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毎日私の書類を真っ赤にする鬼課長が、婚活パーティーで私の正面に座りました

掲載日:2026/11/03

「水野。ここ、三桁ずれている」

 氷室課長の声には、温度というものがない。

 金曜の朝九時四十分。出勤したばかりの私の机に、昨日の夕方に出した「十一月度 出荷予定表」が戻ってきていた。A4が一枚。白い部分を探すほうが難しい。赤ペンの文字が、びっしりと紙を埋めている。

「……すみません。すぐ直します」

「直す前に、なぜずれたのかを書け。原因がわからないまま直しても、来月また同じことをする」

 それだけ言って、課長は自分の席に戻っていった。足音が、一定の速さで遠ざかる。眼鏡の奥の目は、一度もこちらを見なかった。

 氷室蓮。三十三歳。営業企画課長。去年の十一月に本社へ来てから、一年になる。社内のあだ名は「冷蔵庫」。笑った顔を見た人間はいない、というのが定説だ。

 私、水野小春は営業事務の五年目で、その冷蔵庫のいちばん近くに座っている。

 赤字を数えた。十一箇所。昨日より二つ多い。

 表の右上には、いつものように、黄色い付箋が一枚、貼ってあった。

 何も書いていない。

 これも、毎回だ。去年の十一月から、私の書類が返ってくるたびに、必ず白紙の付箋が一枚貼られている。最初は「ここに注意」の目印かと思って、裏表をひっくり返して探した。何もない。ただ、指でなぞると、紙の表面がわずかにざらついている。安い付箋なのだろう、と思っていた。

「また冷蔵庫に詰められてたね」

 昼休み、同期の結衣が社食のうどんをすすりながら言った。

「詰められてた、じゃなくて、真っ赤にされてた」

「一緒でしょ。でもさ、前から思ってたんだけど、課長って、他の人の書類には赤を入れないんだよ。営業の山下さんなんか、『やり直せ』って一言で返されて終わり」

「それは、山下さんの書類には、赤を入れる価値もないってことでしょ」

「じゃなくて、あんたの書類にだけ、毎回、赤ペンの蓋を開けてるってこと」

「それ、嫌われてるってことじゃない?」

「うーん」

 結衣は箸を止めて、少し考えるふりをした。

「まあ、そうとも言う」

 言うのか。

 結衣はうどんを平らげると、「あ、課長に用事があるんだった」と言って、先に席を立った。総務の結衣が、営業企画課の課長に何の用があるのか。そのときの私は、深く考えなかった。

 午後。直した表を持って課長の席に向かう途中で、急に足が動かなくなって、そのままトイレに入った。

 個室で、声を殺して泣いた。

 赤字が悔しいんじゃない。いや、悔しい。でもそれ以上に、あの赤字が、毎回、腹が立つほど正しいのが悔しい。三桁ずれた原因は、前の月の数字を貼り付けたまま、桁を直し忘れたことだった。課長の指摘は、一字一句、図星だった。

 三分で顔を直して、席に戻った。

 机の上に、缶コーヒーが一本、置いてあった。

 微糖。私がいつも買う銘柄だ。

 顔を上げると、課長はパソコンの画面を見たまま、キーボードを叩いていた。

「……課長」

「ミスは誰でもする。次は確認しろ」

 こっちを見ないで、それだけ。

 優しいのか、嫌味なのか、もうわからない。

 夕方、直し終えた表を出し直すと、今度は赤字なしで戻ってきた。右上に、いつもの白紙の付箋が一枚。

 その夜、私は家で「反省ノート」を開いた。

 去年の十一月から、赤を入れられた書類のコピーを、ノートに貼っている。赤字の下に、自分で「なぜ間違えたか」を書く。付箋は、白紙のまま、ページの端に貼り付ける。捨てられないのだ。貧乏性だから。

