第116話 水晶の守護者たちと静寂の館
三体のゴーレムが重厚な水晶の身体を軋ませながら迫ってくる。
右――水晶の層が螺旋状に絡み合い、捻れた構造のままぐにゃりと迫る異形。
中心には脈打つ赤い核が埋まり、それが生き物のように淡く鼓動している。
左――その身体の大半を占めるのは異様に長く伸びた両腕。
引きずるように地を擦り、殴るためだけに存在しているような構造だった。
中央――顔のない球体の頭部にびっしりと魔法水晶が埋め込まれた個体。
全方位に視線を巡らせるように脈動し、動きがなくとも逃げ場を一切許さない圧があった。
その三体が一つの意識を共有しているかのように連動する。
左右から挟み込むように巨体が迫る。
中央の一体は一瞬遅れて拳を振りかぶり、上段からの殴打を狙っている――それはまるで最初から仕組まれていた連携、寸分の狂いもないタイミング。
俺は跳ねるように一歩退き、身を沈める。
その瞬間、左右の水晶の腕が風を裂いて交差し、目の前で凄まじい衝突音が炸裂する。
ガガガガッ――!
火花と砕けた破片が四散したが中央のゴーレムがその僅かな間に拳を突き出していた。
「……来る!」
反射的に腰を捻り、滑るように後方へ退く。
鼻先を掠めて振り下ろされた拳が空を裂いた。
しかし休む間もなく左の腕が長い個体――あの拷問具のようなゴーレムが鋭く掌撃を連ねてくる。
一撃の射程が広い。
逃げ場が狭まる。
肩越し、背後斜めに揺らぐ気配――右の捻じれた個体が地を這うように屈みながら距離を詰めていた。
まるで連携の一部として設計されているかのような動きだった。
俺は完全に囲まれている。
三方同時。
連携された群れのようだ。
「くっ……!」
左の掌撃が迫る。
俺は腰を落としてスウェーで後方に退避――直後、地面が炸裂する音。
背後に捻れた個体が踏み込んでいた。
俺の退路を予測し、狙っていた。
「……一瞬でも判断を誤れば潰される……!」
だが、次の刹那に俺は動いた。
左の掌撃を回避した勢いを殺さず回転――斜め上へ跳ね上がるように飛翔。
着地寸前、息が詰まった。
正面から――球体の頭部を持つ監視型のゴーレムが大きく肩を開いて拳を構える。
先ほどより明らかに重く、遅く、だが避けきれない威圧のある拳。
力だけで潰すつもりだ。
俺は地面を蹴って滑るように右へ跳んだ。
直後、拳が空を切り裂く――そして遅れて風圧が肌を裂くように通り抜けていく。
が、それすら囮だった。
左の巨腕の個体が地を這うようにして俺の足元へ突進してくる。
砕くべきものの位置が見えているかのように正確に――
「そこかよっ……!」
俺は地を蹴り、両手で地を支点にして跳躍。
脚を折りたたみ、ギリギリでその頭を飛び越える――
すれすれで掠める水晶の角。
だがまだ当たってはいない。
三体はそれぞれ異なる動きをしている。
けれど、それは個の動きではない。
捕食の構え。
それはもはや三体の動きではなく一つの生き物の本能そのものだ。
――やっぱりだ。
この連携、この動き、この間合い。
何もかもがあの日と同じだった。
「こいつらの連携……あの時と同じだ。俺は……初めて土のゴーレムと戦った時、何もできなかった。ただ怯えて、殴られて、倒れて……イヴァンも、ルナも……俺の目の前で――!」
脳裏に焼きついた記憶がまるで炭の奥から浮かび上がる火種のように鮮明に蘇る。
上の世界で魔導士と戦ったあの時、目の前に現れた土のゴーレムたち――圧倒的な力を前に立つことすら許されず、ただ崩れ落ちるしかなかった。
あの時の俺は、ただ敗れた者にすぎなかった。
だが、違う。
今の俺はあの頃の俺じゃない。
あの日から俺は進み続けた。
後悔も、悔しさも、すべて抱えたまま、それでも――もう一度誓った。
「今なら――守れる。俺が、もう一度、あいつらを救ってみせる」
その瞬間、正面の一体――巨腕の怪物が両腕を肩口まで跳ね上げ、鋼のような拳を振りかぶってきた。
重量で叩き潰す、ただそれだけの単純にして強力な一撃。
だが俺は真っ直ぐにその拳を見据え、半歩、わずかに身体を横にずらした。
風が頬を切る。
だがその風は恐怖の冷気ではなかった。
俺の動きは迷いなく感覚は澄み切っていた。
あの頃の俺なら見えなかったはずの速度。
だが今の俺にはすべてが見えている。
「……ああ、壊すよ。問答無用でな、水晶野郎……!」
拳が空を切った直後、俺は右足を深く踏み込み、反動で上体をひねって拳を放つ。
――バゴォォォンッ!!!
