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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第130話 孤独と向き合う者と涙で赦す者

辺りはすっかり夜に沈み、車窓の外には漆黒の草原が果てしなく広がっていた。

ときおり遠い丘の上にぽつりと灯る明かりが、波のように揺れながら後方へ遠ざかっていく。

魔導車の車輪が草を踏むたびに低く響く振動が車体を伝い、座席の下を微かに震わせる。

車内は息苦しい静寂に支配され、眠気の入り込む余地すらなかった。


どれほど走ったのか、時間の感覚はとうに失われていた。

ふと、外から鋭い声が響いた。

静寂を切り裂く、警戒と確認の叫び。

魔導車が速度を落とし、揺れが弱まり、やがて完全に停止した。


対面に座るタナエルが窓の外を睨んだまま、抑えた声で言った。


「着いた。降りろ」


「……着いた?」


掠れた自分の声に驚いた。

どこへ連れて行かれようと、もはやどうでもよかった。

ルナとイヴァンを救うためにアルテミスハースト城への道筋を掴む。

それだけが心の唯一の支えだった。

どんな場所であれ、脱出の機会を見つけられれば、それで十分だと思っていた。


だが、現実はあまりにも冷酷だった。


外へ出ると、鋭い夜気が肌を刺し、張りつめた空気が全身を包んだ。

周囲を見渡すと十数名の兵士がすでに俺を取り囲んでいた。

彼らの無言の視線が一斉に突き刺さる。

その静かな圧迫感に晒され、「逃走」という言葉は脳裏から完全に消え失せた。


背後では鎖に繋がれたエピメスがカティフラクトに引かれて静かに地面へ降ろされていた。

別の魔導車からは眠ったままのパンドラが兵士たちによって慎重に運び出される。

新たに用意された神輿のようなベッドに横たえられ、薄絹のヴェールがその身体を優しく覆った。

パンドラの穏やかな寝顔を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張がふっと解けた。


「ここはどこなんだ?」


俺はタナエルの背に問いかけた。


「ついて来い」


短く告げるその声に、一切の説明はなかった。

彼は振り向きもせず歩き出す。

その両脇では兵士たちが整列し、誰一人として呼吸を乱さぬまま、一斉に敬礼をしていた。

その静けさの奥には規律と恐怖の入り混じった匂いが漂っていた。


俺はタナエルの背を追った。

足音が重なるたびに現実から一歩ずつ遠ざかる感覚が胸を締めつけた。


階段を登りきった瞬間、空気が一変した。


目の前に広がるのは、まるで別の時代に迷い込んだかのような格式高く豪華な光景だった。

深紅の絨毯がまっすぐに伸び、壁には金と銀で縁取られた紋章が等間隔に並ぶ。

天井には無数のシャンデリアが吊り下がり、魔導灯の淡い光が宝石に反射して揺らめいていた。

夜のはずなのに眩しいほどの明るさ。

だが、その光にはどこか現実離れした静けさが潜んでいる。


「……まさか、ここは」


息を呑む俺にタナエルが短く答えた。


「ここは煌月家の由緒正しき居城、煌月城だ」


「……パンドラの家」


その言葉は無意識のうちに漏れた。

広大な空間に声が吸い込まれていく。

単なる豪奢さではなかった。

壁の装飾も、扉の細工も、すべてが生きているように感じられた。

まるで城そのものが、息を潜めて呼吸しているかのように。


シャンデリアが人の気配に応じてわずかに揺れ、扉は軋む音を立てて自らの意思で開き、通り過ぎると静かに閉じた。

廊下に並ぶ甲冑の飾りが、微かに首を傾ける。

足元の絨毯は踏むたびに波紋のように揺らめき、淡く光を放った。


通路の奥では淡い光の文字が空中に浮かんでいた。

タナエルはそれを見上げ、慣れた様子で進路を確認する。

光の字はゆっくりと揺れながら形を変え、俺にも読める言葉を浮かべた。


『客人を大広間へ』


途中、貴族の男女がすれ違いざまにタナエルへ一礼した。

彼らの視線は俺には向けられず、明らかに彼に対して恐怖と敬意を抱いていた。

ドレスをまとった貴婦人たちは距離を保ちながらも、その背を目で追っていた。

どの顔にも恐れと好奇の入り混じった静かな表情が浮かんでいた。


円形の小部屋に入り、扉が閉じた瞬間、身体がふわりと浮くような感覚に包まれた。

上下の感覚が曖昧になり、まるで重力そのものが入れ替わるかのようだった。

