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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第152話 天空とルナの約束

俺たちが煌月城から逃げてから一日が過ぎた。

玄冥魔軍のアジトは昨夜からずっと騒がしく、作戦室の灯りは夜中になっても消えなかった。

ティモーリスとエピメス、そしてカティフラクトがパンドラの体を取り戻す方法を話し合っていた。


俺たちが目撃したネクロスの魔力は明らかに常軌を逸していた。

――だからこそ、ティモーリスは決断したのだろう。

この地域にいる帝国側の軍を集める。

その軍隊長たちを呼び寄せ、戦力を一箇所にまとめるために。


そして翌朝。

目を覚ますと最初に感じたのは木の匂いだった。

窓の隙間から差し込む朝の光が床を淡く照らし、遠くでは鳥の鳴き声が聞こえていた。


静かな朝だった。

俺はベッドの上で体を起こすと、そのまま胡坐をかき、背筋を伸ばした。

ネクロスに立ち向かうには、今の力では完璧とは言えない。

そう思って、まずはオーラの流れを整えるために瞑想を始めようとした――その時だった。


「あら?天空、やっと起きたのですね」


頭の中でパンドラの声が響いた。

上品で落ち着いた、けれどどこか嬉しそうな声。


「先ほどから周囲の気配を感じ取っておりましたのですが、木々の匂いがとても心地よくて、鳥の声も澄んでおりまして。それにこの柔らかな陽射し……ああ、本当に気持ちの良い朝ですわ。城の庭園も嫌いではありませんけれど、このような自然の空気にはまた別の魅力がございますわね。もしここに紅茶があれば、きっと優雅な朝の時間を過ごせると思いますわ」


パンドラの独り言がお経のように頭の中に流れてくる。

しかも止まる気配は無い。


「それに天空、あなたの体を通して周囲を感じるこの不思議な感覚、とても興味深いですわよ。空気の流れや温度、外の気配まで、まるで自分がそこにいるかのように――……あら、二羽の小さな鳥が飛んでいるのが分かりますわ。とても可愛らしいですわね」