全身の駆動力が拳へと収束し、寸分の狂いもなく水晶の胸部へと叩き込まれる。
轟音が広間に鳴り響き、透明な結晶装甲に太い亀裂が走り、音が爆ぜた。
巨体はそのままの勢いで浮いた。
圧倒的な質量が床を離れる。
まるで打ち上げられた岩塊が抗えぬ重力に引き戻されるかのように――
ゴシャアアアン!!
後方の壁に叩きつけられたそれは、もはや立ち上がる気配すらなかった。
――残る二体。
今度は螺旋状に体を捻るゴーレムが跳躍する。
その軌道は独特だ。
動きながら身体の構造自体をねじらせ、拳の角度すら正確に予測させない。
しかもその捻れの中心には赤い核が脈動している。
その核が戦闘中もわずかに位置を変えている。
そしてもう一体、球体の頭部にびっしりと水晶を埋め込んだ監視者のようなゴーレムが死角を狙うように地を滑ってきた。
連携。挟撃。読み合いを拒絶する立体的な動き。
「来いよ……だが前に出た瞬間、全部終わるぜ。……砕けるのはお前の方だ!」
俺は両足に力を込め、全身を一本の柱のように固定した。
そして迎撃の姿勢――
飛び込んできた捻れのゴーレムの腹部、その軸に向かって右足を振り抜く。
――ドガァッ!!!
音が弾ける。
鈍い衝撃が足から背中まで突き抜ける。
直後、ゴキンッ!!という明確な破砕音が響き、螺旋状の胴体が中心から裂けた。
まるで水を打った鏡が砕けるように、赤い核が露出し、同時に崩落する。
ひとつ、またひとつ。
確実に俺はあの時を超えている。
そして――
最後の一体。
無数の水晶を抱えたその球体頭部が脈動しながら視線を四方へ飛ばしている。
こちらの動きをすべて読んでいるかのような挙動。
低く、静かに構えるその姿はまるで戦場の狙撃手のようだった。
だが今、怖れはない。
あの時の俺とはもう違う。
球体の頭部が淡く脈動する光を放ち始めた。
瞬間、その表面を覆う無数の魔法水晶が一斉に光を弾き――放たれる。
ヒュバッ――ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
鋭利な結晶が矢のように空を裂いて俺に向かって殺到してくる。
ただの投擲ではない。
速度と角度、軌道の偏差――まるで追尾する意思すら感じさせる精密な殺意だった。
俺は跳ねるように地を蹴り、左へ、右へと移動しながらその嵐の中をすり抜けていく。
たった一発で水晶の欠片が致命傷に変わる。
風を切る音が耳元を掠め、閃光が瞳の端で明滅する。
だが――止まらない。
怖れも迷いもそこにはなかった。
「――跳ぶ!」
俺の脚が地を捉えた、その瞬間。
積み重ねた動作の末に訪れた刹那の無音。
全身をしならせ爆発的な加速を脚に込めて――
跳躍。
宙へと舞う。
だが、待っていたのは奇襲だった。
水晶の嵐を制したかと思った次の瞬間、ゴーレムの両腕が正確に俺の軌道を掴んでいた。
「ぐっ……!」
瞬きの間にその巨腕が俺の肩をがっちりと掴み――
ギリ、ギリギリギリッ!!!
