076 異様な視線
大臣からの特務……考えるまでもなく、非常に重要な命令のはずなのだが――
「命令は……これだけなのか……?」
茫然として言葉が出なくなり、俺は又もや絶句する事となる。
残念な事……なのだろうか……秘密裏に送られてきた文書だが、その内容が余りに短く、これだけでは何も読み取る事が出来なかったのである。
「地図上のポイントに俺が単独で向かえ……それだけでなく、別の改良型を使ってだと……!? 何も書いていないが、機体の試験なのか? 全く分からんが……」
兎にも角にも内容の方は本当にそれだけのようだ。後は出撃時間についてと柏木旅団長に内容は伝えず、その許可を貰えとしか書かれていなかったのだ。
「ううむ……」
これはどうしたものかと唸った俺……渡された封筒の方の存在を思い出す。
だが、慌てて開封した中身も紙一枚だけであったようだ。内容は緯度と経度、そして方角と時間が示されているようだ。ともあれ、この数値は誰にも漏らすなと彼の直筆で書かれている以上、誰にも、アリスにも相談は出来そうにないようだ。
まさか炙り出しでは……と臭いまで嗅ぎながら訝しむ。
「まあ、流石に無いか……しかし、また……紙での連絡とは珍しいな……」
さて、俺は文書の裏表を交互に眺めながら色々な意味で頭を抱える事となる――
まあ……当然の権利のように大いに頭を抱えさせて貰うが、分かりづらく理不尽な命令の方には疑問は覚えても従うので、それ程の大きな問題はない。
だが、それとは別件、絶賛とばかり機嫌を大いに損ねている最中のアリスにこの件を一体どう伝えればよいのかと……俺は大いに悩んでしまったのだ。
だが……
「素直に伝えるしか……ないかな……ないだろうな……更に機嫌を損ねるな……」
そう口にしつつも、俺はスマートフォンを起動していく。すぐに産総研のロゴが立ち上がり、そこに既に半泣きといった様相のアリスが現れる。そして……
「その……」
<何よ……>
明らかに不機嫌を超えてしまったアリス、理不尽に怒られた子犬のような表情、上目遣いとなった可哀そうな彼女が不満げに被さるように声を発してくる。
だが、沸き上がる庇護欲に負けじと俺は目を瞑り言葉を続ける。
「本当に済まない……先ほどの防衛大臣からの特務についてなんだが……その……別の機体での出撃を命令された……たぶん、機体の試験だと思うのだが……」
俺は薄目を空けてチラリとアリスの様子を窺う。
だが、それ以上は言う事が出来ないという俺の言葉を受けたアリスの表情に変化が起こる。今にも泣きだしそうだった表情がスッと収まり、片眉が上がったのだ。
何か疑問を覚えて好奇心が刺激された顔である。
<今更、機体の試験という事は無いわっ! こんな前線でやる事じゃないし……間違いなく、何かの別件ね! しかも、わざわざ私を外すという事は……>
そんな少し楽しそうになったアリスが閃いたとばかりに又もや声を発する――
<戦闘関係、情報収集という訳ではないって事ね……となると外部との連絡の遮断が優先って事……具体的な命令や指示を現場に着いてからって事かしらっ?>
謎解きは彼女の好みの一つなのだろうか……
キラキラと輝く様な笑顔となったアリス……いつもの賢く可愛らしい彼女へと戻った事に喜んだ俺は小さく微笑みながらチャンスとばかり強引に謝罪をしていく。
「その……済まなかった。上書きの話だが、人とAIは別種なんて言うつもりはなかった。あくまで機能的な……その……システムの違いを言っただけなんだ」
この突然の謝罪の言葉を受けたアリスの顔が一瞬だけ変化する。思わず、機嫌を戻してしまったが、そういえば私は怒っていたんだった……という顔である。
「一切の他意……特に君への悪意なんてモノはないんだ」
また一瞬、複雑そうな表情をみせたアリス……だったが、今度は少し困ったような表情を見せてくる。どうして良いか、分からないといった顔である。だが……
<人って大変よね……こんな色々な自分の感情を相手の感情と併せて同時に正しく処理するなんて……たまに喧嘩になったりするのも良く分かったわ>
機体のコンピューターだけではとても処理できないというアリス……そんな彼女にまず謝罪を聞いてくれた事に感謝し、それから件の話に応じる。