イライラ……イライラ。

額の血管がぴくぴくと跳ねた。


「ああもう、うるっせえな!」


目を開けて叫ぶ。


「全然集中できねぇじゃねぇかよ!」


パンドラは少し驚いた声を出した。


「それは失礼いたしましたわ」


だが次の瞬間には何事もなかったかのように続ける。


「ですが天空、わたくしもこのような状態でして。体を動かすことも出来ず、ただあなたの頭の中にいるだけなのですもの。とても退屈ですのよ」


「退屈とか知らねぇっての!」


俺は額を押さえた。

もう無理だ。

この状態で瞑想なんて出来るわけがない。


「……もういい」


俺はベッドから立ち上がる。


「せっかくシャワー付きの部屋を用意してもらったんだ。今からシャワーを浴びる」


「あら、よろしいですわね」


俺は何も答えず、そのまま部屋の奥にあるシャワー室へ入った。

扉を閉め、服を脱ぐ。

その瞬間だった。


「……天空?」


パンドラの声が返ってきた。


「何だよ」


「何故目を閉じているのですか?」


俺はため息をついた。


「お前が俺の裸を見るからに決まってるだろ!」


少しの沈黙。

俺は急いで蛇口を捻り、温かい湯を浴びながら体を洗った。

とにかく早く終わらせたい。


だが――


「あら、嫌ですわ。本当に何も見えませんわ」


「目を閉じてるんだから当たり前だろ!」


「暗いですわ。目を開けてくださいまして」


「また俺の裸を見るのか?いい加減にしろよ!」


「嫌ですわ」


「嫌じゃねぇ!我慢しろ!」


その時だった。

突然、俺の腕が勝手に動いた。


「……は?」


両手が顔へ伸びる。


そして――

俺のまぶたを無理やりこじ開けようとした。


「おい!パンドラ、何してんだよ!」


「だって暗いのですもの」


「俺の手を勝手に動かすな!」


その瞬間――

部屋の扉が静かに開いた。

カティフラクトだった。

彼は部屋の中に入り、周囲を見回した。


「おい。作戦会議に貴様も合流しろ。パンドラ様奪還の作戦を練る」


だが部屋には俺の姿がない。

カティフラクトの眉がわずかに動いた。

彼はゆっくりとシャワー室の前まで歩き、扉を開けた。

目の前の光景に、わずかに目を細める。

俺は全裸で、両手で自分のまぶたを無理やり引き上げながら暴れていた。


そのままの状態で――

カティフラクトと目が合った。


「……はっ」


沈黙。


カティフラクトはゆっくり瞬きをした。


「やはり貴様はまだ精神が不安定のようだ。……午後まで休息を取るがいい」


ガチャ。

扉が閉まる。

頭の中でパンドラが楽しそうに言う。


「天空、あのカティフラクトの態度は良くありませんわね。天空を作戦会議から外すなど無礼にもほどがありますわ。一度きつく叱ったほうがよろしいのではなくて?」


俺は叫んだ。


「全部お前のせいだろうがぁぁぁぁ!」



午後になって深淵封鎖の間へ足を踏み入れた瞬間、空気の重さがはっきりと伝わってきた。

すでに多くの者が集まっていたが、目を引いたのは見知らぬ三人の男たちだ。

装束はそれぞれ異なり、ただ立っているだけで並の人物ではないと直感できた。

俺が入ってきたのを見て、ティモーリスが振り向いた。


「天空、来たか」


短く言って、隣の男を示す。


「紹介する。彼が聖灰軍せいはいぐんの聖灰将スタマティスだ」


名を呼ばれた男が一歩前へ出た。

背の高い大柄な男で、無精髭が生えた顔には荒々しい雰囲気が漂っていた。

腕を組み、俺をじっと見つめている。


ティモーリスは続ける。


「そして彼が虚空樹軍こくうじゅぐんの虚空樹将コンスタンティヌ」


細身の男だった。

深緑の外套をまとい、長い黒髪を後ろで束ねている。

彼は落ち着いた表情のまま、こちらの動きを一瞬たりとも見逃さない視線を向けている。


「そして彼が聖滅軍せいめつぐんの聖滅将イオアンヌだ」


三人目は若かった。

短い金髪の青年だ。

銀色の装甲を身に着けた騎士のような姿をしている。

だが視線は鋭く、警戒を隠そうともしない。


その時、頭の中でパンドラが言った。


「天空……彼らの力では、戦闘の役にも立ちませんわよ」


(ああ、分かってる)


俺は心の中で答えた。

強いのは分かる。

だがネクロスやタナエルの相手になるかと言われれば、別の話だ。


その時だった。

入口の扉が重い音を立てて開いた。

振り向くと、入口に立っていたのはカティフラクトだった。

その後ろには煌月守衛軍の兵士が二人。


そして、彼が一歩踏み込んだ瞬間だった。

深淵封鎖の間の空気が目に見えない圧に押し潰されるように沈む。

スタマティスの額に汗が浮かぶ。

コンスタンティヌが息を呑む。

イオアンヌの指先がわずかに震えていた。


カティフラクトは部屋の中央まで歩き、静かに口を開いた。


「ティモーリスから煌月家の状況は聞いていると思うが、停戦を誓ったパンドラ様がネクロスに体を乗っ取られた」


深淵封鎖の間が静まり返る。


「彼はこの地を支配しようとするだろう。そうなれば我々も帝国の民も皆死ぬことになる」


誰も口を開かない。

カティフラクトは続けた。


「我々はそれを止める。ネクロスを倒し、この深淵封鎖の間まで運ぶ」


カティフラクトは部屋の中央にある石壇を見た。


「ここで魂転移こんてんいの儀を行い、ネクロスの魂を引き剥がし、パンドラ様の体を元に戻す」


カティフラクトの目が細くなる。


「……だが、ネクロスの魔力は強大だ。この私よりも遥かにな」


深淵封鎖の間にざわめきが走った。

だがカティフラクトは続ける。


「しかし、それ以上に厄介な者がいる。煌月守衛軍のタナエル、そして、元煌月守衛軍軍隊長――ジェラントスとパソニアだ」


(なっ……ジェラントスとパソニアって軍隊長だったのかよ)


