狐か稲かそれとも何か【3】
「やっぱり……やめておこうかしら……」
「それ今日何度も言ってるけど一度も足は止めようとしないな」
「だって、興味はとてもあるのよ……」
二人が並んで歩いているのは、少年の住む村へ続く道でした。
少し時を遡ってその日の朝。
また稲に妹の衣を着せて散歩をしていたとき、少年はふと思い付いて、稲を村に誘ってみたのです。
稲は一瞬目を輝かせたあと、すぐに渋い表情になりました。
「別に無理にっていうんじゃないんだよ。もし気になるならって思っただけだから」
すぐに返事はありません。
稲は少年の顔を見たあと少し俯き、村のある方を眺めるように顔を背けました。
「あまり遠くに行くのとか……あなた以外の人にたくさん会うのも……怖いの」
少年の見知ったそれとは一風変わった美しい髪が、静かに風に吹かれています。
いつもどこか飄々として強そうな彼女から聞く「怖い」という言葉。
なんだか変に重く感じられて、少年は何も返せませんでした。
「それでも、やっぱり気になるから行くわ」
そう言って振り返った稲は、いつも通り面白がるように微笑んでいました。
でもいつもより少しだけ優しげに見えました。
少年はそれでなんとなくほっとしてしまいました。
どこまで本心の表情かなんて分からないのに。
そうして結局二人で村に向かうことになり、今に至るのでした。
「少し遠回りだけど、村に入る前にもう一度川に寄っておくかい? もう村を抜けた後まで無いからさ」
「そうね……、念のため寄っておきたいわ。ありがとう」
稲はしばらく水に触れていないと、初めて会ったときのように体調が悪くなってしまうようでした。
稲がそう言ったことはありません。
少年がなんとなく気が付いて気に掛けていたことです。
稲は岩に腰掛けて膝あたりまでを水に浸し、黙って空を見ています。
口数が少なく、緊張しているようにも見えるその様子からは、本当に「怖い」のだろうと伝わってきました。
そういえば初めて会ったあの日もすごく警戒されてたな……。
そんなことを思い出しながら稲に近寄ります。
稲は何故だか身を固くしていました。
「あのさ、稲。本当に一緒に村に――」
「あれっ! その方どなた? お客様?」
稲に話しかけようとしたとき、背後で声がしました。
知った声です。
「大丈夫。友人だよ」
稲に小さく伝えて少年は友人を振り返りました。
弾んだ声を投げ掛けてきていたのは、少年もよく知る幼馴染の少女でした。
幼馴染はひょいと身体を斜めにして、少年の奥にいる稲を覗き込んでいます。
「お客というか、僕の……友人だよ。村が気になるっていうから遊びに行くところ」
少年の言葉を聞きながらも幼馴染は見惚れるように稲をじっと見ていました。
「綺麗な人……」
幼馴染はほうと漏らします。
それからはっとしたように姿勢を正しました。
「あっ、ごめんなさい! 私たらいきなりじろじろ見るなんて失礼な。……あぁぁ、せっかくだからお話ししたいんだけど今時間がなくて……。帰ったときまだいらっしゃったら是非お話ししましょう! それじゃあ、ゆっくり楽しんでいってくださいね!」
「あ、ありがとう……!」
稲がなんとか返したのが聞こえたのかも知れないうちに幼馴染はぱっと駆けていきました。
「あいつ喋りたいことだけ喋っていなくなったな……」
少年が頭を掻いて言うと、稲はふふっと笑います。
「良いじゃない。面白い子ね」
「ちょっとは怖くなくなった……?」
柔らかく笑う稲の様子に、少年が尋ねます。
稲はまた空を仰ぎました。
「少しは……そうね」
静かに答えると、ひょいと立ち上がって少年より先に川辺へ出ていきます。
何か失言したかと不安になりながら少年が後に続こうとすると、稲が振り返りました。
「水はもう良いわ。早く行きましょう」
その顔は笑っていました。いつもよりずっと無邪気に。
普段は自分よりもずっと大人に見えていた彼女が、そのときだけはまるで子どものように、少年には見えました。
良かった。楽しみにしててくれて。
無理に連れてきてしまっているのではないかと内心不安に思っていた少年は、ほっとしました。
そして、先に立つ稲に並び、村へ入っていきました。
「これが、あなたたちの棲み処なのね……」
「ははっ、住み処って……。まあ、そう。こんな家だよ。それからあっちが田んぼで――」
ふと、稲が後ろに目をやったのに釣られて少年はちらっと振り返り、黙りました。
村に住む、ある中年の男性が、不機嫌そうな顔ですぐ後ろまで迫っていたからです。
「……何か、ありましたか?」
少年が恐る恐る尋ねると、男性は目に見えた作り笑いをしました。
「誰かと思えば、村長さんとこの坊主か」
何、僕何か悪いことしたっけ…!
