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初めは何が起こったのかわからなかった。風がひやりとして、秋の気配が感じ
られるようになったその宵も、翡翠はいつものように、ベランダからライトに
照らされて明るい街並みを眺めていた。
二ヶ月くらい前から、週末の夕方になるとデパートの前の噴水のある広場で、
若い女の子がギターを抱えて歌を唄うようになった。長い栗色のソバージュ・
ヘアーに、ふわりとした白いワンピースを着たその女の子は、まるで妖精みた
いで、翡翠はこっそりその子に「フェアリー」という名前をつけた。広場の生
け垣のグリーンを背景に唄っている、丸顔で小柄なフェアリーは、ママと同じ
に翡翠をとても可愛がってくれたリカにも少し似ていた。けれど翡翠のいるベ
ランダからは、彼女の歌声は聞こえない。
―――― あの子のそばにいってみたいなぁ
翡翠がそう思った瞬間、体がふわりと浮かんだような気がした。
見下ろすとベランダにちょこんと坐っている自分の姿が見える。そしてあっ
という間に、翡翠はフェアリーが唄っている広場の生け垣の上にワープしたの
だ。ギターの音と、彼女のよく通る透明な声がすぐ近くで心地よく耳に響いた。
たくさんの人たちが翡翠の目の前を行き交っているけれど、誰も翡翠がそこ
にいることに気づいてはいない。
―――― 僕、どうしちゃったんだろう?
ぼう然と坐っている翡翠のそばで声がした。
「初めまして」
ふり向くと、ブルーの眼をした素晴らしくスタイルのいいシャム猫が坐って
いる。翡翠は驚いて、丸い眼を更に丸くした。
「き、きみ、僕のことが見えるの?」
するとシャム猫はころころと喉を鳴らして笑いながら「だって、あなたもあ
たしのことが見えるんでしょう?」と答えた。
「あたしはミレイ。よろしくね」
「ねえ、ミレイちゃん、ひとつ聞いてもいいかな?」
「ミレイでいいわ。何?」
「僕は、あっ、いや、僕たちは今どうなってるの。死んじゃったわけじゃな
いから、幽霊じゃないんでしょう」
「ああ、そういうこと。そうねえ。何て言えばいいかなあ」
「前にママが言ってたことがあるんだ。ひーちゃんも、もうずいぶん長生きし
たから、そろそろネコマタになれるんじゃないって。これがそのネコマタっ
てこと?」
「猫又っていうのは、長生きした猫の妖怪のことでしょう。あたしたちのは
それとはちょっと違うわ」
「ふうん、そうなんだ」
「まあ、あたしたち猫は、人間が考えてるよりももっとずっといろんなこと
ができるってことよ。あまり難しく考えないで、せっかくの自由を楽しみま
しょうよ」