爪を立てる黒
カリカリ⋯⋯。
「⋯⋯⋯⋯。」
まただ。
ジメジメと張り付く蒸し暑さに目を覚ますと、真っ暗な部屋の中で何かを引っ掻くような音がしているのに気が付く。
佐久間英二は苛立ちながら頭からタオルケットを被り、両手で耳をふさいだ。
音の出どころはわかっている。あの黒くて長い指が、すりガラスの窓を引っ掻いているのだろう。
大学進学を機に引っ越したこのアパートは、家賃は安いがエアコンが無い。初夏の熱が布団の中に溜まり汗が吹き出るが、頭の内側を掻かれるようなあの音を防いでくれるだけマシだ。
「いい加減にしてくれよ⋯⋯!」
思わずそう吐き捨てた。
「ふわ⋯⋯⋯ぁ⋯⋯。」
「おぉ~、相変わらず眠そうだね〜?」
次の日、バイト先の喫茶店であくびをしていると、声をかけられる。
振り返ると小柄な茶髪のショートカットの女性―都筑美緒が立っていた。
「都筑先輩⋯⋯。」
「佐久間君また寝不足?⋯⋯もしかして、また例の音?」
都筑は佐久間に近づくと心配そうに見上げる。
「えぇ、まぁ⋯⋯。」
「早く引っ越しなよ?このまま事故物件に住み続けるなんて、何があるかわかんないしさ。」
「事故物件じゃないらしいですよ。大家さんは事件や事故なんて起きたこと無いって言ってました。」
先日、大家から言われたことを思い出す。その表情から嘘は感じ取れなかった。
「僕もネットとか色々調べましたけど、何も出てきませんでしたし。」
「じゃあ、このままそこに住むつもりなの?⋯⋯っていうかそれ、佐久間君が憑りつかれてるんじゃ⋯⋯。」
「だから今、引っ越し資金を貯めようとバイトしてるんじゃないですか。あと、そういう怖いこと言わないでください。」
そう言って、手に持っていた箒で店の床を掃く。普段の掃除の成果か、ホコリはほとんど無い。
「ほんとにお金を貯めたいなら、こんな人のほとんど来ないとこよりもっといいとこがあると思うけどなぁ⋯⋯。」
「聞こてるよ都筑君。」
「ひぇっ、マ、マスター!」
声のした方を見ると、口髭を蓄えた初老の男が穏やかな顔で立っている。この喫茶店の店主―マスターだ。
「いやぁ、ほら、ここって静かでふいんきはいいんですけど、お金を貯めるって目的があるならもっと時給のいいとこがいいじゃないですかぁ⋯⋯。」
「君の中でそれはフォローなのかい?⋯⋯まぁ、言っていることは正しいけどね?」
マスターは困ったように佐久間を見る。
「都筑君の言うとおりなんだけど、君達がいなくなると困るんだよ。だから僕としては続けてほしいな。僕にできることは何でもするからさ。」
「別に辞めませんよ。俺、この店が好きですし。」
そう言うと、マスターは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。それじゃあ気を取り直して、いつものを頼むよ。」
そう言ってメニュー表を渡してくる。佐久間は頷いてそれを受け取り、店の外に立てかけてある黒板の前にしゃがみこんだ。
チョークで『今日のおすすめメニュー』と書き、メニュー表の中から目についたもののイラストを描いていく。
絵を描くのは好きだ。風景を切り取るのも、頭の中のイメージを形にするのも、自分だけの世界に没頭できるから。
こうしていると、初夏の暑さも感じない。
まるで、世界に自分だけのようで――。
「とっても素敵ね。」
「え⋯⋯?」
静かな、しかしはっきり聞こえた声に顔を上げると、見知らぬ女性と目が合った。
黒い髪を後ろでまとめ日傘を差した女性は、佐久間の描いていたチョークアートに目を落として口を開く。
「今日のおすすめ?」
「⋯⋯⋯⋯あっ、はい!」
思わず見惚れていた。その瞳が怪訝に揺れたところで我に返り頷く。
「まだ準備中ですから、昼頃にお越しください。」
「そう。今日は予定があるから、また次の機会に来ようかしら。」
「は、はい!いつでもお越しください!」
女性は微笑み、白いロングスカートを揺らして去っていく。
「綺麗な人だったなぁ⋯⋯。」
「⋯⋯やめたほうがいいよ。」
「うわ!いたんですかっ!?」
ぼんやりと見送っていると、店の中から都筑が出てきた。
「夜神茉莉さん。知らない?うちの大学では結構有名だよ?」
「あぁ⋯⋯。」
