第14話 津波と不死鳥
どこかで俺を呼ぶ声がした。
遠く、微かに揺れるように震えていた。
「天空……!大丈夫?天空!」
目を開けられなかった。
身体は言うことを聞かず俺はただ倒れていた。
背中に貼りつく冷たい床だけがかろうじて現実の手触りだった。
ルナだ。
声でわかった。
必死に抑えているはずの不安があいつの呼吸に滲んでいた。
けれどすぐには戻れなかった。
身体も、意識も。
夢――そう呼ぶにはあまりにも生々しく現実と言い切るにはあまりに寒々しい。
そんな映像が靄のように脳裏を揺れていた。
黒い霧の中。
ふいに小さな子どもの声が聞こえてきた。
『なぁ、お前はあんなやつに負けて悔しくないのか?』
誰だと問いかけるよりも早く自分の声が応じていた。
『だ、誰だ?』
『俺はお前みたいな弱いやつにはなりたくないんだ!』
耳に響くその声は間違いなく俺だった。
遠い昔。
怒りと不安しか持っていなかったあの頃の俺。
『お前は……そうか、俺か。でも、あんな滅茶苦茶な化け物に勝てるわけないだろ……!』
『そんなこと言ってるから、父さんも母さんも、お前を見捨てたんだよ』
胸の奥に焼きつくような衝撃が走る。
呼吸が止まった。
『は?何言ってんだよ。俺の父さんと母さんが俺を見捨てるわけがない……!』
『そう信じているなら、ちゃんと……思い出してみろよ』
その言葉とともに意識の底――ずっと沈めていた記憶の奥から旋律がゆっくりと浮かび上がってきた。
……母さんの声だ。
そよ風そっと葉を揺らし――
月の光が眠り誘う……
かすかに耳の奥で響いている。
風のように。
森の奥の大きな木――
不思議な扉が開くよ……
懐かしくて、あたたかくて、
それなのに今は胸が締めつけられるほど苦しい。
木々のささやき静かに響き――
優しき風がそっと包む……
精霊たちと夢の国へ……
目が覚めかけている。
けれど、あの旋律が消えない。
子守唄の余韻が今も確かに胸の奥に残っていた。
『……子どもの頃、母さんが寝る前に毎晩歌ってくれてた……なんで今この歌が?』
『天空、大丈夫だよ。この歌を歌って、母さんはいつも天空のことを見守ってるから』
『……母さん……』
ルナの声が幻の中から俺を引き戻した。
まぶたが震え、重たい光が差し込んでくる。
滲む視界の中で、ぼやけた輪郭がゆっくり形をとる。
「天空っ!大丈夫?目を開けて!」
光が、音が、匂いが戻ってくる。
それは痛みとともにだった。
頭が割れそうに重い。
けれどその中にルナの顔があった。
「ルナ……ここは……あいつは……あの化け物は?」
声はかすれ、喉は砂を噛んだように乾いていた。
それでもルナはすぐに答えてくれた。
「今ね、銀髪の男の子が来て……助けてくれたの。一人であの化け物と戦ってる。すごく強いの……!」
銀髪。
その言葉に雷のような確信が走った。
「……イヴァン、か?さっき……声が聞こえた気がした。戦ってるのか、今……!」
「えっ?知り合いなの?あの子、天空の――」
ルナの言葉を聞き終える余裕なんてなかった。
全身が砕けかけた人形みたいに軋む。
骨の奥まで痛む。
それでも俺は地面を押し、這うようにして身体を起こす。
足に力が入らない。
目の前が滲む。
それでも見たかった。
あいつの姿を。
視線の先――崩れかけた水の化け物と息を荒げながらもなお立つイヴァンの姿があった。
両者ともに満身創痍。
次の一撃ですべてが終わる。
このまま誰かが倒れれば終わる。
けれど――
俺は叫ばずにはいられなかった。
この声だけは届いてほしかった。
「イヴァン……!負けたら――ぶっ殺すからな……!」
怒鳴ったその声は震えていた。
痛みと、悔しさと、そして……確かにあった希望に。
◇ ◇ ◇
「天空が起きた。負けたら俺はまた殺されるのかよ。……それじゃあ――勝つしかないな」
息を吐いたイヴァンが笑う。
乾いた自嘲にも似たそれは、痛みを押し殺す音に近かった。
足元から突き上げてくる重圧に逆らい、崩れそうな身体を引きずるように立ち上がる。
限界はとっくに超えていた。
だが、まだ残っている。
奥底に燻るオーラを全身の芯へと絞り込んだ瞬間――空気が変わった。
重く、鈍く。
その気配に応じるように水の化け物が蠢く。
そして躊躇など一切なく動いた。
「――ウォーターハザード」
咆哮が空間を引き裂く。
次の瞬間、水の化け物が爆ぜるように膨張した。
轟音が石壁を揺らし、水鳴りが空間全体を震わせた。
その身は津波に変貌し、怒濤となってイヴァンへと襲いかかった。
ズザザザザ――!!!
