第138話 食い違う証言と消えない疑念
岩肌に仰向けのまま倒れているポレモスを俺は見下ろしていた。
荒れた地形を抜けてきた風が、遅れて熱を奪うように頬を撫でる。
乱れていた呼吸が胸の奥でようやく一定の間隔を取り戻しつつあった。
背後で足音が二つ重なる。
少し離れた場所から様子を見ていたルナとラザロが慎重に距離を詰めてきた。
沈黙を破ったのは地に伏したままのポレモスだった。
「俺の負けだ。さっさと殺すがいい」
声には恐怖よりも力を使い切ったあとの重さが滲んでいた。
俺はポレモスの前に立ち、敵意も慈悲も示さないまま、ただ左手を差し出した。
「立てよ」
そう告げてから、一拍置く。
「俺が動いてる理由はパンドラを助けるためだ。煌月守衛軍と争うためじゃない」
ポレモスの瞳が、わずかに揺れた。
だが、すぐに険しさが戻る。
「……貴様、まだそんな戯言を口にする気か」
「パンドラから頼まれてた。帝国の連中を説得してほしいってな。その間は煌月家も俺を敵にしない――そういう話だった」
それが本当に約束と言えるのか自分でも曖昧だった。
パンドラが当主として俺と行動を共にしていたからこそ、どうにか成り立っていた均衡だ。
彼女がいない今、その前提は崩れている。
俺は一度息を整え、言葉をつないだ。
「だが現実は違う。煌月守衛軍は俺を裏切り者だと決めつけて襲ってくる」
「そんな都合のいい前提で動けるほど、俺たちは甘くない……」
ポレモスは一瞬だけ俺の左手を見た。
次の瞬間、それを掴む。
痛みを押し込めるように力を込め、その腕を支えにして、ゆっくりと上体を起こした。
「貴様が……パンドラ様を連れ去った帝国の連中と行動を共にしている以上はな。それだけで、煌月守衛軍として排除する理由には十分だ」
「俺を信じる選択肢は、最初からなかったのか」
問いかけの形をしていながら、俺自身、答えを期待していなかった。
「帝国のやつらと話せば済むことだろ。最初から敵だと決める必要はないはずだ」
ポレモスは俺を睨み返しかけ、途中でそれをやめるように視線を逸らした。
岩肌を見つめるその目には、怒りとは異なる感情が滲んでいた。
「帝国の連中と……話せ、だと」
かすれた笑いが漏れた。
「話し合いの場で、何度……」
言葉が途切れる。
続きを口にすれば、押さえ込んできたものが溢れてしまいそうだった。
「……民が倒れた。同じことを繰り返させないために、俺たちがいる。隙を見せれば――」
言い切る前に、ポレモスの視線がぐっと俺を捉えた。
その瞬間だった。
ポレモスの背後で低く冷えた声が不意に響いた。
「その通りだ。隙を見せれば、殺される」
鈍い衝撃が走った。
次の瞬間、ポレモスの身体が大きく跳ねる。
その胸元から鋭い金属の先端が突き出しているのが見えた。
一拍遅れて血しぶきが飛び散った。
「……が……」
声にならない息。
俺は反射的に一歩踏み出した。
「ポレモス!」
彼は口元から血を溢れさせ、力を失ったように崩れ落ちる。
「……やはり……帝国は……」
最後まで言い切ることなく、動きが止まった。
ポレモスの背後に立っていた人物を見て、喉が詰まった。
そこにいたのは――ラザロだった。
「てめぇ……ラザロ、何てことを……」
声が震えたのは怒りだけのせいじゃない。
言葉にできないズレが理解より先に感情を掻き乱していた。
「はぁ?」
ラザロは肩越しに俺を見る。
「煌月守衛軍最強の一人が、あそこまで弱ってたんだぞ。二度と来ねぇ好機だ。さっさと始末しねぇお前の方がどうかしてるぜ」
「……ポレモスは、最後まで俺の話を聞いていた」
指先に無意識に力が入る。
