第137話 圧倒のはずだった差と拳に残された答え
ポレモスとは数歩踏み込めば届く距離を保ったまま、互いに動かずに向かい合っていた。
逃げ場はない――そう判断せざるを得ない事実を空気そのものが突きつけてくる。
隣にいるルナは言葉を失い、ラザロもまた息を潜めたまま動けずにいた。
三人を包むこの圧は魔力の量だけでは説明できない。
呼吸の間合いすら狂わせる、長く破壊だけを積み重ねてきた者の纏う純粋な威圧だった。
ポレモスが低く声を響かせる。
「覚悟しろよ、裏切り者。貴様が隠している事を一つ残らず話してもらう」
喉の奥に冷たいものが落ちる感覚を押し殺し、俺は一歩も引かずに返した。
「俺は裏切ってなんかいない。俺は俺自身の意思でパンドラを探しに行く。お前らと一緒にいちゃ、自由に動けないからな」
一瞬、場が静まる。
だが、その沈黙は疑念が深まる前触れに過ぎなかった。
「……ならば、何故だ」
ポレモスの視線が俺の胸元へと落ちる。
「何故、貴様は帝国のローブを身に着けている。その胸の印――帝国に従順を誓った者だけに与えられる証ではないか」
言われて初めて視線がそこに引き寄せられた。
ローブの胸元――視線を落とさなければ気づかない位置に小さな模様が刻まれている。
俺自身、その意味など考えたこともなかった。
「知らねぇよ。魔影軍のアジトにあったのを適当に着ただけだ」
そう言いながら俺はローブの前紐を解いた。
その瞬間――ラザロの目が見開かれる。
「……おい。その中に着てる服」
短く、だが強く言葉が落ちた。
「それは……煌月家に忠誠を誓った者しか着られない装束だぞ」
「はぁ?」
思わず声が裏返る。
「俺は煌月家に忠誠なんて誓ってねぇ!」
視線を落とすと、戦闘服の端に見覚えのある紋章が縫い込まれていた。
知らないうちに俺は王国と帝国――両方の印を身にまとっていたらしい。
「ふざけた野郎だな」
ラザロが吐き捨てる。
「見た目は帝国、身の内は王国。ずいぶん都合のいい立ち位置だな?」
「だから知らねぇって言ってんだろ。服にいちいち意味なんか持たせるなよ。面倒くせぇ」
その一言で均衡が崩れた。
ポレモスの表情が歪む。
怒りが抑制を突き破ったのがはっきりと分かった。
「貴様の存在そのものが煌月家への侮辱だ」
低く、だが逃げ場のない声。
「その報い――今ここで受けてもらう」
次の瞬間、ポレモスの全身に力が満ちる。
空気が軋み、風が唸り声を上げた。
「はあああぁぁぁ!」
圧が爆発するように広がり、足元の地面が震える。
身体の内側まで揺さぶられる感覚に思わず息が詰まる。
このままルナを置いて逃げることはできない。
考える余地はもうなかった。
「ルナ、ラザロ、下がって」
俺は一歩踏み出し、構えを取る。
その背後でルナが必死に声を張り上げた。
「天空、駄目よ……!いくら天空が強くても、あんな相手に勝てるわけがないわ。天空には見えないかもしれないけど……あいつの魔力は桁が違うのよ」
不安と恐怖が滲んだ声。
それでも俺は振り返らずに答えた。
「大丈夫だ、ルナ」
短く、だがはっきりと。
「俺は――あいつに勝てる。少なくとも、今のあいつならな」
「……え?」
ルナの息が詰まる。
その言葉を聞いたポレモスが力を溜めたまま笑った。
「くく……」
低く、愉快そうな声。
「貴様が俺に勝てるだと?いいだろう」
笑みが獰猛に歪む。
「ならば教えてやる。俺の圧倒的な破壊力で――貴様がどれほど自分を過信していたかをな」
ポレモスを中心に空気がさらに沈み込んだ。
言葉以上に雄弁な重圧が肌にまとわりつき、呼吸の速度がひと呼吸ずつ削られていく。
「……さぁ、いくぞ」
宣告と同時に地面を裂く音が走った。
踏み込んだ瞬間、砂利が弾け、巨体とは思えない速度でポレモスが迫る。
振りかぶりの予備動作すらない。
殴りかかる拳は視界が追いつく前に落ちてきた。
俺は身体をひねり、肩を抜き、足裏の軸だけで重圧をいなしていく。
風を切る音が後頭部をかすめ、その度に地面が深くえぐれ、小石が弾丸みたいに散った。
(……これ、一発でもまともに受けたら骨がバラバラになるだろうな)
回避と同時に俺は低く滑り込み、反動を利用して蹴り上げ、そのまま拳をねじ込んだ。
「これでもくらえ!インフィニット デストラクション パンチ!」
拳は確実にポレモスの顔面へ届いた。
手応えはある。拳が確かに当たったという鈍い反動だけが掌に残った。
だが――
「……なんだ?その貧弱なパンチは」
ポレモスは顔面で受け止めたまま、わざとらしく首を傾けてみせた。