扉が開いて一歩踏み出した時には、すでに上階の回廊に立っていた。


やがて重厚な扉の前に辿り着く。

タナエルが掌をかざすと、扉の表面に刻まれた紋章が青白く光り、音もなく開いた。


中は広々とした大広間だった。

床は鏡のように磨かれ、柱には古代文字のような模様が刻まれている。

その中央に一人の老執事が立っていた。

背筋は真っ直ぐに伸び、白髪は後ろへ滑らかに撫でつけられ、衣服の細部まで整然としていた。


「これはこれは……オーシャン様。ご無事で何よりでございます」


老執事――ジェラントスの声は深く、室内に落ち着いた低音が満ちていた。

威圧も余計な感情もなく、ただ静かで揺るぎない落ち着きを漂わせている。


王国の人間は信用できない――。

魔法船でのあの一件を思えば、それは揺るぎようのない結論だった。

信頼という言葉を口にするのが、ばかばかしく思えるほどに。


「ああ、それで……俺はこれからどうなるんだ?」


掠れた声で尋ねると、ジェラントスはわずかに顎を引き、丁寧に一礼した。


「我々は『客人』に危害を加えることはございません。お部屋をご用意しております。どうぞ、ご案内いたします」


「……分かった」


それ以上の言葉は交わさなかった。

長い廊下を並んで歩く間、話すきっかけはいくつもあった。

だが、沈黙だけが流れていた。

問いただしたいことは山ほどある。

しかし、口を開けば心の奥まで見透かされるような気がした。

ジェラントスの穏やかな声の奥には微かな警戒が張りつめている――そう感じた瞬間、胸の奥がひやりとした。


脳裏に、あの瞬間がよぎる。

パンドラが倒れたとき、ジェラントスが放った言葉。

「あなたは、パンドラ様に何をなされたのです?」と。

その言葉は今も耳の奥にこびりついて離れない。


パンドラが眠りの病に冒されていることを、この男が知らないはずがない。

にもかかわらず、まるで俺の手で彼女を眠らせたかのようなその言い回し。

偶然ではない。

あの言葉は俺を疑うためか、試すためか――あるいは、もっと深い何かを隠すためか。


考えを巡らせているうちに、いつの間にか目的の部屋へ辿り着いていた。


「中には寝台と浴室を備えております。お疲れでしょうから、お食事もご用意しております。本日はどうぞ、ごゆっくりお休みください」


「……ああ、ありがとう」


口先だけの礼を返すと、部屋に足を踏み入れた。

その瞬間、天井のどこからか無機質な声が響いた。


『オーシャン様が入室いたしました』


背筋に冷たいものが走る。

ジェラントスは微笑を浮かべたまま、「では、失礼いたします」と言い残し、静かに去った。

扉が自動的に閉まる。

まるで部屋そのものが俺を閉じ込めたかのようだった。


ベッドに腰を下ろす。

柔らかな寝具が冷えた身体を包み、わずかに力が抜けた。

だが、すぐに違和感が蘇る。

壁も床も、どこか人工的だ。

呼吸のたびに空気がわずかに震え、耳を澄ませば低い作動音が響いていた。


視線を上げると壁の鏡が一瞬、揺れたように見えた。

いや、違う。揺れたのは鏡そのものではなく、鏡の中の俺の姿だった。

その動きが、わずかに遅れて映る。


……監視されているのか。


上の世界でいう盗聴器や監視カメラ。

下の世界では魔力を媒介にして同じことができると考える方が自然だろう。

水晶玉か、魔術的な鏡か――誰かが、どこかで俺の行動を覗いているに違いない。


俺は気づかぬふりをした。

何も知らない客人を装う方が今は安全だ。


ふとテーブルの上に目をやると、そこに見覚えのあるバッグが置かれていた。

魔法船から飛び降りたあの日、置き去りにしたはずのバッグだ。

どうしてここに?

俺がこの城に来ると知っていた者が、わざわざ届けたとでもいうのか。


バッグを開くと、中身は全てそのままだった。

上の世界で着ていた服、非常食、そして――スマートフォン。

服は丁寧に洗濯され、畳まれている。


「……嘘だろ」


思わず息を呑む。

指先でスマホの画面を押すと、暗闇が一瞬にして光に変わる。

バッテリー残量――95%。

何ヶ月も充電していないのに、ほぼ満タンだ。


「何だ、これは……」


言葉が途切れる。

誰かが充電したのだ。だが、どうやって?

この世界に「電気」は存在しないと思っていた。

ならば、魔力か?魔導灯や浮かぶ文字と同じ原理で、俺のスマホを動かしたのか?


