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第9話 下着姿の女の子と紳士の男の子

「ただいま」


玄関のガラス扉を横に滑らせ、俺は中へ一歩踏み込んだ。

後ろからそっとついてくる彼女を振り返ると、彼女は戸口の段差を気にしながら恐る恐る中へ入ってきた。


「ただいま、って言っても誰も出てこないね」


彼女は声を弾ませつつも不思議そうな顔で広々とした居間を見渡す。


「こんなに大きな家なのに……ひとりで暮らしてるの?」


その言葉に俺は頷いた。


「ああ、そうだよ」


余計な説明はしない。

彼女もどこか察したようで、それ以上は何も聞かなかった。

代わりに居間の中をぐるりと見回し、そっと微笑む。


「古そうな家だけど、中はすごくきれいにしてるんだね」


その言葉に対して俺は照れることもなく事務的に話を続けた。


「まず先にシャワーを浴びてくれ。今着てる服も全部洗濯するからな。……次に臭いをかぎ分ける犬の化け物みたいなのが来たらさすがにもう洒落にならん」


「えぇ~?着替えなんて持ってないよ?」


「俺の母さんの服なら貸してあげれるから。少し大きいかもしれないけど何も無いよりマシだろ」


そう言って俺は彼女をお風呂場へと案内した。

長い夜を駆け抜けたあとの身体には、何よりまず温かい湯が必要だった。


「絶対に覗かないでね~!」


念を押すように声を張る彼女の声も、もう遠くでこだまするようにしか聞こえなかった。

居間のソファーに身を沈めた俺の意識は深い水の底に引き込まれるように静かに沈んでいった。

思考も感覚も曖昧になり、彼女の声も玄関の軋みも遠い世界の残響のようにかすれていく。


そのまま俺は深い眠りに落ちた。

まるで気絶するように。


――そして、どれほど時間が経っただろうか。


「ねぇ、着替えどこ~?」


シャワーを終えた彼女の声が浴室の奥から響いてきた。

タオルを体に巻き、濡れた髪からは湯気がふわりと立ちのぼっていた。

しかし居間に横たわる俺はピクリとも動かず、爆睡中だった。


「……もう、寝てんじゃん」


呆れたように小さくため息をつくと、彼女はそっと階段を上がっていった。

廊下を進み、扉を開けていく。

そしてその中のひとつ――母さんの部屋のクローゼットを開けると、そこには未使用の下着や、やや古めの服が丁寧に畳まれて収められていた。


「うん、これなら大丈夫かな……サイズはちょっとだけ大きいかも」


つぶやきながら下着を身につけ、選んだカーディガンを羽織ると、彼女はついでのように隣の部屋へと入っていった。

そこは俺の部屋だった。


「……寝てる間に失礼しまーす」


誰にともなく呟くと彼女はベッドにそっと体を横たえた。

布団に潜り込んだ時にかすかに残っていた俺の体温が肌に伝わり、思わず目を閉じる。

あたたかかった。

ひどく疲れていた心も身体も、そのぬくもりにゆっくりと包まれていった。


やがて夜が静かに深まっていく。

誰も騒がず、誰に追われることもなく、何も起こらない夜。

心を張り詰める必要もなく、痛みも恐れも遠ざかっていた。


そして俺と彼女はそれぞれの場所で――深く深く、朝まで眠り続けた。


◇ ◇ ◇


まだ空が白み始める前、吐く息がわずかに白く浮かぶ早朝の空気の中で一人の男が俺の家の前に立っていた。

イヴァンだった。

ポケットからスマホを取り出し、もう一度天空から届いた謎のメールを確かめる。


「道に迷った。殺されるかもしれない。助けてくれ」


返信を何度送っても返事は返ってこない。

電話もかけてみたが、虚しく呼び出し音だけが響くばかりだった。


重い足取りで玄関のチャイムを押す。


「天空、いるのか?頼む、返事をくれ……」


応答はない。

恐る恐る横にあるガラス張りの扉に手をかけると、軽く押しただけで静かに開いた。


「え……鍵、かかってないのか?」


胸がざわついた。

誰かがいるのか、それとも――。


開け放たれた玄関。

謎のメール。

点と点が線でつながるように不穏な予兆が――確信へと変わった。