するとパンドラが言った。


「そうですわよ」


落ち着いた声だった。


「二人とも昔は煌月守衛軍を率いておりましたのよ。若返っているとなると……守りを崩すのは簡単ではありませんわね」


カティフラクトが続ける。


「私がタナエルの相手をする。他の者はジェラントスとパソニアの相手をしてほしい」


三人の軍団長が視線を交わす。

カティフラクトはさらに言った。


「城に残っている煌月守衛軍も、今はまだ状況を完全には理解していないはずだ。素直にネクロスに従うことはないだろう。だが、時間が経ち、タナエルが動けば話は別だ」


カティフラクトの声が低くなった。


「遅れれば煌月守衛軍はネクロスに従うことになる」


そして言い切った。


「その前に我々は動く。パンドラ様を奪回するのは――今夜だ」


その言葉に、スタマティスが顔をしかめた。


「……無理だ。俺はあんたを目の前にするだけでも震えてるんだぜ。命を賭けても、時間稼ぎにもならねぇ」


誰一人、反論しなかった。

その時、ティモーリスが前に出た。


「そこでこれを使ってほしい」


手の中の水晶が淡い黄色の光を放っていた。


「これは転移魔法――テレポロス メタバシスが込められた魔法水晶だ。魔力を込めるだけで発動する」


コンスタンティヌが言った。


「つまりジェラントスとパソニアを城の外へ飛ばすわけか」


イオアンヌが腕を組む。


「だが彼らに触れなければ発動しないのなら、それは簡単なことではない」


カティフラクトが言った。


「手段は問わん。とにかくその三人をネクロスに近づけさせなければいい。そして――」


ゆっくりと俺を見る。


「ネクロスと対峙するのは――そこにいる天空という男だ」


その瞬間、三人の視線が一斉に俺へ向いた。


「そして彼のサポート役をエピメスとルージェがする」


沈黙。

この場にいる全員が理解していた。

それはつまり――

ネクロスと真正面から戦う役目を、一人の男に背負わせるということを。

やがてスタマティスが言った。


「……待て」


信じられないという顔だった。


「この男がネクロスと戦うだと……正気か?」


するとイオアンヌが冷静に言った。


「ネクロスは貴方より強いのだろう……悪いが、この男に倒せるとは思えない」


カティフラクトが静かに言った。


「それでもやらせる。他に手がないからではない――この男がやると言ったからだ」


三人の視線が揃って俺に突き刺さる。

俺は小さく息を吐きながら一歩、前へ出る。


「……あ?」


わざと聞き返すように言う。


「そこまで言うなら、この場で三人まとめて相手してやろうか?」


俺は三人を睨みつける。

スタマティスの眉がぴくりと動いた。

コンスタンティヌの視線がわずかに揺れ、イオアンヌの口元が固まる。


その時だった。


ゴツン。

鈍い音が頭に響いた。


「痛ってぇ~!」


思わず頭を押さえる。

振り向くとルナが呆れた顔で立っていた。


「何するんだよ、ルナ」


「あんた馬鹿なの?せっかく命を賭けてまで協力してくれるって言ってるのに、ここで戦ってどうするのよ」


腕を組み、じっと俺を見る。


「それとも何?ここで帝国軍と殴り合ってから城に行くつもり?」


俺は頭をかきながら視線を逸らす。


「いや……そこまでは考えてねぇけど」


深淵封鎖の間に沈黙が落ちた。

そしてスタマティスが、ぷっと息を吐いた。


「……はは、ずいぶんと荒っぽい男だな」


コンスタンティヌも小さく肩を揺らして笑った。

