第127話 煌月家の汚名と未完の言葉
緑の草原が広がる中、紫の霧が地面を這い、草の先端を不気味に揺らしていた。
エピスティアの巨体がその中心で脈打っている。
俺はエピスティアへと飛び込んだ。
紫色に染まった体は不気味に脈動し、節々から無数の蔦が意思を持つかのように不気味に動いていた。
その先端には牙を模した花弁を持つ花が咲き、食らいつこうと口を開けた。
「グギャアアア!」
甲高い咆哮を背に俺は空中で身をねじり、最初の蔦を回避する。
先端が空気を切り裂き、地面へ叩きつけられた瞬間、土が弾け飛び、衝撃が鼓膜を揺らした。
間髪入れずに次の蔦が足元を狙う。
俺はその軌道を読んで跳躍し、落下の勢いで根元を左足で踏み潰した。
その反動を利用して右拳を振り抜く。
「おらぁ!」
バキッと乾いた音が響き、緑の粘液が飛び散った。
「まだだ!」
身体を低く傾け、蔦の群れを縫うように走る。
縄のように絡み合った外皮を引き裂き、俺は徐々に本体へ迫った。
「受けてみろ!インフィニット デストラクション パンチ!」
全身の力を右拳に凝縮し、エピスティアの紫色の胴体へ叩き込む。
ズドン!
鈍い衝撃が幹の芯まで響き、表皮が波打つように凹んだ。
腕から腰へ反動が伝わり、確かな手応えがあった──拳は深く食い込んでいる。
だが、次の瞬間には押し返される。
カルポロスの力の暴走で肉体は異様に硬化し、衝撃を吸収して打撃を殺していた。
「くそっ……この本体、岩みてぇに堅ぇ!」
焦りが胸を締め上げるが構わず拳を握り直す。
直後、地面が割れ、別の蔦が下から突き上がった。
牙のような花弁を開き、俺の胴を狙って振り下ろされる。
俺は紙一重で身をひねり、反転して回し蹴りを叩き込んだ。
「次はこれだ!ハリケーン スイング キック!」
回転の遠心力を乗せた蹴りが側面を直撃し、紫の外皮が裂ける鋭い音が響いた。
粘液が飛び散り、巨体がぐらりと傾く。
砂埃が渦を巻いて舞い上がった。
足裏に伝わる反動がさらに次の動きを後押しした。
「どうだ!」
しかし倒れはしない。
代わりに蔦の群れが一斉に蠢き、波のように押し寄せる。
無数の蔦が脚を絡め取ろうと迫り、先端の粘液が地面を腐食させる音がかすかに聞こえた。
「なにぃ……?」
右足が絡み取られ、牙の花弁が脚に深々と食い込み、灼けつく痛みが貫いた。
奥歯を強くかみ合わせ、左足で地面を蹴って跳躍する。
空中で身体を回転させ、全身の力を振り絞るようにして絡みついた蔦を引きちぎった。
パキンと乾いた破裂音。
自由を取り戻したが安堵する暇はない。
「グオオオオン……!」
喉を震わせるような低い唸りと共にエピスティアの巨大な口が開く。
赤黒い斑が脈打ち、喉奥から炎の渦がうねりを上げて湧き上がる。
「グオオオ……!」
喉奥で弾けた火種が膨れ上がり、巨大な花弁の口から灼熱の炎が噴き出した。
それは魔力の暴走がもたらした──カルポロスの力による業火だった。
「なっ、そんなのありかよ!」
オレンジ色の火球が唸りを上げて迫る。
空気が焦げ、熱波が肌を叩く。
爆風に視界が揺れ、周囲の草木は瞬時に黒焦げた。
「熱っ!」
横へ飛び退き、熱波をかすめながら炎をかわす。
直後、火球が地表に激突し、爆ぜた衝撃で灰と煙が渦を巻き上げた。
炎をかわすと同時に一気に踏み込み、途切れぬ連撃を叩き込む。
この距離を保てば炎を吐く隙を与えないと読んだからだ。
目にも留まらぬ速さで拳と脚を放つ。
右拳のストレートが胴を抉り、左のフックが側面を揺さぶる。
ローキックで蔦を断ち、ハイキックで頭頂の口を狙う。
「おらおらおらぁ!」
拳と足を畳みかけるように叩き込み、紫の外皮に亀裂が走る。
黒緑の液体がじわりと滲み、俺の一撃が確実に効いている手応えがあった。
