第119話 欺く者と秩序の声
地下通路を抜けた途端、全身をまとわりついていた湿気が背後へ押し戻されるように消えていった。
外に出ると視界いっぱいに荒涼とした光景が広がっていた。
くすんだ朝の光がまだらに差し込み、錆びた岩肌の斜面と鉛色の空が重苦しく迫ってくる。
女司祭が描いてくれた道筋を脳裏に鮮明に思い浮かべながら、俺は一歩、また一歩とエピスティアがいる鉱山の管理施設へと足を進めた。
耳を澄ますと遠くから複数の声が響いてくる。
ただの町の住人たちの掛け声とは思えないほど剣呑だった。
おそらく俺たちが生き延びていると知られ追跡が始まっているのだろう。
ここで見つかるわけにはいかない。
俺は岩陰から岩陰へと慎重に身を潜めながら進んだ。
採掘場へと続く細い道は岩肌に沿って蛇のようにくねりながら続いていく。
視界が開けた先にようやく屋敷らしき建物の輪郭がぼんやりと見えてきた。
昨日通った際に記憶に刻み込んだ私兵の詰所や巡回の位置が脳内で一枚の地図となって蘇る。
その記憶を頼りに俺は影を伝って建物の奥へと進んでいく。
だがここから先が本当の難関だった。
採掘場の手前には身を隠せる場所が何一つなかったのだ。
もはや正面から突っ切るしかない。
そう腹を括って足を踏み出した瞬間、採掘場で作業をしていた者たちが俺の姿を見た。
彼らは手にしていた道具を止め、一斉にこちらを振り返る。
その視線を振り払うように俺は前へ踏み出した。
そしてその先に彼女は立っていた――カカイラ。
彼女は短く笑い、石畳に革靴の音を響かせながらゆっくりと俺との距離を詰めてくる。
身につけた金属の鎖飾りが揺れるたびに鈍い光の反射が壁に踊る。
「あら……やっぱり死んでいなかったのね?」
彼女は顎をわずかに引き、上から覗き込むような視線を俺に投げかけた。
それはまるで捕らえた獲物の価値を品定めするような冷たい視線だった。
「……ああ。お前らみたいに汚いやり方で命を弄ぶ連中に俺は負けるわけにはいかないんでな」
俺は一歩も引かず、その挑発的な視線を真正面から受け止めた。
「あなたは煌月家の名を汚し、その上、パンドラ様の偽物を連れてエピスティアを殺そうとした。よってこの場で死刑に処すわ」
カカイラの声は氷のように冷たく間を置かずに響いた。
坑道の奥から吹き込む風が唸り、冷たさがさらに鋭く感じられた。
「煌月家の名を汚しているのはお前たちだろ。魔法水晶を餌に人を集めては、すべて巻き上げて搾り取っている。パンドラはそんなおまえらを絶対に許さないと言っていた」
「では、あなたが本物と称するパンドラ様は今どこにいるのかしら?」
カカイラがさらに一歩近づく。
革が擦れる音、鼻先をかすめる濃い香水の匂いが呼吸をじわりと重くするようだった。
「……パンドラはエピスティアに会ってから眠り続けている。理由はわからない。だからあの時何があったのか直接聞きたい」
「エピスティアがあなたなんかと会うとでも思って?」
カカイラの唇の端が冷笑とともにわずかに持ち上がる。
「会いに行くさ。たとえ脅してでも……真実を聞き出す」
互いの視線がぶつかり、場の空気が張り詰めていく。
遠くで響く採掘場の喧騒がこの場所だけ別の世界の出来事のように遠ざかっていく。
俺の心臓の鼓動だけが自分の耳の奥で鈍く響いていた。
俺と向き合っていたカカイラがふいに唇の端を吊り上げた。
その指先が何気なさを装いながらも確かな意志を秘めて横へ振られた。
次の瞬間、採掘場の奥から重い足音と鈍い地響きが重なり、乾いた砂塵を巻き上げて作業員たちが現れた。
そしてその背後には五体の魔物――サイがいた。