「俺の話を聞いていれば、追手は止まったはずだった……煌月守衛軍が動く理由だって、なくなった。それを……てめぇは……」
血の気が引き、思考より先に足が前へ出ていた。
「天空、止めて!」
ルナが俺の前に飛び出した。
両腕で俺の動きを遮り、必死に声を張る。
「ここで揉めてる場合じゃない!こんな所にいたら見つかるわ。今はこの場を離れることが先よ!」
「だけど……!」
納得できない言葉が喉に詰まる。
ポレモスの倒れた姿が脳裏から消えない。
その隙を縫うようにラザロが吐き捨てた。
「もう遅ぇよ」
ラザロが空を仰いで舌打ちする。
「別のやつらが飛翔呪文で向かってきてる。こいつを片付けてる暇なんかねぇ。さっさとズラかるぞ」
俺も視線を上げる。
遠くの空に淡く揺れる光がいくつも見えた。
「……くそっ」
確かに、時間は残されていなかった。
俺たちは言葉を交わすこともなく、岩場へ身を隠した。
ラザロを先頭に俺とルナは無言で進む。
足音を殺し、息を潜め、岩陰ごとに背後を確かめながら。
◇ ◇ ◇
足の感覚が曖昧になるほど歩き続けるうちに、すでに日が落ちていた。
いつの間にか背後に張り付いていた気配も消えている。
「……追ってきてないな」
ラザロが足を止め、低く言う。
「どうやら、うまく撒けたみてぇだ」
「それで……これから何処へ行くんだ?」
俺の問いにラザロは振り返らない。
「もう少し進めば地下アジトだ。一度、そこで身を隠す」
確かに煌月守衛軍の気配はない。
だが、胸の奥にはポレモスの最期を思う重苦しさが残っていた。
ポレモスの動向を見た限り、俺を追ってきたことは煌月守衛軍も把握しているはずだ。
そして、そのポレモスはラザロの手によって命を落とした。
結果として俺は完全に「裏切り者」だ。
もう言い逃れはできない。
追われる理由は嫌というほど揃っており、この先も煌月家に追われ続けるだろう。
……いや、そんなことを考えてる場合じゃない。
俺は歩きながら、ルナにだけ聞こえるように声を落とした。
「ルナ……パンドラは、無事なんだろうな」
ルナはすぐには答えなかった。
ほんの短い沈黙のあと、慎重に言葉を選ぶ。
「天空……今は話せないわ。ラザロがいる」
その横顔は隠しきれない緊張を帯びていた。
「アジトに着いたら全部話す。それまでは……信じてついて来て」
「……分かった」
それ以上は聞かなかった。
ラザロが岩場を慎重に下りていく。
俺とルナは、その背を追った。
見渡す限り人の気配は感じられない。
切り立った岩肌と乾いた風の音だけが続いていた。
――こんな場所に人が住めるはずがない。
そう思いながらも俺は言葉を飲み込み、ラザロの背を追った。
「……ここだ」
ラザロが足を止め、無骨な岩壁に魔力のともった右手をかざす。
次の瞬間、低い地鳴りとともに岩が自然に割れるように動いた。
それは隠し扉だった。
「着いたぞ。さっさと入れ」
促され、俺たちはその闇へ足を踏み入れる。
外の光はすぐに遮られ、岩の内側を進むたびに空気はひんやりと肌に触れた。
しばらく歩いた先で、視界が一気に開けた。
巨大な空洞――
岩の中とは思えないほどの空間が広がっていた。
その中央に、粗末だが人の営みを感じさせる家々が点在している。
揺れる灯りが壁に影を落とし、低い話し声が空洞の奥まで反響していた。
「……ラザロさん?」
気づいた仲間の一人が声を上げる。
「ご無事で……!」
安堵が、その場に一斉に広がった。
ラザロは仲間たちの視線を受け止めながら、淡々と告げる。
「水中のアジトが煌月守衛軍に見つかった。あそこはもう使えない」
空気が一瞬で凍る。
「そ、そんな……あの場所が……」
「だがな――」
ラザロは言葉を切り、わずかに顎を上げた。