イオアンヌはまだ警戒した目をしているが、さっきまでの緊張は少しだけ薄れている。

その様子を見て、ティモーリスが苦笑した。


「天空、パンドラを助けに行きたいのは分かるが、お前は少し落ち着け」


ルナが一歩前に出た。


「私の役割は?」


その声は静かだったが、視線はまっすぐカティフラクトへ向いている。

カティフラクトはわずかに目を細めた。


「貴様はここに残れ。貴様の存在が天空の判断を鈍らせかねん。人質にでもされたら厄介だからな」


深淵封鎖の間の空気が張り詰めた。

ルナはすぐに言い返した。


「嫌よ。私だって戦える。パンドラを助けたいの」


俺は思わず口を開く。


「駄目だ。もし、ルナに何かあったら……俺はお前を守れないかもしれない」


「やめて、天空。私を置いてけぼりにしないで」


ルナは俺を真っ直ぐ見ていた。


「危険なのは分かってるわ。でもそれはあなたも同じでしょ」


そして一歩近づく。


「私だって、あなたには死んで欲しくない」


その言葉は静かだった。

それでも胸の奥に強く響いた。


「でもあなたは私を探しにここまで来たのよ。だったら最後まで一緒に行くに決まってるでしょ」


……何も言えなかった。


俺はゆっくりと目を閉じる。

さっきまでの自分の言葉が重く残っていた。


「……ごめん、ルナ……俺、自分の事しか考えてなかった」


しばらく沈黙が続いた。

やがてルナが口を開いた。


「天空……作戦会議が終わったら、ついてきて」


それだけ言って、少し視線を逸らした。

ふと気づくとカティフラクトと帝国軍の三人がこちらを見ていた。

カティフラクトが言った。


「……やはりリスクは高いな。だが覚悟は確かなようだ」


一度だけルナを見る。


「貴様にはジェラントスとパソニアの相手をしてもらう」


ルナは即座に答えた。


「それでいいわよ」


カティフラクトが頷く。


「では、それぞれ戦略を練り上げてくれ」


その言葉で作戦会議は一旦解散となった。


◇ ◇ ◇


ルナに呼ばれてアジトの外へ出ると、建物の裏手に小さな泉があった。

岩の間から水が澄んだ音を立てて流れ落ち、周りには背の低い白い花が風に揺れている。

午後の風が吹くたびに細い茎が静かに揺れる。

ルナは少し先を歩き、泉のほとりで足を止めた。


煌月城へ向かえば待っているのは戦いだ。

だからこそ、こんな風に呼び出された理由も――何となく分かっていた。

ルナは背中を向けたまま、しばらく何も言わない。

風に揺れる髪を押さえながら、地面を見つめている。


……様子がおかしい。


普段のルナなら、こんな風に黙り込んだりしない。

何か言いたいことがある時は、もっと真っ直ぐに言うはずだ。


ルナの指先が、わずかに動いた。

何かを決めるように小さく息を吐く。

そして、ゆっくり振り返った。


「……天空」


少しだけ迷ったようにルナが目を伏せた。


「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」


ルナは少し困ったように笑った。


「あなたがそこまで私のことを想ってくれてるのって……私があなたのことを彼氏だなんて紹介したせいよね」


俺は何も言えなかった。


「プレッシャーかけちゃって、ごめんね」


その瞬間だった。

頭の中でパンドラの弾んだ声が響く。


「あら。ルナの方がずいぶん積極的でしてよ。天空、あなたは何を躊躇しておりますの?」


(うるせぇ、黙ってろ)


