸い取られているみたいだった」
部屋の空気が一気に冷えた。
俺は言葉を失い、イヴァンも険しい顔で唇を固く結んだ。
――そんなことが王家の魔法訓練所の中で。
「どうして姉上がこんな場所に……?私は何を見たの?この事は父上も知っているの?何が正しくて、何が……違ってるのかもう全然わからなくなってた。その時だった。ドアの開く音が聞こえて……誰かが入ってくる気配がして……とにかく隠れなきゃって思った。お部屋の中に階段があって、上から光が漏れていた。もしかしたら外に出られるかもしれないって思って、気づかれないように上がったの」
そこで彼女は一度静かに息を吸った。
表情は努めて平静だったが目の奥にはかすかな震えがまだ残っていた――それは今も彼女が記憶の中に囚われているように見えた。
「でも、そこは出口じゃなかった。二階にあったのは……知らない機械ばかりが並んだ部屋だった。どれも青い光を放ってて動いてた。……機械なんてあまり見た事がないから……何のためのものなのかは今でもわからないわ。でも……あの雰囲気がすごく……嫌だった。理由なんてなかった。急に胸の奥がざわざわして……。あそこに長くいちゃだめだって、そう思ったの」
「だけど……そいつに見つかってしまったんだな?」
俺が尋ねるとルナはわずかに頷いた。
「うん。すぐに男の人が来た。……その人、自分のことをウェルシュナー博士だって名乗った。あの部屋の責任者の一人だって……。私が中にいるのを見て本当に驚いてた。『どうやって入った?』って信じられないって顔で……何度も聞かれた。だって、扉には鍵がかかってたはずだって……」
ルナの瞳が記憶の奥にゆっくり沈んでいく。
「……でも、実際には扉は開いてたんだろ?」
俺が静かに問い返すと彼女はうなずいた。
「ええ。扉は半分開いてた。警備もいなかった。誰でも入れたはず。……それを話したら博士はきっぱり否定した。そんなはずはないって。あり得ないって。――その時だったわ。中にあった大きな機械が……急に、ゴウン……って、唸るような音を立てたの。そしたら博士の顔が変わって……私の手を掴んで叫んだの。『ここは危険です、すぐに部屋から出て』って」
ルナはほんのわずかに視線を伏せた。
だが、言葉は力強く続いた。
「……でも、もう遅かった。階段を下りようとしたら、出口の扉には外から鍵がかけられてて……。閉じ込められたの。私も……博士も」
「じゃあ……そのウェルシュナー博士も一緒に?」
「ええ。出られなかった。……博士は言ってた。『あの機械が動き出したらもう終わりだ』って。……でも声で分かった。もう死ぬのが決まってしまってるって……そんなふうに」
静寂が落ちる。
耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
「それでも……博士は私を見て言ったの。……私の中には王家の血が流れているから、もしかしたら生き延びられるかもしれないって。生き残れるとしたら……私だけだって」
「王家の……血?……」
俺が繰り返すとルナはかすかに笑った。
その笑みに浮かんでいたのは感情ではなく――虚無に近かった。
「王家の血が何か分からないけど、博士の話だとそれだけが生き残る根拠だったの。何も保証なんてなかったわ。でも……私は信じたの。信じるしかなかった」
「……で、その機械が動いて。お前はこっちに飛ばされたってわけか。でもさ――なんで俺の部屋だったんだよ?」
思わずこぼれた問いに、ルナは小さく首を振った。
「わからない。本当に……わからないの。あの装置がどう動いたのか、何が起こったのか、どうして私がここに来たのか……その仕組みは全然分からない。ただ……機械が作動したら私は空間ごと放り出された。重力も、時間も、音もない……異次元のような場所に。自分が自分でいる感覚すらも曖昧になって。何が上で何が下で、何を考えていたかも……記憶がぼやけていく。ただ……彷徨っていたことだけは覚えてる。出口もない終わらない迷路の中を……ずっと」
ルナの声はかすれていた。
あの記憶に触れるたびに少しずつ心を削られているのが伝わってきた。
「もう……このまま私は死ぬんだって。抜け出せるはずがないって……思ってた。でも……突然目の前に裂け目が現れた。細くて、白くて、空間を引き裂くような……光が。私はそれが……最後の脱出の希望だって感じたの。だから……迷わなかった。ただ、飛び込んだの。それだけ」
――気づけば、俺の部屋に落ちてきた。
