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第10話 物々交換と工場の男

「ここのパン屋さん、種類が豊富で美味しいわね!」


そう言ってルナはドーナツをひと口、ぱくりと食べた。

まぶたをわずかに跳ね上げて砂糖の粒を頬に付けたまま無邪気に笑っている。


俺は黙って頷いた。

もともと腹の足しにもならない菓子パンなんて俺には興味がなかった。

それでもこの店を選んだのは他でもない――彼女の気分を損ねないためだ。


ルナは見た目どおり、いや、それ以上に手のかかりそうな性格をしている。

ヘタに和食屋なんかに連れて行こうものなら「こんなのは嫌い」と平然と言い放ちそうな雰囲気がある。

だからドーナツ屋。

無難で選択肢もそれなりに豊富。

多少は喜んでくれるだろうと踏んだ。

そして――狙いどおりだった。


俺が黙ってスマホを取り出すと画面に表示された着信履歴が目に飛び込んできた。

……十数件、すべてイヴァンからだった。

メールも同じくらい届いていて、すべて未読のままだった。


「あ」


小さな声が漏れた。

昨夜、イヴァンにSOSを送っていたのを完全に忘れていたのだ。


「……悪い、イヴァン、寝落ちしちまった」


つぶやきながら簡単に「もう大丈夫になった」とだけ打って送信する。

これで少しは怒りが和らげばいいが……たぶん無理だな。


ルナはすでに二つ目のドーナツを手にしていた。


「それ食ったら、コンビニで何かもう少し買ってから一度帰るぞ。昨日の事を――やっぱりちゃんと聞かせてもらわないと納得できないんだ」


その言葉にルナは目をぱちりと瞬かせ、そして素直に頷いた。


「うん……わかったよ」


一瞬の間の後ルナはそう答えた。

どうやら俺の目が本気だった事くらいは伝わったらしい。


レジで支払いを済ませているとルナがぽつりと尋ねてきた。


「ねぇ、こっちの世界でもお金って必要なの?」


「……当たり前だろ。金がなきゃ食べ物も買えないぞ」


「そっか……そういうのはどこの世界も変わらないのね。ほんと、人生って不平等だわ」


深いため息とともにルナはポケットをまさぐると何かを取り出した。

掌の上に載せたそれは赤と緑の小粒で硬質な宝石。


――昨夜、あの化け物を倒したときに落ちていたものだ。


「私の世界ではね、これを売ればお金になるの。だから、もしかしたらこっちでも使えるんじゃないかなって思って。一応、持ってきたの」


「……おお、それは……」


一瞬で俺の顔に生気が戻った。

正直、今月はちょっと金を使いすぎていて食費すら怪しくなっていた。


「その手があったか!助かるよ。正直、今けっこうキツくてさ」


ドーナツ屋を出てコンビニへ向かう予定を変更する。

まずはその宝石を換金することにした。


俺の父さんの知り合いにリサイクルショップを営んでいる人がいる。

中古品や古物の扱いには詳しいし見た目で判断するような人じゃない。

中学二年の俺がいきなり質屋に行くよりもよほど話が通じやすいだろう。


外に出ると空はどこまでも晴れ渡っていて雲一つない快晴だった。

照りつける日差しの下、街路樹が揺れ、歩を進めるたびにアスファルトの熱気が足元に立ち上がる。

そんななか俺はルナに街並みを案内するようにゆっくりと歩いた。


やがてリサイクルショップの前に着く。

店先では見慣れたおじさんが掃き掃除をしていた。


「こんにちは~!おじさん!」


俺が声をかけるとおじさんは顔を上げてすぐに笑顔を見せてくれた。


「おお、天空くん。久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」


「ちょっと、これを見てほしくてさ。少しでもお金になればって思って」


そう言って宝石を手のひらにのせて差し出す。


おじさんはそれを見た瞬間、目を丸くしてわずかに眉をひそめた。

目線をルナにちらりと向けてから再び俺に視線を戻す。


「……ちょっと、中に入っておくれ。話を詳しく聞かせてくれないかい?」


おじさんの声から先ほどまでの気楽さがすっと引いていった。

その変化は微細だが俺にははっきりとわかる。

空気が一変したような得体の知れない緊張が走った感覚――予感というより直感に近いものだった。


カウンターの奥で宝石を載せた布の上に拡大鏡をかざし、おじさんはじっと赤と緑の輝きを覗き込む。

その横顔には笑顔の余韻すらない。

黙々とした沈黙が数分、俺たちの呼吸の間に流れたあと、おじさんはようやく口を開いた。


「天空くん……これはうちでは買い取れないよ」


「ええ?なんで?」


思わず身を乗り出した俺におじさんは鏡を外し、神妙な面持ちで宝石を指さした。


「これはね、本物のルビーとエメラルドだよ。それもかなりの高品質だ。買い取るとなると……下手すれば五十万円を超えてしまう。うちみたいな小さな店にはそんな大金を用意する余裕はないんだよ」


「ご、ごじゅう……五十万!?」


脳が一瞬思考停止した。

五十万円って――たかが赤と緑の石ころにそんな値がつくのか?