その名前は聞いたことがある。男を取っ替え引っ替えしては一度寝たら捨てるを繰り返す美人な先輩。
「あの人が⋯⋯。」
確かに美人だった。
「でも、そんな人には見えませんでしたよ?なんだか清楚って感じで⋯⋯。」
「男の子ってほんとああいう子好きだよね〜。⋯⋯裏で何してるかなんてわかんないでしょ?火のないところに煙は立たないって言うし。」
「それはまぁ、そうですけど⋯⋯。」
たしかに佐久間は夜神のことを何も知らない。噂の真偽など確かめようもなかった。
「とにかく、夜神さんにはあんま関わらないほうがいいよ。」
そう言って都筑は店の中に引っ込んでいく。佐久間はもう一度、夜神の歩いていった方を見た。その姿はもう見えない。
「⋯⋯⋯⋯。」
夜神は店に来てくれるだろうか。そんなことを考えながら、佐久間も店に入って行った。
コンビニの袋を提げながら夜道を歩く。
美人な先輩に絵を褒められて舞い上がってしまい、バイトが終わってからもスケッチブックと向き合っていたら遅くなってしまった。早く食事を取って寝てしまわなければ、またあの音に悩まされることになる。
気持ち早足で歩いていると、曲がり角の向こうから男の怒号が聞こえてきた。
「ザケんじゃねぇぞ!」
恐る恐る覗き込んでみると、浅黒い筋肉質の男が女性を怒鳴りつけている。男の後ろにはガラの悪そうな男達が三人ほどいて、同じように女性を睨みつけていた。
女性は佐久間に対して背中を向けており顔は見えないが、その服装には見覚えがあった。
「ふざけてないわ。もうあなたに用はないの。消えてくれる?」
女性はこの場にそぐわない涼やかな声で答える。そんな態度に余計腹が立ったのか、男が腕を振り上げた。
「茉莉てめぇ⋯⋯調子こいてんじゃねぇ!」
「っ――!」
思わず手に持っていた袋を投げた。
「うおっ――!」
そのまま女性―夜神の腕を掴んで走り出す。
「待てやっ!!」
男たちの怒号を背中に聞きながら走る。
途中で郵便ポストの裏に隠れた。街灯の少なさが幸いしたようで、男達は佐久間達に気付くこと無く走っていく。
「ふふっ、あはははは!」
「あ、あんまり大きな声出さないでください。見つかったらどうするんですか!」
しばらく隠れていると、突如夜神が笑い出した。男達がいつ戻ってくるかヒヤヒヤしながら夜神を窘める。
「ふふふふ⋯⋯ごめんなさい、なんだかおかしくて⋯⋯。案外見つからないものね。」
クスクスと笑う夜神を見ながら、確かにと思った。男達の走っていった方を見て人影が無いことを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
「誰かと思ったら、朝の店員さんね?助けてくれてありがとう。」
「えっと、佐久間英二って言います。一応同じ大学の一年です。」
自己紹介すると、夜神は目を丸くした。
「そうなの?私は夜神茉莉、二年よ。よろしくね?」
佐久間は言葉をつまらせる。まさか悪い噂で知っています、などとは言えない。
「⋯⋯よろしくお願いします。それで、あの人達って⋯⋯?」
「前にちょっと、ね。それより、助けてくれたついでにもう一つ助けてくれないかしら?」
夜神は追及をはぐらかしながら手を合わせる。
「一晩でいいから泊めてほしいの。お願いできない?」
「えっ、あっ、えっと――。」
「お風呂まで炊いてくれてありがとう。さっぱりしたわ。」
「あっ、いえ⋯⋯」
髪を拭く夜神に返事をしながら、目を逸らす。
「おまけに服まで貸してもらっちゃって⋯⋯なんで正座してるの?」
「いや、これは⋯⋯。」
言い訳しようと夜神の方を見た。貸したTシャツは夜神には大きく、ゆるゆるの首元から鎖骨が見えている。湯上がりで上気した頬は赤く染まり、潤んだ瞳と視線が交わった。
「あの、えっと⋯⋯。」
「ほら、佐久間君もお風呂どうぞ?」
「は、はいっ!」
不思議そうな顔をしている夜神の横を通り抜け、浴室に入る。
体を洗って湯船に浸かると、先程まで夜神が入っていたことに気付き悶々としてくる。
追われていたからとはいえ、男遊びが激しいと噂の先輩、風呂上がり、二人きり、お泊り。様々な事実が頭の中でぐるぐると回っていた。
(これはもしかして、もしかするのか⋯⋯?)