スマホは開かれた形跡はない。

パスワードも解除されていない。

もし解析されていれば、次は顔認証が作動するはずだ。

つまり、俺のスマホを触った者はその用途をまだ理解していない。


「……それにしても凄い部屋だな。記念に写真でも撮っておくか」


わざと独り言を漏らす。


「時計を見ると……もう九時か。飯でも食って寝るか」


スマホを時計つきのカメラ、あるいはただの装飾品だと思わせておく。


テーブルの料理に視線をやる。

香ばしい匂いが漂い、皿の上では湯気が立ち昇っている。

色とりどりの食材は、まるで光を含んでいるように美しかった。

その整いすぎた美しさが、かえって不安を誘った。

毒か、精神を緩ませる魔法か――何か仕掛けられているかもしれない。


それでも、俺は自然にスプーンを取った。

疑いを見せる方が危険だ。

ジェラントスの振る舞い、タナエルの態度――彼らは俺を「客人」として扱っている。

毒殺するなら、もっと直接的な方法を選ぶだろう。


静かに口へ運び、淡々と噛み、飲み込む。

味は……悪くない。

いや、あまりに洗練されすぎていて、逆に不気味だった。


食事を終え、ベッドに身を預ける。

疲労が重く、まぶたが落ちる。

最後に目に映ったのは、天井に浮かぶ淡い光の粒。

それは、俺の眠りを静かに見守るように瞬いていた。


――早く、この城から抜け出さなければ。ルナとイヴァンを救うために。

そう思った瞬間、意識は静かに闇へと沈んでいった。


◇ ◇ ◇


朝が来た。

瞼の裏を透かすような淡い光が部屋を満たし、意識がゆっくりと浮上していく。


眠っていたというより、監視の視線の中で意識を閉ざしていたという方が正しいだろう。

それでも、ベッドの柔らかさと静寂だけは確かで、寝返りを打つたびに包み込むような寝具が微かな音を立てた。

居心地は悪い。

だが、動かずにいるだけなら、それもまた贅沢といえるかもしれない。


しばらく天井を見つめていたが、やがて息を整えて上体を起こす。

シャワー室に入ると魔力制御の装置が青白い光を放ち、滑らかな水流が肌を撫でた。

湯気が立ちこめ、身体の冷えはほどけていく。

それでも心の奥に巣食う不安は温もりに触れても消えなかった。


着替えは部屋の隅の衣装棚に整然と並んでいた。

どれも上質な布地で仕立てられ、手触りだけで値が張ることが分かる。

俺が選んだのは白を基調に深い緑が差し色として入った服だった。

袖口と襟には銀糸の刺繍が施され、貴族の紋章のような模様が繊細に浮かび上がっている。

装飾は控えめだが、着る者を自然と正すような威厳があった。


鏡の前に立ち、襟を整える。

だが、鏡の中の俺は、ほんの一瞬――気づくか気づかないかの僅かな遅れで同じ動作を繰り返した。


……やはり、この鏡は普通の鏡ではない。

あの鏡を通して誰かに見られている。

胸の奥に微かな苛立ちが滲む。

監視されているという事実に慣れるつもりなどなかった。


◇ ◇ ◇


扉に近づくと自動で鍵が外れ、滑るように開いた。

同時に天井から無機質な声が響く。


『オーシャン様が退出いたします』


抑揚のないその音声は建物そのものが喋っているようだった。

廊下に出ると、背後の扉が音もなく閉じる。


なるほど。この部屋は本人以外が入ることができない仕組みらしい。

まるで生体認証のような魔法構造。

技術の進み具合は、やはり上の世界に匹敵している。


角を曲がったところで淡い光の文字が空中に浮かび上がった。


『オーシャン様、朝食のご用意が整っております。ご案内いたしますので、このままお進みください』


無機質な声が響く。

俺は息をひとつ吐き、淡く光る矢印に導かれるまま歩き出した。


◇ ◇ ◇


「オーシャン様、ここからは私がご案内いたします」


ふいに声をかけられ、振り向く。

そこに立っていたのは、八十を越えてなお背筋を真っすぐに伸ばした老婦人だった。

白髪をきちんとまとめた髪は光を受けて銀色に輝き、深緑のドレスの胸元には煌月家の紋章が燦然と輝いている。


若い使用人が何人もいるはずなのに、なぜ彼女が案内役なのか――そんな考えが頭をかすめたが、口にする気にはならなかった。

無言のまま後に続く。


「どうですか?このお城の雰囲気は。お気に召しましたか?」


突然の問いに俺は短く返す。


「……ああ」


「ほっほっほ。若いのに、随分と考え込んでおられますな。何かお悩みですかな」


「……ああ」


「若いうちは悩んで当然です。年を取ってからでは、もう何も変えられませんからのう」


「……そうか」


「申し遅れました。私の名はパソニアと申します。この城のことは隅から隅まで知っておりますよ。何かお尋ねになりたいことがあれば、遠慮なくどうぞ。ちなみに、わたくしの若さの秘訣は――」