「煌月守衛軍のポレモスを、この俺が殺した」
その一言で、場の張りつめた空気が一瞬、揺らいだ。
「……え?」
「ラザロさんが、ポレモスを……?」
ざわめきが走り、やがてそれは抑えきれない歓声へと変わった。
叫び声が重なり、拳が突き上げられ、安堵からか、遅れて嗚咽に近い泣き声まで混じった。
――俺は、その輪の外にいた。
ラザロの視線が今度はルナへ向けられる。
「ルナエレシア。疲れただろう。今日は……俺の部屋で休め」
「ラザロ、嫌よ……今は一人になりたい気分なの」
ルナの言葉に迷いはなかった。
ラザロの口元が、かすかに引きつる。
「そうか。ならば、この俺が癒しの時間を――」
「いい加減にして」
言葉は短く、拒絶は明確だった。
ルナはそれ以上何も言わずに背を向ける。
そのまま人影の間を抜け、振り返らずに視界の外へ消えていった。
その背中を見送りながら、俺はようやく理解した。
――あの「私の彼氏よ」という言葉。
あれは俺に向けられたものじゃない。
ラザロから距離を取るための防御の言葉だった。
胸の奥に小さな痛みが残る。
それが利用された感触なのだと遅れて理解する。
だが同時にルナがそこまで追い詰められていた事実だけは、はっきりと伝わってきた。
背後で低く抑えた声が落ちる。
「ルナエレシアは……お前が現れてから変わった」
振り返ると鋭い視線が突き刺さった。
「お前が何者かは知らんが、彼氏などという嘘までついてまで、ルナエレシアはお前をかばおうとしている。だがな――」
威圧するように影が一歩分こちらへ迫る。
「もし、お前がルナエレシアに手を出すようなことがあれば、俺は絶対に許さない」
そう言いながら、ラザロは顔を近づけてきた。
目を大きく見開き、わざと視線をぶつけるようにして無言の圧をかけてくる。
……何を言っている。
そこまで大きく目を見開いていながら、ルナに相手にされていない現実だけが、どうして見えないのか。
「お前が、まぐれでポレモスを弱らせたことには感謝している」
ラザロは疑問の余地もないという口調で続けた。
「だが、仕留めたのはこの俺だ。そのことは忘れるな」
――俺はポレモスを殺すつもりなどなかった。
それどころかポレモスを倒したという事実さえ、俺のものではなくなった。
もう反論する気力は残っていなかった。
「ああ……分かった。俺も疲れた。休ませてくれ」
「ふん。好きにしろ」
ラザロは、すでに興味を失ったように視線を外していた。
「おい。こいつに部屋を一つ用意しろ。それと右手の手当てもしてやれ」
その場にいた一人が無言で前に出てくる。
俺は何も言わないまま、その背中について歩いた。
案内されたのは岩壁をくり抜いただけの小さな部屋だった。
天井は低く、灯りも最小限で、床には毛布が一枚敷かれているだけだ。
「座れ」
短く言われ、腰を下ろす。
ほどなくして、治療師らしい女が入ってきた。
彼女は俺の正面に立つと、言葉もなく右手に目を落とした。
指の形、手首の角度、腫れ――必要なところだけを確かめる。
「骨が折れているわ。それも一本ではない。かなり強く打ちつけている……相当、無理をしたでしょう」
反応する間もなく、彼女は俺の手首に触れ、低く詠唱する。
「――ハルモス イアセオス」
掌から滲むような光が生まれ、指先から前腕へとゆっくり広がっていく。
時間の感覚が曖昧になり、鈍く残っていた痛みが内側からほどけていった。
歪んでいた感覚が少しずつ、正しい位置に戻っていくのが分かる。
どれくらい経ったのかは分からない。
気づけば息を詰めていた肩の力が抜けていた。
治療師はそれ以上何も言わず、静かに手を離す。
「もう動かせるはずよ」
確かめるように右手を握る。