 ノートは、もう三冊目になっていた。

 一度だけ、赤字がゼロで返ってきた日がある。二月の、私が熱を出していた日だ。あれが、いちばん怖かった。ついに見放されたのだと思って、帰り道で泣いた。

 あの人の赤は、全部、正しい。腹が立つほど正しいから、消せないでいる。

 スマホが震えた。結衣だった。

『明日の婚活、お願い! 友達がドタキャンして、二人一組の申込だから、あんたが来ないと私の三千円が無駄になる』

 彼氏がいなくなって、二年。婚活なんて、と思いながら、返信した。

『一回だけだよ』

   ◇

 翌日の土曜、午後七時。都心のホテルの宴会場。

 受付で渡された名札には、ひらがなで「こはる」とだけ書いてあった。苗字と勤め先は伏せるのがルールらしい。名前、年齢、趣味、好きな食べ物を書くプロフィールカードを机の上に置いて、男性は席に固定、女性が五分ごとに隣の席へ移っていく、回転方式。男女十二人ずつ。

 結衣は一番の席に座るなり、いきなり笑い声を上げていた。相手は肩幅の広い男性で、プロテインの銘柄を熱く語っている。

 私の最初の席は、衝立の向こうの端、十二番だった。

 そこに座っていた男は、首元まできっちりボタンを留めたシャツで、背筋をまっすぐ伸ばして、自分のプロフィールカードを睨んでいた。眉間に皺を寄せて、校正をする人の目で。

 名札。「れん」。

 私は、立ったまま、固まった。

 向こうも顔を上げて、固まった。眼鏡の奥の目が、ゆっくり、見開かれていく。

 世界でいちばん会いたくない人との、世界でいちばん見られたくない場所での、完璧な再会だった。

「……帰る」

 先に動いたのは、課長だった。

「わ、私も」

「お待ちください、お二人とも」

 司会の女性が、すっと間に入った。

「途中退席の場合、参加費はお返しできません。それに、本日の男性のご参加は、うちの社長がとてもお世話になっている方からの、大切なご紹介でして」

「……部長か」

 課長が、低くつぶやいた。

 あとで聞いた話では、部長の学生時代の後輩が、この婚活会社の社長で、男性の人数が足りないからと、課長は何週間も頼まれ続けていたらしい。

 結局、私たちは座った。座るしかなかった。

 五分のタイマーが、卓上でカチ、と鳴った。

 しばらく、どちらも喋らなかった。隣の席から、「いやあ、僕のスクワットはですね」という声が聞こえる。

 先に口を開いたのは、課長だった。

「……初めまして」

「え」

「初対面だ。ここでは」

 眼鏡のブリッジを押し上げる指が、ほんの少し、震えていた。

「お互い、会社の人間とは顔を合わせていないことにしたほうが、合理的だ」

 合理的。

 この人は、気まずい状況すら、業務改善で乗り切ろうとしている。

 笑いが、ひとつ、こぼれてしまった。

「はい。じゃあ、初めまして。こはるです」

「……れんだ」

「れんさんは、お仕事、何を」

「文具メーカーで、課長を」

「奇遇ですね。私も文具メーカーで、事務を」

「そうか」

「そうです」

 会話が、五秒で終わった。

 お互いのカードを、交換して読む。

 課長のカードは、こうだった。

 名前:れん 年齢:三十三 趣味:資料の推敲 特技:誤字の発見 好きな食べ物:(空欄)

「……空欄ですね」

「考えたことがなかった」

「三十三年間、一度も?」

「食事は、栄養が摂れればいい」

 私は少し困って、自分のカードを指さした。

「私のは、甘い卵焼きです。あと、趣味は暗号あそび」

「暗号」

「子どものころ、祖父と、メモ帳の遊びをしてたんです。上の紙に書くと、下の紙に跡が残るでしょう。それを鉛筆の腹でこすると、さっき書いてあった文字が、白く浮いてくるんです」

 課長の手が、止まった。

「……鉛筆で」

「はい。祖父は、私にだけ読めるように、よくいたずらのメッセージを残してくれて」

 課長の顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。

 気のせいかと思った。でも、眼鏡の奥の目が、完全に泳いでいる。

(どうして、そんなに動揺するの)