甲殻は赤茶色に鈍く光り、厚みのある体躯を左右に揺らしながらこちらへゆっくりと迫ってくる。
歩を進めるたびに甲殻が鈍く擦れ合い、金属が軋むような鋭い音が空気を震わせた。
吐き出す熱い息が砂混じりの風となり、顔を叩いた。
意志を持った岩塊の群れが押し寄せてくるような抗いがたい圧迫感があった。
その圧倒的な威圧感にもかかわらず俺は冷静に口を開いた。
「……ずいぶんと、少ないな」
俺は目を細め、目の前に広がる作業員たちの疲弊しきった顔を見やった。
彼らの視線は地面に落とされ、その表情は諦念に満ちている。
「ほとんどは中にいた水晶のゴーレムにやられて、もう残っていないってことか?」
俺の言葉にカカイラはわずかに顎を傾け、艶やかな黒髪を肩に流した。
赤い唇が淡く嘲笑の形に歪む。
「そんなもの最初から存在しないわ」
その言葉は突き刺すような鋭さで場の空気をさらに冷たくした。
「危険な場所だとは最初から忠告してあったでしょう?帰ってこない作業員は中で朽ち果てただけ。ただそれだけの愚かな命よ」
カカイラは吐き捨てるように言い放ち、微かに口元を歪めた。
作業員たちは目を合わせようともせず、ただ無言で拳を握りしめている。
カカイラはゆっくりと一歩踏み出し、甘い香水の匂いが風に乗って漂ってきた。
その瞳は俺の胸の奥を突き刺すようにじっと見据えていた。
「あなたたちは私たち煌月家のために働き、そして死んでいくの。それが役目。……命を差し出せるなんて誇りに思いなさい」
その声は冷ややかでありながら、どこか陶酔を帯びていた。
目の前の死と苦痛が当たり前の事のように感じられるほど冷酷だった。
「もういいわ、あなた、さっさと死になさい!」
その命令の瞬間、地鳴りのような唸り声が採掘場全体に轟いた。
赤茶色の硬質な甲殻を纏ったサイ型の魔物たちが唸り声を上げながら角を突き出し、一斉に俺へと襲いかかる。
地面が激しく振動し、足元の小石が弾けるように飛び散る。
巨大な角が岩をも砕くかのように威嚇的に突き出された。
「……悪いが、こんな所でくたばるつもりはねぇよ」
俺は身体を沈め、風を切るように斜めへと身を滑らせた。
剛角の一撃を寸前でかわすと魔物は唸り声を上げ、その突進の勢いが風を巻き起こし、甲殻同士が擦れる鈍い音が響く。
だが一頭が猛然と軌道を変え、再び俺に襲いかかる。
俺はその動きを目で追いながら筋肉の一つひとつを見極めた。
「おっと、そんな角じゃ俺は仕留められねぇぞ」
そして寸分の狂いもなく手を伸ばし、硬質な甲殻を力強く握りしめた。
突進の勢いを逆手に取り、わずかに力を加える。
その瞬間バランスを崩した魔物の甲殻が軋み、巨体が勢いを失い、太い脚が岩盤に叩きつけられて鈍い音を立てて地面に倒れ込んだ。
「ギャウゥゥッ!」
「動きが見え見えだ――次は俺の番だ」
俺は反射的に全身の力を込めて蹴りを放つ。
岩の割れるような音とともに首筋の急所を強烈に捉え、硬い装甲の隙間を縫って足をかけ、身動きを封じ込めた。
「ウウッ……グアア……」
魔物の荒い息遣いが耳元に響き、その抵抗の意志が徐々に薄れていく。
「グルルル……ガァッ!」
周囲の魔物たちが唸り声を上げ、怒涛のように突進を続けてくる。
俺は深く息を吸い込み、冷静に呼吸を整えた。
岩壁に囲まれた狭い通路の地形を利用し、次の戦術を練る。
「全部まとめて、かかってこい」
足で砂利を蹴り上げ、舞い上がった砂埃が魔物たちの視界を覆った。
視界を奪われた魔物は衝撃で角を岩壁に叩きつけ、硬い甲殻が岩を削る音が響く。
「はっ!」
その一瞬の隙を逃さず、俺は渾身の拳を連打で叩き込み、魔物の動きを封じ込める。
――ドガアァン!!