エピスティアの巨体が軋み、脈打つ音が不規則に乱れる。
抵抗の力が薄れ、蔦の動きに迷いが生じていた。
遠くでリモルナの声がかすかに響いた。
「なんて力……!」
彼女の視線の先で、俺はさらに拳を振り上げる。
◇
リモルナの顔が歪んだ。
驚愕と信じ難い光景への呆然が混じる。
「あの男、なんという強さなの……。全身が強化されたエピスティアをまるで圧倒してる……!」
彼女は倒れているパンドラの傍に膝をつき、慌ただしく指輪の波長を調整する。
淡い光が縁から波紋のように広がり、空気には耳の奥を突く高周波が混ざり始めた。
だが、パンドラの瞼は重く閉じられたまま微動だにしない。
どれほど光が揺れても、彼女の瞼は動こうとしなかった。
「無理よ……。こんなことくらいで眠っているパンドラ様が目を覚ますのなら、病なんて一瞬で治せるはずだわ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやくが、声には慰めの響きが混じり、心の脆さがにじみ出ていた。
その時――
パンドラの指先がほんの一瞬だけ、ぴくりと痙攣した。
リモルナはその小さな動きに気づき、期待と恐怖が入り交じった息を漏らす。
◇
中央に立つ俺は荒れ狂う空気の中で息を整えながら状況を読み取っていた。
エピスティアの再生速度は確かに異常だ。
カルポロスの力が細胞を瞬時に補修し、致命的な傷を許さない。
だが観察するうちに俺はそこに一つの法則を見た。
同じ箇所に連続で衝撃を与えれば再生が追いつかなくなる――再生には「間」が必要なのだ。
ならば、その間を潰す。
絶え間ない連撃で修復の隙を奪い続ければ、どれほど強靭なものでも必ず崩れるはずだ。
「うおおおおっ!」
叫びと共に両腕を振り抜く。
「オメガ インパクト ストーム!」
拳が嵐のごとく繰り出され、絶え間なく衝撃を叩き込み続けた。
紫の外皮が裂け、緑の体液が飛び散る。
蔦はしなび、牙の花弁はひしゃげ、巨大な口が軋む音を立てて閉じた。
「はぁ……はぁ……どうだ!」
動きは明らかに鈍っている。
エピスティアはうつ伏せに崩れ、かつての猛威は消えかけていた。
だが、そこに横たわる姿は人間だった痕跡をかすかに残していた――その無惨さに胸が締めつけられた。
突如、不意に背後で地を擦るざらついた音がした。
振り返る間もなく蔦が瞬く間に伸び広がり、俺の右腕を絡め取る。
冷たい粘液に覆われた蔦が骨を圧迫し、息が詰まる。
「まだ生きていやがったか……」
その直後、俺の声に応えるように怪物の喉から不気味なうなりが漏れた。
さらに一本の蔦が腰に巻き付き、俺の身体を宙に引き上げた。
重心が崩れ、締めつける痛みが全身に走り、呼吸が途切れそうになる。
エピスティアがゆっくり立ち上がり、口を開いた。
内側に並ぶ牙から焦げた臭いが流れ出し、喉奥に炎が燻る。
「グオオオオオーーッ!」
吐息が熱波となって顔を叩き、眼が焼けるように痛んだ。
視界が熱で揺らぐ。
オレンジ色の炎が舌の奥で蠢き、噴き出す予兆を放つ。
(やばい……このままじゃ避けられない!)
胸を締め付ける圧迫感。
腕も腰も固く縛られ、全身はほとんど動かせない。
汗が額を伝い、鼓動が耳を叩きつけるように響いた。
遠くでリモルナの声が震えた。
命令を装った必死の懇願だった。
「エピスティア!やめなさい!これは命令ですわ!」
だが返ってきたのは低いうなり声。
その瞳に姉の姿を認識する余地はもはや残っていなかった。
カルポロスに侵食された体は理性を喰われ、ただ吼え、ただ喰らうためだけに動いていた。
俺は奥歯を噛みしめた。
絶体絶命の拘束。
その中で思考だけが異様に冴え渡る。
(炎を吐く瞬間、動きが止まる……その止まった隙を突けば……!)
