神眼の少女がピクニックと称して魔境を訪問した件とその顛末について
『~の顛末について』シリーズ第五弾をお届けします。
*第一作より、目を通して頂いた上で本作に挑んでいただく流れを推奨致します*
*
「リズさん、その小山の様な荷物は何ですか?」
穏やかに晴れ渡る空の下で、荷物を纏めている少女への問い掛けから始まったその日。
タータンチェックが緑の芝の上に積み上げられたその様相に、疑問を覚えるのはけして不自然なことではない。
ユーグ君のその感性が、ことエイム家において貴重なものになりつつある今日日。
「うん、これは二日分のお弁当と保存食。ちょっと魔境まで足を運ぼうと思って」
「……リズ姉、ごめん。ちょっと幻聴が聞こえた気がする。もう一度言って……?」
いつの間にか、片手にハーブを抱えたユーグ君の後方に立っていた弟。
ラースからの問い掛けに、頷いてもう一度繰り返した。
「魔境まで、菓子折を持って訪問してこようと思うの。それに伴って、ラース。貴方も一緒に来てね。西の守護に関しては、既にリーディアムにお願いしてあるから」
「……な、なんでそんなに手回しがいいのかなぁぁぁぁああ?!!」
因みにここで言うリーディアムとは、兄の友人(自称)の魔術師。
今回は特注の菓子折と、兄の傑作写真選100を対価に守護の代替をお願いしてきました。
彼の性質には難があれど、魔術師としての才は我が家の弟と並び称される実力派。
うん、問題無い。
「問題大有りだからね!! 良い仕事した、的表情に僕は色々言いたいけど?!」
最近、弟が読心術に特化してきている点について姉は色々思うところではありますが。
何にしても行くのです。
その為の手痛い出費なのですから。
貴重な食費を菓子折に割くという苦行さえ、選択せざるを得なかった。
それもこれも、数日前に行われた兄と公国の次代聖女様との結婚式を終えた現在。
これ以上先延ばしには出来ない現実を再認識した今だからこそ。
これを逃せば、次の決心は何時になることやら分かりません。
ええ、勢いは大切なのです。
人生というものは、時折そうした部分を多分に含むのですから。
「天気についてもあと三日は快晴予定。それに今を逃せば、次の機会がいつになるかも分からないの。だから行くのよ、ラース?」
「……快晴続きって、そうだ!! 菜園の水やりはどうするの?」
「大丈夫よ。その辺りは抜かりはないわ」
姉のきっぱりとした返答に疑問もとい逃れられぬ運命の気配を感じて視線を辿ったラース。
そこには、黒の小山が器用にじょうろを支えて水やりをしているという光景があり。
菜園の中を器用に歩き回るその背中には、パタパタと翼が揺れている。
彼は気質が穏やかなだけでなく、その器用さにおいても他の飛竜の追随を許さない。
それが公国唯一の飛竜にして、聖女の随行ことライヤー君なのである。
「……リズ姉。僕はもう、何処から突っ込んだらいいものだか……」
「ライヤー君ね、下手をするとこの世界のどのドラゴンよりも器用なのかもしれないわ。この前は朝食後のモーニング・ティーも淹れていたもの。お義姉さま曰く、少なくとも自分より自炊は出来るよ、と」
「聖女って……。自炊できる竜って……」
現実という枠を、木っ端みじんに粉砕された模様の弟の図。
それ即ち、自宅の庭で両手両足を地に付けたまま打ちひしがれる図。
これから巻き込むことことに、申し訳ないと思う気持ちはある。
けれども、流石にこれから向かう先を思えば。
私に備わったスキルだけでは、とても辿り着ける筈もありません。
弟がぼそぼそと何かを呟いてはいますが、今回ばかりは諦めて貰うしかない。
「キュー…?」
のそりとランチボックスを背に首を擡げたのは我が家のチロル。
ライヤー君と家に残るように言い聞かせはしたものの、そこは譲らないチロルさん。
普段のチキンはどこに落として来たのでしょう。
時折こうした頑固さを見せる辺り、やはり育ての親の影響は否めませんね。
とはいえ。
翼の先のぶるぶるまでは、隠し切れていない様子。
恐らくあれは、武者震いでは無いと思うのです。
やはりこのあたりに、普段のチロルぶりが表れている。
そしてそんなチロルを見上げて、ふと思い至ったのは。
「……思えば、生まれて初めての遠出になるのね」
「……生まれて初めての遠出が魔境って。はぁ…。仕方ない。分かったよ、行くよ。でも兄さんはどうするのさ?」
「新婚を魔境に連れていけるほどに薄情だと思うの?」
「……チロルはいいんだ」
そんな弟の呟きに、説得はしたの。と返す姉。
それに被さるようにして、背後の木の茂みからガサガサと何かが落ちる音がした。
「リズ!! 兄さんも一緒に行くよ!?」
「兄さんはいいの。そこで蓑虫になっていて」
「扱いが僕より酷い……?!」
弟の同情する様な叫びに、触発されたのか。
兄が吊るされていた蓑虫状態から初の脱出を図る現在進行形。
このままにしておけば、いずれにせよ周囲に被害が及ぶと判断した私。
溜息を零しつつ、仕方なく蓑虫状態から解放することになりました。
ああ、時間のロスが今後に響く。
兄よ、どうしてここで頑張ってしまうのかな。
もう一度蓑虫状態に吊るす労力を考えて欲しいの。
「リズ。何度吊るされようと、僕は妹の為なら何度でも落ちてみせる……!!」
「……なんか格好良い語感だけど、よくよく聞いたら残念なだけだった」
うん、取り敢えず言わせて。
ラースの批評のほうが、余程に酷いと思うの。
姉は言葉にしないまでも、内心でそう呟いています。
「リズ、ここは諦めて連れて行くのをお薦めするよ。ほら、荷物番は足りないよりも多過ぎる位の方が良いだろう?」
とうとうお義姉さまが参戦なさいました。
菜園で水やりをしているライヤーの傍らに立ち、にまにまと状況を観察している姿はとても次代聖女とは思えぬ残念さです。
「お義姉さま、よくそれを発掘されましたね?」
その問い掛けは、お義姉さまが手に持っている神々しいばかりの装飾が施された物体に向けられたものであり。
端的に言えば、それは『聖剣』と呼ばれる。
父の舌打ちと共に、何時だったか納屋の最奥へ封印された曰くつきだ。
チロルさんを襲った悲劇によって、崩れ落ちた納屋は今もって完全修復には至っていない。
その中から、よくぞ見つけ出したものだと半ば呆れる少女。
そこは流石に、聖女の器ということなのだろう。
「昨晩からこいつの波動が酷くてね……魔境に行くのなら連れて行けと再三に渡って伝えてくる。その必死さには涙ぐましいものがあったよ。ついでに寝不足だ。出来る事なら安眠の為に、重量はあるが連れて行ってくれ」
出来る事なら、と言いつつもその目は大分据わっている。
余程に懇願されたものと見える。
その結果が深刻な安眠妨害。
笑えないですね、ええ。
とは言いつつも。
