毎日私の書類を真っ赤にする鬼課長が、婚活パーティーで私の正面に座りました
「水野。ここ、三桁ずれている」
氷室課長の声には、温度というものがない。
金曜の朝九時四十分。出勤したばかりの私の机に、昨日の夕方に出した「十一月度 出荷予定表」が戻ってきていた。A4が一枚。白い部分を探すほうが難しい。赤ペンの文字が、びっしりと紙を埋めている。
「……すみません。すぐ直します」
「直す前に、なぜずれたのかを書け。原因がわからないまま直しても、来月また同じことをする」
それだけ言って、課長は自分の席に戻っていった。足音が、一定の速さで遠ざかる。眼鏡の奥の目は、一度もこちらを見なかった。
氷室蓮。三十三歳。営業企画課長。去年の十一月に本社へ来てから、一年になる。社内のあだ名は「冷蔵庫」。笑った顔を見た人間はいない、というのが定説だ。
私、水野小春は営業事務の五年目で、その冷蔵庫のいちばん近くに座っている。
赤字を数えた。十一箇所。昨日より二つ多い。
表の右上には、いつものように、黄色い付箋が一枚、貼ってあった。
何も書いていない。
これも、毎回だ。去年の十一月から、私の書類が返ってくるたびに、必ず白紙の付箋が一枚貼られている。最初は「ここに注意」の目印かと思って、裏表をひっくり返して探した。何もない。ただ、指でなぞると、紙の表面がわずかにざらついている。安い付箋なのだろう、と思っていた。
「また冷蔵庫に詰められてたね」
昼休み、同期の結衣が社食のうどんをすすりながら言った。
「詰められてた、じゃなくて、真っ赤にされてた」
「一緒でしょ。でもさ、前から思ってたんだけど、課長って、他の人の書類には赤を入れないんだよ。営業の山下さんなんか、『やり直せ』って一言で返されて終わり」
「それは、山下さんの書類には、赤を入れる価値もないってことでしょ」
「じゃなくて、あんたの書類にだけ、毎回、赤ペンの蓋を開けてるってこと」
「それ、嫌われてるってことじゃない?」
「うーん」
結衣は箸を止めて、少し考えるふりをした。
「まあ、そうとも言う」
言うのか。
結衣はうどんを平らげると、「あ、課長に用事があるんだった」と言って、先に席を立った。総務の結衣が、営業企画課の課長に何の用があるのか。そのときの私は、深く考えなかった。
午後。直した表を持って課長の席に向かう途中で、急に足が動かなくなって、そのままトイレに入った。
個室で、声を殺して泣いた。
赤字が悔しいんじゃない。いや、悔しい。でもそれ以上に、あの赤字が、毎回、腹が立つほど正しいのが悔しい。三桁ずれた原因は、前の月の数字を貼り付けたまま、桁を直し忘れたことだった。課長の指摘は、一字一句、図星だった。
三分で顔を直して、席に戻った。
机の上に、缶コーヒーが一本、置いてあった。
微糖。私がいつも買う銘柄だ。
顔を上げると、課長はパソコンの画面を見たまま、キーボードを叩いていた。
「……課長」
「ミスは誰でもする。次は確認しろ」
こっちを見ないで、それだけ。
優しいのか、嫌味なのか、もうわからない。
夕方、直し終えた表を出し直すと、今度は赤字なしで戻ってきた。右上に、いつもの白紙の付箋が一枚。
その夜、私は家で「反省ノート」を開いた。
去年の十一月から、赤を入れられた書類のコピーを、ノートに貼っている。赤字の下に、自分で「なぜ間違えたか」を書く。付箋は、白紙のまま、ページの端に貼り付ける。捨てられないのだ。貧乏性だから。
ノートは、もう三冊目になっていた。
一度だけ、赤字がゼロで返ってきた日がある。二月の、私が熱を出していた日だ。あれが、いちばん怖かった。ついに見放されたのだと思って、帰り道で泣いた。
あの人の赤は、全部、正しい。腹が立つほど正しいから、消せないでいる。
スマホが震えた。結衣だった。
『明日の婚活、お願い! 友達がドタキャンして、二人一組の申込だから、あんたが来ないと私の三千円が無駄になる』
彼氏がいなくなって、二年。婚活なんて、と思いながら、返信した。
『一回だけだよ』
◇
翌日の土曜、午後七時。都心のホテルの宴会場。
