第118話 裏切りの影と守るべき絆の灯
教会の扉が軋む音を立てながらわずかに開かれた。
外に出ようと一歩踏み出したスピロの足がふと止まる。
冷たい風が教会の中に吹き込み、月明かりが廊下を斜めに照らした。
だがその先に人影はなかった。
ただ、静寂と風のざわめきがあるばかり。
(……誰もいない……?俺の思い過ごしか?)
その隣でアリナが先に一歩を踏み出そうとしていた――その瞬間。
「――待ってください!」
鋭い声が空気を裂いた。
エピメスが慌てた様子で駆け寄り、三人の前に立ちはだかる。
アリナが振り返る。
「どうしたの?」
エピメスは眉をひそめ、目を細めながら扉の外を見つめた。
「今……扉を開けた瞬間に魔力の気配を感じました」
「え?俺には何も感じないけど……」
テオドロが戸惑ったように言い、わずかに首を傾けた。
エピメスは無言で前に出ると扉の敷居に足をかけ、張り詰めた静けさの中で詠唱を始めた。
「隠されし障壁よ、絡みし呪縛、真実の光でその形を解き放て――アポカリュプシス フォートス!」
詠唱が終わると同時に教会の入り口の石畳が淡く輝き始めた。
淡青の光が敷石の下から立ち上り、精密に編まれた魔法陣が姿を現す。
「これは……?」
アリナが驚きの声を漏らす。
エピメスの声が低く強張っていた。
「デスメフシ クレオス――対象の自由を奪い、瞬時に動きを封じる強力な拘束魔法です」
「まさか……誰かが教会の出入り口にこれを……?」
テオドロは言葉を失ったかのように目を見開き、その場から視線を動かさなかった。
俺の胸の奥で鼓動が激しく高鳴った。
その仕掛けの細かさと、念入りに準備された痕跡――俺にはすぐにわかった。
こんなのを仕掛けてくるのは奴らしかいない。
アイディエル。
あの狂気を孕んだ瞳。
そしてエピスティアのあの悪魔のような演技と残酷さ。
当然だ。
やつらが俺の命を狙わないわけがない。
それに眠ったままのパンドラもいる。
煌月家の血筋をもつ、彼女を――
「……くそっ……!」
俺は唇をぎゅっと閉じ、祭壇脇の寝台に横たわったまま必死に上体を起こそうとした。
だが体はまだ鉛のように重く、視界が揺れる。
その時、テオドロが叫んだ。
「誰がこんなことを仕掛けた?卑怯者、姿を現せ!」
彼が怒鳴ると――
その声に応じるように教会の外に人影がぞろぞろと集まってきた。
ざわめきが広場を満たし、静かな波のように、しかし逃げ場を塞ぐような圧で人々が広場を埋めていった。
「なっ……?なんなの、この数……!?」
アリナが息をのむ。
町の住人たちだった。
見覚えのある顔も見知らぬ者もいた。
全員の目がぎらつき、互いの肩を押し合いながら前へと詰め寄ってくる。
群衆の一人が声を張り上げた。
「この教会に煌月家の当主を名乗る偽物のパンドラ様と、その連れの少年がいるはずだ!」
「エピスティア様が懸賞金をかけた!二人を殺せば、協力者全員に一千万円が支払われるんだ!」
「なっ……!一千万……!?」
テオドロが驚いた。
その言葉で教会内の空気が凍りついた。
外のざわめきが次の瞬間には鋭い敵意へと変わった。
俺は完全に言葉を失った。
(やられた……俺たちを殺すために懸賞金をばらまき、町の人間まで動かしたのか……)
やはりエピスティアの執念は尽きていなかった。
パンドラを殺す事、そして俺を排除する事。
目的のためなら町の人間すら金で操ることをためらわない。
目の前の人々はただの町人ではない。
彼らは金と恐怖に突き動かされた、もはや理性なき暴徒だった。
こんな状況でスピロやアリナを出していたら……。
群衆に囲まれ、腕をつかまれ、抵抗も許されぬまま引きずられていく二人の姿が脳裏に焼き付いた。
俺は必死に叫ぼうとした。
声を、言葉を吐き出そうと喉に力を込める。
だが、肺が焼けるように痛み、かすれた息を吐くのがやっとだった。
(頼む……誰か……この状況を止めてくれ……!)