ルナもラザロも、すぐには言葉が出なかった。
「あのパンチを真正面から受けて……無傷って……」
ルナが息を呑む。
次の瞬間、俺は大きく跳び退き、間合いをとる。
しかしその距離は一瞬で消える。
ポレモスの地を蹴る音が遅れて届き、拳と蹴りが嵐のように襲いかかってくる。
避けるたび足元の地面がえぐれていく。
土煙が途切れず舞い上がり、視界は常に揺れていた。
その隙を縫うように俺は空中へ身を躍らせ、回転の勢いを殺さずに足を振り下ろす。
「くらえ──スピニング アックス クラッシュ!」
回転の頂点から斧で叩き割るように振り下ろした踵がポレモスの肩に確実にめりこんだ。
けれど──
微動だにしない。
まるで分厚い壁に蹴り込んだような錯覚だけが足裏に残る。
俺は着地と同時に後退しながら息を整え、苦笑した。
「……嘘だろ。新技なんだけどな、これ。せめて少しは揺れてくれよ……ちょっとショック」
「そうか。だが残念だったな。俺には効かん」
「……にしてもさ、ずっとノーガードってどうなんだよ。いつか痛い目見るぞ?」
「くっくっく……何度やっても同じことだ」
再び巨体が動いた。
空気が押し退けられるような重さを伴い、拳と蹴りが連続して落ちてくる。
その軌道は乱雑ではなく、力任せでもなく、ただ破壊そのものを目的にした直線的な圧力だった。
回避する俺の動きは次第に加速していった。
ただ速くなるのではなく、反応そのものが磨かれていくような感覚だった。
避ける瞬間から反撃へ自然につながるように、肩、腰、膝が連動し、動きの前がすでに次の後へ繋がっている。
ポレモスの足が荒れ地をえぐり、拳が振るわれるたびに小石と粉塵が跳ねる。
その全部を俺はくぐり抜け、すれ違う瞬間には拳や蹴りを返していた。
だが――
当たっても効いていない。
それを見ていたラザロとルナが声を上げる。
「あの男の攻撃はポレモスに全然通用していない。このままだとそのうちポレモスの攻撃に当たってしまうぞ」
「でも天空はポレモスの攻撃を全て避けている。紙一重で避けているわけじゃないわ」
ルナの視線は、ただ目の前の戦いを見ているものではなかった。
彼女の瞳にはポレモスの身体を巡るオーラの動きが映っていた。
ポレモスは攻撃の一瞬前、必ずその部位へオーラを集める。
殴る前の拳、踏み込む前の脚、重心が移る瞬間。
それらの部位に濃い色のようなものが流れ込み、力が溜まっていく。
ルナにはその変化が手に取るように分かる。
だが――もっと驚いていたのは、その前の動作だった。
ポレモスのオーラが集まるより先に俺はすでに回避の動作に入っていた。
視えてから動くのではない。
視える前に感じている。
それが俺が修行で身につけたセンソーラだった。
第5感、第6感のさらに先――第七感で次の動きを感じ取り、予兆を掴む力。
ルナはその仕組みを知らないが、俺の動きが未来を読むかのように見える理由を彼女の目だけはしっかりと理解していた。
「ポレモスの攻撃は全然当たらないけど、天空の攻撃は確実に当たっているわ」
「……だけどその攻撃も、あのポレモスには全くきいていないんじゃ意味がないだろ」
ルナの言うとおり、俺の攻撃は着実に当たっている。
だが、ポレモスの連撃はなお止まらず、その圧力はむしろ増していた。
「うおおおおおおっ!」
咆哮とともにポレモスが大地を蹴った。
巨体が跳ね上がる。
影が広がり、空がふさがる。
「全てを押しつぶしてやる!くらえ、ネクサス ブラスト!」
轟音とともに大地が爆ぜた。
地面に亀裂が走り、岩が跳ね、粉塵が噴き上がる。
俺はその着地の衝撃の外側を滑るように抜けた。
だが――
それすら囮だった。
ポレモスの声が背に迫る。
「ようやく捉えたぜ。これで終わりだ、ディメンション クラッシュ!」
振り返る間もなく必殺の拳が俺の身体を狙って迫る。
重さだけではない。圧がある。
迫るだけで肺が圧縮され、呼吸が詰まる。
避ければいい。たぶん、避けられる。
だが、俺は避けなかった。
避けたくなかった。
力でねじ伏せたかった。
やられたら終わり。それでも、正面から上回りたかった。
身体の内側で熱が走る。
心臓の鼓動が加速する。
視界の中心に拳と拳が重なっていく。
「これが俺の――本気の中の本気だ……!」
踏み込む。
地面が沈む。
すべての力が拳に集まる。
「うおおおおっ!――インフィニット デストラクション パンチ!!」
叫びと同時に拳が突き出され、互いの軌道が一点へ収束した。
次の瞬間――
ズドォンッ!
