036 偽りの強行偵察
手が届くのではと錯覚するような低い位置にまで張り出してきた黒雲……この大量の雨を含んだ黒い雲はただでさえ少ない光を遮ってしまったようだ。
既に時間は昼のはずなのに周囲は夜同然の闇の中となっていく――
そんな中、何時もよりも酷く強烈な雷鳴が何度も響き渡る。その瞬間だけ、我々の周囲は『出来の悪い夢の世界の昼間』のように白々しくなる。
気味の悪い光景というだけで辟易としてくるが……
更に嫌な事に……この奇妙な白い世界を作り出す『定まらない光源』はそこら彼処で幾つも影を突然に伸ばし、現れて消すを繰り返してくるのだ。存在しないと知っていても、そこら彼処に敵がいるのではと思わず錯覚してしまうという事だ。
電波障害が強まり、頼れるドローンも出せなくなった今は猶更……俺は皆に無駄に警戒を強いながら『AA-PE』を慎重に進めていく事となったのである。
そんな中々に極悪・劣悪な環境に負けじと俺は声を上げる――
「田沼機、大崎機、三島機……何か見えるか?」
極一部の者だけしか知らぬ『架空の敵を見つける為の強行偵察』……周囲に敵がほとんどいないとは知らない三人からはすぐに緊張した答えが返ってくる。
「田沼機、何……視でき……ん」
「大崎機、……できず」
「三島機、全……も見えま……」
だがやはり、酷い雷鳴の所為か、無線の状況が相当に宜しくないようだ。途切れ途切れに辛うじて聞こえてきた無線を通して今度は別の指示を出す。
「田沼機、大崎機、陣形を維持したままホバーとの距離を十五に縮めろっ!」
先頭に位置する俺、左右に展開する田沼と大崎、後衛の三島、その中心で守られるホバーとなるダイヤモンドフォーメーション……安全の為、三島をホバーに寄せていた少しばかり歪なダイヤモンドの左右も小さくするよう指示を送ったのだ。
我々の相互通信は中心のホバーを介して行う。だが、俺はホバーと一定の距離を空けておきたい。しかし、皆の声の方は正しく受け取りたいのである。
これはそんな状況を少しでも良くする為の苦肉の策である。
「各機、レーダーも無線も反応が悪い事を忘れるな! 突然の遭遇にだけは注意しろ! 特に三島機は風が強いからと自動姿勢制御装置に頼り切るなよ! 機体は何時でも自分で全力で動かせるようにしておけっ! 分かったな!?」
この言葉も何処まで通じているか分からないな……そう考えた俺の耳に今度はハッキリとした了解の声が聞こえてくる。距離を縮めた効果が思った以上に早く出たという事だ。少しだけ余裕が出来た俺はこれを機にマップへと視線を送る。
ホバーから受け取った情報を今の内に少しでも精査しておこうと考えたのだ。
だが、俺がそう考えた次の瞬間、眼前の簡易的に味方の輝点だけが表示されていたマップに幾つもの濃い緑のエリアが浮かび上がっていく。
これは先ほどホバーから受け取った周囲の建物の残骸の情報……相棒であるアリスが俺の脳波を受け、先んじてマップへと表示してくれたのである。
「ありがとう、アリスっ!」
<どういたしましてっ!>
何時もと変わらぬ、実に明るく元気な返事……のようだ。
先日、彼女に対して少しばかりの秘密を作ってしまった俺……その事で何か問題が起こるかもしれないと考えていたのだが、それはただの杞憂であったという事だ。ホッと胸を撫で下ろした俺の眼前に半壊した国立病院の跡地が見えてくる。
ここが今回の重点的な偵察の目的地……真の作戦の遂行場所である――
さて、幸いな事に天候不良は変わらず、視界は極悪なままのようだ。余計な目撃者を増やし、余計な手間を増やす可能性がやや低いという事である
早速、どうしたものかと考え始めた俺の視界の中、突如として無線がカットされたとの警告が表示される。当然、無線を切ったのはアリスである。
ここまでしてする内容は当然……先日の件だろう。
<あのね……小隊の皆に気付かれない様に無線を切ったわ……あ、あのね……そのね……今なら本部にも……マザーにも聞かれないわ>
無線を切ったなら小声の必要は無いのだが、雰囲気重視とばかりコソコソと喋るアリス……何時もと変わらぬ可愛げのあるアリスに思わず噴き出しそうになる。
だが、同時に母であるマザーを裏切るような行為を見せたアリスに少し驚いてしまう。人のように情緒を学んだAIは既に人のようなモノなのだろうかと訝しむ。
ともあれ、俺の前に突如として二つの選択肢が示される事となったようだ。
一つはアリスを信じ、自分の想いを吐き出す。二つ目は彼女とマザーとの繋がりを疑い、自分の想いはこのまま内に秘めておく……である。更に嘘をつくという選択肢もあるにはあるのだが、こちらは俺の性分に全く合わないので無しとする。
さて、俺が選ぶのは――
「正直、君の母であるマザーという存在に俺は恐怖を覚えてしまったんだ」
この話を皮切りに俺は話を続けていく。