その先は意識の半分以上が聞き流していた。

話の内容が右から左へと流れていく中で、俺は周囲を観察していた。


通路の左側には大きな窓。

外には朝の光を浴びた庭園が広がっていた。

だが、ここは高すぎる。飛び降りるなど論外だ。

まるで高級ホテルの最上階。逃げ道など存在しない。


下へ降りるには昨日のエレベーターを使うしかない。

だが、あれは魔力反応で作動していた。俺一人では動かせるかどうかも分からない。


――逃げ道は、まだ見えない。


パソニアの話は途切れることなく続く。

若さの秘訣から健康法へ、気づけば人生論にまで話が及んでいた。

俺は生返事を繰り返しながら、その声を遠くで聞いていた。


◇ ◇ ◇


廊下の終わりに、金の扉が見えてきた。

空気がふっと変わる。ほのかに香る花の匂いが鼻を掠めた。


「さぁ、着きましたよ」


パソニアが軽く頭を下げ、扉に手をかける。

静かな音を立てて開かれたその先には、眩いほど整えられた食堂が広がっていた。


天井は高く、陽光を受けた金の装飾が繊細な光の筋を散らす。

長大なテーブルの上には白布が張られ、並ぶ椅子の列は貴族の晩餐を思わせた。

人々のざわめきがあるのに、不思議と静けさが漂っていた。

笑い声も会話も控えめで、視線だけがこちらに集まっているように感じた。


「ここで食事をするのはいいんだけど……もう少し人目の少ない席を頼む」


「かしこまりました」


案内されたのは壁際の端の席だった。

そこに腰を下ろすと、無音のまま銀の皿と白磁のカップが並べられた。


香ばしい匂いが湯気と共に立ち上り、胃の奥がほのかに反応する。

皿の上には瑞々しい果物、焼きたてのパン、淡く光を帯びた魚の切り身が並ぶ。


食べられるうちに食べておこう。

そう思い、黙々と口に運んだ。

味は上品で調味も完璧だ。

それでも何かが欠けている。

温度でも、香りでもない。

この城に漂う整いすぎた秩序が、料理の味までも均一にしてしまっているようだった。


数口目を終えたところで、俺は横に立つパソニアにそっと声をかけた。


「……パンドラは、まだ眠っているのか?」


パソニアは柔らかな微笑みを浮かべ、穏やかに頭を下げた。


「はい、そのようです。目をお覚ましになりましたら、すぐにお知らせいたしますよ」


「そうか……」


フォークを置く小さな音が広々とした食堂にひそやかに響いた。

その音が消えると広間は息を潜めたように静まり返った。


「じゃあ、それまで部屋で待機しててもいいか?」


「ええ、どうぞごゆっくりお休みくださいませ」


その言葉を最後に俺はゆっくりと席を立った。

絨毯が敷かれた廊下を進むたびに足音は柔らかく吸い込まれ、静寂がまるで影のようにつきまとった。


◇ ◇ ◇


部屋へ戻ると、扉の閉まる音と同時に空気が止まったような静寂に包まれた。

昨日の出来事が頭の奥で執拗に蘇る。


エピメスが帝国の魔影軍の軍団長だった。

その魔影軍とは何なのか。

彼らが何を目的に動いているのか。

パンドラをそこまでして狙う理由――それを考えても答えはどこにもなかった。

ただ確かなのは彼女が標的にされる理由がどこかに隠されているということだ。


ベッドの端に腰を下ろし、冷えた空気の中で息を吐いた。

パンドラと過ごした数日を思い返す。

彼女はパイロスのように恐怖で民を縛るような支配者ではなかった。

むしろ、リモルナやエピスティアのような煌月家の名を汚す者たちに対し、真っ直ぐに立ち向かおうとしていた。

その姿に、俺は一度として偽りを感じたことがない。

彼女の言葉も行動も、飾り気のない誠実なものだった。

それが、俺の知るパンドラ・煌月という人間だった。


――それなのにどうして彼女が狙われる?