だが、パンドラは眠ったまま起きる気配すらない。
この場で真実を語れる者は誰一人いなかった。
そして次の瞬間――
人混みの奥、教会の入り口から少し離れた石段の上に一人の影が立っていた。
白銀の髪が月光をはね返し、闇に紅の装束が鮮やかに浮かぶ。
その顔に刻まれた戦いの傷を見た瞬間、息が詰まり、全身が凍りつく。
アイディエル――あの狂気を孕んだ男が再び目の前に現れたのだ。
群衆の先頭に立ったアイディエルが薄笑いを浮かべて一歩踏み出した。
その声は魔力でも帯びているのかと錯覚するほど広場に響き渡った。
「この教会にパンドラ様の偽物とその男が潜んでいるとの確かな目撃情報がございました。町の皆さま、よくお聞きくださいませ。――あなた方も私の側につかれるのであれば、一千万円の報酬をお渡しいたします。さあ、お二人をこの場へお連れなさい」
どよめきが再び広場を揺らす。
高額な報酬の言葉が理性を奪い、群衆の瞳に貪欲な光が宿った。
その欲が波紋のように広がり、口元を歪める者、互いを押しのける者まで現れた。
教会の扉の内側でテオドロ、アリナ、スピロの三人が言葉を失い、動けずに立ち尽くしていた。
俺はその姿を見ているうちに胸の奥がひんやり締めつけられるような不安に襲われた。
(まさか……)
この町に来てからというもの、出会った人々の多くは欲望に染まり、他人の不幸を平然と利用する者ばかりだった。
だからこそ、もしかしたらこの三人も金と恐怖に屈して俺たちを差し出すのではないかと疑ってしまう。
だが――
「てめえら、本当に汚ねぇやつだな……!」
テオドロが拳を強く握りしめ、怒りを込めて声を張り上げた。
「俺はこの人に命を救われたんだ。どんなことがあってもお前らなんかに渡さねぇ!」
アリナもそれに続いた。
「そうよ……!私たちを見殺しにしようとしたくせに、今さら何よ。そんな卑怯な真似、受け入れるわけないでしょ!」
その言葉を聞いて、俺の胸が熱くなり、鼓動が一気に早まった。
裏切りの不安は霧散し、代わりに言葉にならない安堵が身体の隅々まで染み渡った。
アイディエルはその反応に眉をひそめたが、すぐに冷たい笑みを浮かべて言った。
「ならば――五分だけ時間をやろう。その間に相談して自分の立場と未来を冷静に考えるのだ。たった一つの選択で、お前たちの人生は劇的に変わるぞ?」
そう言い残し、アイディエルは人波の向こうへ姿を消した。
テオドロは静かに扉を閉めた。
教会の中に再び静寂が戻る。
だが、その沈黙は凍りつくように冷たく、重苦しかった。
三人とエピメスが俺の寝ている祭壇の元へ集まってくる。
スピロが真っ直ぐ俺を見つめ、力強く言った。
「お兄ちゃん、僕は絶対に……お兄ちゃんを売ったりなんかしないからね!」
「ああ。俺も、あいつらのことなんか信じちゃいねぇよ」
か細いながらも安堵の笑みを三人に向けた。
「ありがとう……みんな。見ず知らずの俺たちに、こんなにも優しくしてくれて……」
その時、祭壇の傍らで控えていた女司祭がためらいがちに口を開いた。
「お話の中で、あちらで眠っている女性が偽物のパンドラ様とされているようですが……。私たちにはマリンさんと紹介されていました。あれは一体……どういうことなのですか?」
俺は少しの躊躇いを抱えつつも真実を明かした。
「……あそこで眠ってるのは本物の煌月家当主――パンドラだ。俺たちは魔法船から降りて、たまたまこの町に来ただけなんだ。パンドラは騒ぎを避けるために身分を隠していたんだ」
教会の中に一瞬のどよめきが走った。
司祭も、エピメスも、テオドロも驚きに目を見開く。
「パンドラ様……まさか、あの煌月家の当主の……?」
エピメスが思わず息を呑んだ。
「じゃあなんで、煌月家の当主が――同じ煌月家の人間に命を狙われてるんだ?」
テオドロが疑問を口にした。
俺は深く息を吸い、力を込めて説明する。
「……この町の現状を見ればわかるはずだ。パンドラはそれに危機感を覚えて、エピスティアの館へ乗り込んだ。だけど……なぜか突然気を失ったんだ。その隙にエピスティアがパンドラを殺そうとした。俺がそれを止めようとしたら――腹を刺された」
静寂の中で誰もが息を呑む音が響いた。
「それで偽物の当主として懸賞金をかけたのか……」
テオドロが顔をしかめる。
「煌月家の当主を守るどころか……命を奪おうとするなんて……。本当に、最低なやつらだ」
俺は小さく呟き、重い息を吐いた。
「だけど……どうする?この教会はもう囲まれてる。このままじゃ、みんな巻き込まれる」
空気が一瞬で張り詰めた。
その時だった。
外から再びアイディエルの声が鋭く響き渡る。
「五分は過ぎた!――時間だ。さあ、今すぐ二人を差し出せ!」
声と同時に重く冷たい衝撃が扉を揺らし、建物全体に波紋のように広がった。
だが沈黙を破るように――スピロが叫びを放った。
「嫌だね!お前たちの言いなりになんかなるもんか!」
震えが混じる声だったが、その言葉には揺るぎない覚悟が宿っていた。
だが、冷たい言葉が返された。
「そうか。ならば……お前たちも罪人ということだな」
教会の中に押しつぶされそうな重苦しい沈黙が広がった。
テオドロが教会の扉近くにあるステンドグラスの窓へ駆け寄り、わずかに身を屈めて外をうかがった。
その刹那――視線の先で複数の男たちが松明を高く掲げ、その先端に油の袋を括りつけて、次々とそれを教会に投げ込んでいた。
「――なっ……!?」
袋が石床に落ち、直後――
――ズドンッ!!