受付で渡された名札には、ひらがなで「こはる」とだけ書いてあった。苗字と勤め先は伏せるのがルールらしい。名前、年齢、趣味、好きな食べ物を書くプロフィールカードを机の上に置いて、男性は席に固定、女性が五分ごとに隣の席へ移っていく、回転方式。男女十二人ずつ。
結衣は一番の席に座るなり、いきなり笑い声を上げていた。相手は肩幅の広い男性で、プロテインの銘柄を熱く語っている。
私の最初の席は、衝立の向こうの端、十二番だった。
そこに座っていた男は、首元まできっちりボタンを留めたシャツで、背筋をまっすぐ伸ばして、自分のプロフィールカードを睨んでいた。眉間に皺を寄せて、校正をする人の目で。
名札。「れん」。
私は、立ったまま、固まった。
向こうも顔を上げて、固まった。眼鏡の奥の目が、ゆっくり、見開かれていく。
世界でいちばん会いたくない人との、世界でいちばん見られたくない場所での、完璧な再会だった。
「……帰る」
先に動いたのは、課長だった。
「わ、私も」
「お待ちください、お二人とも」
司会の女性が、すっと間に入った。
「途中退席の場合、参加費はお返しできません。それに、本日の男性のご参加は、うちの社長がとてもお世話になっている方からの、大切なご紹介でして」
「……部長か」
課長が、低くつぶやいた。
あとで聞いた話では、部長の学生時代の後輩が、この婚活会社の社長で、男性の人数が足りないからと、課長は何週間も頼まれ続けていたらしい。
結局、私たちは座った。座るしかなかった。
五分のタイマーが、卓上でカチ、と鳴った。
しばらく、どちらも喋らなかった。隣の席から、「いやあ、僕のスクワットはですね」という声が聞こえる。
先に口を開いたのは、課長だった。
「……初めまして」
「え」
「初対面だ。ここでは」
眼鏡のブリッジを押し上げる指が、ほんの少し、震えていた。
「お互い、会社の人間とは顔を合わせていないことにしたほうが、合理的だ」
合理的。
この人は、気まずい状況すら、業務改善で乗り切ろうとしている。
笑いが、ひとつ、こぼれてしまった。
「はい。じゃあ、初めまして。こはるです」
「……れんだ」
「れんさんは、お仕事、何を」
「文具メーカーで、課長を」
「奇遇ですね。私も文具メーカーで、事務を」
「そうか」
「そうです」
会話が、五秒で終わった。
お互いのカードを、交換して読む。
課長のカードは、こうだった。
名前:れん 年齢:三十三 趣味:資料の推敲 特技:誤字の発見 好きな食べ物:(空欄)
「……空欄ですね」
「考えたことがなかった」
「三十三年間、一度も?」
「食事は、栄養が摂れればいい」
私は少し困って、自分のカードを指さした。
「私のは、甘い卵焼きです。あと、趣味は暗号あそび」
「暗号」
「子どものころ、祖父と、メモ帳の遊びをしてたんです。上の紙に書くと、下の紙に跡が残るでしょう。それを鉛筆の腹でこすると、さっき書いてあった文字が、白く浮いてくるんです」
課長の手が、止まった。
「……鉛筆で」
「はい。祖父は、私にだけ読めるように、よくいたずらのメッセージを残してくれて」
課長の顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。
気のせいかと思った。でも、眼鏡の奥の目が、完全に泳いでいる。
(どうして、そんなに動揺するの)
何かが、かちりと鳴った気がした。その音の正体は、まだわからなかった。
話題を変えようと、私は聞いた。
「れんさんは、部下の方とは、うまくいってますか」
口にしてから、後悔した。いちばん聞いてはいけないことだ。
けれど課長は、少しの間のあとで、ぽつりと言った。
「……毎日、泣かせている部下がいる」
息が、止まった。
「泣かせている自覚は、あるんですね」
「ある。昨日も、トイレに入っていくのを見た」
見られていたのか。
「それでも、直さないんですか。その、赤の入れ方」
課長は答えなかった。タイマーの残りは、あと二分。
私は勇気を出して、続けた。