その問いだけが形を持たぬまま頭の奥で渦を巻き続けていた。

誰が敵で、誰が味方なのか。

信じることさえ、まるで巧妙な罠のように思えてくる。


◇ ◇ ◇


一日が過ぎ、夕暮れが城を包むころ、空気はゆっくりと夜の色へ変わっていった。

パンドラはまだ目を覚まさない。

窓の外では陽が傾き、城下の灯が次々と灯り始める。

部屋の窓から差し込む月明かりが、机の上の水差しに淡く揺らめいていた。

その光をぼんやりと見つめながら、俺はただ、静かに待ち続けていた。


やがて、沈黙を破るように扉が軽く叩かれた。


「オーシャン様、パンドラ様がお目覚めになられました。すぐにお越しくださいとのことです」


パソニアの落ち着いた声だった。

思わず息を詰めた。

パンドラが目を覚ました――


その言葉だけで張りつめていた時間が一瞬にしてほどけた。

安堵が胸の奥を満たす。

だが同時に、説明のつかない迷いが残る。


(彼女は……俺に何を求めている?)


待ち続ける間も、頭の中では同じ問いが巡っていた。

パンドラも、エピメスも……俺を利用しているだけなのではないか。

俺はただ、都合のいい駒にすぎないのではないか。


だが、そんな疑念の果てにいつも思い出すのは彼女のあの言葉だった。


――「この混迷の地で、わたくしが心から信用できるのは……あなただけですわ。ですから……お願いがございますの。目の前の出来事がどれほど確かに見えても、どうかすべてを疑ってくださいませ」


あれは本心だったのか。

煌月守衛軍という絶対の力を握りながら、彼女は自らの部下すら信じきれていない――そう言いたかったのか。

それとも、俺を縛るための巧妙な言葉だったのか。

いくら考えても答えは出ない。


彼女と共にいた時間は決して長くはなかった。

けれど、あの短い日々の中で、彼女がいたからこそ孤独を忘れられた。

監視されているような感覚の中でも、彼女といる時間は穏やかで、次第に煌月家の当主という肩書きを意識しなくなっていった。

そこにいたのは、ただ――ひとりの、信じたいと思える人だった。


だが今、会おうとしているのはその女の子ではない。

煌月家の当主、パンドラ・煌月――この国を背負う者。


息を吸い込み、心を静める。

絨毯が敷かれた廊下を進むたび、足音が遠く沈んでいった。

扉の向こうから、かすかな光が漏れている。


扉を開くと、広間の空気が一変した。

高台の玉座にはパンドラ。

その傍らにはタナエル、一歩下がった位置にジェラントス。

円卓の両脇には、貴族たちが沈黙のまま整列していた。


張り詰めた空気の中を俺は一歩ずつ進んだ。

絨毯が足音を吸い込み、静寂が重くのしかかる。

すべての視線が俺へ注がれる。

この場で何を問われるのか――尋問か、それとも断罪か。

嘘をつけば、タナエルの力で即座に命を奪われるかもしれない。


緊張を押し殺し、歩みを止めたその瞬間――


「オーシャン!」


澄んだ声が広間の空気を震わせた。


玉座から立ち上がったパンドラが裾を翻して階段を駆け下りる。

驚く間もなく、彼女は一直線に俺のもとへ走り寄り――そのまま抱きついた。


「なっ……」


すべての時間が止まった。

ジェラントスも、タナエルも、貴族たちも息を呑む。

誰もが信じられないという表情で、ただ二人を見つめていた。


パンドラの身体が小さく震えていた。

胸に顔を埋め、声を押し殺すように泣いている。

俺は何も言えなかった。


ただ、その涙の温かさが頬を濡らすたび、胸の奥で何かがゆっくりとほどけていく。

孤独も、疑念も、静かに溶けて消えた。


――どうして泣くんだ?


理由は分からない。

けれど、この瞬間だけは彼女の温もりが確かに心に触れていた。

俺はもう疑うことをやめた。


気づけば目の奥が熱い。

涙が滲み、視界が揺れる。

彼女の背にそっと手を添えた。


言葉はいらなかった。

彼女が心の底から俺を信じてくれている――その確信だけが胸に広がっていく。

涙が頬を滑り落ちた。


もう、疑う理由などどこにもなかった。


静寂の中で、ようやく気づいた。

どんな言葉よりも深く、彼女の温もりが告げていたのだ。

――信じていい、と。

異界樹物語を読んで頂きましてありがとうございます。

ここから世界一面白いストーリーが展開していきます。


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