雷鳴のような轟音と共に、外から放たれた複数の炎の呪文が教会を襲った。
焔が爆ぜ、床を伝って燃え広がる。
袋の中には油が詰まっていた。
床に広がるや否や炎が油に触れ、赤々とした波となって教会の内部へ押し寄せた。
「おい……ヤバいぞ……!」
テオドロが顔を蒼ざめさせながら叫ぶ。
「この教会を丸ごと焼くつもりだ。俺たちを生きたまま燃やして殺す気だ!」
爆ぜる火花が床を跳ね、天井がきしみを上げる。
黒煙が渦を巻いて視界を奪い、息を吸うたびに喉の奥が焼けつくようで、苦しくて仕方なかった。
俺はゆっくりと祭壇から起き上がり、一歩ずつ窓へと歩み寄って外を覗き込む。
松明の先に油の詰まった袋を括りつけた男たちが、そのまま教会へ投げ入れ、すぐに炎の呪文を放とうとしているのが見えた。
(松明と袋を先に投げて……そのあとで炎の魔法。順序の意味は――ああ、そういうことか。目印の松明に油を浴びせ、一気に可燃性を高めてから炎の魔法で焼き尽くすつもりだ)
敵は最初から、慈悲など一片も考えていなかった。
「くそっ……!どうする?この状況だと俺の力じゃ逃げられない。……一か八か、パンドラの転送魔法を使えれば――!」
焦りに突き動かされるまま、俺は眠るパンドラの元へ駆け寄った。
「パンドラ……おい、パンドラ!目を覚ましてくれ、お願いだ!」
肩を揺すり、頬に軽く触れてもパンドラは深い眠りに落ちたかのように全く反応がない。
これはただの眠りではない――意識を封じられ、遠く隔たれた場所へと閉じ込められているかのようだった。
教会内にはとうとう火の手が迫ってきていた。
聖なる静寂の館だったその空間が、今や地獄のような熱気に包まれていく。
「……くそっ!こうなったら、俺だけでも外に出て奴らを――!」
その瞬間だった。
女司祭がゆっくりと前へと歩み出た。
「……皆さん、少しの間だけ待っていてください」
そう言うと彼女は祭壇の奥へと進み、十字架が掲げられた壁の前に立った。
手を組み、目を閉じ、静かに――しかし確かな声で祈りを捧げはじめた。
「――神よ、我らに救いの道を……」
祈りの終わりに古代語の詠唱が重なる。
瞬間――
ゴゴゴゴ……ッ!