まあ、……聖剣の気持ちも分からなくはない。
解析を掛けずとも、目に見えてガタガタとアピールしてくる辺りに必死さが窺える。
弟のドン引きした視線などものともせず。
その一貫した姿勢に、正直に言おう。
これは無視できない。
そこまでの非情さを、自分は持ち得ていないからだ。
「……仕方ない。兄さん、聖剣を運んで。ついでに魔王城の結界を解くのも任せる。本当はもっと穏便な方法を取ろうかと思っていたのだけれど……」
残念な兄に、残念な剣。
この組み合わせを安易に既決させた自分にも非が無かったとは言わない。
やはり万全を期して解析を掛けてみるべきだった。
しかし、全ては後の祭りである。
まさかこれほどまで残念な結果を招くことになると、誰が予想し得ただろう。
「ラース……私、実際のところ兄さんの残念加減を見縊っていた気がするの」
「リズ姉……それを改めて言うんだ。正直僕は、どう返答したものかすら分からないんだけど……」
途中までは、かなり順調といっていいペースで進めていたのである。
エイム家の中庭から飛び立ったチロルさんの背に乗って天空へと舞い上がった後。
うららかな陽気の下で、魔境の境である大河を越えた。
群れをなす魔獣たちの遠吠えを眼下に、チロルさんの背で魔境観覧に興じていた兄姉弟。
未だ嘗て、ピクニック装備で魔境を訪れたものがいただろうか。
否、おそらくいないだろう。
現にエイム家の良識と言い換えられる弟ラースは非常に複雑な心境を満面に浮かべている。
一方、チロルの背中で安穏と昼寝に興じる兄ヴィーは普段通りだ。
彼ら兄弟を横目に、地図を片手にチロルへ方角を伝える私。
因みにこの地図は、嘗て父が魔王城との和平後に作成した手描きの作である。
一抹の不安を感じる代物を手に、しかし順調な飛行が続いていた。
ところが誤算は生じるものだ。
そんな現状。
ざっと経過を説明しよう。
大河を越え、霧深い樹海の一端を見下ろす頃には。
前方に広がる丘陵地帯。
想像したより遥かに幻想的な佇まいをみせる魔王城までもが遠目に確認できた。
半日程度で往復できそうな距離に存在した魔王城に、複雑な思いは隠せない。
チロルさんの背中半分を占めているランチボックスが、やおら夕食に切り替わる可能性も出てきた今。
それに思考を取られていて、兄の突然の行動に抑止を掛ける間もなかった。
丘陵地帯に入り、低空飛行へ切り替えていたチロル。
その背から、何を思ったか突然飛び降りた人物がいる。
勿論兄だ。
むしろ兄以外に誰が、と言えよう。
その手には振りかぶられた聖剣の煌めき。
無駄に眩しいそれを、大地に突き刺さんばかりに飛びかかったその先。
見知らぬお爺さんが、ゆったり歩いていた。
……弟と共に、突然の凶行の意味も分からずに絶句していた一瞬。
あわや、聖剣の煌めきに両断されかかったお爺さん。
しかし、目にも止まらぬ俊敏さでしなやかにそれを避けたお爺さん。
寧ろその表情には、余裕の色すらある。
只者ではない。
その時点で分かったのは、それだけだ。
そして今、何がどうしてこうなった的情景を繰り広げている眼前の攻防。
兄の残念さと人間離れした動きを繰り広げるお爺さんの驚異。
それらの入り混じる混沌が、そこにある。
瞬きしても、消えない現実が。
「兄さんと互角に遣り合うなんて……一体何者なんだあの爺様」
ラースの信じがたい、という意図の籠った呟きに多くが賛同するだろう。
それが普通だ。
何しろあの兄は、仮にも筆頭勇者候補とまで称される実力を持っているのだ。
例え、どれほどに残念な兄かその内情を知っているとはいえども。
その実力に関してのみ言えば、最上級クラスに分類されている。
それと渡り合う、見た目だけで言えば好々爺といった風情のお爺さん。
反射的に解析していたのは、無理も無い話。
そうして知った事実に、無言のまま立ち上がった。
丘一つ分を挟んで、彼らの攻防を見ていた私とラース。
途中からランチシートを広げて軽食をとっていた。
その最中、再び知らなくても良い事実を目の当たりにしたのだから現実は何処までも無情だ。
というか、兄よ。
どうして貴方はつくづく、引き寄せてしまうのだろうね。
溜息が途切れないよ。はぁ。
「て、え……? ちょ、リズ姉? さり気無くチロルを離陸体勢に……て、ちょま、待って!! 兄さんはともかく、僕も置いてく気?!!」
現実逃避兼、そのまま帰宅体勢へと移行しかけた自分。
チロルの翼に全身全霊でしがみ付く弟。
両極端の指示に挟まれる形となり、右往左往するチロルさん。
そんな攻防の決着は、件の二人の決着と期せずして同時に迎える事となるのでした。
「ふぅ、……前よりもキレが増したみたいだね、ムク爺。今回は僕の負けだ」
「ほっほっほ。お前さんはまだ発展途上。末恐ろしい小童じゃよ全く」
いつの間にやら決着を付け、何やら爽やかに笑み交わす二人。
空から差した一条の光に照らされ、互いの健闘をたたえ合う姿。
聖剣の煌めきも相乗効果となり、どこか神々しくもあるそれ。
当人たちは、知る由も無いだろう。
しかし、居合わせた側の抱く混乱は筆舌に尽くしがたいものがある。
現に、その被害を真正面から被った人物が一人いる。
弟だ。
もう僕は考えるのをやめました、と言い残してランチボックスの陰に蹲って動かなくなったラースの精神状態は恐らく底辺に落ちている。
この現実を認識するのを、諦めたらしい。
実際、『真相』を知らなければ自分も同じ末路を辿っていたことだろう。
けして他人事では無い光景から、思わず目を逸らしたい欲求が込み上げる。
しかし、そこをグッと堪えてラースの傍に膝を付く。
ラースは虚ろな眼差しで、地面を見詰めている。
まさか魔王城に辿りつく前に、こんな試練が待ち受けていたとは。
やはり魔境は恐ろしい。
「ラース? 大丈夫、種明かしするわ。これは全くおかしなことでは無いの。あのお爺さんはね……」
耳元で明かした『真相』に目を見開いた弟。
そのまま覚醒に上り詰めた彼は、高らかに復唱する。
それは大地を震わせた。
「…せ…先々代の魔王?!! た、只者で無いにも程があるよねぇぇええ!!!」
魂を根本から揺さぶる様な、奥底から発せられたそれに周囲にいた魔獣たちが四方へ散っていく様子が見受けられた。
うん、びっくりするだろうね。
魔獣、とはいえども基本的には野生の獣に変わりないのだから。
獣は人よりも、聴覚に優れている。
危機察知能力においても、人のそれを遥かに凌ぐ。
だからこそ彼らは、ラースの叫びに影響を受けやすいのだ。
ラースは無意識に魔力を込めて叫ぶので、意図せずに周囲を威圧していることも珍しくない。
家にいる時も、庭の小鳥が一斉に飛び立つ瞬間をよく見かける。
そのタイミングは常に、弟が全身全霊で声を発した後である。
何時かは、その事実に気付いて欲しいものである。
ん?