 何かが、かちりと鳴った気がした。その音の正体は、まだわからなかった。

 話題を変えようと、私は聞いた。

「れんさんは、部下の方とは、うまくいってますか」

 口にしてから、後悔した。いちばん聞いてはいけないことだ。

 けれど課長は、少しの間のあとで、ぽつりと言った。

「……毎日、泣かせている部下がいる」

 息が、止まった。

「泣かせている自覚は、あるんですね」

「ある。昨日も、トイレに入っていくのを見た」

 見られていたのか。

「それでも、直さないんですか。その、赤の入れ方」

 課長は答えなかった。タイマーの残りは、あと二分。

 私は勇気を出して、続けた。

「その部下さんは、きっと、嫌われてると思ってます」

「……そうか」

「でも、嫌いではないんだと思います。ただ、怖いだけで。赤だけだと心が折れるので、ひとことでも添えてあれば」

「付箋は、貼っている」

 言ってから、課長は、はっとした顔をした。

「それは、白紙のですよね」

「…………そうだ。白紙だ」

 喉が、ごくりと動いた。

「悪かった」

 何が悪かったのか、私にはわからなかった。ただ、その声が、あまりに小さくて、あまりに真剣で、笑えなかった。

「赤を入れるのはな」

 課長は、卓の上のカードを見つめたまま言った。

「直ると信じている相手にだけだ。直らないやつには、入れない。入れるだけ、時間の無駄だ」

「……」

「その部下の書類は、直すと、次は必ず、直っている。だから、また入れる。……入れすぎたかもしれない」

 タイマーが鳴った。

 隣の席の「スクワット」の人が、こっちを見ていた。

 私は立ち上がった。足がふわふわして、うまく立てなかった。

「ありがとうございました、れんさん」

「ああ。……こはるさん」

 初めて、名前を呼ばれた。

 苗字ではなく。

 それだけで、顔が熱くなった。

 そのあとの席のことは、よく覚えていない。

 十一番の男性は、スクワットの話を五分間、一度も息継ぎなしで話した。十番の男性は、元カノの話を五分間、同じく一度も息継ぎなしで話した。九番の男性は、自己紹介で「僕は結婚相談所の『マイスター』です」と言ったので、何のマイスターなのかを聞いたら、「結婚相談所の、マイスターです」と同じことを言った。八番の男性は、とても優しい人だった。優しかったのに、私は、ずっと十二番のほうを気にしていた。

 最後の自由時間、課長は壁際の柱に寄りかかって、紙コップのお茶を、お手本のようにまっすぐ持っていた。誰にも話しかけられていなかった。話しかけにくいのだろう。会社と、同じだ。