大気が爆ぜた。
拳と拳が激突した衝撃が周囲の空気を一気に押しのけて突風を生む。
舞い上がった岩が空中で砕け、粉のように散る。
地面が一拍遅れて唸り、割れ目が走った。
そして――
右手に焼け付くような痛みが走った。
拳の感覚が一瞬、完全に途切れたかと思った次の瞬間、遅れて激痛が押し寄せる。
指先から手首にかけて力が入らず、拳から血が弾け、皮膚の下で骨の位置がずれ、右手はもはや形を保っていなかった。
「天空!?」
ルナの叫びが震えていた。息を飲む音すら聞こえるほどに。
対してポレモスは勝ちを確信したような顔をした。
「くっくっく!残念だったな。俺の拳に正面から打ち合うとは無謀にもほどがあるぞ」
その声は勝利を確信した者の余裕。
俺の右手がどうなっているかは、ポレモスの目にもはっきり映っていた。
「くっ、いてぇ……やっぱ、すげぇ破壊力だな。こんなの、くらった事ねぇ」
俺が苦笑ともつかない声を漏らすと、ポレモスは地を蹴って一気に距離を詰めてきた。
「残念だが、これで最期だ。――やはり、貴様はここで死ね!ディメンション クラッシュ!」
大振りではない。
狙いは俺の顔面。
殺すためだけに研ぎ澄まされた、迷いのない一撃。
次の瞬間、その拳が狙い澄ました軌道で俺の顔面を捉えた。
ルナが再び叫ぶ。
「天空!!」
だが――
「へっ……なんだ?その貧弱なパンチは」
俺はその拳を顔面で受け止めたまま、わざとらしく首を傾けてみせた。
殴られて痛みがないわけではない。だが、重さが消えていた。
「……な、なんだと」
ポレモスが初めて動揺を隠せない目を向けてきた。
その瞬間を逃さず、俺は左拳をわき腹へ叩き込んだ。
「うおらあぁぁ!」
ポレモスの胴が内側へ押し込まれるように沈み、鈍い音が響く。
「ご、ごほっ!」
ポレモスが咳き込み、身体が揺らぐ。
そのわずかな後退にラザロとルナの目が大きく見開かれた。
「嘘……今の、効いたの?」
「一体何が起こってる?」
ポレモスは半歩、さらに半歩と後ずさる。
信じられないものを見たような表情のまま。
「ば、ばかな……」
「てめぇがさっき踏み込んできた時に気づいたぜ。もう力尽きてるってな」
「なんだと?」
ポレモスが踏み込んだ瞬間、その速度ははっきりと鈍った。
俺はその変化を見逃さなかった。
「尽きたんだろ?てめぇの魔力が」
ポレモスの顔が強張る。
図星だった。
ポレモスの身体は、常に魔力で底上げされていた。
だからこそ俺の攻撃がまったく通らなかったし、ポレモスもわざわざガードする必要がなかった。
だが魔力が尽きた瞬間、その身体は支えを失い、ただの巨大な肉体へと引き戻された。
俺は左脚で踏み込み、その勢いを乗せて左拳を再び叩き込む。
ポレモスが焦って腕でガードを固めたが、その上から重い衝撃を受けてよろめく。
そこからは連打だった。
左拳、左脚、回し蹴り、打ち下ろし――
傷んだ右手を除く、すべてを叩きつけた。
ポレモスはもう反撃どころではない。
守るだけで精一杯。
その防御も徐々に遅れ、乱れ、沈んでいく。
その戦況を見ながらラザロがルナに声を潜めた。
「ルナエレシア、あいつに何が起こったか分かるか?」
ルナは真剣な表情で頷いた。
「天空は『魔力が尽きた』と言っていた。多分ポレモスは魔法で身体を強化していた。だから天空の攻撃を避けもしなかった。最初から、そんな必要はなかったのよ」
「では何故あの男はポレモスのパンチを真っ向から受けた?待っていれば魔力切れを狙えたはずだろう?」
ルナは大げさでも冗談でもなく本気でため息をついた。
「……それは天空が救いようのない馬鹿だからよ。ポレモスの魔力が尽きる寸前だって分かっていて、最後だけは正面から勝負したかった。負けると分かっていてもね」