「天空~!おーい、いるのか?」


呼びかけながら家に上がり込み、玄関ホールを抜けて階段を上がる。

だがどこからも物音は聞こえない。

静かすぎる。


「……寝てる、のか?」


イヴァンは呟くように言いながら俺の部屋のドアに手をかけた。

ゆっくりと開けたその先で彼は思わず息をのんだ――。

部屋の窓が割れている。

床には光を受けて冷たく輝くガラス片が散乱していた。


「……おい、マジかよ……何があったんだ……?」


慎重にガラスを避けながら奥へ進む。

視線の先、ベッドの上――膨らんだ布団。

誰かがそこに眠っている。


「なんだよ、天空……寝てんじゃんか……」


安堵と困惑が入り混じった声を漏らしながらイヴァンはゆっくりと布団をめくった。


そして次の瞬間。

目に映ったのは、あまりにも現実離れした光景だった。


「……え、ちょ、まっ……えっ?」


うっすらと薄明かりに照らされたベッドの上に柔らかな曲線を描いて横たわるのは見知らぬ金髪の少女。

無防備な寝顔ですやすやと静かに寝息を立てていた。

下着一枚。

細い肩、透ける鎖骨、金色の髪が枕に散り、その隙間から覗く頬は穏やかで、なにより――艶やかだった。

イヴァンの喉がごくりと鳴る。


「う、うそ……な、なんで女の子……?誰だよこれ……っ!」


彼の声は震えていた。

頭が真っ白になるのを自覚しながらイヴァンは目の前の現実に追いつこうとしていたが、思考が跳ね返される。


「ちょ、ちょっと待って……ここ天空の部屋だよな?間違ってないよな?これ……これどういう……っ」


もう一度確認するように部屋を見渡す。

机の上の散らかったノート、壁に貼られたポスター、あのカーテン――間違いなく見慣れた天空の部屋だった。


「でも……なんで……女の子が……?っつか……下着……」


布団の奥、女の子の胸の谷間がわずかに揺れる。

呼吸に合わせて、肌の影が動く。

頬が紅潮しているように見えたのは朝の寒さのせいか、それとも――。


「くそっ……見てない見てない、何も見てないからな!」


そう呟きながら布団をそっと祈るような手つきで丁寧に元に戻す。


「……ごめんなさい……いや、ほんと、マジでごめん……俺、悪気はなかったっていうか、なんで鍵かかってなかったんだよ天空……!」


布団を完全に戻した後、彼は目を強く閉じ、そのまま後ずさるように部屋の入り口へ戻った。

ため息すら出なかった。

もう音を立てるのが怖い。

足元のガラスを避けながら、慎重に……泥棒のような動きで階段を下りる。


玄関にたどり着くと脱いだ靴をすばやく履き、もう一度だけ振り返った。

今にも布団の中の少女が起き上がり、「誰……?」と震える声で問いかけてくる幻聴が聞こえた気がして、背中が跳ねる。


「……っぶねえ……もう、ほんっと無理だってこんなん……!」


深く息を吐く。

吐いたそれがうっすらと白くなり、早朝の空気が彼の火照った顔を冷やしてくれた。


「……お邪魔しました……」


そのまま家を出ていった。

少女の眠る部屋を背にまだ朝の気配が訪れていないほの暗い道を無言のまま歩いていった。


◇ ◇ ◇


女の子が静かに目を覚ました。

その睫毛がわずかに揺れ、数秒後、ぱちりと瞼が開かれる。

イヴァンが部屋に入ってきて布団をめくった事にも気づかない。

けれど、急に肌に触れた朝の冷気だけは彼女の眠りを浅くするには充分だった。


「う~ん……ここはどこだっけ?」


寝ぼけた声を漏らしながら彼女はまだはっきりしない意識のままぼんやりと周囲を見回した。

見慣れない天井、散らかった机、本棚、割れた窓、そして――男の部屋らしい生活感の匂い。


「……あっ、そうだ、あの子の家……」


そう言いながら、彼女はゆっくりと身体を起こす。

カーディガンが何処かにいって、自分が下着姿で寝ていたことにすぐには気づかない。

けれどふと、むき出しの肩に触れた冷気に震えた。


「寒っ……なんか、上に着るもの、どこかに……」


彼女はベッドを抜け出し、俺の部屋を躊躇いも遠慮もない動きで探索し始めた。