十字架の足元で石畳が低く唸り、震えながら左右に割れていく。
開いた口の奥には闇に飲まれるように伸びる古びた石階段があった。
代々、密かに守られてきた教会の隠し通路だった。
天から差す炎の明かりが漏れこみ、ゆらゆらと赤く照らされたその地下口は、まるで神が与えた最後の救済の扉のようだった。
女司祭が静かに言った。
「……この下に続く通路を抜ければ、町の外へと出られます。どうか急いでください。――時間がありません」
言葉を聞くや否や、皆が動いた。
俺、アリナ、スピロ、そしてエピメスが順に階段を駆け下り、そのすぐ後ろを眠るパンドラを抱えたテオドロが続いた。
教会の梁が炎に裂かれ、軋みを上げながら崩れはじめる。
焼け落ちる前触れが空間をじわじわと押し潰していく。
女司祭が最後に続き、脱出路の扉の前で立ち止まると再び詠唱を唱えた。
「封印の結界をもって、神の扉を閉じる――」
すると扉が音もなく石ごと塞がれ、通路は完全に閉ざされた。
下り階段をしばらく進むと、やがて一行は広めの部屋にたどり着く。
まるで修道士が一時避難のために設けた隠しの聖域のような部屋だった。
天井は低く、空気は冷たいが、火の気配は届かない。
テオドロとアリナが協力して意識を失ったパンドラを部屋のベッドに横たえた。
女司祭はテオドロに蝋燭を渡し、言った。
「その蝋燭に火を……他のものにも灯りをともしてください」
テオドロは指先に小さく炎を灯し、壁際にあるいくつかの蝋燭に火を移していく。
淡い光が石壁にゆらめき、地下室に静寂と安堵をもたらす。
「しばらくはここに留まりましょう。少なくともこの部屋は神に守られています。安全です」
女司祭がパンドラの様子をじっと見つめ、額に手を添えた。
「教会の力で回復魔法ハルモス イアセオスを施しましたが……回復の兆しは見えません。体力が完全に奪われているようです」
エピメスも前に進み出て言った。
「私ももう一度、かけてみましょう」
彼は静かにパンドラの腹部に手をかざし、詠唱を唱え始めた。
聖なる言葉が地下室の空気を震わせ、優しい光がパンドラの体を包み込んだ――
だがその直後だった。
――ゴォォォ……ッ!
パンドラの体から漆黒のオーラが湧き上がった。
それは熱を持たず、影とも炎とも異なる、光すら拒み、空気を凍りつかせる純粋な闇。
周囲の空間が歪み、胸の奥を押し潰すような重圧が襲いかかる。
誰もが思わず一歩、後ずさった。
「な……!」
エピメスが息を呑んだ。
それを皮切りに部屋の中に驚愕と恐怖が満ちた。
俺にはその黒い魔力の正体は分からない。
だが周囲の様子でただ事ではないことは明白だった。
「……おい、みんな、どうした?パンドラに何が……あったんだ?」
俺が尋ねると誰もが汗を浮かべ、荒く呼吸していた。
エピメスが血の気を失った顔で震える声を漏らした。
「はぁ……はぁ……煌月家の当主、パンドラ様……彼女は……危険です……!」
「はぁっ……!今の魔力、いや、気配は……人のものじゃねぇ」
テオドロも震えながら言う。
「こんな、息もできないほどの圧倒的な力と邪気……今まで一度も感じたことがねぇ……!」
パンドラの周囲に渦巻く黒きオーラは確かに強大で、そしてどこか異質だった。
それはただの魔力ではない――まるで別の何かが、彼女の中で目を覚ましかけているかのようだった。
そして、彼女の瞼が……ゆっくりと動いた。
「……パンドラ?」
俺が名を呼んだその瞬間だった。
空気が震えた。
パンドラの身体がゆっくりと宙へと浮かび上がる。
目を閉じたまま、何の支えもない状態でベッドの上を離れ、静かに床へと降り立つ。
その動きは意識の抜け落ちた人形のようだった。
そして――彼女は、目を開いた。
だが、その瞳は――
「うっ……!」
それはパンドラの瞳ではなかった。
黒く濁った光が底知れぬ闇を湛え、言葉にならない恐怖と絶望を突きつけてきた。
もはや人の目ではなかった。
彼女は俺を真っ直ぐに見ていた。
だけどその視線に意思も理性もなく――ただ、冷酷な観察のようなものが浮かんでいた。
「……え?」
その瞳がゆっくりと閉じた。
パンドラの身体がぐらりと傾き――そのまま崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「な……何だ、今の……!?パンドラ……?」
急いで駆け寄り、肩に触れ、名前を呼び続ける。
「パンドラ!聞こえるか?」
だが彼女はもう何も反応を返してはこなかった。
その瞬間、背後には抑えきれない荒い吐息だけが響いていた。
振り向くと、テオドロ、アリナ、スピロ、そしてエピメスと女司祭が見えない力に押し潰されているかのように苦しそうに胸を抑えていた。