ラザロが絶句する。
「……なんだと」
その間にも俺の攻撃は止まらなかった。
左拳で鳩尾を打ち抜き、膝で下腹を押し上げ、回転して横蹴りを叩き込む。
ポレモスは腕で顔を庇いながら、もう後退するしかなかった。
いや――反撃しても俺に届かないことを自分の身体で理解しつつあった。
「唸れ――俺の左拳」
踏み込みと同時に身体の軸が沈む。
地面を蹴る感触が足裏から脊椎へ伝わり、力が一点へと収束していく。
「うおおおおぉ!アポカリプティック バニシング アッパー!」
左拳が跳ね上がった瞬間、空気が裂けた。
顎を打ち抜かれたポレモスの巨体が、わずかに遅れて揺らぐ。
「……ぐっ」
初めて手応えがはっきりと返ってきた。
重心が崩れ、視線が泳ぐ。
さらに踏み込んだ足を軸に身体を回し、左拳を胸元へ引き絞った。
「今度こそ、くらいやがれ」
呼吸をひとつだけ置く。
そして、溜め込んだ力を一気に解き放った。
「これが――俺が本気で鍛えた拳だ!インフィニット デストラクション パンチ!」
ズドドドン――!
拳が顔面を捉えた瞬間、衝撃が爆ぜる。
ポレモスの身体は抵抗を失い、宙へと浮き、そのまま叩き落とされた。
「ぐはあっ!」
鈍い音が地を打ち、砂ぼこりが跳ねる。
巨体が横たわり、しばらく動かなかった。
俺は息を整えながら一歩ずつ近づいた。
「……ポレモス」
返事はない。
だが、意識はまだある。
「お前は城の中でも暴れ回り、魂光の湿原でも大勢の魔物相手に一人で戦い続けた。そして俺たちを追うために飛翔呪文まで使ってる」
視線を落とし、その身体の状態を見極める。
「あの飛翔呪文をラザロが少し使っただけで、あれだけ息を切らしてたんだ。お前だって同じくらいの魔力を使っていたはずだ」
「……くっ」
かすれた声。
だが、呼吸は乱れていない。
「それなのに、お前はほとんど息を切らしていない。凄まじい魔力を持っていることは認める」
一拍置き、俺は続けた。
「だけど、俺との戦いでお前は攻撃の魔法を全く使ってこなかった」
ポレモスの瞳が、わずかに揺れる。
「攻撃も、防御も、移動も。全部、身体を強化するために魔力を使っていたんだろ」
地面に視線を向ける。
「お前のパンチをかわした時、当たってないはずなのに地面が削れてた。触れてもいないのに……おかしいと思ったよ。力の逃げ方が普通じゃなかった」
「……ちっ」
「常に魔力で全身を底上げしてた。だから強い。だから硬い。だから俺の攻撃も通らなかった」
俺は拳を握り直す。
「でも、そのせいで、他のことができなかった」
一歩、踏み込む。
「攻撃の魔法を放つ余裕も、防御を切り替える判断もな」
ポレモスの表情が、はっきりと歪んだ。
怒りでも恐怖でもなく、自分自身の選択を突きつけられた者だけが見せる鈍い揺らぎだった。
「てめぇのそのデカい身体、ちゃんと鍛え上げてきたんだろ」
俺は静かに言った。
「だったら、もっと自分の体を信じればよかった。全部を魔力に任せず、肉体と組み合わせて戦ってたら――」
一瞬、言葉を切る。
脳裏に浮かんだのは、かつて死の境界で拳を交えた男。
パイロス。
あの男が極めていたヒートウェーブヴェイルは闘極気と魔力を合わせたものだった。
どちらにも寄りかからず、力を重ねていた。
そこに強さの上限は存在しなかった。
視線を戻す。
「俺に勝ち目はなかったかもしれねぇ」
「くっそおおおお……!」
悔恨と怒りが混ざり合い、逃げ場を失った感情が音になって弾けた。
俺は拳を下ろしたまま、一歩も踏み込まずに告げる。
「タイム・オーバーだ」
その一言が落ちた瞬間、この場を支配していた圧が音もなく崩れた。
戦いは、もう終わっていた。




