狐か稲かそれとも何か【1】
少年の、身近な誰かが書いたお話です。
あるところに、一人の少年がいました。
少年はお喋りと面白いことが大好きな明るい子でした。
誰にでも優しい少年はみんなに好かれていました。
あるとき、少年の村では隣村と面倒な喧嘩になりました。
隣村との喧嘩はよくあることでしたが、そのときは争いが長引いて、村に険悪な雰囲気が流れるようになっていました。
楽しいことが減って、少年は退屈していました。
そんなとき、少年は不思議な出逢いをしました。
少し涼しい夏の日。
気分を紛らそうと海に向かってゆっくり走っていたときのことでした。
「君、大丈夫?」
途中の道に、見たことのない女性が座り込んでいたのです。
秋の稲穂のような、狐の毛のくすんだような、そんな髪の色をしていました。
身に纏っているのは、菖蒲を明るくした、見慣れない鮮やかな紫色の衣です。
俯いたままの女性は少年の声に、少し腰を浮かしました。
いつでも逃げられるように構えている、少年にはそんなふうに見えました。
女性の放つ見えないはずの緊張が、痛いくらい少年の肌を刺します。
「安心して。傷つけたりしないから」
女性はちらっと少年を見ましたが、何も言いません。
覗いた瞳は髪と同じ綺麗な稲穂色でした。
「ほら、とりあえず水飲んで。体調が悪いんだろう?」
少年は、持ってきていた水筒を差し出しました。
女性はそっと水筒を受け取りましたが、そのままじっと眺めています。
焦れったくなった少年は女性の手から水筒を取ると、栓を外して一口飲んでみせました。
「ほら、別に普通の水だから」
もう一度女性に手渡すと、女性はやっと水筒を口にやって水を飲みました。
少しだけ顔色が良くなったみたいでした。
少年は一安心です。
どこかでちゃんと休んだほうが良いけど、さっきの水筒のときといい、確実に僕警戒されてるよなぁ。
少年が頭を掻いて考えていると、女性が水筒を差し出してきました。
「ありがとう、少しましになったみたい」
ずっと何も言わなかった女性が突然声を掛けてきたもんだから、少年はびっくりです。
「……それなら、良かったよ」
でも、初めて聞いたその声は掠れていて弱々しくて、元気には見えませんでした。
少年は勇気を出して、女性に手を差しのべました。
手、払いのけられたら傷つくな……。
「木陰で……休んだほうが良いんじゃないかな」
すると、女性は少し微笑んで返しました。
「気に掛けてくれてありがとう。それなら木陰よりも、近くに川みたいな水のあるところは知らないかしら」
少年は手を引っ込めて首をひねりました。
「そうだなぁ、少し戻れば小さいけれど川があるよ。行くかい?」
「そうするわ。どこにあるのか、教えてもらえる?」
「勿論。案内するよ」
そして、まだふらつく様子の女性の手を引いて、ゆっくり歩きました。
疑う様子もなく後ろを付いてくる女性を、ふと振り返ります。
「僕の水飲んでくれないくらいだから、もっと警戒されてるのかと思った」
女性は澄ましたまま少年がもう片方の手に持つ水筒に目を落としました。
「警戒してなくはないけど、水を飲みたくないくらいじゃないわ。それの飲み方が、分からなかっただけよ」
少年はすぐに反応ができませんでした。
知らない訳ないだろ、と笑おうとしたけれど、彼女が傷付いてはいけないと思って口をつぐんだからでした。
「そっか、嫌われてたからじゃなくて良かった」
なんとかそれだけ返して、あとはあまり話さずに行きました。
あまり遠くないはずの道が、少し長く感じられました。
やがて、川に着きました。
浅くて流れの遅い、水の綺麗な川でした。
丸っこい石の詰まった、でこぼこした川岸を踏んで水に近付きます。
「さあ、ここだよ」
少年が手を離して立ち止まると、女性はそのまま足が濡れるのも構わずに水の中へざぶざぶと入っていきました。
「ちょ、君っ……!」
少年が止める間もなく女性は膝下まで水に浸かる辺りまで行き、ぺたりと川底に座ってしまいました。
紫の裾を波に揺られながら、岩にもたれて気持ち良さそうにしています。