違和感は残っているが、鋭い痛みは消えていた。
扉が開き、待っていた男が無言でこちらを手招きした。
「ここを使え」
改めて見回すと、やはり簡素な部屋だった。
囚人扱いに近いが、横になれるだけまだましだと思えた。
――だが、その考えはすぐに脇へ追いやられる。
意識はすでに別のところへ向いていた。
ルナだ。
話さなければならないことが多すぎる。
パンドラの居場所、そしてルナ自身に起きていること。
俺は立ち上がり、その部屋を後にしてアジトの奥へ足を向けた。
岩の内側に広がる空間は想像していた以上に奥行きがあった。
天井の高い空洞に、簡素な家屋が間隔を空けて点在し、灯された明かりが岩肌に歪んだ影を落としている。
俺はその中を歩きながら、ルナの姿を探していた。
――どこだ、ルナは。
家の中にいるのか、それとも別の場所か。
足を止めかけた、その瞬間だった。
「天空、こっちよ。ついて来て」
不意に、すぐ横から声がした。
反射的に顔を向けると岩陰に立つルナの姿が目に入った。
何も言わずにうなずき、俺は彼女の後ろについて歩き出した。
しばらく進んだ先でルナが足を止める。
目の前にあったのは、岩場の中では比較的しっかりとした造りの二階建ての家だった。
「さぁ、入って」
扉を開け、ルナは迷いなく中へ入る。
俺もそれに続いた。
室内は外よりもずっと整っていて、生活の痕跡がはっきりと残っている。
階段を上がり、二階の一室へ案内される。
「天空、疲れたでしょ。今日はこの部屋を使って」
そこには柔らかそうなベッドと、清潔に整えられた家具が並んでいた。
先ほど案内された毛布だけが置かれた小部屋とは、あまりにも違う。
だが、その差をどうこう言う気にはならなかった。
「……なぁ」
俺は視線をルナに向けたまま、静かに切り出す。
「そろそろ教えてくれ。どうしてこんな場所にいるんだ?オーウェンと一緒にアルテミスハースト城へ戻ったんじゃなかったのか。イヴァンの救出は、どうなったんだ?」
ルナはすぐには答えなかった。
わずかに視線を逸らし、考えをまとめるように間を置いてから口を開く。
「私はオーウェンと一緒に下の世界へ戻って来たわ。でも……異界樹が導いた先はアルテミスハーストから遠く離れた、この煌月家の敷地内だったの」
(俺がこっちの世界に来た時も見知らぬ砂漠だった。俺だけじゃなかったのか……)
「もちろん私たちはオーウェンと二人でアルテミスハースト城を目指して進んでいたわ。けれど、ある境を越えた瞬間、王国軍と帝国軍の衝突があまりに激しくなって、それ以上、前に進めなくなった」
「……こっちに戻るしかなかったのか」
「ええ。あの場所は想像以上に危険だった。オーウェンも無理に進むべきじゃないと判断したわ」
オーウェンがそう言うほどの場所。
その事実だけで王国と帝国は今もなお緊張が続いていることが伝わってくる。
「それで私たちはヴァルシオン帝国の近くで修行をする事にしたの。私はオーウェンからオーラの扱い方を教わった。拳での戦い方も……生き延びる為に」
思い返せば納得がいく。
ルナの動きはオーウェンやイヴァンと何処か似た動きがあった。
「オーウェンも修行を続けていたわ。前よりもずっとオーラの鋭さが増して……強くなった」
あんなに強い男が、さらに鍛え続けていった。
今のオーウェンがどれほどの域にいるのか想像もつかないな。
「そして――」
ルナの声が、ほんのわずかに低くなる。
「オーウェンは、あの激しい衝突が起きていた場所へ、今度は一人で向かったわ。争いを終わらせる為に」
息が無意識に止まった。
「……だけど、まだ帰ってきていない」
「生きているかどうかも分からないのか?」