地を抉りながら突進する奔流。
反応する暇もない。
目を開けることすら許されず、水が視界すべてを奪う。
かつての緩慢な動きなど微塵もない。
雷のような速度、殺意。
ただの一撃でイヴァンの身体を飲み干そうとしていた。
(違う……!さっきまでとはまるで別物だ!)
わずかに遅れた。
しかし極限まで高められたオーラが肉体よりも先に危機を察知する。
瞬時に滑るように横へ跳ねる。
だが逃げ切れない。
背後の水流が壁ごと、空間ごと迫ってくる。
巻き込まれれば終わり。
圧力は逃げ場すら許さず、水面の下に引きずり込まれるような気配が背に張りつく。
「速すぎる……!これじゃ、技を打つ隙がない……!」
身体を低く落とし、転がるようにして次の一撃を避ける。
だがそれすら読まれていたかのように大波が真上から――潰すように迫る。
「逃げてどうなる。俺に捕まった瞬間、お前の身体は水に沈み、酸素も意識も消える。死ぬまで抗え。溺れる時間を延ばすのも……悪くないだろう?」
声が水を通して響く。
空間そのものが囁いているかのようだった。
それは宣告でも脅しでもない。
ただ、事実だった。
イヴァンの表情が微かに変わった。
焦りはない。
冷たいまでの静けさ。
戻ってきた本来の眼差し。
(やっぱり……捕まったら終わりの技か。でも――)
思考を瞬時に遡る。
最初の正拳一閃突き。
その時、水の表皮は霧のように消えた。
空斬旋風脚でも同じ。
触れた水の塊は一撃で音もなく散っていった。
(……そうだ。俺のオーラの技ならこいつを打ち消せる)
確信が脳内で弾けた。
逃げるのをやめる。
一歩踏み込む。
水流の音が増す。
寒気を帯びた気配が迫る。
だが、もう目は閉じていた。
構える。
呼吸を、ひとつ。
流れは止められない――だから断つ。
「諦めたか!?――これで終わりだ、ウォーターハザード!」
化け物の叫びが響く。
イヴァンの瞼が閉じられたその瞬間。
――バシュッ。
水が爆ぜた。
遅い。
逃げる時間などなかった。
凍てつく水塊が一瞬で全身を覆い、彼を沈めるように締め付ける。
「イヴァン――!?」
「きゃあああ!」
天空の声が、少女の悲鳴が遠ざかっていく。
だが、イヴァンの思考は沈まなかった。
「捕まえたぞ……これで、終わりだ」
水圧が肺を潰す。
視界は青に染まり、音が消えていく。
深海に沈められたかのような静かで重たい絶望。
(……いいさ。こいつが俺を閉じ込めたってことは、もう逃げられないってことだ)
自身の核へと潜る。
揺れる視界の中、ひとつだけ沈まない意識があった。
そこに炎がある。
声もなく、爆ぜることもなく、ただ燃えている。
――沈めろ。
息を、鼓動を、思考すら。
――そして、燃やせ。
熱が走る。
肉体の芯から溢れ出す炎。
水に抗う光が内側から赤くきらめいた。
周囲の水が沸き始める。
空間が震える。
「……なんだこの赤い光は……!?なぜ、体の中に入れない……」
焼かれていた。
イヴァンを覆っていたすべてが。
それはただの拒絶ではない。
逆侵蝕。
外からではなく、内から侵されていたのは化け物のほうだった。
「ぐっ……う、ぐおおおおおお!?体が、煮え……、出る、出なければ……!」
水塊が泡を吹き、呻き声のように軋む。
だが逃げ道などない。
光は止まらず、むしろ今、形を取ろうとしていた。
炎が羽ばたく。
輪郭を宿したそれが、イヴァンの背に顕れた瞬間――彼の目が開かれた。
「――喰らえ。鳳凰正拳一閃突き」
叫びとともに拳が突き出された。
――ズオォォン!!