全員が額に汗を浮かべ、肩で激しく呼吸している。
その呼吸は過呼吸ではなく、胸の奥を締めつけられるような重い圧力に体力を削られているかのようだった。
「な、なあ……俺たち、あのパンドラ様と同じ空間にいるだけで、体力が削られていく感じがする……」
テオドロがうわ言のように呟いた。
アリナも壁に背を預けながら言う。
「……少し、距離を置かないと、正直……きつい……」
女司祭がすぐに口を開いた。
「お部屋はもうひとつございます。そちらでお休みになってはいかがでしょう?」
テオドロ、アリナ、スピロ、女司祭――皆は息を切らせ、引きずられるようにもう一つの部屋へと移動していった。
残ったのは、俺、エピメス、そして再び深い眠りについたパンドラの三人だけだった。
俺は静かに問いかけた。
「……エピメス。お前はここにいても平気なのか?」
エピメスは静かに頷いた。
「……恐怖は確かに感じました。あれほどの感覚は初めてです。ですが私は神に仕える身です。彼女を恐れるよりもその真実を見届けたい。それに、本当の彼女はまだ目を覚ましていないと……そう感じるのです」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「オーシャンさんは……あの時、全く動揺していませんでしたね。あなたは平気なのですか?」
正直に言えば俺には何も感じなかった。
この世界の魔力――マギアが俺には無いから。
だけどそれを言えば即座に疑われる。
そう思った俺は苦笑しながら言葉を濁した。
「ああ……俺は大丈夫だ。何より……パンドラが俺たちを傷つけるようなことをするわけない。信じてるんだ、彼女のことを。信じる理由は……たくさんある」
エピメスはその言葉をじっと噛みしめた後、微笑を浮かべた。
「そうですか……それなら私も信じてみましょう。あなた方を」
◇ ◇ ◇
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
ただ、地下にいながらも俺の勘が朝を告げていた。
気が緩んでいたのだろう。
俺はいつの間にか眠ってしまっていた。
無理もない。
あれだけのことが続けば心も体も限界を迎える。
ふと、前を見ればエピメスも椅子に寄りかかりながら眠っていた。
「ぐがぁ……ぐがぁ……」
神に仕えると言っていたのに見事なイビキをかいていて、思わず吹き出しそうになる。
(神の声よりイビキのほうがデカいぞ、おい)
パンドラを見ると相変わらず静かに眠っていた。
少し肩を揺すってみたが目を覚ます気配はなかった。
部屋を出て、隣の小部屋に入ると女司祭が椅子に腰かけ、静かに目を閉じていた。
俺の気配に気づいたのか彼女がゆっくりと目を開けた。
「お目覚めですか?」
「ああ……いつの間にか寝てたみたいだ。今、外は何時くらいだろうな」
女司祭は優しく微笑みながら答えた。
「今は……午前九時を過ぎたところです」
「え?どうしてそんな正確に……」
「魔法で時間を見ているのです。そう珍しいことではありませんよ。オーシャンさんは……時間を読まないのですか?」
……そうか。こっちでは魔法で時間を見るのが普通なんだな。
俺が知っていたのは大魔法師様の屋敷にあった古い歯車式の時計だけだった。
魔法で時を測る――この世界の「日常」が少しだけ理解できた気がする。
その時、テオドロが目を覚ましてこちらにやって来た。
「……オーシャン、起きたか。疲れてるみたいだったから無理に起こさなかったぜ。こっちはこっちで昨晩はずっと警戒しててな。あの連中が来ないか三人で見張り続けてた。まるで夜通しの睨み合いだったよ」
その顔には疲れがにじんでいたが、どこか充実感もあった。
「そろそろここから脱出する方法を考えないと。教会をくまなく調べられたら、この場所がバレるかもしれないからな」
女司祭が頷いた。
「この地下通路の出口は町外れの森へと続いています。そこから隠れて移動すれば追っ手の目もかわせるでしょう」
……だが、俺は彼らを見回して言った。
「……いや。俺、一人で行くよ」
全員の視線が集まる。
「俺があいつらとケリをつけてくる。その間……パンドラのことを頼んでもいいか?」
テオドロが一歩前に出た。
「おい……まさか一人で戦うつもりか?」
「ああ。……もう、傷も回復してるし、体力も十分だ。それに……この町をあのままにしておけないだろ。俺があんたたちを巻き込んじまったんだ。だったら俺が終わらせる。俺の手で」
しばしの沈黙。
そしてテオドロが笑みを浮かべて言った。
「……分かったよ。俺たちはパンドラ様を見てる。正直、ちょっと怖いけどな」
「……ありがとう」
俺はゆっくりと振り返り、静かに歩き出す。
――欲にまみれた争いに終止符を打つために。