「ええ。今もあの衝突の中にいるのか、それとも、もう戻れなくなっているのか……」
ルナの言葉はそこで途切れた。
それ以上続けなくても十分だった。
「その間、私は帝国の黒影軍と行動を共にしていたわ。でもその頃から煌月家が黒影軍を狙って襲撃を繰り返すようになったの」
「煌月家の攻撃……?」
「ええ。黒影軍も反撃はしたわ。でも、その反撃の中で大勢の住民が犠牲になった。そして――最後に、あのパンドラが黒影軍を壊滅させたのよ」
「……はぁ?」
思わず声が漏れた。
頭が、うまく追いつかない。
「パンドラが……町を攻撃した?」
「ええ、彼女の魔力はあまりにも強大で、誰一人として反撃できなかった。私たちはその町を捨て、隠れアジトを転々とするしかなかった」
信じられなかった。
俺の知っているパンドラと、その行動がどうしても結びつかない。
ルナは俺の反応を見ても否定も肯定もせず、沈黙した。
その間、胸の奥に鉛のような重みがのしかかった。
「なぁ、待ってくれ。俺は少し前までパンドラと一緒に行動していたんだ。とてもじゃないが、あのパンドラがそんな事をするとは思えないぞ」
「だから、確かめたいの。あなたが一緒に行動していた時のパンドラのことを」
「……俺はパンドラが身内同然の側近を切り捨てる覚悟まで抱えて動いてるのを見てきた。迷ってないわけじゃない。正しいのかどうか、いつも自分で抱え込んで……それでも前に進んでた。――だから無意味な殺しを選ぶとは思えない」
「天空……あなた、その時はケノリアとも一緒に行動していたのよね?」
ルナの問いかけは思ったよりも静かだった。
責める響きはない。ただ、確かめるような声。
「ああ。フィトリアで一緒にいた。だけどケノリアは自分が魔影軍にいるってことを隠すために煌月守衛軍に嘘をついた。その嘘のせいで……タナエルってやつの、よく分からない力を受けて……殺された」
言葉にした瞬間、胸が締めつけられた。
「お前、ケノリアを知っているのか?」
「ええ。彼女はフィトリアの町の出身よ。だから、あの町の内情を探る役目を任されていたの」
「……待て待て。ケノリアって本当にフィトリア出身なのか?」
「そうよ」
ルナは迷いなくうなずいた。
「そのフィトリアも数年前までは帝国の光翼軍が拠点にしていた町だったの。でも、町が壊滅したあと、しばらくして煌月家の人たちが移り住んだ」
「……町が壊滅した?」
「ええ、フィトリアでの争いは拮抗していたわ。むしろ、拠点を持つ光翼軍のほうが優勢だった。でも――」
ルナは一度、言葉を飲み込む。
「戦況をひっくり返した存在が現れたの。どちらの軍にも属さない、たった一人の存在が」
「……まさか」
「そう。幼い頃のパンドラ・煌月よ」
胸の奥が、ひどく冷える。
「彼女は当時のフィトリアを一人で攻め落とし、光翼軍を壊滅させた」
(……そんなはずがない)
俺の脳裏に浮かぶのは俺の知っているパンドラの姿だった。
言葉遣い、仕草、表情。
どれを取っても、町を滅ぼすような存在とは結びつかない。
「……その話、本当なのか?」
「フィトリアから帝国に逃げて来た人たちは、口をそろえて、そう言っているわ」
俺は黙り込んだまま、深く息を吐いた。
「フィトリアは長い間、飢えと病に蝕まれていた町だと聞いていたぞ。それを防ぐために、遺伝子組み換え作物の『カルポロス』を栽培していた。……いや、実際には実験だったんだけど」
「それはその後の出来事よ。その間もケノリアは魔影軍という素性を隠してフィトリアに住んでいた。妹の仇を討つ日が、いずれ訪れると信じて」
「本気かよ……」
俺はどうしても今の話が信じられなかった。