俺はルナを見る。

出会った時からルナは変わらない。

危ない場所にも平気で踏み込み、困っている人がいれば迷わず手を伸ばす。

――そんな姿を何度も見てきた。


「ルナ、俺の方こそ、お前を守りたいなんて言ってごめんな」


少し視線を落とす。


「お前はイヴァンを助けるためにここまで来たんだもんな」


「……うん」


ルナはそれから、ふっと笑みをこぼした。


「でもね、天空が私の事を大切に想ってくれてたのは、もっと前から気づいてたわよ」


言葉が出ない。


「だけど……みんなの前で告白するなんて変よ」


ルナは不思議そうに首を傾けた。


「それにパンドラの話し方の真似までして……一体どうしちゃったの?」


「あ、いや、あれはだから違うんだって」


言い訳を探すが、何も出てこない。

その様子を見てルナが堪えきれず笑った。


「天空って、本当に変わってるよね。急にあんな事言い出すんだから……でも、そういうとこ、嫌いじゃないわよ」


ルナは一歩だけ近づいた。


「て言うか……ちょっとだけ、嬉しかった」


ルナは、ふっと視線を逸らした。

その瞬間、胸の奥が強く脈打った。


ルナの手がそっと俺の手を握った。

その手は、わずかに震えていた。

ルナは顔を上げる。


「天空……私ね、本当は凄く怖いの」


ルナはまっすぐ俺を見つめた。


「兄と会うのも……これから煌月城に行くのも怖い……本当に、怖いの」


ルナの手が少しだけ強く握り返した。


「でも……天空がいるなら、私、なんとかなる気がするの」


ルナは一歩だけ近づき、視線を逸らさないまま俺を見た。

しばらく沈黙が流れた。

胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。

そして、ゆっくりと口を開いた。


「だから……聞くわ。私の事、本当に好き?」


頭が真っ白になる。

そこへ割り込むようにパンドラが叫んだ。


「きゃああああ!今の聞きましたの!?」


(うるせぇ!)


ルナは力を抜いたように笑った。

どうやら全部、顔に出ていたらしい。

そして静かに言った。


「好きなら――」


ルナはゆっくり目を閉じた。

長い睫毛が静かに伏せられる。

俺の手を握るルナの指先が震えていた。


「キスして」


握られた手が少しだけ引かれる。

ルナの顔が、ゆっくりと近づいた。

頭の中ではパンドラが大騒ぎしていた。


「きゃああああ!きゃああああ!」


(うるせぇ!少し黙ってろよ!)


ルナは目を閉じたまま、こちらへ顔を向けて静かに待っていた。

あと一歩踏み出せば、唇が触れる距離だった。

吐息が、わずかに頬に触れる。


だが、俺はそっと手を伸ばし、指先でルナの唇に触れた。


「……駄目だ、ルナ」


ルナのまつ毛がわずかに揺れた。

そしてゆっくりと目が開いた。


「俺は死にに行くために煌月城に行くんじゃない。パンドラを、元のパンドラに取り戻すために行くんだ」


「……天空」


ルナの声は小さかった。


「それにさ、なんか、こういうの……お別れの瞬間みたいで嫌だよ」


そう言いながら拳を握る。

自分の中で、何かを確かめるように。


「だから信じてくれ」


まっすぐルナを見る。


「俺は絶対にネクロスを倒して、生きてまたこの場所に帰ってくるから」


泉の水音だけが静かに続いていた。


「だからその時は――」


溜めていた息を吐いた。


「その時は、俺の方から言いたいんだ。もっとちゃんとした形で」


しばらく沈黙が流れた。

やがて、ルナの表情がゆっくり変わった。

それから、ふっと柔らかく笑った。


「……天空。分かったわ」


ルナは視線を少し落とし、肩の力を抜く。


「あなたを見ていて、私も少しおかしくなってたのかもしれないわ」


それから顔を上げた。

いつものルナの笑顔だった。


「うん。もう大丈夫!じゃあ、お互いに約束ね」


白い花が風に揺れる。


「一緒にこの場所に戻ってくるって」


俺は頷く。


「ああ!絶対に約束する」


ルナは静かに微笑んだ。

その瞬間、頭の中でパンドラの声が弾む。


「天空、何を格好つけておりますの?ここは男らしく口づけをするべきですわ」


次の瞬間、俺の首が――ルナの方へ、ぐいっと押された。


(や、やめろ!パンドラ!)


