狐か稲かそれとも何か【4】
「稲……、ごめん……」
村の人たちに背中を向け、少し歩いたところで少年はそっと口を開きました。
他の人に聞かれるのが怖いので、震えそうに小さな声です。
「私は、あなたの落ち度は大してなかったと思うわ」
稲も、そっと声を返します。
先程とはうって変わった穏やかな声に、横目で隣を見るとそこにはさっきの怖い人はいませんでした。
その表情は機嫌が悪いようにも沈んでいるようにも見えます。
「そんなこと、ないよ。僕の考えが浅くて、軽々しく稲を連れてったりしたから……」
稲は少し考える素振りを見せました。
「あなたは、自分の考えが間違っていたと思う?」
「そりゃ……、思う…だろ」
少年は思いもよらない問いに戸惑いながらも、俯いて答えます。
「それはあの人たちが怒ったから?」
衝撃で薄れかかっていた後悔がどんどん甦ってきます。
少年の脳裏にあるのは、口々に言葉を散らしていた村の人たちの姿です。
「……僕の軽はずみな行動で、嫌な思いをさせたことは……確かだし」
ふわりと風が吹き、土と草ばかりの視界に、光るような稲穂色の髪が通りました。
少年の歩幅がいつの間にか小さくなっていたようで、一歩半程度前を背筋を伸ばして歩いていた稲は何気ないふうに少年を振り返りました。
「それじゃあ、あなたや川で会った子、行きたいって喜んだ私の思いはどうする? 間違いにするの?」
「……っ! それは……」
責める訳でも悲しむ訳でもない、ただ尋ねる声です。
少年は慌てて考えました。
自分の行動で誰かに嫌な思いをさせるのは嫌だ。でも、同じ行動で喜ぶ人もいるのなら必ずしも間違いとは限らない……?
それでもやっぱりたくさんの人が嫌な思いをするのは――
すると、突然稲が小さく笑いました。
「ふっ、答えなくて良いわよ。そういうものだと思うの。何をしようとしても、嫌がる者と喜ぶ者がいくらかいて、さっきの野次馬もほとんどはそれだと思うけど本当はどうでも良いと思ってる者がたくさんいる。そうなったらもう、自分が正しいと思うものを当てにするしかないと思わない?」
ぐちゃぐちゃだった頭の中のどこかに、光が灯った気がしました。
少なくとも私の里ではそれで生きていけてるわ、と付け足して笑ったその姿は、少年にはとても格好良く見えました。
少年は息を吸って前を向き、稲と並ぶように大きめに歩を進めました。
「そういや、さっき言ってた里は本当のことなのかい?」
「中身は大体、そんな感じよ」
「へえ……」
「何か気になることでも?」
少年は変わらず前を向いたまま、少し上を向きました。
青く広い空には、申し訳程度の薄く細い雲がいくつか流れています。
「……僕さ、将来多分、村長になるんだよ。そしたら……今のよりもそんな感じの村が良いなぁって思った」
今のよりは、だけど。
そっと心の中で呟きます。
出ていく人は少しくらい追いたいし、誰かが困ったときだってできるなら漏れなく全力で助け合いたい。
余所者をみんなで攻める村は嫌だけど、稲の言う里と同じ姿は、僕にはちょっと寂しい。
少年の思いをどう受け止めたのか、稲はよく分からない表情をしています。
「まあ、やれるようにやったら良いんじゃないの。……それにしても、あなたに長なんて務まるのかしら」
認めてもらえたと安心しかけたところに、考えていたのとは違う方向からの鋭い言葉です。
少年は戸惑い気味に身構えます。
「う……、どうしてさ」
しかし意外にも稲は、とても柔らかい、どこか困ったような笑顔を向けました。
「だって、あなたは優しいから。嫌がる人間を無視して何かするなんてできなそうじゃない」
少年は面食らってしまって、顔を見つめたまま二、三度瞬きさせ、ぱっと前を向きました。
どうしよう。なんか嬉しいな……。
認めてくれたっていうか、見てくれてるっていうか……。
ただ褒められたというわけではないけれど、少年の中にはふわふわとした気持ちがありました。
緩む口元に力を入れてなんとかさっきと変わらない調子を保ちます。
「それは……、なんとか考えるよ。なんとか頑張るからさ、そうしたらもう一度だけ……、また村に来てくれないかな?」
すぐに返事はありません。
少年は稲の顔を見て続けます。
「今度はきっと君が、気持ち良く過ごせるようにするから」
稲は少年の真剣な表情をじっと見ると、少し笑って遠くの空に目をやりました。
「そうね……少し、楽しみにしてるわ」
「あれ、水は? 良いの?」
ようやく村の外といえる辺り、この時の少年たちにとって息のしやすいくらいの場所まで来てから、少年は声を掛けました。
稲が、朝寄った河原がもう真横まで差し掛かっているのに見向きもせず、前を向いてずんずん進んでいってしまうのです。
声を掛けられた稲は目線を落とし、眉を寄せました。
「人がついてきてる。怪しまれることはやめたほうが良いわ。興奮してる奴は刺激しないに限るでしょ」
不機嫌さの滲み出る声に、村での別人のようだった稲の姿が思い出されます。
どこに人なんているんだろう……と何気なく辺りを見回しつつ、少年は稲の様子を伺いました。
さっきは怖くて触れられなかったけど、今なら……。
「やっぱりさっき、怒ってた? びっくりしたよ」
何かとても気に障ることがあったなら解消しておくのは自分の役目だと思ったのでした。
「あれは……少し失敗したのよ」
え……?