だが蔦は鋼のように固く、俺の四肢を確実に縛り上げる。
口腔の奥で赤い渦が巻き、熱が気管へ押し寄せる。
四肢を縛られ、猶予はすでに尽きかけていた。
「くそっ……センソーラも使えねえ。どうすりゃいいんだ……」
その時、視界の端で黒い炎が揺らめいた。
黒く燻る炎――それはパンドラの手から生まれていた。
瞬間、場の空気が重く変わる。
エピスティアの口内の灼熱が黒炎に塗り替えられ、周囲の空気を圧迫するように動きを鈍らせた。
「この炎は……パンドラ?」
振り返ると、薄く瞼を開いたパンドラが右手をこちらへ伸ばしていた。
身体はまだ起き上がれずにいたが、その指先から迸る力が蔦を緩めていく。
束縛の隙間を突き、俺は体を捻って脱出した。
着地と同時に反転し、再びエピスティアの胴へ突進する。
そして胸の奥に溜め込んでいた力を解き放ち、叫んだ。
「今だっ!くらえ――エタニティ スピリット エクスプロージョン!!」
拳から放たれた光が巨体を裂き、内部に幻想の森が広がった。
樹々が揺れ、深緑の枝葉がざわめくと、森そのものが一羽の孔雀へと変化する。
羽は瑠璃色、深緑、金、紫、橙――やがてその輝きは無数の色彩へと広がり、まるで光の絵具を空間に散りばめたかのようにきらめいた。
孔雀が羽を広げ、虹色の光が満ちる中、閃光と化して巨体を内側から炸裂させた。
光の奔流がエピスティアの体を内側から引き裂き、蔦は弾け、牙は砕け散り、濁った粘液が四方に飛び散った。
孔雀の残像は虹の軌跡を描き、消える刹那まで光を視界に残していった。
「ギャアアアアアーーッ!」
絶叫と共にエピスティアの体は宙を舞い、崩れ落ち、そして形を失って消滅した。
再生の連鎖さえ、崩壊の衝撃には耐えられなかったのだ。
音が途切れ、場に静けさが満ちる。
その余韻の中、俺はふらつきながらもパンドラとリモルナのもとへ歩み寄った。
パンドラは力尽きたように膝をつき、深く息を吐く。
リモルナは震える指で指輪を押さえ、顔を引き攣らせていた。
「リモルナ。あなたは自らの野望のために他者の尊厳を踏みにじりましたわ。『研究』という名の傲慢で多くの命を犠牲にし、煌月家の名と国の秩序を汚したのですわよ。カルポロスは力を与えますが、理性を蝕む毒でもありますわ。制御を失えば、人は人でなくなるのでして。あなたは己の野心を満たすため、妹にカルポロスを注入し、彼女を怪物に変えたのですわよ。その結果、妹は消え去り、怪物だけが残ったのですわ。あなたの研究はあなた自身を喰らい始めていますわよ。それを誇りと呼ぶなら、幻想に過ぎませんのでして。あなたの体内に潜むカルポロスは必ずあなたを裏切りますわ。その現実を直視せず、研究にしがみつく愚かさを、わたくしは決して許しませんわ」
リモルナは声を震わせ、目の奥に後悔の色を宿した。
「パ、パンドラ様……私は……間違っていました。研究に囚われ、権力のため、煌月家のためと口実を並べ……いつしか残酷さを量る尺度を失っていたのです。実験の結果こそ正義だと信じて……。けれど……エピスティアの目を見たとき、気づいたのです。そこに残っていた声が、カルポロスに呑み込まれて消えていくのを……。カルポロスは私の恐怖と欲望を増幅しました。今の私の中にあるものもいずれ制御を失う……その恐怖を理解しました。どうか――どうか、お許しください……」
嗚咽まじりに言葉を紡ぎながら、リモルナは己の過ちを一つずつ吐き出していった。
パンドラは黙って聞き、やがて冷ややかな決断を告げる。
「リモルナ。あなたを煌月家から追放いたしますわ。本来ならばあなたを生かしておくことはできません……けれど今だけは、お逃げなさい。わたくしの気が変わらぬうちに。この場を去る猶予は、ほんのわずかですわ」
リモルナは顔を歪め、深く頭を垂れた。
震える足取りで立ち上がり、振り返ることもできず、森の闇へと消えていった。
俺は咄嗟に声を上げた。
「なぜ逃がすんだ!放っておけば、また同じことを……!」
パンドラはゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
瞳には深い疲労の影が落ちていた。
「オーシャン……わたくしから一つ、どうしてもお願いがございますわ。どうか聞いてくださいませ」
不意に投げかけられた言葉に胸の奥がざわめいた。
この場で、なぜ願いを託すのか――。
「わたくしは、まもなく深い眠りに落ちますわ。次に目を覚ますのがいつになるのか……それは分かりませんわ。だからこそ今、伝えておきたいのです。オーシャン……上の世界から来たあなたにだけ」
上の世界。
その言葉が胸を締めつけた。
彼女は俺の正体を知っている。
だが、なぜ今、そのことを――。
その問いに答えるように彼女の手がそっと俺の頬に触れた。
体温をわずかに帯びたその掌が思いがけずやわらかく、暖かかった。
「この混迷の地で、わたくしが心から信用できるのは……あなただけですわ。ですから……お願いがございますの。目の前の出来事がどれほど確かに見えても、どうかすべてを疑ってくださいませ」
切実な声に息を呑んだ。言葉の重みが胸に沈む。
パンドラはそこで小さく息をつき、睫毛を伏せた。
「わたくしが眠った後……ケノリアさんが――」
続きを告げようとした瞬間、彼女の瞼が閉じられ、全身から力が抜け落ちた。
「パンドラ?おい、パンドラ!」
必死に揺さぶっても彼女は応えず、深い眠りに落ちていた。
だが胸に刺さるのは、直前に口にした名前――ケノリア。
なぜ今、その名を?何を警告しようとしたのか?