……いや、これが本物ってやつなのか。


「じゃあさ、おじさんが代わりに売ってくれない?高く売る自信あるでしょ?売れた金額の半分あげるからさ!」


頼み込むようにそう言った俺に対し、おじさんは困ったように目尻を下げて苦笑した。


「気持ちはわかるけど、それは難しいよ。たとえ私が売ったとしても天空くんの保護者の同意書が必要になる。金額が金額だからね。イヴァンくんのお父さんだろ、保護者は?一度話を通しておいでよ」


その言葉に俺は肩を落としそうになったが――


「それなら――!」と横からルナの声が割って入る。


「このお店にある物と交換って形にしたらどう?お金じゃなければ問題にならないんじゃない?」


「……彼女は天空くんの知り合いなのかい?」


おじさんが不安げに問いかけるとルナは勢いよく胸を張りながらにっこりと笑った。


「私の名前はルナよ!ルナちゃんって呼んでね」


妙な押しの強さと無邪気な笑顔に、おじさんは眉間に皺を寄せつつも「仕方ないな……」と呟き、ついに首を縦に振った。


「ただし……交換するにしても半分――つまり二十五万円相当の物になるんだけど、一体何を欲しがってるんだい?」


ルナはすぐさま指を一本立てて言い放った。


「えーとね、このウォーターベッドって言うのと、大きな鏡と、それからこのドレッサーと――」


「おいおいおいおい!なんでそんなに家具ばっかり選んでるんだよ!?まさか……」


口を挟まずにはいられなかった俺にルナは静かに目を細めて振り返る。

そしてほんの少し首を傾けながら、やけに穏やかな声で答えた。


「だって、2階に空いてるお部屋があったでしょ?そこ、私のお部屋にするの。いいでしょ、天空くん?」


喉の奥が詰まった。

いつの間にか天空と――本名をわざわざ使ってきた。

それがなんとなく逃げ道を塞ぐようで、気づけば反論するタイミングを逸していた。


「なあルナ……さすがにそれ、二十五万円の範囲超えてない?いや、超えてるよな。普通に考えて……」


「問題ないってば!ちゃんと良い考えがあるんだから、任せて!」


根拠もなく自信満々なその言葉に俺は胸の奥に不安を押し込みながらも頷くしかなかった。

最終的に物々交換という形で話はまとまり、家具類は後日、配達ということで手配された。


もちろん現金は一円も手に入っていない。

そう、俺たちは儲かったわけではなく、ただ得体の知れない家具を増やしただけなのだ。


――大丈夫か、俺。


心の中で自分に問いたが、答えが返ってくる前にルナが嬉々として笑い出す。

俺は小さく溜息をついた。


リサイクルショップを出た俺たちは当初の目的だったコンビニへ向かうことにした。

そこで軽い食料と日用品を買い足してからようやく家に戻るつもりだった。


帰り道に工場と倉庫が無造作に並ぶ潮風の匂いが濃い海辺の道を歩いていた。

朝の陽はすでに高く、空気はまだ冷たいのに陽の照り返しだけがじわじわと肌を焦がしてくる。

荷積みの音が遠くで響き、港湾に向かうトラックが小さな振動を道に残して過ぎ去っていく。


その時だった。


前方を歩いていた運送会社の制服を着た男――がっしりした体つきのドライバーが唐突に脚を止め、荷物ごと膝を折った。

重たい音を立てて崩れ、そのまま前のめりに倒れ込んだ。


「おい!大丈夫か!」


俺たちは駆け寄って声をかけた。

地面に突っ伏した男の顔を覗き込むと明らかに異常だった。

目はうつろに開かれ、唇の端から泡を吹き、喉がごぼごぼと音を立てて呼吸を取り込めずにもがいていた。

まるで肺の中に水が流れ込んでいるような、そんな苦しみ方だった。


こんな呼吸の仕方、明らかに異常だ……!


焦りに突き動かされるように俺は思わず叫んでいた。


「誰か!助けを――!」


その声を聞いて数人の通行人が駆けつけてきた。

周囲が一気に騒がしくなる。


「なにがあった!?」


「この人、突然倒れて……呼吸がおかしいんだ!」


「救急車!誰か呼んでくれ!」


あっという間に人だかりができて、混乱の空気が拡がった。

けれどそのざわめきの中にひとつだけ妙な静けさがあった。

俺の背後――そこだけまるで時間が止まったように気配が変わった。


違和感だった。

周囲の空気が一瞬だけねじれたような――そんな形のない気配が背後に忍び込んでいた。


……魔物か?