「その部下さんは、きっと、嫌われてると思ってます」
「……そうか」
「でも、嫌いではないんだと思います。ただ、怖いだけで。赤だけだと心が折れるので、ひとことでも添えてあれば」
「付箋は、貼っている」
言ってから、課長は、はっとした顔をした。
「それは、白紙のですよね」
「…………そうだ。白紙だ」
喉が、ごくりと動いた。
「悪かった」
何が悪かったのか、私にはわからなかった。ただ、その声が、あまりに小さくて、あまりに真剣で、笑えなかった。
「赤を入れるのはな」
課長は、卓の上のカードを見つめたまま言った。
「直ると信じている相手にだけだ。直らないやつには、入れない。入れるだけ、時間の無駄だ」
「……」
「その部下の書類は、直すと、次は必ず、直っている。だから、また入れる。……入れすぎたかもしれない」
タイマーが鳴った。
隣の席の「スクワット」の人が、こっちを見ていた。
私は立ち上がった。足がふわふわして、うまく立てなかった。
「ありがとうございました、れんさん」
「ああ。……こはるさん」
初めて、名前を呼ばれた。
苗字ではなく。
それだけで、顔が熱くなった。
そのあとの席のことは、よく覚えていない。
十一番の男性は、スクワットの話を五分間、一度も息継ぎなしで話した。十番の男性は、元カノの話を五分間、同じく一度も息継ぎなしで話した。九番の男性は、自己紹介で「僕は結婚相談所の『マイスター』です」と言ったので、何のマイスターなのかを聞いたら、「結婚相談所の、マイスターです」と同じことを言った。八番の男性は、とても優しい人だった。優しかったのに、私は、ずっと十二番のほうを気にしていた。
最後の自由時間、課長は壁際の柱に寄りかかって、紙コップのお茶を、お手本のようにまっすぐ持っていた。誰にも話しかけられていなかった。話しかけにくいのだろう。会社と、同じだ。
私は、彼のほうへは行かなかった。
行ける、わけがなかった。
◇
会場を出ると、十一月の夜風が、ホテルのロータリーを吹き抜けていた。
「結衣は、プロテインの人と連絡先を交換したって。私は先に帰るね」
そう言ってスマホをしまった瞬間、後ろから、足音がした。
一定の速さの足音。
「水野」
もう、「こはる」ではなかった。
振り返ると、課長が、一メートルの距離で止まった。街灯の下で、眼鏡が白く光っている。
「……課長」
「聞きたいことがある」
「は、はい」
「お前は、付箋を、捨てる人間か」
何を聞かれたのか、わからなかった。
「いえ、捨てられません。全部、反省ノートに貼ってあります」
「全部」
「三冊分です」
「…………鉛筆は、使うな」
「え」
「いや、使え。……いや」
「どっちですか」
「どっちでもない。いや、使うな」
課長は、片手で額を押さえた。
「忘れてくれ。月曜、定時に出る」
それだけ言うと、彼は回れ右をして、ものすごい速さで夜の中へ歩いていった。走ってはいない。ただ、足音の間隔が、いつもより、明らかに短かった。
私はロータリーに立ったまま、しばらく動けなかった。
鉛筆を使うな。
付箋は、捨てるな、ではなく、使うな、でもなく。
白紙の付箋。ざらつく表面。メモ帳の跡。鉛筆の腹。
かちり、と、さっきの音が、もう一度鳴った。
◇
家に着いたのは、十時半だった。
反省ノートの三冊を、机の上に並べた。ペンケースから、HBの鉛筆を出す。祖父がくれた、削り方まで教わった鉛筆だ。
一冊目の最初のページ。去年の十一月十二日の日付。コピーの赤字の横に、黄色い付箋が一枚、貼ってある。
指でなぞる。ざらつきは、やっぱりある。でも今は、凹凸、と呼んだほうが近い。
鉛筆の芯を寝かせて、付箋の上を、そっと走らせた。
ざ、ざ、ざ。
灰色の中から、白い線が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
男の字だった。細くて、硬くて、几帳面で、少しだけ右に傾いている。何度も見てきた、赤字の筆跡と、同じ字。
『誤字なし。誰に教わったのか。丁寧な仕事だ』
鉛筆を持つ手が、止まった。