伝えれば良いじゃないか、と。
そうだね。……過去にもそれは話し合われた。
けれどね、人は本質にあたる部分は変えられないもの。
余程の事が無い限り、見守る方向で一致したエイム家の方針その五。
それは当人である弟だけが知らない。
因みにこれ以外にも、エイム家には七つの方針が存在する。
現状八つ。それがエイム家における『平和指針~被害抑止を目指して~』である。
そろそろ話を戻そう。
弟の魂の叫びを受けても尚、やや目を瞠っただけで苦笑に留めた辺りは流石だ。
あの表情を見る限り、私たちの素性についても見当は付いているのだろう。
伝承として伝わるのみで、その姿を公国の誰も見たことが無いことで知られる先々代の魔王との遭遇。
叫び終わった弟が、地面に打ちひしがれている様子が色々切ない。
さて、どう出るかと視線を向ければ。
慣れた様子でウィンクが返って来た。軽い軽い。
茶目っ気たっぷりですよ、あの人。
寧ろこの状況を楽しんでいる節さえあるだろう。
これはまた、濃い人が現れたものだと諦観に染まりつつある現状。
もう、眩暈すら覚えない。
慣れって怖い。
そして兄がムク爺と呼んだ先々代の魔王様は、一通り現状を楽しみ終えたのだろう。
兄と一言二言交わした後、その場を去って行った。
その背には、何やら眩い輝き。
眩い、輝き……?
「って、……な、何で聖剣渡したのさ兄さん?!!」
的確な指摘は、ラースの調子が普段に戻りつつある指標でもある。
とはいえ、今はそれどころでは無かった。
立ち上がる時間すら省きたかったのか、ラースが四足で詰め寄っていく。
流石の兄も、その姿に若干ビクッとしていた。
瞬きを繰り返した後に、兄がやや困った様子で頭を掻きながら言う事には。
「負けた後は、その時に使っていた得物を相手に渡す決まりなんだよね……今日は、ムク爺が勝利したから仕方が無かったんだ。はぁ……これで十三勝四十二引分け六十五敗だよ」
何やらもの凄く不穏な戦績を、気にした様子も無くさらりと告げてくる兄。
つまり兄が覚えているだけで、今までに百二十回の戦闘を繰り広げてきたらしい。
空を仰いで、最早言葉も出ない様子のラース。
流石に気の毒に思ったのか、のそのそと歩み寄って来たチロルが寄り添っていた。
一方、視線を西の斜面へ向けていた私。
小柄と言っていい先々代の魔王の背中。
その背には点滅を繰り返す聖剣。
三回瞬いては、消え。振り絞るように再び光るを繰り返すそれを見送りつつ。
「……でも、あれ重くて使い辛かったしさ。変なタイミングで光るばっかりで、寧ろ無くても良いかなって……」
後方でそう呟く兄の声を聞いていたらね。
なんだかとても、不憫な気がしてきた。
でも、約束は約束だ。
こればかりは仕方がない。
ごめんね、聖剣。兄との縁は無かったと思って諦めてください。
心の中で合掌し、薄れゆく輝きを見送った。
*
こうして重荷から解放された兄は、上空でサンドイッチを咀嚼している。
それに伴って、ランチボックスが半分程空箱になった為。
チロルは出立当初よりも軽々と羽を広げている。
飛ぶのが楽になったチロルさんはご機嫌だ。
一方の、両極端。
再び舞い上がったチロルの背で、未だに本調子を取り戻せない様子のラースは今日半日で普段の三日分くらいの疲労を思わせる顔色の悪さである。
魔王城も、目前に迫って来た。
間近で確認する程に、その美しさがよく分かる。
進むほどに、なだらかな緑の丘の斜面は青々とした湖面へと色彩を変えていく。
牧歌的な風景だ。草食の魔獣が群れを成してゆったりと歩いている姿も見える。
湖の中から、空へ聳える堅牢な城。
それが、魔王城である。
その壮大な姿は、優美でさえあった。
「……なんか、公国の王府よりも綺麗かもしれない……」
「……魔王城、だよね?」
弟の呆けたような呟きに、被さるようにして向けられた兄の疑問。
何故だろうか、こういった場面でのみ一般的な兄の視点。
普段からそうであって欲しいよ、兄さん。
そんな呟きを呑みこんで、無言で肯定の頷きを返した自分は。
さあ、ここからが正念場だと。
意気込みも新たに壮麗な魔王城を見詰めて―――
うん、何やら幻覚が見える。
到着して早々に、これは無いと思うのだ。
そう。これはきっと疲れ目の所為……
「り、リズ姉……ちょっと、あれ助けなくて良いの?」
そんな弟の声は、聞こえない。
そう、断じて湖面にばしゃばしゃしてる何かなんて知覚していません。
「溺れてしまうよ、リズ? 誰だか知らないけど、助けた方がいいと思うけど…」
そんな兄の声も、チロルの良心が咎める様な真摯な眼差しも器用に逸らして。
空に、一瞬だけ逃避する。
うん、そろそろ限界かな……
雲一つない空が綺麗だ。
陽光を反射する城壁が眩しい。
それにしても、この状況にはただただ泣けてくるよ。
諦めて、救出に向かった後。
チロルが咥えてズルズルと湖の淵まで引き上げている合間も。
変わらずに解析の結果が伝えてくる事実に、溜息を隠さない私。
勘のいいラースが徐々に、頬を強張らせていく様子が見える。
咥えて運んだ後、チロルさんが微妙に距離を取っている様子からも明らかだ。
以前にも、チロルさんが倦厭する様子を見せた状況があった。
『袋から、出てきたものは?』がキーワードだ。
それを思い出して貰えたなら、きっと其処に言葉にしなくても伝わる真実がある。
どうしてかは、分からない。
否、知っているけれども確定したくないだけなのだ。
だってそうだろう。
普通、魔王城に着いて早々に誰がおぼれている姿を想像するというのだろう。
先代魔王。
ユーグ君の父親にして。
先程遭遇した、先々代の魔王の息子。
そう、魔王城の周囲を囲む美しい湖の畔で溺れかけていた人物こそが。
今回の訪問先。
全身水浸しで、死ぬかと思った……と呟いている。
先代の魔王その人だった。
よく見れば、その顔立ちは細部は異なれどユーグ君によく似ている。
否、正確にはユーグ君が似ているのだろう。
今頃は、お義姉様と共にハーブを詰み取っている頃であろうユーグ君。
今回の魔境訪問の起因を改めて思い出しながらも。
目の前のそれが、認識のズレをどんどん深めていくのは何故だろう。
まさか着いて早々に、先代魔王直々の案内で城門をくぐることになろうとは。
人生は、想像の及ばない不可思議な展開に満ち満ちているらしい。
まず、冷静に立ち返った先代魔王様。
遠巻きにする飛竜と、見知らぬ人間三人を順番に見渡してから徐に口を開いた。
「君たちのお陰で、溺死せずに済んだよ。感謝の気持ちを含め、是非城へ招待したいのだが……都合はどうかね?」