怯んだ魔物の側頭部へ体を捻りながら鋭く肘を突き上げる。
苦悶の呻き声とともに魔物は力なく倒れ込み、地面を震わせた。
「ガア……ガア……」
残る三体が低く唸りながら俺の周囲を取り囲む。
硬い角を構え、俺を狙うその眼光は鋭い。
「はは……まだ来るか。なら、一気に叩き潰してやる」
俺は一歩踏み出した。
周囲の空気が張り詰め、鼓動が耳元で響いた。
「グルルルル!」
俺は一気に間合いを詰める。
振り下ろされる角を間一髪でかわし、膝に力を込めて渾身の蹴りを叩き込んだ。
「これで三匹目か。……あと二匹!」
俺の問いかけに答えるように砂埃の向こうで二体の影が低く身構え、鋭い眼光をこちらに向けている。
鼓動の音が耳の奥で反響する。
一体が体勢を崩した隙を見逃さず、今度は全身の重みを拳に込めて硬い甲殻で覆われた頬を強打する。
その衝撃で一体がバランスを失い、地に倒れ込む。
「グギャアアアッ!」
最後の一体が執念を振り絞り、大地を蹴って猛然と反撃を試みる。
だが俺は一瞬も動揺することなく素早く身を翻し、その角を避けながら拳を叩き込んだ。
「悪いな、これで最後だ」
――ドゴォッ!
最後の魔物が地面を転げ、完全に沈黙した。
次々に魔物を打ち倒していく俺の姿を見てカカイラの口元の笑みが静かに消えた。
やがてその瞳は驚愕に見開かれ、唇が小刻みに震えた。
「な、何が起きたの……?どうしてこんな子供に魔物が倒せるというの……?」
カカイラの混乱は俺の背後で息をのんでいた作業員たちにも伝播していた。
彼らは呆然と立ち尽くし、その瞳には恐れとわずかな希望が交じり合っていた。
「うそだろ……魔法も使わずに、一瞬で魔物を倒しちまったぞ……」
俺は地に伏した最後の魔物を一瞥し、冷めた視線をカカイラに向けた。
「さあ、邪魔だ。さっさと道を開けてくれ」
その言葉を聞いてカカイラは嘲笑を浮かべたが、声はわずかに震えていた。
「ふざけないで。あなたを通すわけないでしょう。さあ、作業員たち!この男を殺した者には報酬を上乗せするわ!今すぐ殺しなさい!」
しかしその場にいた作業員たちは誰も動こうとしなかった。
彼らは武器を構えることもなく、ただカカイラに視線を向けている。
「どうしたの?報酬が欲しくないの?」
カカイラの苛立ちが焦りへと変わっていく。
その時、作業員たちの人垣を抜け、一人の男がゆっくりと前に出てきた。
それは昨日、俺が採掘場で助けたスピロの兄だった。
「俺は……この少年のおかげで助かった。煌月家の言うことは全部嘘っぱちだ」
男の言葉に作業員たちの間にざわめきが広がる。
「俺は確かに見たんだ。危険区域『灰の降る間』の中には俺たちには知らされていなかった危険な魔物がいた。煌月家は最初から知ってたんだろ?高額な報酬で俺たちを中に送り込み、運良く何もなければ報酬を渡す。だが、魔物と遭遇したら誰も生きて帰れないようにしてたんだ……!」
その言葉は場の空気を凍らせた。
カカイラは顔色を変え、血相を変えて叫ぶ。
「それはでまかせよ!あなたたち、本当に報酬が欲しくないの?この男を殺すだけで、あなたたちは今後一生安泰なのよ!」
しかし、もう誰も彼女の言葉に耳を傾けなかった。
一人の作業員が手に持っていたつるはしを地面に投げ捨て、吐き捨てるように言った。
「やってられるか。何が煌月家の名を汚しだ。汚れてるのはあんたたちの方だろ!この町の住人は全員おかしいぜ!欲望で目が濁ってやがる!」
その言葉を合図に他の作業員たちも次々と武器を投げ捨て、カカイラに背を向けた。