もう一枚。
『資料の最後の、お疲れさまです、が小さく手書きになっている。誰が読むのかわからない行を、毎回書いてあるのは、お前だけだ』
もう一枚。
『年末の棚卸し、助かった。ありがとう。礼を言うべきだが、言い方がわからない』
その次も、その次も。
私は、時間を忘れて、鉛筆を走らせた。ノート三冊、付箋は全部で百四十七枚。貼ってあった全部に、文字が眠っていた。
『風邪か。顔でわかる。今日は赤を入れない。入れたくない』
二月。赤字ゼロの日だ。
(見放されたんじゃ、なかったんだ)
声が出なくなった。
『ご査収の横に、絵文字を我慢した跡がある。笑ってしまった。誰にも見られていないといいが』
『雨の日に、資料が濡れないよう、クリアファイルに入れてある。気が利く人だ』
『俺は、他の誰の書類も、最後まで読めない。お前のだけ、最後まで読んでしまう。なぜだ』
最後の一冊の、最後のページ。昨日の日付。三桁を直した表が、夕方に戻ってきたときの付箋。
芯の先を滑らせた。
『言い過ぎた。すまない。泣かせた。
微糖で合っているか。去年、自販機の前で迷っているのを見た。
好きだ。書けるわけがない』
鉛筆が、ノートの上に、ことりと落ちた。
私は両手で顔を覆った。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。多分、両方だった。
書いては、捨てて。
上司が部下に宛てていい言葉じゃない、と、この人はずっと思っていたのだろう。
最初に書いた一枚は丸めて捨てて、下の一枚に残った筆圧の跡だけを、貼って、渡して。
読まれないことを、わかっていて。
それでも、貼らずに渡すことは、できなかった人。
窓の外が、白くなりかけていた。
◇
月曜日、午前九時三十分。
私の机の上には、出荷予定表が一枚。赤字を入れられる前の、まっさらな、私の最高傑作。三回確認した。桁も、日付も、お疲れさまですの手書きも、全部。
その右上に、黄色い付箋を、一枚だけ貼った。
何も、書いていない。
書いたのは、昨日の夜だ。一枚目に書いて、丸めて、ゴミ箱の底に入れた。二枚目に残った跡だけを、貼ってある。
「水野」
課長が、立っていた。
私は、書類を差し出した。
「確認、お願いします」
「……ああ」
課長は、表を受け取った。上から下まで、視線が走る。赤ペンを持つ右手が、持ち上がって、止まって、また持ち上がって、また止まった。
赤字の、ゼロ。
彼の目が、右上の付箋に止まった。
白紙の付箋。
課長は、ゆっくり顔を上げた。私と目が合った。私は、頷いた。
課長は、自分の席に戻ると、引き出しを開けて、閉めて、別の引き出しを開けて、閉めて、それからフロア中に聞こえる声で言った。
「誰か、鉛筆を貸してくれ」
フロアが、静まり返った。
「……鉛筆、ですか」
近くの席の山下さんが、おずおずとHBを差し出した。課長は無言で受け取ると、席に座って、付箋を机の上に置いた。
鉛筆の芯を寝かせて、走らせる。
ざ、ざ、ざ。
フロア全員が、固唾を呑んで、課長の背中を見ていた。「課長が付箋を鉛筆で塗りつぶしている」という声が、遠くでひそひそ聞こえた。結衣が、口を開けたまま固まっている。
白く浮かんだのは、私の字だった。
『はじめまして。水野小春、二十七歳です。
あなたの赤字が、ずっと好きでした。
今夜、初対面からやり直させてください。』
課長は、読み終えても、動かなかった。
背中が、少しだけ、震えて見えた。耳が、真っ赤になっている。私は怖くて、顔を上げられなかった。
足音。
一定の速さではない、ばらばらの足音が、私の机の前で止まった。
見上げると、課長が、立っていた。右手に赤ペン。左手に、さっきの付箋。
彼は何も言わずに、付箋の表側に、赤ペンで、さらさらと何かを書いた。
それを、私のモニターの縁に、ぺたりと貼った。
「十九時だ。遅れるな」
それだけ言って、彼は自分の席に戻っていった。足音が、いつもよりずっと速かった。
付箋を見た。
赤い字だった。細くて、硬くて、几帳面で、少しだけ右に傾いている。