意図が分からないまま心臓だけが速くなっていきます。
「誰が、よそ者なんて連れ込んでるのかと思えば!」
続けられた男性の言葉は怒号のようにも聞こえ、顔ももう笑顔とはいえませんでした。
「すみ、ません……」
少年は無意識に呟きます。
戸惑いと恐れ、それから色々なものが絡まって、何も考えられませんでした。
「ねえ、ここ、よそ者は入っちゃいけないところだったの?」
稲に声を掛けられ、少年は我に返ります。
そうだ、何も知らない稲が一番不安なはずなんだ。僕がしっかりしないと。
「……いや、聞いたことないんだよ、駄目だなんて。お客さんだって時々来てた」
稲に言ってから、真っ直ぐ男性の顔を見ます。
「……駄目だなんてきまり、ありませんでしたよね。彼女は、隣村の人でもないです。何かいけませんか…?」
騒ぎに気付いた人が集まってきています。
怖かったけれど、何も間違ったことは言っていないからと、少年は意識して堂々としていました。
少し間がありました。
「分からん奴だなぁ…。隣村との諍いもあったのに外のやつを連れ込んで浮かれた顔しおって! それもこんな奇妙な女を……」
少年は、さあっと血の気が引いていくのを感じました。稲を悪く言われたことを咎める余裕もありません。
でもそれは、先ほどの恐怖とは違いました。
どうしよう。
僕が悪かったのかもしれない。
考えが浅すぎたのかもしれない。
僕のせいでみんなに嫌な思いをさせているのだとしたら――
少年は、自分勝手な言動で周りに迷惑をかける人は大嫌いでした。
どうしたらいいんだ。
どうしたら……!
集まってきている人はざわざわとして、好きに言葉を吐いています。
「いつもは偉いのにな……」
「何? あの子。確かに奇妙よねぇ……」
「髪だけじゃないわ。見てあの目、黒でも茶色でもないのよ……」
「あの女の人すごい美人よね。誑かされたんじゃないの? 可哀想に……」
観衆の矛先はいつの間にか稲に移っています。きっと稲がみんなにとって知らない人だからでしょう。
少年は焦りました。
稲が傷付いてしまう。僕が守ってあげないといけないのに……!
稲もきっと、助けを求めて少年を見ています――
と、少年は思っていました。
「もう良いわ!」
場を静かにしたのは、稲でした。
稲はすっと観衆の真ん中に歩み出ます。
「皆さん、お騒がせしてごめんなさい。でも安心してください。もう、すぐにここを出るから」
高くはないけれどよく通る声が静かに流れるのを、少年も観衆もじっと見ていました。
「この前遠出をして、里に帰る途中に仲間とはぐれてしまって。里を探してこうして通りがかった村を見ているの。彼はここが私の里じゃないって教えてくれたのだけど、私が自分の目で見ないと納得できなくてね……。無理言って見せてもらってたのよ」
「この辺りに村はそう多くはないぞ。そんな話が……」
誰かが、疑うように呟きました。
小さな声でしたが、稲は迷いなくその呟きの主であろう男性を真っ直ぐに見ます。
「あら、教えてくれてありがとう。でも気にしないで。ここではないことははっきりと分かったから」
「どういうことだ」
「私の里はね、来る者拒まず行く者追わず 気まぐれの助け合いはあるけれど、行動も考えも個々の自由。ほどほどに棲みやすい所よ。……ね、違うでしょ?」
そう言って稲が綺麗に微笑むと、呆気にとられていた観衆も流石にざわつき始めます。
「なんなのこの人……」
「こりゃあ断れないわな……」
「気に入らんならさっさと出て行けよ!」
「少し話しすぎたわね。お邪魔しました」
稲が少年を振り返ります。
「悪いのだけど、また分かる辺りまで送ってもらえる?」
周りの野次をどこ吹く風と受け流し、不敵に笑って見せたその人はまるで別人のようで、少し怖くもありました。
「う、うん……勿論」
お読みくださった方ありがとうございます!m(__)m
また覗いていただければ幸いです……!
3話では終われなかった。まだもうちょっと続きます。
あと2話以内には終わるはず。
挿し絵も足したいな。