――潰そうとしてきた。
肩が、鳴る。
骨が軋み、筋が裂ける音が頭蓋に響く。
爆発的な握力が肉と骨の区別を失わせようとしていた。
「う、あ……っ!」
視界が一瞬、白く焼けた。
意識が遠のく。
だが――俺は見たことがある。この光景を、かつて。
あの時。
あの忌まわしい瞬間。
ミラーフェイスの姿をとったゴーレムが俺を握りつぶそうとした時のことを――
その時の俺はただ呻きながらも必死に耐えていた。
だが、今は違う。
「二度も……!」
ぐらつく視界のまま拳を握った。
ぐにゃりとした意識の奥から熱が吹き上がる。
「二度も……同じようにやられてたまるかよ!!!」
全身の筋肉に火が点く。
両肩に喰い込む巨大な掌をそのまま握り返す。
肩の軋みを無視して――肘が外れるほどの力で――腕に宿る筋力すべてを解き放つようにして両手でゴーレムの手首を掴む。
――俺が掴み返し、引きはがす。
ギィイ……ギィィギギィ……!!!
岩のひび割れるような音が響いた。
水晶がきしみ、僅かに――その手が開き始めた。
そして、その隙を見逃さなかった。
「行くぞ……!」
右足を地中へとめり込ませ岩盤を踏み割った。
腰を沈め、背筋を弓のように撓らせ、拳を構えて力を一点に集める。
足元では砕けた岩がきしむ音を立てていた。
重心が一本の軸となり、空気を割るように上へ――
「――アポカリプティック バニシング アッパー!!!」
咆哮とともに拳が閃いた。
――バキィィィン!!!
拳が真上へ向かってゴーレムの球体頭部を撃ち抜いた。
手応えは確かな破壊だった。
球体の装甲が瞬間的に凹み、内側に埋め込まれていた魔法水晶がまるで砕けた鏡のように空へと舞い上がる。
水晶の粒がゆっくりと光の雨となって降り注ぐ。
次の瞬間、巨体が――浮いた。
そのまま何かに操られていた糸が切れたように重力に負けて膝を崩す。
ズゥゥン……!!
轟音とともに倒れ伏したゴーレムはもはや動かない。
静寂が戻った。
三体のゴーレムは全て崩れ落ちていた。
水晶の破片が広間の床一面に散らばり、淡い光を放ちながら静かに沈黙している。
俺はゆっくりと拳を下ろし、息を吐いた。
粉塵がゆっくりと舞い落ち、魔法水晶の残光が床に滲む。
その光の中でパンドラがゆっくりと歩み寄ってきた。
乱れのない足取りで、姿勢も声音も落ち着いていたが、その瞳に宿る光が理性の輪郭をわずかに溶かしていた。
「オーシャン……あなた、魔力が無いと仰っておりましたのに……いったい、どうしてそんなにお強いのでしょうか?」
彼女は柔らかく問いかけたが、その奥には好奇心と理解を超えたものに対する戸惑いが見えた。
「とても不思議ですわ。今の動き、まるで相手の動きを先読みするかのようでしたわ。まさか魔法なしで、あのゴーレムを……」
俺は肩で息を吐き、手の甲についた粉塵を払いながら答える。
「……まぁな。色々、あったんだよ。説明しろって言われても言葉にできるほど簡単じゃないけどな」
乾いた笑みを浮かべたが、パンドラは首を少しかしげた。
「そうですの?その色々が何か、わたくし、いつか知ってみたいと思いましたわ。オーシャンという方が何故ここにいて、どうしてそんなに痛みに耐えられるのか……とても気になりますわよ」
彼女は淡く微笑んだ。
だがその目はどこか揺れていた。
――問いかけは本気だ。けれど俺にはその答えを語る資格があるか分からなかった。
視線をわずかに伏せ、口をつぐむ。
言葉が出てこない。
そして――それを振り払うように顔を上げた。
「……そんなことよりも先にあの三人を助けないと!」
言葉を切るように声を上げ、足を踏み出す。