空間が軋む。
拳に纏った鳳凰が咆哮し、水という水を打ち砕く。
それは一撃だった。
鳳凰の翼が空間ごと裂いた。
一瞬の静寂。
その刹那――
バシュウゥンッ!!
圧縮された水塊が破裂し、爆裂音とともに空間全体が揺れた。
激しく跳ねた水蒸気が霧となって四散し、冷たさも重さも――そのすべてが一撃で霧消していた。
水の化け物は形を保つことすら叶わず、崩れ、溶け、音もなく消えていく。
ただ一滴の水すら残さず、その場から痕跡を失った。
やがて静けさが満ちる。
だがそれは単なる沈黙ではなかった。
空間を満たしたのは戦いを終えた者のみに許される熱――勝者の呼吸がもたらす、重く、乾いた風だった。
イヴァンは両足で地を噛みしめるように立ち尽くしていた。
肩が上下する。
荒い呼吸が止まらない。
全身を貫いていた力がわずかずつ抜けていくのを感じながら、それでも彼は立ち続けていた。
「……はぁ、はぁ……俺は……勝った、のか……?」
掠れた声が漏れる。
その問いかけに遠くから応えるように声が響いた。
「おっしゃー!さすがイヴァンだ!」
「すごい……!本当に、一人で倒しちゃった……!」
天空の叫びと少女の歓喜。
沈黙が支配していた場所に静かに色が戻る。
熱を奪った冷水の残滓の中に温かな命の声が溶け込んでいく。
イヴァンはゆっくりと拳をほどいた。
疲労が波のように全身を襲う。
膝が震え、足裏の感覚が戻る。
だが、それすらも心地よかった。
あらゆる緊張が解けるその一瞬にだけ訪れる安堵の重みだった。
足元に光る何かが転がった。
淡く澄んだ水色の結晶。
砕けた水の残骸とは明らかに異なる、
意志を持つような静謐な輝きがそこにあった。
「……これは……」
イヴァンはそっとそれを拾い上げた。
掌の中で結晶は宝石のように光を返す。
どこか、命の余韻にも似た感触があった。
「綺麗だな……」
ぽつりと呟いた。
それを手にイヴァンは歩き出す。
赤に染まった静寂の中を抜けて仲間のもとへ。
足取りは重く、だが一歩ごとに確かだった。
彼の背にまだ微かに揺らめいている。
あの鳳凰の尾が――赤い残光のように余熱をまといながら。
◇ ◇ ◇
イヴァンが、俺の方へと歩いてきた。
肩で息をしていたがその顔に疲れの影はなかった。
代わりに浮かんでいたのは戦いを終えた安堵と、どこか子供みたいな――無邪気な明るさだった。
「イヴァン、来てくれてありがとう。……本当に助かった。お前がいなかったら、俺――」
そこまで言って言葉を止めた。
でも、もう十分だった。
俺の声はちゃんと届いていた。
「天空、怪我……ひどいな。大丈夫か?今すぐ病院、連れてってやるよ」
「いや、いいよ。病院は……嫌いなんだ。ちょっとした打撲と擦り傷だけだし、家に帰って寝れば治ると思う。多分、だけどな」
「そんな無茶言うなよ。お前、立ってるのがやっとじゃないか」
「大丈夫だって。ほら、こうして立ってる」
強がって笑ってみせたけど――脚はもう、限界だった。
イヴァンが少しだけ眉をひそめたがそれ以上は何も言わなかった。
「でも、まあ……学校はしばらく休むかもな」
「そりゃそうだろ……」
そのとき、ルナが小さな声で口を開いた。
「あ、あの……助けてくれて、ありがとうございました」