女性の衣がもうすっかり水に浸かってしまっていて戸惑いましたが、本人が良いなら良いか、と少年は思い直すと自らも水に入っていきました。
手で裾を上げて、ざぶざぶと音をさせて女性の傍まで行き、近くの岩に腰掛けます。
「突然入ってくから驚いたよ。その衣、濡れて良かったの?」
目を瞑って空を仰ぐふうにしていた女性は、声を聞くと、少年のほうを真っ直ぐに見ました。
顔色はすっかり良いみたいでした。
地べたに倒して座っていた膝を抱え、微笑んだ顔を少し傾けます。
「良いのよ、これで」
まだ朝になって短い、白く柔らかい日が女性の周りの水面をきらきらとはしゃがせています。
水の中で揺れる女性の肌が溶けてしまいそうに白くて、髪と瞳が日を吸い込んだみたいに綺麗で、少年は幻を見ているんじゃないかって思いました。
少年はそっと手を伸ばして、女性の頭に触れます。
その女性は、驚いた顔をしました。
構わず少年はその頭を、ぽんぽんと確かめるように丁寧に撫でました。
「もう、大丈夫みたいだね」
そう言って、なぜだか恥ずかしそうに少年は笑いました。
対する女性は戸惑うように目をぱちくりさせます。
「今、何かしたの……?」
少年は思わず吹き出しました。
「ふっ……ははっ! 何もできないよ。頭撫でただけ」
不思議そうに頭に手を当てている女性に少年は続けます。
「ほら、しない? 大丈夫だよ、とか良くやったね、とかそういうときによしよしって」
「しないわ……?」
「そっか。じゃあ僕が君の初めてになっちゃったわけだ」
そうしてまた笑う少年につられてか、ふふっと女性も笑いました。
「あなたって、暖かい人ね」
まだ笑いながら、女性が突然言いました。
「暖かい……?」
「ええ、そんな感じがするわ」
今度は少年がきょとんとする番でした。
見る限り外から来た子だ。きっと感性が違うんだなぁ。
そんなことを思いながら少年は、まだお互いの名前を知らなかったことに気が付きました。
「あ、そうだ。遅くなったけど僕の名前は――」
「名は言わなくて良いわ」
ところが、言おうとしたところで遮られてしまったのです。
「どうしてだい? 知らないと呼ぶとき不便だろ?」
「そんなに不便じゃないわよ。お互い素性の知れない身で名を教え合うのは止しましょう」
そんなに信用されてないのかな、と少し落ち込みかけた少年でしたが、女性は嫌悪の色の全く見えない穏やかな様子で、これが彼女の関わり方なんだと少年には思えました。
「分かったよ。でも僕はやっぱり君を呼ぶ術が欲しいなあ。仮で良い、呼び名が欲しいよ。駄目かな?」
少年が女性の顔を覗き込んでそう言うと、女性は少し声を漏らして笑いました。
「好きにすると良いわ」
「それじゃあね。稲。今度はもっとゆっくり話そう」
「あまり長くあっちを空けるのも心配だからこれくらいが丁度良いわ」
「ははっ! 残念だなぁ、僕はまだ全然話し足りないんだよ」
「まあ、今度があればね」
そう笑って言って歩き始める稲の背中に、「また!」と呼び掛けてから少年も反対向きの家路に着きました。
「稲」というのは、女性を呼ぶために少年が考えた仮の名前でした。
彼女の髪と瞳が稲穂のような色だから、というのが表の理由です。
裏の理由は、少年が彼女を、実は狐が化けているんじゃないかと疑っていたからでした。
なんとなく人間離れした変わった容姿。
最初の、獣のような剥き出しの警戒心。
衣が濡れるのに全く躊躇のない様子。
それに、普通に生きてきた人間が、頭を撫でたり水筒の水を飲んだりといった日常的なことを、知らないなんてあるでしょうか。
でも彼女が人間でないならあるいは……。
そんなこんなで、狐から連想した「稲荷」から一字取って「稲」。
我ながら良い名前だ。
容姿にも合っているし。
少年は満足気に一人で頷きます。
朝から話し続けてもう昼になってしまっていました。
腹の虫もいよいよ騒がしくなってきて、少年は駆け足で屋敷に向かいます。
その日は少年にとって、久しぶりの楽しい日でした。
別作品「月に咲く花」の作中で登場する短編を形にしたものです。
2話か3話で完結予定の短い作品ですが、お付き合いいただけると幸いです。