要約しよう。
助けてくれたお礼をしたいそうだ。
いやそれは流石に……と躊躇ったのは無理も無いことと思ってもらいたい。
先程まで、聖剣を荷物に加えて魔王城へとやって来た経緯をして。
まさか、この一連の流れ自体が罠という可能性を……考えるまでも無く否定された自分たちの心境たるや。
罪悪感が留まるところを知らない。
気まずさに加えて、初めから出直して来たいという思いが去来する。
思えば。
武力制圧こそ、全くもって望むところでは無かったにせよ。
不法侵入をもってして、魔王の居室まで辿り着く予定だったのは厳然たる事実。
過去からの勇者に纏わる伝記を読む限りでも、基本姿勢はそれである。
恒例、お約束といった類のそれだと疑わずにいられたこれまで。
しかし、冷静に考えれば紛れも無い不法侵入の四文字。
うん、もう立て直せないかもしれない……。
ここ数年で最も酷い眩暈を覚えながらも、逃避しきれないそれは向けられたままだ。
未だ、ずぶ濡れのまま返答を待ち続ける真摯な眼差し。
結局のところ、折れた。
寧ろ居た堪れなくなったと言った方が近いかもしれない。
因みに先代魔王様、散策の途中に足を滑らせたらしい。
うん、もう。何だかね。そういう事もあるんだろう。
長い人生、色々あるよね。
恐らく史上初であろう、こうして史実を書き換えた現在。
魔王に招かれて魔王城へと入城した三人と一羽である。
湖水に接して建てられたからであろうか、城壁は苔生して何とも言えない趣があった。
何やらその辺りが琴線に触れたらしく、兄がその点について先代魔王様と談笑している。
「あの、縁に自生しているのは希少種の……」
「ふふ……君、その若さでそこに気付くなんてなかなか……」
傍から聞いていて、先代魔王と当代の勇者候補の会話とは思えぬ和やかさ。
それにしても兄よ。
改めて、魔王一家三代に渡って関わりを持っている現状に妹は色々思うところである。
加えて、当人がそれを自覚していない辺りに運命の悪戯どころか奇跡的な何かさえ感じ得る。
普通あり得ないことが、成り得る兄。
そんな兄に毎回のこと巻き込まれる自分もまた、非常識に染まりつつある現状を憂えずにはいられない。
知らないでいられる兄はある意味では特別な才能の持ち主だろう。
少なくとも自分はそこまで突き抜けてはいられない為、その恩恵には預かれない。
この目がある限り、とても無理な話である。
……それにしても、会話が途切れない。
ある意味相性は良いのでは、と邪推してしまいそうになる程に話しこむ二人。
それに脱力するラースを、誰が責められよう。
その合間も、魔王城の見事に作り込まれた中庭の芝をローリングしたそうにじっと見詰めるチロルに陰ながら目を配る私。
最近、草の感触に目覚めたらしいチロルさん。
気を抜けば、辺り一帯に損害が広がるだけに注視のその配分が難しいのだ。
そうして招かれた中庭に、その美しい声が響いたのはそんな時である。
「ほぅ、珍しいお客様だ。……ジュール、その無様な格好をどうにかした後に、私にも紹介してくれ」
さらさらと靡く灰白色の髪の間から、黄昏の色が微笑を形作った。
その柔らかさに、思わず見惚れもする。
歩み寄って来る所作は、颯爽としており。
同時に、中性的な魅力もまた兼ね備えている。
まさに男女を問わず、魅了する妖艶な美女がそこにいた。
彼女こそが、この城の女主にして先代魔王の伴侶。
解析が伝える事実に、納得もする。
彼女がユーグ君の母君であることに思い至った時。
それはこの旅の終着を示していた。
解析を終え、瞬いて本来の色に戻した後。
今回の来訪の所以を伝えるべく、踏み出すと同時に。
湖を吹き渡る風を感じながら、深く頭を垂れた。
それはせめてもの、謝罪の意思だ。
今日の日を迎えるまで、来訪を躊躇った自身の贖罪そのもの。
「キリエ・シェルディーア・キル。現魔王にあたる彼……記憶を失くした彼を、今に至るまで秘匿し続けたエイム家を代表し、謝罪の為に参じました」
それは、ずっと呼べずにいた名。
『彼』が『魔王』であることを解析したあの時から、知っていた本来の名だった。
仮の名では無い、その真名をこの場で告げる意味。
もはや釈明など、意味を成さないということだ。
それを十分過ぎる程に知りながら、押し隠す震えが物語る。
臆病で、向き合う事さえいつしか忘れようとしていた。
そんな自分を、あの日の横顔が辛うじて踏み止まらせてくれる。
あの日、兄の結婚式を終えた後の夕宴の席で。
本人が気付いていたかは、分からない。
寂しそうなそれに、過ちを正す時が来たのだと。
そう思いを新たにした日から、ずっとこの時を待ち続けてきた。
断罪の為。
それが、この世に生まれ落ちてから初めての遠出を決意させた所以。
もう、戻れないかもしれない旅路だと気付いていた。
それでも踏み出すことを、選択した。
最初で最後の我儘を、汲み取って頷いてくれた弟には頭が上がらない。
チロルにも同じことを伝えたい。
兄……には、うん。取り敢えずこれを機に今迄の関係性を自覚してもらえればと願わずにはいられない。
流石にもう、潮時だろう。
そうして迎える、幕引きの時だ。
そして待つ。
待ってみた。
待って、みたものの。
言葉一つ、刃一つ返らない。
沈黙にもそれなりの程度があると思う。
……流石に、何と言うか居た堪れなくなって顔を上げた先で直面したものは。
あれ、なんか違う。
おかしいな、この流れはどう考えてもシリアス方向へまっしぐらだった筈。
どうして、地面に手を付いて打ち震えている美女の図。
いやいやいや、違うでしょう。
何がどうして、こうなった。
説明を求め、周囲を見渡して更に後悔することも何となくは察していたものの。
うん、本当に後悔した。
端的に纏めよう。
先代魔王(ユーグ父)は頭を抱えた状態で空を仰ぎ、彫像のように動かない。
あの兄が、珍しくそれに対して気遣う様に声を掛けていた。
あの兄が。
独自の理論によって生き、周囲へ及ぼすあらゆる被害に対しての認識すら儘ならないことの方が遥かに多いあの兄が。
他者を気遣い、声を掛けるとは。
……生半なことでは見られない光景だ。
けして小さくない驚きを胸に、暫しそれを目に焼き付けた後。
真っ先に説明を求めるべき弟へ、視線を向けてみれば。
どうやらそれどころでは無かった。
私が目を離した時点で、ローリング衝動に耐えきれなくなったらしいチロルさん。
その結果、魔王城の中庭に植えられていたハーブ類が大きな被害を受けた模様。
その修復に駆け回る弟に、説明を求められる雰囲気は無い。
……見なかったことに、出来ないだろうか?