けれどその背に、すぐに返ってきたのはやや拗ねたようなパンドラの声だった。
「そんなこと……なんて。オーシャン、あなた酷いですわ。わたくしはあなたの事を真剣に知りたいと思っておりますのよ。それに……」
その言葉の続きは俺には届かなかった。
わざと俺に聞き取れないように呟いたのだろうか――そんな気がした。
俺は振り返らずに倒れた水晶の残骸を踏み越え、奥へと進んだ。
そこには水晶の陰に身を寄せていた三人の姿があった。
疲弊しきった顔と痛みに歪む脚――それでもまだ生きている。
怯えと希望、その狭間にいる表情だった。
「助かったな……」
低く呟くようにひとりの男が言った。
傷を負った足を庇いながら、それでも立ち上がろうとする姿に言葉が続いた。
「お前たち……強いんだな。まさか、あの化け物どもを倒すなんて……信じられない。でも、おかげで俺たちも……助かりそうだ」
「なあ。登録所で少年が兄を探してたんだ。俺たちはその兄を探しにここに来たんだけど……あんたは、その少年の兄貴ってやつか?」
そう尋ねると膝から下を血に染めた男がゆっくりと顔を上げた。
「……ああ。そうだ。俺があいつの兄貴だ」
その目に映るのは悔いと救いの狭間だった。
「俺が無理をして危険な仕事を請けたせいで……弟に余計な心配をかけちまった。あいつには……もう会えねぇかもって、ずっと思ってた。けど……生きて帰れる。そう思えるだけで今は十分すぎるくらいだ」
その言葉を聞いた時、俺の中にもようやく静かな実感が湧いた。
――終わった。ひとまずは救えた。
だが、現実は厳しい。
「……作業員たちも、サイの魔物も……全滅した。これも全部、エピスティアって奴に報告しなきゃならないな……」
パンドラが隣に立ち、静かに頷いた。
「ええ。報告と、然るべき問いただしが必要でして。決して許されることではありませんわ」
俺はひと息吐いて男に手を差し出した。
「おい。肩を貸すから捕まれ。ここでくたばるにはまだ早いだろ?」
男は黙って頷いた。
するともう一人の男も近づいてきてそっと彼の反対側の肩に手を置いた。
二人に支えられながら男はゆっくりと身体を起こし、俺の手をしっかりと握り返した。
「……ありがとうな、少年。お前みたいなのが現れてくれて、ほんとに助かったよ」
痛みに堪えながらも彼の手には生きようとする力が戻っていた。
その光を――消えかけた命の灯を俺は今、再び繋ぎ返したんだ。
水晶の残骸のそばで肩を貸された男が呻きながらも少しずつ足を動かしていた。
俺ともう一人の男が左右から支え、痛みに顔をしかめながらも地上への帰還を目指して一歩一歩を踏み出している。
その姿を見つめながらパンドラがふっと微笑んだ。
静かな、それでいてどこか温かみを湛えた表情だった。
「……パンドラ。何笑ってんだよ。見てるだけじゃなくて、もう片方の足を持ってやれよ」
そう声をかけるとパンドラはゆったりと視線をこちらに戻し、少しだけ首を傾け、わざとらしく息を吐いた。
「オーシャン、わたくし、こう見えても煌月家の――」
「今は一般人だろ?だったらいいから手伝うんだ。みんなで協力して帰る。それが一番大事なことだ」
言い終える前に俺はすでに歩き出していた。
その背を追うようにパンドラはやや呆れたように目を細め、やがて苦笑まじりに答えた。
「……分かりましたわ、オーシャン。では――失礼いたしますわ」
パンドラは一歩踏み出し、迷いなく男の反対側に回り込んだ。
膝を軽く曲げて腰を落とし、無駄のない所作で怪我人の足を持ち上げると、そのまま支えの姿勢を取った。