「怒りと哀しみという処理が優先されて距離を置く。そのまま一人で同じ事を長々と考え続ける事は無駄だと考え始めて……今一度、些細な切っ掛けで話し合う。その後に仲直りするか、喧嘩別れするだけ……の事ではあるのだがな」
全てを正確に処理して答えを導いている訳ではないという事を丁寧に伝える。
<ある程度は……相手の良し悪し、好きとか嫌い、相性で判断してるって事ね>
「そういう事だ」
じゃあ、仲直りが出来たって事は……そこまでアリスが口にした所で通信室の外の騒めきに気付く。外に出ていた人々がそろそろではないかと考え始めたのだ。
「あまり、長居は出来そうにないな……彼らも作業があるからな……」
<そ、そうね……>
俺は決められている手順通り、使っていたアプリの初期化を行う。
これまた手順通りにコンピューターの電源を落とした俺は遠巻きにこちらへ眺めていた人々へ声を掛け、代わりとばかりに部屋の外へと向かう。
◇
こちらを訝しんでいた柏木旅団長だが、特に問題なく出撃許可を出してくれたようだ。明らかに困惑している俺の方を不憫に思ってくれたのかもしれない。
さて、そこまではまあ、全く問題が無かったのだが……ここに来て機嫌が戻ったアリスが相棒である自分を置いての出撃という現実を思い出してしまったようだ。
いつものように元気に騒ぎだす。
<誠二が私以外に乗るなんてっ! やっぱり許せないわっ!>
周囲に言葉だけを聞かれたら誤解を招きそうな台詞を叫ぶアリスを諫める。
「アリス、一応は特務なんだ……静かにしてくれ……」
そう口にしながら団地に隣接した安物プレハブで造られた臨時の格納庫へと繋がる扉を開けた俺……だが、そんな俺の眼前に思わぬ人物が立ち塞がる。
進路を塞ぐように現れたのは……なんと田沼恵子二等陸尉であった。
「隊長……何か、呼び出されたと聞きましたが?」
「た、田沼くん……? 休んでいなかったのか?」
疲労困憊となった赤城中隊の全員は漏れなく個室を宛がわれ、今は間違いなく休んでいるはず、そう考えていただけに俺は少し驚いてしまう。
だが次の瞬間、そんな俺を押し退けるようにしてアリスの気ままな声が響く。
<ねえ、聞いてっ! 誠二ってば、これから特務だって! 私も置いてかれるのよっ! 内容も全部、秘密にされるしっ! 田沼さんからも言ってやってよっ!>
この子は機嫌が落ち着くと酷く短絡的になってしまうようだ。俺は言わなくても良い事をベラベラと口にしたアリスをすぐにその場で注意する。
だが、そんな我々のやり取りは目に入らんと言わんばかりに田沼が口を開く。
「それで……何をしに行くんですか?」
<へっ!? た、田沼さん……?>
この異様な雰囲気を纏った彼女の様子にアリスも流石に不信感を抱いてしまったようだ。思わず彼女の名前を口するも、そのまま口を噤んでしまう。
そんな中、俺は……先ほどの『戦闘時の件』を思い出してしまう。
そう、田沼機へ向けてインセクタムが殺到した件である――
言うまでもなく、異常の後の異常はかなりの異常という事である。何となく、目に生気のないような様子をした眼前の田沼を俺は大いに訝しむ。
「隊長……」
さて、いつもであれば時間がないからといった理由で彼女を避ける所である。だが、今回は全く別の異常という理由から眼前の彼女を避ける事にする。
「ノアっ! 居るな?」
<はい……>
「済まんが……特務による緊急の出撃だ。彼女の説得は君に任せる」
<あっ!? 誠二、私だって話が……!>
「駄目だ……特務が優先だ……分かるな?」
まだ話の続きがあると言わんばかりのアリス、まだまだ食い下がりそうな仕草の田沼、気のない返事をしてみせたノア、その全てを俺は強引に突き放す。
俺のこれまで培った経験と勘、その全てが彼女とノアにこれ以上の情報を与えるなと騒いだのである。それほどまでに眼前の二人の様子は異様という事だ。
敵意を持つ何かと突然、相対してしまった時のような一瞬で背筋が凍る感覚――
俺は立ち尽くす田沼の横を擦り抜け、整備兵にアリスが搭載されたスマートフォンを託す。そして予備機であった一機の『AA-PE』へと足早に向かう。
こちらを窺ったままの田沼も、それ以上は何も言ってこなかったようだ。
その明らかに異常な冷たい視線から逃げるように俺は出撃準備を急ぐ――