私の精神状態を鑑みて頂ければ、その内心は察して頂けることと思う。
何だろう、ある意味でシリアスと取れなくもない光景ではあるのだ。
けれども分かる。
これは違うと。
この場面で、この反応はどう見ても食い違っている。
どうやら、状況を一度整理しなければ話が進みそうにない。
それに頭痛を覚えもする。
顔を上げたら、混沌。
魔境だけに、より一層笑えない。
混沌に収束を齎すべく、この短時間で擦り減らした精神を叱咤しつつ。
口火を切ろうとしたところに、声が落ちてくる。
ふわり、と舞い上がる風と差し掛かる影と共に。
「……相変わらずのメンタルの弱さだねぇ、魔王?」
その耳慣れた声に、発した当人の位置を辿って視線を上げていった先。
バサリ、バサリと羽音が耳を打つ。
黒い小山ことライヤー君の背には、四つの影。
父、母、お義姉様の順に辿っていき、最後に彼を認めて零れた吐息。
ああ、役者が出揃った。
脳裏を掠めたその思いと同時に、場の空気を変えた当人がまず中庭へと着地する。
父が歩み寄っていく先には、声にならない叫びを発する先代魔王様の蒼白な表情。
未だにその心の傷は、癒えていなかったのだろう。
先刻からの苦悩にしても、引き金となったのは『エイム』の名。
名前だけで崩れ落ちるとか、相当だ。
苦笑する父が旧知の友を前にした様な気軽さで手を差し伸べるも、怯え方が尋常ではない当人からすれば……寧ろ放っておいて欲しい位の心境であろう。
つまり、立派なトラウマだ。
我が家における、この父と加えて兄の両者。
彼らが『心的外傷の大元にして元凶』として周知されつつある現状を目の当たりにした今。
諦観に染まりかける心境を余所に、続けて落ちてきたのは柔らかな声だった。
「あなた、まずは自身を省みるところから始めないと。……殊、魔王城においてあなたは招かれざる客第一位なのだから」
「……僕はいつからそんな不名誉なランクインを受けることになったんだろう」
「あら、自覚が無いなんて益々救いようが無いわね……困ったわ」
「……あの、少しは手加減をしてほしいな奥さん?」
「あなたに手加減なんて不要でしょう……?」
こうして増えていく、沈黙の彫像たち。
先代の魔王と勇者は、互いの身を地に沈めて動かなくなった。
父よ、はっきり言おう。
あなたのメンタルの弱さも、正直そんなに大差ない。
この光景を見る限り、そう思えても仕方ないと思うの。
そんな娘の呟きは、声にならずに内心に留められる。
何故なら状況は、刻々と変化していくからだ。
「久しいね、シレネ。……今回は、どうやら愚息がそちらに厄介になった様だ。この場を借りて、改めて礼を言わせてくれ」
「相変わらずね、エレイン? あなたのそういう律儀な部分はとても好ましいわ。……でもね、今回は謝罪は必要ないのよ。彼は幸いにも貴方に似たようでとても良い子だもの。望むなら、ずっといて貰って構わないわ」
エレイン・シェルディーア・キル。
先代魔王の伴侶にして、魔境を統べる女傑とも噂される彼女が母の言葉を受けて、再び崩れ落ちる様を間近で見て思う。
どう表せばいいのだろう、この複雑な心境は。
ある意味でオーバーリアクションの一種であることは伝わって来るものの。
いつの間にか傍に来ているユーグ君のため息交じりの言葉。
きっとそれが、この混沌の答え。
「母様……相変わらずですね。感動性だというのは分かってはいるんですけど、正直こう毎回だと面倒臭いです」
ユーグ君……いや、本当はキリエ君だね。
そこまで率直に言ってしまうと、沈黙の彫像が増える一方になるから。
出来たら加減して欲しいとは思うの。
ただ、これではっきりしたこともある。
「ユーグ君、どの時点から記憶が戻ったのか聞かせて貰っても……?」
視線を交わして、問い掛けた先で。
現魔王 キリエ・シェルディーア・キルは艶然として微笑む。
本拠地に戻った今、その笑みの映えることと言ったら……
色んな意味で溜息が尽きないね。
そしてラース?