視界はじわじわと霞み、胸の奥に渦を巻く疑念だけが鮮明に広がっていった。
◇ ◇ ◇
パンドラを抱え、疲労に足を取られながらも俺は森を抜け、フィトリアの町へたどり着いた。
見慣れた門が視界に入ると、そこに待機していた兵士たちが一斉に駆け寄ってきた。
「こ、これは……!パンドラ様、お体に何が……」
衛兵のひとりが目を見開き、声を震わせる。
俺は荒い息を吐きながら返した。
「はぁ……はぁ……頼む、館まで運ぶのを手伝ってくれ。ひとりでは……もう限界だ」
「は、はやく!パンドラ様を館の中へ!」
兵士たちは俺からパンドラの体を受け取ると、かつてリモルナが住まいとした館の中へと運んでいった。
俺もその後に続き、深紅の絨毯が敷かれた廊下を進んで寝室へと入った。
そこには天蓋付きの壮麗なベッドが据えられていた。
兵士たちがそっと横たえたパンドラは静かに眠り続けている。
彼女の体には外傷らしい傷は見当たらない。
だが俺が出会ってからの短い間に彼女が意識を手放すのはこれで三度目だ。
そのうち二度はリモルナとエピスティアによるもの。
では、最初の一度は――。
あの魔法船の中で会話の途中で何の前触れもなく急に眠り込んだ。
あれは病の兆しなのか、それとも誰かの仕掛けによる干渉なのか。
指輪が奏でる音の波長で眠りを強制するなど、そんな仕掛けが他に存在するのだろうか。
だがあの時、船内にいたのは俺と彼女だけ。
外部の侵入を許さない密室だった。
にもかかわらず執事が驚愕したあの表情が頭から離れない。
――本当に病気なのか。疑念が胸に巣食う。
その時、寝室の扉が開き、エピメスとケノリアが入ってきた。
ふたりとも歩を進め、ベッドに眠るパンドラの傍らに立つ。
俺はエピメスを見て声を掛けた。
「エピメス、体はもう大丈夫なのか?」
「ええ、久しぶりに泳いだせいで、体力を使いすぎましたが、少し休ませていただいたおかげで大分楽になりました。回復魔法を私自身に施しましたから、もう歩くことくらいなら問題ありませんよ」
ケノリアがすぐに言葉を挟む。
「どうかご無理はなさらないでくださいね、エピメス」
「ご心配なく、私は大丈夫です。――オーシャンさんも無事に戻られたのですし、まずはお食事を取りましょう。あなたこそ無理を重ねるべきではありません」
俺は心の中で舌打ちを抑え込んだ。
「……おいおい、昨日知り合ったばかりだろ。ずいぶん早く打ち解けたもんだな。こっちは命懸けで怪物とやり合ってきたってのに」
そんな俺の心中を知ってか知らずか、ケノリアは「うふふ」と小さく笑みを漏らす。
パンドラが静かに眠る傍らで、俺たちはひとまず食事を取ることにした。
重苦しい空気は残ったままだが、体力の回復も必要だった。
食卓には館の者が用意したスープとパンが並んでいた。
俺はそれを口に運びながら、先ほどの戦いで起きたことを改めて語り始めた。
カルポロスの完成版を注射したことでリモルナとエピスティアの力が飛躍的に高まったこと。
だがモノフローンの薬を注射したことでエピスティアは制御を失い、植物の化け物へと変貌してしまったこと。
そして、リモルナが指輪の波長を用いてパンドラを強制的に眠らせたこと。
俺の話を聞き終えるとエピメスは眉を寄せ、ゆっくりと整理するように言った。
「つまり……あの地下にいたハイブリッドは実験体に過ぎず、完成版はエピスティア様とリモルナ様自身が投与された。けれど、そこへモノフローンさんの薬を組み合わせたことで安定を失い暴走へと至った……そういうことですね」
「ああ。怪物化したエピスティアを止めるのは本気でしんどかった。常識外れの再生能力だったからな」
「……そしてリモルナ様は、その場を去られたのですね」
俺は少し間を置き、あらためて口を開いた。
「……ああ。パンドラが判断して、リモルナを逃がした。あの状況で捕まえたとしても、眠ったままのパンドラを抱えていたら、どちらにしても逃げられてたと思うしな」
言葉にしながらも胸の奥にはまだ拭いきれぬ疑念が残っていた。
パンドラが最後に言い残したあの一言――「わたくしが眠った後……ケノリアさんが――」。
あの言いかけて途切れた声が、頭から離れない。
視線を横に流すと、ケノリアがエピメスの隣で黙々と食事を口にしていた。
いつもと変わらぬ仕草、感情を映さない横顔。
だがその自然さこそが、かえって俺の胸にざわめきを残した。
リモルナと繋がっている可能性……。
もしそうだとしても今やリモルナはこの町から追放された身だ。
ならばケノリアが脅威になることなどないはず。
そう頭では分かっている。
だが、それでもパンドラの言葉は胸の奥で棘のように引っかかり続けていた。
加えて、あの言葉にはもう一つ別の意味が潜んでいた。
わざわざ俺が「上の世界から来た」ことを口にした点だ。
パンドラはいつからその事実に気づいていた?