「ん?ああ、気にしなくていいよ。たまたま近くを歩いてたら天空を見かけたんだ。間に合って、本当に良かった」
イヴァンは軽く笑いながらあっさりとそう言った。
その一言がどれほど安心させてくれたか――ルナもふっと微笑んでいた。
「体……いっぱい怪我してる。服も……ボロボロだよ?」
「へへっ、まあ派手にやっちゃったからな。でも平気平気。あの水の化け物にはこっちも本気でいかないと勝てなかったし」
「でも……大丈夫?あんなのと戦って本当に無事……?」
「うーん……大丈夫じゃないけど、大丈夫って事で」
イヴァンが苦笑混じりにそう返すと、ルナも思わず吹き出した。
そしてイヴァンがもう一度まっすぐ俺を見た。
「天空、あいつ……何者だったんだ?あんな化け物、見たことない。精霊とかそんなレベルじゃない」
「ああ、それは……帰ってから話すよ。俺にもまだ整理がついてない。でも、それよりも……」
そこで言葉が詰まった。
負けたんだ――あいつに。戦えなかった。
逃げて、怯えて、膝をついた。
「俺……あいつに負けたんだよ」
悔しさが喉の奥に詰まって思わず下を向いた。
熱いものが頬を伝って落ちる。
止めようとしても、止まらなかった。
イヴァンは黙ってしゃがみ込み、俺の目をまっすぐに見て言った。
「天空、大丈夫だ。あいつが強すぎただけなんだ。俺たち三人がかりでやっと倒せた相手だぞ?俺だって戦ってる間ずっと怖かったし、震えてたよ」
「イヴァン……俺、子供の頃よりも弱くなってるのかな……?」
吐き出すように情けない声で言った。
けれど、イヴァンはすぐに首を横に振った。
「違う、天空。お前は強い。俺が断言する。お前は普通の大人なんかよりずっと強い。さっきのお前の技、しっかり見てた。あれは本当にすごかったよ」
暖かかった。
その言葉に触れた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとう、イヴァン」
俺たちはゆっくりと歩き出した。
廃工場を背にして。
外は眩しいほど明るかった。
空は果てしなく澄み、雲ひとつなくて、あの激闘が嘘だったかのような陽射しが街を包んでいた。
潮の香りが風に乗って流れてくる。
「うわぁ~お空、凄く青いね!海の匂いも気持ちいい」
ルナが両手を広げて駆け出す。
さっきまでの恐怖を振り払うように、無邪気に。
「こんだけ戦ってたら、なんだか急に腹が減ってきたな……」
俺が言うとイヴァンがすかさず突っ込んだ。
「お前な、さっきドーナツ食べたばっかじゃん!どんだけ食うんだよ」
「イヴァン、お前……どこから俺のこと見てたんだよ……」
「ギクッ!」
イヴァンが小さく肩を揺らしたのを見て、俺はニヤリと笑った。
空は果てしなく青く、潮風は心地よかった。
波は太陽の光をキラキラと跳ね返し、さっきの水の怪物との死闘がまるで幻だったかのように――ただ静かに、時間だけが流れていた。
それでも俺の中には確かに残っているものがある。
痛みも、恐怖も、悔しさも――それでも、隣には仲間がいてくれた。
――きっとまだ終わっていない。
でも今は少しだけ。
ほんの少しだけ休んでもいいはずだ。
俺は立ち止まって目を細めて青空を仰いだ。
まるでその空がほんの少しだけ、俺たちを祝福してくれているような気がしたから。