そんなに大口を開けて絶句したままだと、下手をしたら顎が限界を迎えると思うの。
この状況で、寧ろそちらが気に掛かってしまう自分の性質が残念でならない。
「それをお話しする前に、リズさん。貴女に伝えておきたい事があるんです」
「……伝えておきたい事?」
鸚鵡返しに問えば、思わずこちらが息を呑む程に真剣な眼差しに合う。
ざわり、と全身を伝わる途轍もない寒気と予兆。
解析を掛けるまでも無く。
今、その全身から立ち上る様な魔力の総量はもの凄いことになっている。
暴発させれば、恐らくこの一帯が一瞬にして消し飛ぶほどに渦巻いているであろうそれ。
現に、この場で最も魔力測定に優れた弟の顔色が紙より白い。
冗談でも何でもなく、中庭に漂う終末の予感。
え、その矛先が何故自分に向かっているの。
切実に、疑問なのですが。
疑問どころか、混乱一色ですね。
いやいやいや、間を持たせるくらいなら一息で終わらせて。
言い淀むくらいなら、次の機会にして。
余程にそう言いたいけれど、そんな余力が私に残されているかと言えば。
うん、残っていないのだ。
城を訪れて後。
所々で差し挟まれる沈黙が、只でさえ残り僅かな精神的余裕をガリガリ削り取った結果。
互いが沈黙を重ねる中、総じて高まるのは緊張感という悪循環。
寧ろ涙目ですよ。もうね。
こうして張り詰めた空気の中、意を決した様にようやく告げられた言葉。
伝えられたそれに、目を瞬かせる。
「僕は、貴女の家族になりたい」
咄嗟に何も言葉にならなかったのは、正直に言おう。
その意図を、掴み損ねたからに他ならない。
家族に、なりたい。
『あなたの』を強調している辺りに多少の引っ掛かりは感じたものの。
その時の自分が、出した答え。
考えるよりも、すんなりと浮かんできた。
後々、その引っ掛かりこそが要点であったことに気付いたところで、時間は戻せない。
付け加えるなら。
あの場で、万が一にも断るニュアンスを滲ませていたら今頃世界の形は元のままでは存続できなかっただろう。
具体的には公国西側一帯も含め、それなりの被害が想定される。
更に付け加えるなら。
周囲が浮かべていた、それぞれの表情を確認していなかった時点で自分の選べた選択肢など、そもそも他に無かったのだ。
「……改めて言うことではないと思うの。共に暮らしている時点で、ユーグ君はもうエイム家の一員なのだから」
言い終わりと同時に、霧散した魔力の気配に安堵するよりも先に。
何やら背後で崩れ落ちる複数の音と、気配があった。
その中にどうやら啜り泣く様な音も混じる。
一体何事か、と。
振り返る前に、そもそも振り返れないことに気付いた。
ふわり、と回された腕の中。
見上げた先には、見慣れぬ青年。
「………どちら様?」
「僕です。リズさん」
まじまじと見る。
解析も使い、確認をした上で漸く瞬きもする。
あまりの展開に、危くドライアイになるところだ。
「……もしかして、魔王の刺青には“誓約”が隠されていたの?」
「ふふ、リズさんならきっと説明する前に気付いてくれると思いました。ええ。これは先々代の魔王の代から引き継がれている“誓約”もとい呪いの一種です」
その言葉を皮切りに、明かされた真実を纏め直せば恐らく以下のようになるだろう。
先々代の魔王の時代に、魔王城に現れた勇者。
彼は、当時稀代の魔術師として名を馳せていた人物だったらしい。
互いの力はほぼ互角。
勝負が一向に付かない三日三晩に渡る長期戦の末、勇者は己が命と引き換えにして一つの“誓約”としての呪いを魔王の直系に残した。
以来、代々魔王の血族に発現し続けた“誓約”は世代を越えて効力を薄めながらも着実に魔王の魔力を縛る枷となってきたのである。
“誓約”を解除する為には、ある条件下で赦しを得なければならない。
「つまり、その条件というのが聖女の血族から赦しを得る事だった……ということかな?」
夕暮れが近づく魔王城のテラスにて。
先程までの混沌が嘘のように、テーブルを囲む一同の中でも特に魔術に造詣の深い弟が“誓約条件”の確認をしたのは自然な流れだったと言える。
魔境ではよく飲まれているという、フレーベルの花を混ぜた香茶と二種類のベリーを混ぜ込んだメルティ・ケーク。
香りは勿論のこと、品質も最高ランクのお茶菓子を前にして一心不乱に頬張る兄の姿を横目にようやく明かされた事実。
兄さん、空気を読んで。
そのテーブルに集う一同は、それ相応に因縁の深い人物たちの筈なのですが。
寧ろ和やかと言えそうな空気の中、語り終えたユーグ君こと現魔王 キリエ・シェルディーア・キル。
弟の問い掛けに、肯定の意味を込めて頷いた。
「“誓約”の内容は、世代つまり魔王ごとに違う。ただし、解除の条件については一様に聖女の血族の赦しを原則にしている」
「だからリズ姉でも当てはまった……成程ね。でも、それを踏まえれば僕や兄さんでも良かったということにならないかな?」
その問い掛けに、何やら意味深な笑みを浮かべた彼は。
ともすれば、あっさりと。
けれどもその実、未だに明かさないそれを答えとして提示した。
「“誓約”を満たせたのはリズさんだけ。だから、その仮定は成立しないですよ」
その返答を受けたラースは、一瞬だけ複雑そうな笑みを覗かせた。
とはいえ、それ以上なにを追求するまでも無く零した呟きが全てを物語る。
「……“誓約”ね」
恐らくその場で、この呟きに隠された意図を察していたのは。
先代魔王とその伴侶であるエレイン、勇者と聖女であった両親の他に。
当代の聖女候補でもあった義姉と魔術師である自分。
そして、他でもない魔王当人。
キリエ・シェルディーア・キル。
少年の面影を残しながらも、本来の姿を還元された今の彼を見て思うのは。
姉が辿ることになるであろう、そう遠くない未来の可能性。
魔術師として大凡の“誓約”の内容に想像が付いているからこそ、零さずにはいられなかったのだ。
ささやかなお茶会を終え、双翼の飛竜に乗って別れの挨拶を交わす頃。
夕闇の橙から徐々に闇の帳が近づきつつある薄紫の空を見上げ、長い一日の終わりに一息。
「リズさん、また近いうちにお会いできる日を楽しみにしています」
「……気候が穏やかになったら、手紙を送るわ。流石に連絡も無く来訪は出来ないもの」
いつの間にか、離陸直前のチロルの傍に来ていたユーグ君。
状況も変わった現在、もはや仮の名の必要はないだろうとは思うのだが。
当人がこちらを希望した為に継続して呼ぶこととなった。
会話を交わす合間も、日はどんどん沈んでゆく。
実は魔王城に一晩部屋を借りて、翌朝の出発を提言する声もあったのだ。
しかし、これを頑ななまでに固辞したのは先代勇者である父と普段は滅多に弁を張らない弟の二人だった。
父はともかくとして、ラースがけして首を縦に振らなかった理由については今もって不明である。
それとなく尋ねてみようとしたものの、弟曰く。
「そう易々と、計画通りには進ませない」云々。
正直、意味が呑み込めずに首を捻ったものの。
いつに無く真剣な表情に、取り敢えず頷くだけ頷いておいた。
意味の無いことをする様な弟では無いと、姉として十分に知っているからこそである。