ルナの言葉の続きを、俺の目が自然と辿っていた。
「……じゃあ、偶然……俺の部屋に出ちゃったって事?マジで?いや、あり得るのか、そんな事……?」
「……私にも分からないわ。本当に。どうしてこの家だったのか、どうしてあなたの部屋だったのか……それすらも。私が選んだ覚えもないし、誰かに導かれたような記憶も無い。きっと偶然だと思う。でも……その偶然がなければ私は死んでいたかもしれない」
静かに話していたルナの言葉にイヴァンがそっと口を挟んだ。
「……その、ウェルシュナー博士って人は……どうなったの?生きてるの?」
ルナは一度だけ、目を伏せた。
「……それも分からないわ。……もう、生きてはいないかもしれない。でも……あの人はね、最後に私に何度も謝りながら説明して……私の手をガラスで切ったの。流れ出した血を小瓶に集めて……持っていた液体に混ぜ合わせてそれを飲み干した。どうしても『王家の血が必要だ』って、そう言って……」
淡々とした語りだったが心が痛ましかった。
「その液体を飲んで生き延びるためだったのか……他の理由があったのか……それはわからない。でも……彼は最後の瞬間まで諦めてなかった。でも最後は恐怖を紛らわせる為に私の手を強く握っていた。装置が動き出す、ほんの直前まで……」
ルナの瞳は過去のどこか遠くを見つめていた。
「その後、彼の姿は……もう、どこにもなかった」
イヴァンはルナの語った内容をひとつひとつ頭の中で組み直し、思考の糸を辿るようにゆっくりと口を開いた。
「……つまりさ。ルナを追ってこの世界に現れたあの魔物、あいつは元々は精霊だったけど人工的に魔物へと変えられて――しかも王家の血、それもルナのお姉さんの血を利用してこっちの世界にやってきた……ってことになる。あの水の化け物が喋ってた内容と照らし合わせても整合性はあるな」
その言葉にルナは小さく頷いた。
ゆっくりと苦味を滲ませた静かな声で言う。
「ええ。精霊の中には、ごく稀にこの世界と行き来できる者もいるわ。でも……魔物がこっちに来るなんて本来は絶対に起こりえない事よ。だけど、もし王家の血がこっちの世界に来る条件で、造られた魔物がその力を得ていたとしたら――話は別よ」
胸の奥で何かがきしむような音を立てた。
吐き気にも似た嫌悪が喉元まで這い上がってくる。
ルナの体の中に流れている王家の血がただの血じゃない。
精霊を無理やり変えて、魔物にして、この世界に送り込む――そんな仕組みがあるのだとしたら、その鍵にされているのは彼女自身なんだ。
もし本当にルナの血がその仕組みの一部になっているのだとしたら……
元の世界に帰るって言葉が意味するのはもう希望じゃない。
それは死ぬこと以上に過酷な運命が待っているという事だから……。
だから俺は即座に言った。
「大丈夫だ、ルナ。俺たちがあの化け物達から必ず守る。絶対にお前を下の世界に連れて行かせたりなんかしない。だから……今は、少し休んでくれ」
数秒の間を置いてルナはゆっくりと目を細めた。
淡く浮かんだ笑みに揺れるように、その瞳はまっすぐ俺を見つめていた。
「ありがとう……天空。でもね、次にあいつらに負けたりなんかしたら、ほんとに許さないんだから」
彼女の目は痛みと恐怖を飲み込んだ上で他人にすべてを委ねるのではなく、自分の意思も抱きしめた者の目。
逃げない者の目だった。
「ああ。わかってる」
俺はそれに応えるように頷いた。
ルナはそれ以上は何も言わずに静かに階段を上っていった。
足音は重く、歩みは緩やかだったが一度も振り返らなかった。
その背が完全に見えなくなってから俺は長く息を吐いてイヴァンの方に目をやった。
けれど彼はまるで思考の電源を落としたかのように黙り込みながら視線を落としたままだった。
鋭さも、冷静さも、沈着な判断力も――すべてを失っていた。
無理もない。
精霊、魔物、王家の血、異次元。
その全てが狂った論理で結びつき、しかもその中心に生きたままルナという少女が引きずり込まれていたのだから。
彼はただ沈黙していた。
その沈黙がどれほどの衝撃だったかを物語っていた。
声にするにはまだ現実が重すぎたのだ。
対策を立てるために集まったはずの俺たちは気づけば誰も言葉を持たずただそこに座り込んでいた。
水の魔物とは違う、新たな敵がいる。
その可能性は十分にある。
ルナを何があっても守り抜く。
たとえ彼女の望む未来がどれほど脆くて遠く儚いものだったとしても。
誰かがその隣に立たなきゃいけない――そう俺はずっと思ってた。