 私は、彼のほうへは行かなかった。

 行ける、わけがなかった。

   ◇

 会場を出ると、十一月の夜風が、ホテルのロータリーを吹き抜けていた。

「結衣は、プロテインの人と連絡先を交換したって。私は先に帰るね」

 そう言ってスマホをしまった瞬間、後ろから、足音がした。

 一定の速さの足音。

「水野」

 もう、「こはる」ではなかった。

 振り返ると、課長が、一メートルの距離で止まった。街灯の下で、眼鏡が白く光っている。

「……課長」

「聞きたいことがある」

「は、はい」

「お前は、付箋を、捨てる人間か」

 何を聞かれたのか、わからなかった。

「いえ、捨てられません。全部、反省ノートに貼ってあります」

「全部」

「三冊分です」

「…………鉛筆は、使うな」

「え」

「いや、使え。……いや」

「どっちですか」

「どっちでもない。いや、使うな」

 課長は、片手で額を押さえた。

「忘れてくれ。月曜、定時に出る」

 それだけ言うと、彼は回れ右をして、ものすごい速さで夜の中へ歩いていった。走ってはいない。ただ、足音の間隔が、いつもより、明らかに短かった。

 私はロータリーに立ったまま、しばらく動けなかった。

 鉛筆を使うな。

 付箋は、捨てるな、ではなく、使うな、でもなく。

 白紙の付箋。ざらつく表面。メモ帳の跡。鉛筆の腹。

 かちり、と、さっきの音が、もう一度鳴った。

   ◇

 家に着いたのは、十時半だった。

 反省ノートの三冊を、机の上に並べた。ペンケースから、HBの鉛筆を出す。祖父がくれた、削り方まで教わった鉛筆だ。

 一冊目の最初のページ。去年の十一月十二日の日付。コピーの赤字の横に、黄色い付箋が一枚、貼ってある。

 指でなぞる。ざらつきは、やっぱりある。でも今は、凹凸、と呼んだほうが近い。

 鉛筆の芯を寝かせて、付箋の上を、そっと走らせた。

 ざ、ざ、ざ。

 灰色の中から、白い線が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

 男の字だった。細くて、硬くて、几帳面で、少しだけ右に傾いている。何度も見てきた、赤字の筆跡と、同じ字。

『誤字なし。誰に教わったのか。丁寧な仕事だ』

 鉛筆を持つ手が、止まった。

 もう一枚。

『資料の最後の、お疲れさまです、が小さく手書きになっている。誰が読むのかわからない行を、毎回書いてあるのは、お前だけだ』

 もう一枚。

『年末の棚卸し、助かった。ありがとう。礼を言うべきだが、言い方がわからない』

 その次も、その次も。

 私は、時間を忘れて、鉛筆を走らせた。ノート三冊、付箋は全部で百四十七枚。貼ってあった全部に、文字が眠っていた。

『風邪か。顔でわかる。今日は赤を入れない。入れたくない』

 二月。赤字ゼロの日だ。

(見放されたんじゃ、なかったんだ)