タンスの引き出しに手をかけてためらうことなく開ける。


「服あるじゃん!ふふ……これは夜にあの子が履いてたズボンと似てるかも」


シャツを持ち上げて、匂いを嗅いだ。


「ん、何か変な香りがする……でも全然平気!」


彼女はまったく悪びれもせず、その場で俺のシャツを腕に通した。

続けてカーディガン、そしてパンツ。

どれも俺が気に入っていたやつだ。

ベージュのシャツは少しゆるく、袖が手の甲まで隠れる。

黒のボトムは彼女の細い腰に意外なほどすっきりと収まった。


「うん、悪くないね……ってか、似合いすぎ?」


鏡を見つけると軽くくるりと回ってスカートのようにボトムの裾をひらりと動かす。


「さて、と……あの子、まだ寝てるのかな?」


彼女は部屋を出て、階段をゆっくりと下りる。

居間に降り立つと、ソファの上で俺がぐったりと横たわっていた。


――昨夜の疲労が、限界まで溜まっていた。


「おーーい!起きてーー!朝だよーー!」


その声は遠慮も気遣いもなかった。

爆音のような声に俺の脳が揺さぶられた。

夢の底から引きずり出されるように目が覚めた。


「……うるせぇ……なんで寝かせてくれないんだよ……」


俺は目元を押さえたまま呻いた。

叩き起こされた怒りより、疲労が勝っていた。

怒る気力すら湧かなかった。


「おはよう!昨日は眠れた?」


彼女は満面の笑みで言った。

あまりにも屈託がなさすぎて、かえって罪悪感すら生まれるほどだった。


「ああ……まぁ、一応な」


ふと目をやると彼女が俺の服を着ていることに気づく。

よりにもよって俺の中でお気に入り上位ランクに入るやつだ。


「……おい、それ……俺の服じゃんか」


「え?そうだよ?何か問題?」


「問題しかねぇよ!なんで勝手に着てんだよ!」


「だって……ほら、こっちの世界の服を着たほうが馴染むかなって……ね?」


「馴染むって、お前……いや、そもそもメンズ服だろそれ……」


「気にしな~い!案外似合ってるでしょ?」


妙に似合っているのが余計にムカついた。

長めのロングカーディガンが彼女の華奢な肩を包み、シャツのゆるさが彼女の線の細さを強調する。

黒のボトムは妙にスタイルを際立たせていた。


「そう言えば、お前の名前……まだ聞いてなかったな」


俺が問いかけると、彼女は少しの沈黙のあとで――にこっと笑った。


「ルナ!私の名前はルナよ!」


……その間。

ほんの一瞬の沈黙に俺は違和感を覚えた。

返答が遅すぎる。

即答するはずのものだ。

嘘をつく時、人間は一瞬だけ言葉を探す。


――偽名だな、これ。


昨日あれだけ助けてやったのに名前すら教えてくれないのかという気持ちが胸の奥に静かに澱のように積もる。


「キミのお名前はなーーに?」


「俺はダルオだ!ダルオ!眠いんだ!バカヤロー!」


「ふふ、意味わかんない!」


偽名同士の紹介が済んだところで、俺は昨夜のこと――なぜ俺の家にいたのか、どうして化け物に追われていたのか、どこから来たのか――問い詰めようと口を開きかけた。

だが、彼女が先に言った。


「お腹すいちゃったね?何か食べるもの無いの?」


「いや、朝は食べないし……食べ物も家にないな」


「えぇ~!?そんなのダメよ!ほら、何か食べに行こうよ!そうしましょ~!」


「……元気すぎるだろお前」


俺は呆れた声を漏らしながらも腹が減っていたのは事実だった。

昨夜の騒動で身体は重く、頭は鈍く、胃袋はきっちり空っぽだった。


「……まぁいいか。付き合ってやるよ、ルナ」


俺たちはそんなやりとりを続けながら玄関で並んで靴を履いていた。

差し込む朝日はすでに高く、窓から射す光が床に落ちる影をくっきりと伸ばしている。

けれど、隣に立つ彼女の姿はその光にさえ負けないほど印象的で――まぶしかった。


――この日を境に俺の生活は確実に変わっていくことになる。

けれど、その始まりにもう足を踏み入れていた事を、この時の俺はまだ何ひとつ理解していなかった。

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