無数の金属音は彼女にとって断罪の鐘のように響く。
彼らの瞳にはもはや報酬への欲ではなく、欺かれたことへの怒りが燃え上がっていた。
怒りの視線を浴びたカカイラは蒼白となり、後ずさった。
「どうする、カカイラ。ここではもう誰もあんたに味方してくれる者はいないようだな」
俺の言葉は冷たいナイフのようにカカイラの心臓を突き刺した。
彼女は恐怖に顔を歪ませ、よろめくように後ずさりする。
「た、助けて……!私は、エピスティアに従っているだけなの……!」
その悲鳴が採掘場の壁にむなしく響く。
「そこまでだ!」
するとその場に岩を踏み砕くような乾いた足音と共に私兵を従えたアイディエルが姿を現した。
その顔には隠しきれない苛立ちと獲物を見つけたかのような冷たい喜悦が浮かんでいる。
彼の現れと同時に場の空気が一変した。
「随分と探しましたよ。教会の中で死体を探していましたが見つかりませんでした。どうやってあの業火の中から生き残ったのでしょうか?」
「……さあな。あえて言うなら神様の気まぐれかもな」
「そうですか。ところで、あなたが生きているということはパンドラ様の偽物も生きているということですか?」
彼の言葉に俺の胸に怒りがこみ上げる。
「てめぇ、まだパンドラを狙ってるのか?」
「ええ、偽物とは言え、あの美貌を殺してしまうのはもったいないと思いまして。私の手で愛でて可愛がってやりたくて、うずうずしているのです」
アイディエルの声は獲物を前にした狩人のように冷たく抑えきれない欲望を帯びていた。
その言葉に俺の感情は怒りから殺意へと変わる。
「そうかよ。……じゃあ、今度はここで片をつけてやる」
俺は一歩前に踏み出し、アイディエルと正面から対峙した。
彼の得意技は常軌を逸した速度で放たれる蹴りだ。
あれを一発でも喰らえばひとたまりもない。
俺は全神経を研ぎ澄まし、その一瞬を待った。
アイディエルは薄く笑い、全身から殺気を放つ。
「あなたが強い事はわかっています。だから今度は最初から本気で殺しに行きますよ!雷迅脚連牙――!」
技名と同時にアイディエルの姿が流れるように動いた。
地面をほとんど踏まず、まるで空中に浮くかのように連続の蹴りが俺に襲いかかる。
最初の蹴りは顔面を狙う鋭い一撃。
俺は首をわずかに傾け、その風圧を頬に感じながらかわした。
次の蹴りは腹部へ向けられた重い一撃。
その瞬間、俺はわずかに腰をひねり、鋭い鎌のように弧を描くその足先を紙一重で避ける。
さらに次の連撃が嵐のように襲いかかる。
しかし俺は一歩も引くことなく全身の筋肉と骨格を巧みに連動させ、その猛攻をかわし続ける。
腕を十字に組んで頭上からの蹴りを受け流す。
すぐに重心を低くし、足元を薙ぎ払う蹴りを跳び越えた。
彼の攻撃は精密に制御された機械のようだったが、俺はそれを上回る直感と経験で全ての攻撃を完璧なタイミングで回避してみせた。
アイディエルが放つ無数の蹴りは風を切り裂き、激しい音を立てていたが、そのどれ一つとして俺の身体に触れることはなかった。
雷迅脚連牙を凌ぎきった俺を前にアイディエルは初めて焦りの表情を浮かべた。
「な、何だ……?何故当たら、ない……?」
その言葉はもはや自信に満ちたものではなく、驚愕に満ちた呟きだった。
俺は一瞬の隙も見逃さず、冷たい声で言い放つ。
「てめぇの蹴りは、はっきり見えてる。――今度は俺がお返しだ!」
俺は岩盤を蹴り砕く勢いで跳ね上がった。
全身の力を足先に込め、一気にひねりを加えながらアイディエルの顔面めがけて振り下ろす!