 声が出なくなった。

『ご査収の横に、絵文字を我慢した跡がある。笑ってしまった。誰にも見られていないといいが』

『雨の日に、資料が濡れないよう、クリアファイルに入れてある。気が利く人だ』

『俺は、他の誰の書類も、最後まで読めない。お前のだけ、最後まで読んでしまう。なぜだ』

 最後の一冊の、最後のページ。昨日の日付。三桁を直した表が、夕方に戻ってきたときの付箋。

 芯の先を滑らせた。

『言い過ぎた。すまない。泣かせた。

 微糖で合っているか。去年、自販機の前で迷っているのを見た。

 好きだ。書けるわけがない』

 鉛筆が、ノートの上に、ことりと落ちた。

 私は両手で顔を覆った。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。多分、両方だった。

 書いては、捨てて。

 上司が部下に宛てていい言葉じゃない、と、この人はずっと思っていたのだろう。

 最初に書いた一枚は丸めて捨てて、下の一枚に残った筆圧の跡だけを、貼って、渡して。

 読まれないことを、わかっていて。

 それでも、貼らずに渡すことは、できなかった人。

 窓の外が、白くなりかけていた。

   ◇

 月曜日、午前九時三十分。

 私の机の上には、出荷予定表が一枚。赤字を入れられる前の、まっさらな、私の最高傑作。三回確認した。桁も、日付も、お疲れさまですの手書きも、全部。

 その右上に、黄色い付箋を、一枚だけ貼った。

 何も、書いていない。

 書いたのは、昨日の夜だ。一枚目に書いて、丸めて、ゴミ箱の底に入れた。二枚目に残った跡だけを、貼ってある。

「水野」

 課長が、立っていた。

 私は、書類を差し出した。

「確認、お願いします」

「……ああ」

 課長は、表を受け取った。上から下まで、視線が走る。赤ペンを持つ右手が、持ち上がって、止まって、また持ち上がって、また止まった。

 赤字の、ゼロ。

 彼の目が、右上の付箋に止まった。

 白紙の付箋。

 課長は、ゆっくり顔を上げた。私と目が合った。私は、頷いた。

 課長は、自分の席に戻ると、引き出しを開けて、閉めて、別の引き出しを開けて、閉めて、それからフロア中に聞こえる声で言った。

「誰か、鉛筆を貸してくれ」

 フロアが、静まり返った。

「……鉛筆、ですか」

 近くの席の山下さんが、おずおずとHBを差し出した。課長は無言で受け取ると、席に座って、付箋を机の上に置いた。

 鉛筆の芯を寝かせて、走らせる。

 ざ、ざ、ざ。

 フロア全員が、固唾を呑んで、課長の背中を見ていた。「課長が付箋を鉛筆で塗りつぶしている」という声が、遠くでひそひそ聞こえた。結衣が、口を開けたまま固まっている。

 白く浮かんだのは、私の字だった。

『はじめまして。水野小春、二十七歳です。

 あなたの赤字が、ずっと好きでした。

 今夜、初対面からやり直させてください。』

 課長は、読み終えても、動かなかった。

 背中が、少しだけ、震えて見えた。耳が、真っ赤になっている。私は怖くて、顔を上げられなかった。

 足音。

 一定の速さではない、ばらばらの足音が、私の机の前で止まった。

 見上げると、課長が、立っていた。右手に赤ペン。左手に、さっきの付箋。

 彼は何も言わずに、付箋の表側に、赤ペンで、さらさらと何かを書いた。

 それを、私のモニターの縁に、ぺたりと貼った。

「十九時だ。遅れるな」

 それだけ言って、彼は自分の席に戻っていった。足音が、いつもよりずっと速かった。

 付箋を見た。

 赤い字だった。細くて、硬くて、几帳面で、少しだけ右に傾いている。

『「好きでした」は過去形。「好きです」に直せ。

 ――俺もだ。十九時、定時で上がる。卵焼きの店は、押さえてある。』

 私は、口を押さえた。肩が、勝手に震えた。

 去年の十一月から、はじめて、字の書いてある付箋だった。

 赤は、直ると信じている相手にだけ入れるのだと、あの人は言った。

 私は付箋を、そっとモニターから剥がして、新しい手帳の、いちばん最初のページに貼った。

 反省ノートじゃない。まだ何も書いていない、まっさらな一冊の、一ページ目に。

 それから、新しい付箋を一枚はがして、ボールペンで、はっきりと書いた。

『好きです』

 丸めない。裏に跡が残ったって、もういい。

   ◇

 十九時二分。課長は、二分遅れてきた。遅れるなと言った本人が。

「すまない。定時で上がろうとしたら、フロア中に見られた」

 駅裏の小さな居酒屋の個室。卵焼きが名物の店だと、メニューの一番上に書いてある。

「この店、いつ探したんですか」

「日曜の夜に、三軒、食べ比べた」

「栄養が摂れればいいって言ってた人が」

「……言うな」

 課長は、おしぼりを、きっちり四つ折りにした。

「やり直すんだったな。初対面から」

「はい」

「初めまして。氷室蓮、三十三歳。営業企画課長。趣味は資料の推敲。好きな食べ物は」

 そこで、卵焼きが来た。

 黄色い、ふっくらした、甘い匂いのする卵焼き。課長は、慎重に箸を入れて、一切れを口に運んだ。

 しばらく、噛んでいた。

 眼鏡の奥の目が、少しだけ、見開かれた。

「…………甘い」

「甘いですよ。甘いやつです」

「うまいな、これは」

「好きな食べ物、決まりましたか」

「ああ。……たった今、決まった」

 そして、彼は、笑った。

 口の端が、ほんの少し上がるだけの、不器用な笑い方だった。けれど、笑った顔を見た人間はいない、という社内の定説は、その瞬間、私の目の前で、あっさりと更新された。

「ところで」

 課長は、おしぼりを持ったまま言った。

「あの婚活は、部長に頼まれたからだと言ったが、半分は嘘だ」

「え」

「部長の話は、先週まで断っていた。金曜の昼に、同期だという女が来た」

「……結衣?」

「『水野さんが明日、婚活に行きます。課長の赤ペンは、あの子を泣かせるだけですか』と言われた」

 私は、卓に突っ伏しそうになった。

「それで、行くことにした。同じ会場にいて、お前が他の誰かと話すのを、遠くから見てくるつもりだった。見てどうするのか、自分でもわからなかったが」

 課長は、気まずそうに目を逸らした。

「正面の席に座ることになるとは、思わなかった」

 そのとき、スマホが震えた。

『三千円、無駄にならなかったでしょ』

 結衣だった。ドタキャンした友達なんて、最初から、いなかったのだ。

「なぜ、白紙のまま貼り続けたんですか」

 気を取り直して、私は聞いた。

「……貼らないと、渡した気がしなかった」

「百四十七枚、ありました」

「数えたのか」

「土曜の夜に、全部、一枚ずつ、鉛筆で浮かせました」

 課長は、耳まで赤くして、おしぼりで顔を覆った。

「……褒めるのが、下手なんだ」

 くぐもった声だった。

「赤を入れるのが、いちばんちゃんと見ている証拠だと思っていた。それ以外の見方を、知らなかった」

「水野。いや、こはるさん」

「はい」

「付箋を、見せてくれ」

 私は、手帳から二枚の付箋を剥がして、渡した。赤い字のと、ボールペンのと。

 課長は、「好きです」の一枚を、長いこと見つめていた。それから、胸ポケットから赤ペンを取り出して、キャップを外した。

「何を、」

 きれいな、二重丸を、ひとつ。

「合格だ」

 その声は、もう、冷蔵庫のものではなかった。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


白紙の付箋の下に、一年分の言葉が眠っていた話でした。

赤ペンしか持っていない不器用な課長を、少しでも好きになっていただけたらうれしいです。


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