「なぁルナ、それで……パンドラは今どこにいるんだ?」
ルナの表情が、わずかに曇る。
「……答えを聞いたら、あなたは……黙ってはいられないでしょう?」
「ああ」
「正直に言うわ。彼女が今も無事でいるかどうかは分からない」
嫌な緊張がじわりと心の奥に広がる。
ルナは一拍置いてから、言葉を選ぶように続けた。
「ただ、その場所は――玄冥魔軍のアジトよ。この地で帝国軍を指揮している……総司令官がいる場所」
その言葉の意味が、遅れて胸の奥で重くのしかかってきた。
「……まだ、生きているかどうか分からない、ってことか」
「ええ」
ルナは俺から視線を外し、窓の向こうに広がる岩の闇を見つめた。
「天空が、どうしてそこまでパンドラを助けたいのか……私にはまだ分からない。彼女は、あなたが思っているよりずっと危険な存在なのよ」
その口調は忠告というより、俺の答えを待っているようだった。
目を閉じる。
思考を整理するためじゃない。
胸の内に渦巻く複雑な思いを、ただ受け止めるために。
数日間――
何かを確かめ合うように過ごした、あの時間。
距離を測るような空気の中で、それでも彼女が見せた表情。
冗談めいた口調の裏にあった妙な誠実さ。
「それでも……俺は……パンドラを助けたい」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「あいつは俺の事を信じていた。俺もあいつの事を信じているんだ。もし今聞かされている話が本当なら……」
一度、言葉が止まる。
「俺はパンドラの口から聞きたい。どうして帝国の軍勢と衝突する道を選んだのか。何が、そこまであいつを追い込んだのか。理由があるはずだ」
ルナはしばらく黙って俺を見ていた。
その視線が揺れ、やがて小さく息を吐く。
「……分かったわ。そこまで言うなら……私も彼女と会って話をしたい」
「……ルナ」
「天空。玄冥魔軍のアジトへは私が連れて行く。今は休みましょう。朝を迎える前に出発するわ」
そして、少しだけ表情を和らげる。
「それと、イヴァンの事は安心して。彼は無事よ」
「本当か?良かった!」
「でも……今はパンドラを助けに行く事だけに集中して。イヴァンの詳しい事は後で話すわ」
「おう、分かった」
「それに……あなたがこっちの世界で何を経験してきたのか、聞きたいの」
その言い方で、ようやく緊張が解けたように感じた。
「ああ、それなら山ほどあるぜ。異界樹を抜けたら、いきなり砂漠で――」
言いかけた、その瞬間だった。
胸の奥に、説明のつかない人の気配を感じる。
「……待ってくれ」
「え?」
「窓の外に……誰かいる気がする」
自分でも理由は分からない。
だが、確かに誰かの視線を感じた。
ルナは怪訝な顔で窓へ歩み寄り、外を覗く。
俺はその背後に立ち、同じ方向を見る。
「……誰もいないわよ」
闇と岩肌しか映らない。
「そうか……気のせいかもしれないな」
俺は首を振る。
「念のため、閉めておこう」
「ええ」
ルナは窓を閉め、カーテンを引いた。
室内は灯りだけに包まれ、外の気配は断ち切られる。
だが――
その光景を岩陰で見つめていた影があった。
拳を強く握りしめ、感情を押し殺すように。
ラザロは無言のまま、静かにその場を離れた。
俺がその存在に気づくことはなかった。
◇ ◇ ◇
一方、遠く離れた岩場では地に伏していたポレモスの亡骸が静かに運ばれていた。
周囲に立つ煌月守衛軍の兵たちは誰一人として言葉を発さない。
その光景を見下ろす者がいた。
――カティフラクト
動かぬ身体を前に、わずかに目を伏せる。
「……ポレモス」
低く漏れた声は風に溶けて消えた。
それぞれの思惑が静かに交錯し始めていた。