動きは端整で、気品と実用が両立した振る舞いはまるでそれすら彼女の本分であるかのようだった。
そのまま俺たちは残された者たちとともに坑道を引き返し、光の見えない地下からようやく地上へと辿り着いた。
地上に出た瞬間、風の匂いが変わった。
血も湿った鉱石の匂いももうここにはない。
ただ静かで――あまりに普通で、あまりに優しい空気が広がっていた。
怪我を負った男は治療班の者たちによって担架に乗せられ、奥へと運ばれていった。
その背が見えなくなるまで俺は目を逸らさなかった。
だが――それを見届けていたもうひとりの女がいた。
カカイラ。
表向きはこの鉱山の責任者。
深紅のラインが縫い込まれた黒革の軍服を纏い、胸元を大胆に開けて装飾過多な銀鎖をいくつも吊るしていた。
髪は艶やかな漆黒で高圧的な横流しのロングが片目を隠すように垂れている。
赤い口紅が笑みを作るたびにその目元に潜む飢えたような欲望がちらついた。
制服の左袖には煌月家の紋章――それが唯一、彼女を人として縛り付ける証のようだった。
「ねえ、あなたたち」
細く、鋭い声が空気を裂いた。
「で?魔法水晶は?まさか――手ぶらで戻ったなどと言わないでしょうね?」
その言葉に俺は一瞬言葉を失った。
だが、胸の奥から込み上げてきた感情を抑える間もなく怒声がほとばしった。
「……てめぇ、ふざけんなよ!!」
俺は前に一歩踏み出し、睨みつける。
「中がどうなってたか知らねぇのか?大量の魔物に襲われて、作業員が何人も死んだんだ!サイの魔物までやられてたんだぞ!」
周囲からもざわめきが上がる。
「そうだ!俺たちはお前らの使い捨ての道具じゃない!」
「俺の相棒は帰ってこねぇ……!」
悲痛な怒りが集まり始める中、カカイラは一歩も引かなかった。
むしろ、その目には冷ややかな侮蔑の色が浮かんでいた。
「……だから、何なの?」
その一言に場の空気が凍りつく。
「作業員が死ぬのは作業員だからよ。役目を果たせずに死んだなら、それはただの不良品。騒ぐほどのことでもないわ」
「……てめぇ……」
拳を握った俺の視界の端で数人の作業員が足を動かす気配がした。
怒りが暴力に変わる寸前だった。
だが、カカイラはなおも言葉を重ねる。
「わたくしに指一本でも触れようものなら、よくお考えなさい。それはすなわち、煌月家に逆らうということ。つまり――あなたたち全員、ここで死刑になるのよ」
その一言が落ちた瞬間、誰もが息を呑んだ。
張り詰めた空気に怒りと静寂がぶつかり合い、肌にまとわりついた。
俺は拳を握りながら寸前で踏みとどまった。
目の前の女を殴れば今この場で全員が巻き添えになる――その理屈だけがなんとか俺の怒りを縛りつけていた。
静かに、しかし決定的な威圧を込めて彼女は言った。
「あなた方にそれだけの覚悟があるなら、どうぞご自由に」
「なっ……」
言葉が出ない。
怒りはある。
憤りも、悔しさも、全てある。
だが、それを超える現実が首筋に突きつけられていた。
その時、パンドラが笑う。
「――でも、あなたの方こそ覚悟はしておいてくださいませ。必ず、報いを受けていただきますわよ」
その目がほんの一瞬、血のように赤く光る。
パンドラが俺の横に立ち、かすかに口を開いた。
「……オーシャン、こう多くの者がいる場所で殺すことは煌月家当主の立場として相応しくありませんわ。煌月家の名に傷をつけぬよう、権力の乱用は慎むべきですの」
俺は息を呑み、パンドラを見た。
「まずは――エピスティアのところに参りましょう」
その声は冷静で、けれど静かな怒りを秘めていた。
(……パンドラ)
俺は何も言わずに頷いた。