俺は必死に抵抗した。


(勝手に俺の首を動かすな!)


俺は慌てて首を引いた。

だが見えない力が、なおもぐいぐいと押してくる。


「ぐ……っ」


全力で後ろへ踏ん張るが、首を押される力に顔が歪む。

ルナがその様子を見て、眉をひそめた。


「……天空?」


ルナは少し困ったように笑った。


「そんなに我慢するなら……無理しなくてもいいのよ……」


「ぐっ……!」


首を引き戻した瞬間、押していた力がふっと消えた。


「がはっ……」


そのまま俺は草むらに倒れ込んだ。

空が視界いっぱいに広がった。

その時、奥から声が響いた。


「ここにいたのか」


顔を上げると、腕を組んだカティフラクトが立っていた。


「随分探したぞ。部下たちが昨日のカレーライスをまた食べたいと言ってな。夕食にもう一度作ることは出来るか?」


ルナが振り向く。


「あ、はい」


そしてルナは俺に軽く手を振った。


「天空、じゃあ私はもう行くね。また後で」


「ああ……分かった」


ルナはカティフラクトと一緒にその場を離れていく。

ルナがいた場所では白い花が揺れていた。

泉の音だけが、また静かに流れ始めていた。


その時、頭の中でパンドラが言った。


「どうしてルナと口づけをしなかったのですの?これは一世一代の好機でしたのよ?」


「……お前な」


◇ ◇ ◇


夕食の準備を終えたルナは料理を運んでいた。

アムネシアの森の前には三台の魔導装甲車が止められている。

森の入口付近では煌月守衛軍の兵士たちが出発の準備を進めていた。

カティフラクトの飛翔魔法で降りたその時、一人の兵士が駆け寄ってくる。


「カティフラクト様、他の兵士たちを説得するために煌月城に残っていた三名が戻ってきました」


カティフラクトの眉が、わずかに動いたのが見えた。


「戻ってきただと?」


「はい。説得により、城にいる兵士全員がパンドラ様に忠誠を誓うと申しております」


「……なに?」


魔導装甲車の中から三人の兵士が歩み出てくる。

やがてカティフラクトの前まで来ると、静かに膝をついた。


「カティフラクト様。ただいま戻りました」


カティフラクトは腕を組んだまま三人を見下ろす。


「貴様ら、よく城から出ることが出来たな」


カティフラクトはわずかに身を乗り出した。


「それで、城の中にいる煌月守衛軍は今どうなっている?」


先頭の兵士が顔を上げると、その目に奇妙な静けさがあった。


「はい――」


言葉が続く、そのわずかな間に腕が異様な速さで動いた。

次の瞬間、その手がカティフラクトの腹へめり込み、背中側へ突き抜けた。


「がはっ……!」


カティフラクトの身体が後ろへ大きく揺らぐ。


「えっ……!」


周囲の兵士たちが凍りつく。

誰一人、声を上げない。


「き、貴様……何を……」


カティフラクトの口から血がにじみ、土に赤い線を描きながら草を湿らせる。


膝をついていた三人のうち、残る二人も同時に立ち上がる。

一人がすぐ近くにいた兵士の首を掴むと、抵抗する暇もなく捻った。

鈍い音が響き、兵士の身体が草の上に力なく崩れ落ちる。


もう一人の兵士も踏み込み、拳を振り抜いた。

拳が近くの煌月守衛軍の兵士の胸を深く抉る。


「ぐっはぁ……!」


胸を抉られた兵士は後ろへ崩れ落ちた。

カティフラクトは腹を押さえ、血で湿った指の隙間から力なく血が滴り落ちる。


「ぐっ……貴様ら……」


ルナの視界に映ったのは、味方だったはずの三人が何の躊躇もなく仲間を殺していく――その異様な光景だった。

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