一瞬そう考えて周囲を見渡した。

だが、視界には異形の怪物の姿は見えない。

ただひたすらに工場と倉庫が無言でそびえているだけだった。


その時。


左肩に冷たいものがふれた。

氷を押しつけられたような感覚だった。


「俺はここにいる人間を一瞬で窒息させることができる。……無駄なことはするな。二人とも黙って俺についてこい」


声だった。

背筋を貫くような低く、抑えた声。

言葉に刃はなかった。

だが、それ以上に静かで冷たい確信のある脅迫だった。


ゆっくりと振り向く。

そこにいたのは作業着を着た男。

顔には油が滲み、腕には埃が積もっている。

どう見てもこの辺りで働いているただの作業員だった。


だが目が違った。

色がなかった。

深さもなかった。

ただ、こちらを映す器のように。


そして彼の言葉が耳の奥に残っていた。


――「人間を」


それは裏を返せば自分は人間ではないという宣言だった。


ルナが小さく息を呑む気配がした。

彼女は無言のまま俺の袖をつかんでいた。

周囲にはまだ何も知らず、倒れた男を囲んで騒ぐ人たちがいる。

もしこいつの言葉が真実なら、ここで動けば巻き込まれるのは――。

……だから、駄目だ。

この男についていくしかない。


俺はルナと目を合わせた。

小さく頷く。

彼女もそれに頷き返した。


逃げられない――そう悟った瞬間、選択肢は一つになった。


俺たちは言葉もなく指示に従って静かにその場を離れた。

朝の光がまだ強く輝いているのに足元には影が付きまとい、潮風の匂いだけがやけに遠く感じられた。

辿り着いた先は港湾の外れにある廃工場だった。


人の気配などとうに絶え、鉄骨がむき出しになった壁は赤茶けた錆をまとい、風を切って軋んでいた。

床のコンクリートはひび割れ、ところどころ崩れて内部の砂が露出している。

窓ガラスは砕け散り、割れた扉の隙間から吹き込む潮風が鉄と塩のにおいを混ぜながら空間を冷やしていた。


陽の差す角度が変わってもここには昼のぬくもりが一切届いていなかった。


男は足を止めてこちらに振り返る。


「なぜその娘を庇う?」


抑えた声。

だが威圧の色は明確だった。

鋭い視線が俺の喉元を見透かすように走る。


「その娘はこちらの世界の人間ではない。元々の場所に返すのが筋だろう。……娘を我々のもとに引き渡せばお前の事を見逃してやる。元の生活に戻れる。何も悪い話じゃないはずだ」


俺はゆっくりと一歩、前に出た。


「人を喰うだの、窒息させるだの……てめぇらみたいな化け物に人の命を預けられるわけねぇだろうが」


声が思ったよりも冷えていた。

怒りではない。

迷いが消えていたからだ。


すると隣にいたルナが小さく震える声で問いかけた。


「……どうして……どうして私のことを追ってくるの?私の事なんか放っておけばいいじゃない……」


ルナの声には戸惑いが滲んでいた。

本人ですら理由を知らないらしい。

その事実がかえって胸に引っかかった。


男は微動だにせず答える。


「……お前の父親の命令だ」


「――え?」


明らかに、ルナの呼吸が止まった。


「なるべく無傷で連れてこいと命じられた。だが、生きていれば充分だと聞いている。お前を連れて帰る理由など俺が知る必要はない」


どこまでも無機質だった。

命令があるから動く。

それ以外の理由は不要だ。

思考も、感情も、目的も、その中には存在しない。


ルナは言葉を失っていた。

目が揺れていた。

視線は虚空をさまよい、俺の存在すらもう届いていないようだった。


――ルナの父親。


聞き捨てならない単語が静かに響いた。

俺は彼女の表情から何か心当たりがあることだけは察した。

だが、口を開こうとはしない。

今はそれ以上踏み込めなかった。


代わりに俺が前へ出る。


「じゃあ、ルナの親父がこっちに来ればいいじゃねぇか。自分の娘を連れ戻したいなら、自分で会いに来るのが筋だろ?」


男はしばし黙った後、頭を軽く左右に振る。


「……あの方がわざわざこんな危険を冒すはずがない。普通の人間にはこちらの世界に来る術などない。我々は例外だ。だが――あの娘は違う。お前とは異なる特別な存在だ。だからこそ我々はあの娘を連れ帰るためにこちらの世界に足を踏み入れたのだ」


つまりルナはこっちの世界に来てしまった……それだけで、普通じゃないってことか。

自然と笑いがこぼれた。


「へぇ……ずいぶんと慕われてるんだな、ルナの父さんはよ。命令一つでお前みたいな男が忠実に従うくらいにはな」


その瞬間、男の目が僅かに細まった。

唇がぴくりと吊り上がる。

完全な無表情だった顔が怒気の予兆でわずかに歪んだ。


「……もう、いい加減決めろ。……選べ。娘を渡すか、それとも命を捨てるかだ」


空気が変わった。

まるでこの場所すべてを男が掌握しているかのような圧が迫る。


俺は真っ直ぐに男を見た。

ほんの少しも視線を逸らさず、短く吐き捨てた。


「そんなもん、答えるまでもねぇだろ」


「――ならば、死ね」


次の瞬間、男の目が鈍い光を帯びた。

瞳の奥で何かが蠢いたように見えた――そんな錯覚すら覚える。

そして空気が急に重たく沈む。

音すら吸い込まれたように静寂が場を支配した。


――これはただの脅しじゃない。

そう、確信した。

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