喉の奥に燻る怒りの熱を押し殺しながら俺たちは背を向けた。
場に残されたのは、張り詰めた空気と誰も動けずにいる作業員たちの息遣いだけ。
カカイラは最後まであの薄ら笑いを浮かべたまま微動だにせず、ただ、凍てつく無言の圧力で送り出してくる。
その沈黙が何よりも悪意に満ちていた。
採掘場から岩肌沿いの道を辿ると、旅商人が言っていた建物が見えてきた。
崖沿いに食い込むように建てられたその館は白壁がくすみ、長年の煤で灰色に沈んでいた。
改装されたはずの外観はどこか不釣り合いに重々しく、門前や屋上の影には私兵と思しき武装者の姿が見え隠れしている。
町の建物とは明らかに異なる空気を孕み、管理施設というより誰かが私物化した砦のようだった。
「……」
パンドラは一言も発せず、長い赤髪を揺らしながらまっすぐ館の門へと向かう。
その歩みには一切の迷いがなかった。
むしろ、怒りを抱えた女の足取りは風すら切り裂くような力を宿していた。
門前には二人の護衛がいた。
背筋を伸ばし、無表情にこちらを見据える私兵。
黒い腕章には煌月家の紋章が刻まれており、腰には魔法銃を携えていた。
だが、パンドラは立ち止まらない。
「止まりなさい、ここは――」
その言葉を聞き終える前にパンドラの手が動いた。
彼女の手先から噴き出した魔力が風となって駆け、次の瞬間、兵士たちの背後で門が音もなく軋んだ。
硬く閉ざされていた扉が、まるで見えない手で押し開けられたかのように重々しく開いていく。
「お下がりなさい。今は穏便に済ませたい気分ではありませんの」
静かに、けれど一点の容赦もない声だった。
護衛たちは目を見開いたまま思わず道を譲った。
威圧でも脅迫でもない。
だがそこにはそれ以上踏み込めば死ぬという確かな感覚だけが刻み込まれていた。
「おい……パンドラ……」
思わず声をかけたが彼女は応えない。
ただ前を見据えたまま、館の敷石を靴音で鳴らしながらどんどんと奥へと踏み込んでいく。
彼女はまるでこの館の主のように振る舞う。
いや、実際にこの館の主は彼女である。
煌月家の当主である彼女の血筋がこの館を拒むことなどあり得ない。
玄関を抜けると館の中はひどく静かだった。
冷たい湿気が肌を冷やし、不意にざわめくような感覚が背筋を走る。
廊下には絨毯が敷かれ、壁には奇妙な文様を描いた絵画と青白い光を放つ水晶の灯が交互に飾られていた。
パンドラは立ち止まらなかった。
俺も後を追う。
何人かの使用人と思しき者たちが遠くからこちらをうかがっていたが、誰も声をかけてはこなかった。
彼女の気配が館そのものを圧していた。
「……この中におりますわね」
やがてパンドラが立ち止まり、視線を左の扉へと向けた。
その先にある応接室。
木目の扉は閉ざされている。
中の気配はまだ薄く、こちらの訪問に気づいていないのか、それとも――
パンドラは振り返らず、ゆっくりと右手を上げた。
「……ここから先はわたくしが話をつけますわ。オーシャンは一歩も動かず、ここで待っていてくださいませ」
その声に思わず背筋が粟立つ。
静けさの奥で確かな熱が燃えていた。
それは怒りというより、断罪の意志そのものだった。
――パンドラが本気で怒っている。
そう感じた瞬間、空気が鋭さを帯びていた。
目の前に立つ彼女の背には、いつもの気品と共に張り詰めた危うさが宿っていた。
一歩でも踏み間違えればその怒りは鋭い刃となってあらゆるものを切り裂きかねない。
俺は黙って頷いた。
今はもう何も言うべきではない。
重い足音が扉の向こうからゆっくりと近づいてくる。