「くらえ!ハリケーン スイング キック!」
放たれた一撃は衝撃とともに渦巻く風を巻き起こした。
アイディエルの身体は抗う間もなく嵐に攫われるかのように吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。
その衝撃で大きな土煙が舞い上がった。
アイディエルの顔には昨日の戦いで刻まれた傷跡に重なるように新たな切り傷が走っていた。
彼は倒れたまま、かろうじて俺の方へ顔を向ける。
その瞳は憎悪に満ちていた。
「ぐはっ……この私の顔に再び傷をつけるとは……絶対に許さない……」
怒りに満ちた叫びを残し、アイディエルは意識を失った。
その光景にカカイラは言葉を失い、信じられないという表情で立ち尽くした。
「そ、そんな……アイディエルが、やられるなんて……」
彼女は慌てて私兵の方を向き、震える声で叫んだ。
「あなたたち!見てないで、あの男を捕らえなさい!」
だが、私兵たちはアイディエルの敗北に驚愕し、足が地面に縫い付けられたかのように動けずにいた。
その一瞬の隙を見逃さず、作業員たちが一斉に動き出す。
「おい、こいつらを捕らえろ!」
怒りの声が響き、私兵とカカイラは瞬く間に作業員たちに取り囲まれた。
カカイラたちは作業員たちの手で容赦なくロープに縛り上げられた。
その一部始終を黙って見ていたスピロの兄が俺のもとへ歩み寄った。
「なあ……。スピロは無事なんだよな?」
「ああ、無事だ。今はテオドロたちと一緒にいる」
「良かった。君たちと一緒なら大丈夫だと思ってた。ところで昨日一緒にいた女性はもしかして本物のパンドラ様なのか?」
彼の問いかけに周囲の作業員たちがざわめき始める。
「俺はこの目で見たんだ……。強力な水晶の魔物を物凄い魔力の黒い炎の魔法で倒すのを。今思えば……あんなことが出来るのは本物のパンドラ様しかいない……!」
その告白は周囲のざわめきを一層大きなものにした。
捕らえられたカカイラや私兵たちも驚愕の表情を浮かべ、耳を疑う。
「パンドラ様が、こんな辺境に来るわけがないでしょう」
拘束されながらもカカイラは必死に声を張り上げた。
強がるような口調だったが、その瞳の奥には小さくも鋭い不安が宿っている。
「あら?どうしてそう思いまして?」
不意に凛とした少女の声が空気そのものを震わせるように響いた。
全員が一斉に声の方向へ振り向く。
そこには、いつから立っていたのかも分からぬほど自然にその場の空気と溶け合った人影があった。
黒いフードを深くかぶり、表情は影に隠れている。
だが、ゆっくりと歩み寄るその姿には誰もが無意識に背筋を伸ばさずにはいられない威圧感があった。
「えっ……パンドラ……?」
俺は息を呑みながらその名を口にした。
「オーシャン、わたくしが眠っている間にあなたには随分とご迷惑をおかけしてしまったようでして……。話は司祭様からすべて伺いましたわ」
「パンドラ……もう大丈夫なのか?」
「ええ、見ての通り、もう大丈夫ですわ」
パンドラは指先でフードを押さえ、ためらいもなくそれを下ろした。
露わになったのは月光のように透き通る白い肌と紅玉を思わせる鮮やかな瞳、そして彼女の威厳を象徴するかのように背中まで伸びる真紅の髪だった。
その威容を前に場の空気は一変し、作業員も捕らえられた私兵も誰一人として目を逸らせない。
ただ、その美貌と威厳を前に皆が息を飲むことしかできなかった。
「えっ……?まさか……本物のパンドラ様……?パンドラ様が、どうしてこの場に……」
カカイラの声は掠れ、血の気が一瞬で引いていく。
「あら……あなたは煌月家の名を汚した報いを受ける覚悟はもうお決まりでして?」
パンドラの微笑は柔らかく、それでいて逃れられぬ鋭い視線を帯びていた。
その一言でカカイラの全身から力が抜け、顔は蒼白に染まった。
それは全てが終わったと悟った者の顔だった。
俺はその沈黙を破り、静かに一歩近づいて問いかけた。
「おい、エピスティアはどこにいる?あの管理施設にいるのか?」