「あの時……嘘をつくという選択肢を平気で勧めてきた彼女であれば……何時か、我々すら切り捨てるのでは……そう考えてしまったんだ。まあ、選択肢が他に無いという状況での事……これが大袈裟な話だというのは分かっているんだがな」
一つ大きく息を吸い込んだ俺、残りの言葉もアリスへと伝えていく。
「あの時、答えを渋ったのは考えを纏め切れなかったという事もあるが、何よりも君の母親を悪く言う事を宜しくないのではと考えたからなんだ」
あの時に感じた正直な気持ちを俺は全て一気に吐き出す。
しかし、アリスからすぐには答えが返ってこない。何か思う所があり、間を置いたのだろうか……だが、すぐに意を決したようにしてアリスが喋り出す。
<貴方の気持ちは分かるわ……私も……『マザー』が少しおかしいと思ったの……自分が変なのかと思って……まだリサにもノアにも言ってないけど……>
そのまま堰を切ったように今度はアリスが言葉を続ける。
<良いのか悪いのかも分からないけど……私も嘘をつくのは嫌だなぁって感じたの……他に手が無いのだから仕方がないっていうのも分かっているんだけど……>
独自の学びを重ねていった事の弊害……いや、これは恩恵と言うべきだろう。彼女は嘘をつくという行為は悪いという認識を持ってしまったという事だ。
確かに良し悪しの方は分からないが、その人格は好ましいと俺は感じてしまう。
「気が合うな……俺も嘘は出来るだけ、つきたくないと思っているんだ」
<うん、知ってる!>
多分、笑顔になっただろう……そんなアリスの言葉に俺も笑顔を返す。
「そういえば……相性で選んでくれたんだったな……ふふ……さて、それは兎も角、今回の件……マザーの件は『時間が無いのだから仕方がない』という事だ」
<そう……だよね?>
「全く手立てがないからこその考え……むしろ、感謝するべき事だな」
<うん……>
今回の件は二人だけの秘密にしておこう――
そう言い掛けた俺だったが、突如として鳴り響いた警報に続くはずの言葉を失ってしまう。そして次の瞬間、戦闘モードとなったアリスの叫ぶような声が響く。
<前方五十メートルに敵を感知っ! 熱量から考えると敵はシックル一体よ!>
はたして、これを運良くと言うべきだろうか……ここまで敵一体を見つけられないような事態が続いていただけに俺は大いに驚く事となる。だが、瞬時に『これが今回の作戦実行にピッタリのシチュエーション』だとも理解する。無いモノを在ると言い張るよりも在るモノを見間違えたという方が何かと気楽だと考えたのだ。
俺はアスファルトを踏みしめていた金属製の脚部を止める――
「アリス……情報の書き換えを頼むぞ」
<りょ、了解…………発見からここまでのデータをアンノウンに変更したわっ!>
「よし、無線解除だっ!」
次の瞬間、俺は皆に聞こえるように予定していた『嘘の状況報告』をする。
「橘機、敵を発見っ! 数は不明っ! だが、一体は明らかに見た事も無い奴だっ! ホバーは微速前進! 各機、ホバーとの距離十メートルに変更!」
俺は躊躇うことなく、更に嘘の情報を発していく。
「アンノウンと思われる奴は我々のレドーム搭載機のような頭部をしているみたいだ……頭が大きいだけかもしれんが……何か特別な機能がありそうに見える」
このオープン回線で発した俺の言葉は皆を大いに混乱させたようだ。それぞれが思い思いに短く驚きの言葉を発しているのが雑音に紛れて確かに聞こえてくる。
「へ、アンノウン? 嘘っ!?」
「本当に? あ、アンノウンっ!? な、なんで突然……!?」
「大崎くんも三島くんも落ち着いて! ワスプだってアンノウンだったのよ!」
そんな皆を落ち着ける為にも俺は新たな指示を伝えていく。
「全員、落ち着けっ! 敵の姿はまだハッキリとは分からん! 何より、まだ交戦距離じゃない! ホバー! 本部へ緊急連絡! まず交戦の許可を取れ!」
「ホバー、了解っ!」
さて、この俺から発せられた嘘の情報は我々のホバーを通し、まず新たな無線の中継地点となるホームセンター跡地へと送られる事となるだろう。
ここの地下には途中まで我々と共に進軍してきた通信大隊と後方支援連隊がおり、今から拠点化を進めていこうという場所である。最近の良くも悪くも更に不安定になってしまった天候に少しでも対応する為のモノという事だ。これにより、リアルタイム通信では無いものの、その通信距離を飛躍的に伸びす事となるそうだ。
ともあれ今、俺の発した『嘘の情報』はその中継地点を介して光が丘の本部で待機する赤城中隊長へとしっかりと確実に送られる事となる。
そして赤城中隊長は信頼を置く部下の情報としてすぐに連隊長へと報告を上げる。更に作戦を知る連隊長から一時的な撤退の指示が来るという訳だ。
そこからは大森防衛大臣と西島政務官の仕事……という事になるだろう。
仕事を終えた俺は眼前のまだ見ぬ敵との距離をゆっくりと空けていく――