「またね、ユーグ君。元気で」
「すぐに会えますよ、リズさん。……もしかしたら、僕の方から訪ねるかもしれません」
何だか最後の方が、遠ざかる羽音に紛れて薄らとしか聞こえなかったけれども。
手を振り、別れた後は頭上に瞬く星明かりに気を取られて深く考える間もなかった。
そう、後悔はいつでも後からやって来るものであり。
そうして訪れることとなるその後の騒動は、最早避けられるものでもなかっただろう。
瞬く様な星明かりの下、遠ざかる二つの羽音。
見送った魔王城の面々は、未だ中庭に佇んだままだ。
「また、難儀な娘を選んだものだね……キリエ?」
エイム家の人々が空へと去った後、徐に口を開いた母の声に振り返るでもなく。
その空を見上げたままで返る声。
それは多分に、艶を含んだものであり。
未だそれを『彼女』に気付かせぬ彼の意図を、最早隠す気が無いことを示している。
「今なら、“誓約”に感謝しても良いと思うよ。……何れ得る伴侶として、彼女と出会えた幸福を僕はけして、手放さない」
そう。
だから、リズ? 近い内に君を迎えに行くから。
「待っていて、僕の最愛の人」
“誓約”
最愛の者に想いを告げ、赦しを得ること。
両親でさえ、正確な内容を知る術は無く。
物心を覚えた頃から、自分のみが知る“呪いの形”。
もし明かす時が来るとすれば、唯一その“誓約”を果たした後。
赦しを与えた、その当人にのみ伝える事が赦されている。
闇に沈んだ魔王城。
帰還した魔王は、その口元に微笑を滲ませて遠ざかる飛影を見送った。
その時は、まだ誰も知らぬ未来の日々。
それが形を得た、とある一日の終わりだった。
*
数ヵ月後に起こった、突然の訪問劇。
ポプラ村魔王来訪騒動の顛末に始まり。
時に、公国の介入も挟みながらの一連の騒動は後にこのように呼ばれることとなる。
『エイム家の花嫁騒動』
騒動の名付け親は、今もって不明だ。
しかし、当時の来訪に伴う喧騒をポプラ村の長老たちが例の如く『何だか知らんが拝んでおけ』心理によってもれなく迎え入れた経緯もある。
何処から伝えられたものか、いつしか村中に広まった『魔王の嫁取り』の風聞は主に長老たちの間を流れて『西域一の嫁取り騒動』へと独自の進化を遂げた。
騒動の度に、やんや喝采を上げる長老が数を増やしていっていたことからも当時の関心の高さは窺える。
ひとまず、それはさて置き。
本筋にそろそろ戻ることとしよう。
その当時の魔王が、数カ月単位でエイム家の双璧及び最強の父親と繰り広げた戦いの日々は二年の歳月に及んだという。
そして、諦めなかった魔王が最終的に戦うこととなったのは他でもない花嫁当人。
神眼を持つ少女との戦いは、苛烈を極めた。
極一部の者たちからは、あれは戦いと言うよりか『シリアス鬼ごっこ』の類に近かったという呟きも在ったとか無かったとか……。
何はともあれ、である。
その手から放たれる愛用の伸べ棒による一撃を、受け止めるに至った某日。
飛竜の火炎すら防いだ魔王は、ようやくその腕に花嫁を抱きしめて願いを告げた。
その後、ようやく花嫁の赦しを得た魔王は幸福を得る事が叶ったと伝えられている。
まあ、事の次第は纏めてしまえばそんなところかな……」
疲れたような面持で、うっすらと笑みを浮かべたラース・エルミタージュ・エイムはそう締め括る。
エイム家の居間を照らす、穏やかな正午の日差し。
対面しているのは姉の唯一といって過言でない友人、エルーカ・ココットとその隣には同情を過分に含んだ視線を向けてくるミカエル・フリードの両名だ。
「ふふ、あの折は紅蓮に染まる空が日常化したからな……“西の守護者”殿の広域結界が常時発動されていなければ、今頃ポプラ村自体が存在していたかも怪しいな」
遠い目をしてそう呟いたエルーカに、同じく疲れた目をして無言の肯定を繰り返すミカエル。
そんな二人の様子を見ながら、そろそろと口火を切ったのは。
単純に伝える為に彼らを呼んだ目的を思い出したからとも、空気を変えるべく切り出したタイミングが丁度その時だったともいえる。
「リズがね、来春に出産予定だから。それを伝えて欲しいって書簡を寄越したんだ」
その言葉を受けてから、意味を呑み込むまでの表情の変化は見物だった。
顔にそのまま書いてある、と言う冗談のような文句が冗談にならない現状で。
二人が浮かべていたのは、その大部分が同情。続くものはおよそ苦笑いに紛れている。
紛れた部分の本心について、特にエルーカの抱いているであろう心境。
これは察しないに越したことは無い。
本能が、そう囁くのだ。
此処は素直に従っておくのが最善だろう。
「……早すぎる。どれだけ無茶させてんだ似非天使……その辺りは一度話し合わないと、な」
洩れてる、それはもう、多分に洩れてる。
察しない以前の問題だった。
「エルーカ、その辺りはデリケートな……つまり、夫婦間のね、問題だと……」
「黙って、ミル」
「……はい」
なんだろう非常に既知感を覚える光景だ……。
いずれは尻に敷かれる光景も、苦も無く浮かび上がる二人の様子に全力で見ない振りに徹するしかない第三者がそこにいた。
未だエイム家で唯一独り身を貫いているラースだからこそ、この二人に両親の姿を重ねずにはいられない。
度重なる周囲の所謂『嫁取り騒動』に毎回の如く巻き込まれている彼に、もはや結婚に纏わる夢や期待感といったものは無いに等しい。
寧ろ、マイナスに差し掛かっている現状を誰よりも憂慮しているのもまた当人なのである。
救われない現実を前に、今日もひっそり溜息を零した。
*
遡ること、二年前。
あまりに多くの出来事が、集約されたその年の記憶は正直言って曖昧だ。
魔王を魔境に送り届けた後、ポプラ村ではささやかな平穏なる日々が続いていた。
思えばそれも、魔王が襲来するまでの静けさに過ぎなかったのだろう。
詳細は出来る限り省いて、経緯のみを言及すれば。
穏やかな日和を満喫していた某日。
不穏な風を纏って、エイム家の庭へ舞い降りてきた人影が一つあった。
そう、魔王である。
庭でローリングに興じていたチロルと蓑虫化していた兄が凝視する中、尋常ではない魔力の風に乗って来訪した際に姉が何処にいたかと言えば。
丁度菜園で、ハーブを摘んでいる最中だった。
知らせも無く、突如訪れた魔王を溜息一つで赦した姉。
居間へと招き入れたそこまでは……まぁ、良かったのかもしれない。
問題はその後である。
寄りにも依ってあの魔王、姉へ直接の求婚に踏み切った。
エイム家一同が揃い踏みしていた居間が、凍りついた。
空気が凍りつくだけに留まらず、物理的にもテーブルに霜が降りていたあたりに当時の父の心境が如何ばかりであったかを窺い知ることが出来るだろう。
あの時の空気を、生涯忘れる者はいない。
珍しく、あの姉がテーブルに沈んでいたのが印象的だった。
後々、頬が霜やけになったとぼやいていた姉。
無言で即効性の魔法薬を手渡したのは、今となっては懐かしい記憶だ。
その後は、先程語ったとおり。
何れは、姉を迎えに来るつもりだと“誓約”についての話があった時点で自分は予想していた。