規則的でありながらどこか引き攣れたようなリズム。
こちらの気配に気づいた――そう確信できる揺れが音の中に混ざっていた。
(エピスティア……)
ついにこの時が来たのだ。
直接、話をつける瞬間が。
パンドラが躊躇なく扉を押し開けた。
すると――
「パンドラ様……?どうして、ここに……?」
女の声が漏れた。
息を詰まらせたような張りつめた音色。
それがエピスティアのものだとすぐに分かった。
驚き、困惑し、それを覆い隠せないまま声が揺れている。
だがパンドラは答えず、無言のまま室内へと進んでいく。
足取りは穏やかだったが、その一歩一歩に優しさという響きはどこにもなかった。
床に触れるたびにその怒りが確かな形を取っていくようだった。
「……あなた方が何をしてきたか、分かっていてそう言っているのかしら?」
低く、冷え切った声だった。
まるで氷の刃のように言葉の端から鋭さが立ち上っていた。
「ち、違うんです……!私は命令された通りに……!本当に、知らなかったんです……!」
弱々しく、かき消されそうな声が返ってきた。
だがパンドラは怯まなかった。
「お黙りなさい。知らなかったでは済まされませんわ。この町で起きたこと、その代償を――誰が払っているか、分かっていらして?」
その言葉は一つ一つが鋭く責め立てるように突き刺さり、しかも一切の間を置かずに繰り返された。
まるで相手に息をつく暇すら与えぬ苛烈な詰問。
エピスティアの反論はなかった。
いや――できなかったのだろう。
あれほどの早口で畳みかけられたら、エピスティアが言葉を返せないのも無理はない。
俺だって正面からぶつけられたら、きっと何も言えなくなる。
俺は扉の前に立ち、パンドラの言葉が途切れるのをじっと待っていた。
だが、次の瞬間――その声が不自然なほど唐突に止んだ。
空白が落ちたような静寂が扉の向こうに広がる。
何かが決定的に変わった。
部屋の中は張り詰めた糸が今にも切れそうな気配に包まれていた。
そして、その瞬間――空気が更に変わった。
肌を撫でる湿気がひやりと背筋を這い上がる。
静寂のはずの空間に何か見えない気配が立ち上る――冷たく、重たいものが。
――殺気。
(まさか……パンドラが……?)
疑念が胸を突き上げた。
怒りに任せて彼女が――?
嫌な予感が喉の奥に引っかかり、言葉より先に動いていた。
「パンドラ!だからすぐに殺そうとするなって言っただろ!」
思わず叫び、俺は扉を押し開けた。
だがそこに広がっていたのは――想像とは真逆の光景だった。
ソファーにパンドラが倒れていた。
赤い髪が乱れて広がり、身体は微動だにしない。
目を閉じたまま唇は微かに開かれ、返事はない。
「……えっ……パンドラ……?」
息が止まった。
そのすぐ傍に立つ女――金色の髪を肩口で揺らし、鮮やかなオレンジ色のドレスを纏っていた。
だが、優雅な装いとは裏腹に、その手には鋭い短剣が握られ、刃先を支える指が小刻みに震えていた。
それがエピスティアだった。
「……おい……お前、何してんだ……」
問いかけに返事はなかった。
彼女の瞳は焦点を失い、ただ鋭く濁っていた。
そして今、彼女の手に握られたその刃が――ゆっくりと振り上げられようとしていた。
思考が止まる。
けれど体は動いていた。
(今、動かなきゃ――パンドラが殺される!)
「やめろっ!!」
俺は駆けた。
何も考えずただあの刃の軌道を断ち切るために。
開かれた扉を一気に駆け抜け、俺は全身を盾のように投げ出した。
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