『「好きでした」は過去形。「好きです」に直せ。
――俺もだ。十九時、定時で上がる。卵焼きの店は、押さえてある。』
私は、口を押さえた。肩が、勝手に震えた。
去年の十一月から、はじめて、字の書いてある付箋だった。
赤は、直ると信じている相手にだけ入れるのだと、あの人は言った。
私は付箋を、そっとモニターから剥がして、新しい手帳の、いちばん最初のページに貼った。
反省ノートじゃない。まだ何も書いていない、まっさらな一冊の、一ページ目に。
それから、新しい付箋を一枚はがして、ボールペンで、はっきりと書いた。
『好きです』
丸めない。裏に跡が残ったって、もういい。
◇
十九時二分。課長は、二分遅れてきた。遅れるなと言った本人が。
「すまない。定時で上がろうとしたら、フロア中に見られた」
駅裏の小さな居酒屋の個室。卵焼きが名物の店だと、メニューの一番上に書いてある。
「この店、いつ探したんですか」
「日曜の夜に、三軒、食べ比べた」
「栄養が摂れればいいって言ってた人が」
「……言うな」
課長は、おしぼりを、きっちり四つ折りにした。
「やり直すんだったな。初対面から」
「はい」
「初めまして。氷室蓮、三十三歳。営業企画課長。趣味は資料の推敲。好きな食べ物は」
そこで、卵焼きが来た。
黄色い、ふっくらした、甘い匂いのする卵焼き。課長は、慎重に箸を入れて、一切れを口に運んだ。
しばらく、噛んでいた。
眼鏡の奥の目が、少しだけ、見開かれた。
「…………甘い」
「甘いですよ。甘いやつです」
「うまいな、これは」
「好きな食べ物、決まりましたか」
「ああ。……たった今、決まった」
そして、彼は、笑った。
口の端が、ほんの少し上がるだけの、不器用な笑い方だった。けれど、笑った顔を見た人間はいない、という社内の定説は、その瞬間、私の目の前で、あっさりと更新された。
「ところで」
課長は、おしぼりを持ったまま言った。
「あの婚活は、部長に頼まれたからだと言ったが、半分は嘘だ」
「え」
「部長の話は、先週まで断っていた。金曜の昼に、同期だという女が来た」
「……結衣?」
「『水野さんが明日、婚活に行きます。課長の赤ペンは、あの子を泣かせるだけですか』と言われた」
私は、卓に突っ伏しそうになった。
「それで、行くことにした。同じ会場にいて、お前が他の誰かと話すのを、遠くから見てくるつもりだった。見てどうするのか、自分でもわからなかったが」
課長は、気まずそうに目を逸らした。
「正面の席に座ることになるとは、思わなかった」
そのとき、スマホが震えた。
『三千円、無駄にならなかったでしょ』
結衣だった。ドタキャンした友達なんて、最初から、いなかったのだ。
「なぜ、白紙のまま貼り続けたんですか」
気を取り直して、私は聞いた。
「……貼らないと、渡した気がしなかった」
「百四十七枚、ありました」
「数えたのか」
「土曜の夜に、全部、一枚ずつ、鉛筆で浮かせました」
課長は、耳まで赤くして、おしぼりで顔を覆った。
「……褒めるのが、下手なんだ」
くぐもった声だった。
「赤を入れるのが、いちばんちゃんと見ている証拠だと思っていた。それ以外の見方を、知らなかった」
「水野。いや、こはるさん」
「はい」
「付箋を、見せてくれ」
私は、手帳から二枚の付箋を剥がして、渡した。赤い字のと、ボールペンのと。
課長は、「好きです」の一枚を、長いこと見つめていた。それから、胸ポケットから赤ペンを取り出して、キャップを外した。
「何を、」
きれいな、二重丸を、ひとつ。
「合格だ」
その声は、もう、冷蔵庫のものではなかった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
白紙の付箋の下に、一年分の言葉が眠っていた話でした。
赤ペンしか持っていない不器用な課長を、少しでも好きになっていただけたらうれしいです。
面白かった、きゅんとした、と思っていただけたら、ブックマークや、下の☆で評価を入れていただけると、とても励みになります。