意図が読めず、少年はすぐに言葉を返せません。
目線を宙にやって少し考えますが、やはり分からなかった少年は首を傾げてもう一度稲の顔を見ます。
稲は、目が合うと決まりが悪そうに反対側を向きました。
「怖くないふり、強いふり、しないほうが良いときもあるのは解っているのだけど……」
少年は無意識に、小さく息を吸っていました。しかし言葉にすることはなく、戸惑いの息を漏らしながら稲の表情を伺います。
「……君なりの、守りだったってこと……?」
稲は黙って小さく頷くと、ちらっと少年を見返します。
「後で迷惑掛けたら……ごめんなさいね」
困ったように笑って言いました。
なんだ。怖くなんてなかった。
ただ、とても器用に不器用をやってる人だったんだ。
稲にどんな言葉を返したのか、少年は覚えていません。
それでも、稲をみんなの攻撃から守れなかったことを心の底から申し訳なく思ったのでした。
強すぎる虚勢を張るぐらい、怯えていたことを知ったのですから。
少年はずっと奥の青空を見る稲の隣に並び、ひょいとその手をとります。
「川に寄らないなら、心配だから池まで送るよ」
稲は突然繋がれた手を見て不思議そうにしましたが、前を向いたままで特に説明するつもりのないらしい少年の様子を認めてか、同じように前を向きました。
手は繋いだままです。
「多分もつから一人で大丈夫よ。それに、それじゃあの人がそこまでついてくるだけじゃない」
「それでもこの開けた川よりは見えにくいし安心できるだろう? ついてきてる人は僕が持って帰れば良いよ」
少年は稲が特に手のことを尋ねることなく普通にしていることに安心しながら、笑って続けました。
稲が素敵な女性だから手を繋ぐことに照れてしまっただけで、下心はなかったのだと、少年は言います。
少年が手をとったのは、寂しいときや怖いとき、不安なとき、人の温もりを感じるだけで随分安心できるのだと知っていたからでした。
そのひんやりとした手を少しでも温めてやりたかったのです。
稲も嫌そうな顔はしていませんでした。
「まあ、……好きにすると良いわ」
少年にそう返し、軽く手を握り返して池のほうに足を向ける稲は空ではなく少年を見て、面白がるように微笑みました。
「後さ、ずっと気になってたんだけど……、稲って一体何歳なの? さっきだって色々……」
「私が答えると思ってる?」
「ははっ。思ってないよ。ただずっと大人なんだろうなぁって」
「ふっ。きっと、あなたよりは歳上ね」
二人でちょっとした会話をしながら歩くのはやっぱりとても楽しい時間でした。
「大丈夫だから早く行ったら? これっきりもう来ないなんてことしないから」
池が近くなった頃、なんとなく離れ難い様子の少年に稲が呆れたように言います。
それでも少年は心配でした。
少年が稲の立場なら、こんな嫌なことがあった後でわざわざ行こうなんて、思える気がしなかったからです。
それに、今日の稲は狡いくらいに優しすぎた。
少年は手を握ったまま、真剣な顔をして稲の目をよく見ます。
「本当だね?」
稲も少年を真っ直ぐに見て、でも少し笑いました。
「本当よ」
そうして手は離れ、二人は背を向け合い歩き出しました。
言葉通り、稲は後日また池にやってきました。今までと変わらず少年と他愛のない話をして、いつも通り別れました。
「よし、そろそろ帰ろうか」
「ええ。……あ、そうだ。今夜また良い月だから、見ると良いわよ」
「今度も当たるかな。じゃあね」
そして、それが二人の、最後の会話になりました。