いや、それ以上に――なぜ、あの場面で俺に告げたのか。
その理由だけは、どうしても見えなかった。
そんな俺の沈黙を察したのか、エピメスがこちらを覗き込み、穏やかながらも探るような声を掛けてきた。
「オーシャンさん……何か考え込んでいるようですが、気になることでも?」
「……いや、何でもない。ただ少し考え事をしていただけさ」
そう取り繕うように返すとエピメスは小さく首を振り、真面目な調子で言葉を続けた。
「それより、今日は教会へ向かわないと。パンドラ様の眠りの病気の正体を確かめるために、忘れてませんよね?」
「あ……そうだったな。すっかり忘れてたよ」
「今のパンドラ様をこの館に置いておくのは危険ですよ。何としても私の師の教会へお連れしましょう。ここから魔導車で二十分ほどです」
「けど、魔導車は壊れてしまっただろ。どうするつもりなんだ?」
エピメスは真剣な眼差しをこちらに向け、言葉を選ぶように少し間を置いてから答えた。
「この館にいる兵士に頼み込み、一台を借り受ける手はずを整えました。事情を説明したところ、パンドラ様のご容態を理由に、すぐに貸していただけることになりました」
「そうか……なら、食事を終えたらすぐに出発しよう。その前に一度シャワーを浴びさせてくれ。あのハイブリッドとの戦いで、全身に変な匂いが染みついてる」
「ええ、それがいいです。教会に行く前に身を清めるのは、きっと良き兆しとなるはずです」
食事を終えると俺は借りていた部屋に戻り、熱い湯で汗を流し、衣服を整えて館の外へ出た。
空気は澄んでいるはずなのに胸の奥のざわめきだけは消えない。
すると、外で待っていたのはモノフローンだった。
彼は俺たちが戻るのを予感していたのか、町の中に戻り、鋭い眼差しを向けてきた。
「……あの女は、もうこの町には戻ってこんのじゃな?」
「ああ。リモルナは追放された。兵士たちも今はパンドラの命令しか聞かないさ」
モノフローンはちらりと眠るパンドラの方を見やり、吐き捨てるように言った。
「ふん……だが、この女もまたリモルナと同じ。破壊を愉しむ危うい血を宿しておる。何も変わらぬ。目が覚めたなら伝えておけ。二度とこの町に近づくなとな」
モノフローンは振り向きもせず、そのまま無言で歩み去った。
その言葉を前に俺は何一つ言い返せなかった。
なぜなら――あの目は間違いなく心の底からパンドラを恐れている者の目だったからだ。
恐怖と警戒に満ちたその声は、演技ではなく本心からのものにしか聞こえなかった。
その響きに胸を押しつけられたようで、反論の声を失った。
「オーシャンさん」
エピメスが声を掛けてきた。
「魔導車が到着したようです。参りましょう」
「……ああ」
車両へと歩み寄る。
扉が開き、姿を現した人物に思わず足が止まった。
降り立ったのは――ケノリアだった。
「オーシャンさん、私も教会に同行するわ」
その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
なぜ彼女が同行するのか、その意図は――。
答えを探すよりも先に俺の脳裏にはパンドラが残したあの言葉が再び蘇っていた。
――「わたくしが眠った後……ケノリアさんが――」
俺は無意識に拳を握り締めていた。