しかし、想定よりもそれは遥かに早い訪問だった。
まさに、期を待たずして勃発することとなった戦いの火蓋。
それが及ぼす影響が、家庭内で収まる筈も無く。
いつしか観客を自然に集めるまでとなった『愛娘(妹)はやらん騒動』。
あの父と、兄を同時に相手取れるのは世界広しと言えど魔王位なものだろう。
本物の魔王と顔を合わせることになる前までは、そんなことを冗談めいた思考で考えた事もあった。
それが冗談では済まなくなった時、蒼褪めたと言って過言ではない顔色の姉を隣に上空の攻防を見上げていた自分は思い直した。
魔王でさえ、この『姉』を花嫁にするのにこれほど苦労する現実……。
正直、魔王以外にあの二人に挑もうとする猛者が現れるとは思えない。
姉さん、思うにこれ選択肢が無いに等しいよ。
つまりだ。
魔王が二人に勝てない限り、姉がこのまま独り身を余議されなくなる未来はほぼ確実となる。
ある意味、魔王の勝敗に様々なものが透けて見えてしまった弟目線。
非常に複雑な心境にあったと言える。
どちらの側に立つにしても、最終的には姉次第と。
そう意思を決めて、両勢力によって生じる被害を未然に防ぐことに手を尽くした自分だ。
二年に渡る死闘を経て、あの日はやって来た。
とうとう父と兄を地に沈ませ、疲労困憊の様子を辛うじて表に出さないまでも周囲が眦を熱くした魔王の戦い(がんばり)。
村民の大半が見守る中、最後に繰り広げられたのは追う者と追われる者による駆け引きだった。
要するに、姉はこの期に及んでまだ迷っていたのだ。
だからこそ、最終的にはポプラ村全域を駆け回ることになったのだろう。
結果、最終的に追い詰められた姉が全身全霊を込めて放った『渾身の一投』は下手に一般人が受け止めようものならその場で再起不能になるであろう威力が籠っていた。
あれ、洒落にならない。
割と真面目にそう思った弟の心境は、推して知るべし。
しかし。
最後の最後で、上空から放たれたチロル砲を弾き飛ばした魔王はそのまま『渾身の一投』を受け止めてみせたのである。
あれは、やばかった。
何と言うか、普通に惚れるレベルだ。
とはいえ、自分はその時に弾き飛ばされたチロル砲の後始末にまわらざるを得なかった為、正直余韻に浸っている暇は無かったのだ。
広域にわたる修繕魔法で、青色の光に包まれた台地の上。
漸くその腕に、ずっと望んでやまなかった姉を抱きしめている魔王(今は義兄の間柄)を見ていたら、自然と泣きそうになった。
当初こそ、出来る限りは企み(姉へのアプローチ)を阻止してやろうと目論んでいた自分。
しかし、二年の歳月を経て方向転換した。
そう、方向転換もする。
並の男なら、とてもじゃないが此処まで頑張れない。
寧ろその執念が怖い、と度々零していた姉には悪いが執念万歳である。
拍手喝采に包まれたポプラ村の中心で、魔王は幸福をその手に掴んだのだった。
その後も、事あるごとに喧騒冷めやらぬエイム家において。
特筆するとすれば、やはり嫁入り当日『公国の妨害劇』が挙げられることだろう。
公国、つまりは王府からの兵士の投入の最中に姉は魔境へ嫁ぐこととなった訳だ。
情緒の欠片も無い。
ポプラ村の大半が、二年の攻防もとい頑張りを間近で見ていただけに。
この妨害劇には眉を顰める者も多かった。
世論は、始まる前から魔王側に軍配を上げていたのである。
長老たちが円陣を組み、婦人会が珍しく仲裁に入るどころかフライパンを片手に決起したその姿。
エイム家の面々は深く頭を垂れた。
これほどに暖かい村が、他にあるだろうか。
若干ユーモアに過ぎる部分もあるとはいえ、感謝の気持ちは尽きない。
その間も、無粋な兵団は大河の境に集結しつつあった。
花嫁が立ち上がったのは、その時だ。
魔境から吹く風に、そのヴェールを靡かせて久方ぶりに無言の号令を出した先。
意気揚々と、舞い上がったのは白と黒の双翼。
周囲の風を全て吸いこむ様な勢いで、膨らんでいく熱量とその規模に震撼した村人たちの視線の先で。
狙いすました飛竜のダブル火炎が、公国の兵士たちの髪という髪を焼き尽くした。
兜をしていたものも、余熱によって同じ命運を辿る中。
悲鳴というよりも、絶叫を上げて散り散りに逃げ出していく彼らの背を只一人物憂げな様子で見送っていた人物がいた。
うん、兄だ。
きっと忘れ得ぬトラウマを思い返していたのだろう。
休暇を取って、わざわざ参列に来た馴染みの魔術師が、兄のその横顔に込み上げる笑いを隠せないでいるのが残念過ぎる光景だった。
姉さんも常々言っていたけれど、兄はつくづく友人に恵まれない人である。
無粋な兵団は去り、村民と友人たち、そして家族に見送られて花嫁は魔境へと旅立った。
純白のヴェールとチロルの白い翼が翻り、青い空に眩しい程だった。
あの日から、約半年。
そうして届いた書簡に、今も黒い微笑みを隠さぬ姉の友人を横目にしながら。
彼は思う。
姉は、きっと幸せだ。
そう確信が持てるのは、単にあの姉の性分を熟知しているからである。
嫌なら、地の果てまでも逃げていた。
そんな姉である。
優しく、懐の深い姉ではあるが……本心を曲げるような器用さは持ち得ない。
柔らかな微笑と、それを浮かべる横顔を見て両親も兄も自分も結局は、納得して送り出したのである。
姉の嫁入りから数日後、兄と義姉さんは魔境の境に新居を建てて引っ越しをした。
禁猟区からも近いその場所で、今も兄は例の爺様と戦績を重ね続けているらしい。
以前、ポプラ村に立ち寄った旅人の話では。
近頃その禁猟区から妖しい光の目撃例が多数寄せられているとのことである。
夜毎に光るその光は、規則的に三回瞬いては消える周期を繰り返しているとのことだ。
相変わらずの必死さに、話を聞いていた自分は苦笑を隠せなかった。
両親は相変わらず、家を開ける事が多い日々。
必然的にエイム家に残ることとなった自分は、以前は考え付かない程の穏やかな日々を研究に明け暮れつつも、邁進している。
姉が、魔境へと旅立った。
そしてあの兄が家を出た時から。
エイム家のドアはそのままである。
エイム家を守ることは、ドアを守ることとほぼ同義だ。
姉の言である。
まだ訪れていない今後の喧騒を予感しながらも。
今はただ、静かな面持ちで鎮座するドアを眺める。
いずれは訪れるであろうその時までは、せめて守ろう。
そう、思いを新たにして。
誰にとも知れず、エイム家の次男はそうして今日も平穏を甘受する。
穏やかな日差しが、エイム家の居間に差し込んでいた。
これまで読んでいただいた全ての方々へ、感謝を込めて。
これにて、『エイム家の顛末』シリーズは終幕となります<(_ _)>
エイム家の住人達は、総じて癖のある人物たち。
周囲もまた、それに応じて癖のある面々を登場させるべく奮闘いたしました。
物語の冒頭のように、秋晴れの朝に本作の終わりを迎えられたことは何よりの幸いです。
皆さまにとって、少しでも楽しいと思っていただける作品作りを目指して今後も邁進してまいります。
ありがとうございました<(_ _)>
※10/20より、シリーズを順次校正しております。