カカイラはわずかに唇を震わせながら押し潰されるような声で答える。
「エピスティアはもうこの町にはいないわ。……あなたたちが本物だと知っていて、逃げたのだと思う」
「なっ……なにぃ?どこに行った?」
俺の声が低く響き、周囲の緊張をさらに強める。
「ここから……北にあるフィトリアの町に向かったわ」
その言葉と同時に作業員たちの間にざわめきが走った。
北の町――フィトリア。
その名が告げられた瞬間、誰もが次に起こる事態の予感に息を詰めた。
◇ ◇ ◇
その後、パンドラは捕らえたカカイラとアイディエル、そして縛り上げられた私兵たちを連れ、作業員たちと共に堂々とノマディアの町の中心へと歩を進めた。
町を追い立てるように騒ぎ立てていた住人たちは突如として現れたその光景に息を呑む。
「な、なんだ……あれは……?」
「まさか……あれは、パンドラ様……?本物なのか……?」
「ちょっと待て、カカイラ様とアイディエル様が縄で捕らえられている……どういうことだ……?」
群衆の間に動揺が走り、誰もが互いに戸惑いの眼差しを交わした。
そのただ中でパンドラは一歩前に進み出る。
「ノマディアの町の皆様――」
高らかに響いた声が風のざわめきさえ掻き消して広場に響き渡った。
その瞬間、住人たちの喧噪は嘘のように止み、誰もが彼女の言葉に耳を傾けた。
「この二人……カカイラとアイディエル、そしてエピスティアは、煌月家の名を騙り、皆さまを惑わせました。彼らは虚偽を弄し、己が欲望のままに町を乱し、住人の方々を苦しめ、果てにはお金で人の心を縛り、友情さえも値札で取り引きするという堕落に手を染めてしまいましたわ。――どうか、考えてみてくださいませ。この町が信頼を金で買うようになれば、やがて誰ひとりとして互いを信じられなくなりまして。隣人を疑い、友を裏切り、親族でさえも敵となる……そんな荒廃を、このノマディアに招こうとしていたのですわ」
その声音は淡々としていながらも確固たる威厳に満ちていた。
パンドラの視線が一人ひとりを撫でる度に人々は心の奥に突き刺さるような感覚を覚えた。
「わたくしは煌月家の当主として皆様に心からお詫び申し上げますわ。この町に光が差し込むべきはずの未来を曇らせてしまったことを。わたくしの名を騙り、あなた方を惑わせ、互いに互いを疑うよう仕向けたその罪は、決して軽くはございませんわ。――だからこそわたくしは宣言いたしますわ。この町に二度と同じ過ちを繰り返させはしない、と」
気づけば群衆の目には熱に浮かされたような輝きが宿っていた。
彼女の言葉は厳しさの中に人を導く温かさを含んでおり、町の誰もが失いかけていた「誇り」を思い出していた。
俺はそんな光景を眺めつつ、心の中でひとつ溜め息を吐いた。
(……めちゃくちゃ長ぇ。しかもこの上流階級丸出しの口調で早口なんだよな。普通なら途中で誰もついてこれねぇだろうに……)
しかし不思議な事に住人たちは一人残らず目を逸らすことなく、むしろ憧れと畏敬の入り混じった眼差しを彼女に注いでいる。
(やっぱり……煌月家の当主が自ら目の前に立っているだけで説得力が段違いって事か)
俺は耐えかねて口を開いた。
「なあ、パンドラ。この二人をどうするつもりなんだ?」
問いに彼女は少しだけ唇に微笑を浮かべる。
「勿論、死刑に処すというのが筋ではございますわ。ですが、それではあまりに容易すぎますわ。彼らが撒き散らした不信と混乱は言葉だけで償えるものではありませんわ。……ですので、この町の人々が心から許すその日まで、彼らには死ぬよりも過酷な労苦をもって罪を贖わせるのがよろしいですわね」
俺は頭を掻き、困ったように眉をひそめた。
「分かった。それでいい。けどな、そろそろ演説を終わりにしてくれ。立ちっぱなしで足が痛ぇし、正直もう腹も減ってきた」
パンドラは一瞬きょとんとした表情を見せた後、静かに笑みを零した。
「まあ……オーシャン。わたくしとしたことが、つい熱くなりすぎてしまいましたわ。お気遣い、痛み入りますわ」
その柔らかな笑顔を前に群衆は一斉に歓声を上げ、ノマディアの広場は熱気に包まれた。