ほのかな期待が体の一点に集まっていく。覚悟を決めて浴室を出た。
部屋では微かに夜神の話し声が聞こえる。電話でもしているのだろうか。
「おまたせしま――」
努めて冷静を装おうとしたが、言葉は最後まで出なかった。夜神が窓を開けていたからだ。
夜中になるといつも音がする、あの窓を――。
「おかえり、佐久間君。早いわね?」
夜神が声をかけてくるが、耳に入ってこない。窓の向こうは表通りの景色が見えるはずなのだが、何故か何も見えない。真っ暗な闇が広がるだけだ。
いや、闇の中に一点だけ光がある。真っ赤に光るそれはたしかにこちらを見つめていた。ギラリとして、瞳孔の開いた――。
「っ――!」
急いで窓に近づいて閉める。乱暴に閉めたことに驚いたのか、夜神は目を丸くして佐久間を見上げていた。
「締め切ってると熱がこもっちゃうから開けたんだけど、ダメだった?」
「いえ、その⋯⋯⋯⋯。」
反応を見るに、夜神はアレが見えていないようだ。なんと説明するべきか迷うが、何も思い浮かばずありのまま話すことにする。
「この部屋、夜になると変な音がするんです。⋯⋯この窓から。」
夜神は窓と佐久間の顔を見比べて首を傾げた。
「⋯⋯そうなの。じゃあ、開けられないわね。」
が、やがて納得してくれたようで窓から離れていく。
「⋯⋯佐久間君、絵を描くの好きなの?」
「えぇ、まぁ⋯⋯。」
キョロキョロと部屋を見回していた夜神は、机の上に置いてあるスケッチブックに目を留めた。
「見てもいいかしら?」
「ど、どうぞ。」
夜神は一枚ずつゆっくりとスケッチブックをめくっていく。その手はやがて一枚の絵で止まった。
「⋯⋯人物画も描いているのね。」
それは高校の頃に描いた友人達の絵だった。
「一人の世界に没頭するのが好きなんです。だからジャンルにはこだわりとか無くて。」
「ふぅん⋯⋯。」
夜神はじっと絵を見つめている。
「⋯⋯ねぇ佐久間君。私も描いてもらうことはできる?」
「え⋯⋯?」
カリカリ⋯⋯。
佐久間が声を上げると同時に窓の外から音がした。
「⋯⋯たしかにこの中で寝るのは大変そうね。どう?」
「⋯⋯わかりました。」
夜神を椅子に座らせ、キャンバスを用意する。
「わっ、本格的ね?てっきりスケッチブックで描くのかと思ったわ。」
「まぁ、はい⋯⋯。」
あなたの美しさはスケッチブックになんて収まりませんよ。⋯⋯などと言えればよかったのだが、佐久間にそんな度胸はなかった。
綺麗な姿勢で椅子に座る夜神を見ながら、頭の中で描いた構図を落とし込むためにキャンバスに当たりをつけていく。
「⋯⋯えっと、一人の世界に入ってるところ悪いけれど、話をしてもいいかしら?」
しばらくして、夜神が話しかけてきた。
「あっ、大丈夫ですよ。どうぞ⋯⋯。」
佐久間が促すと、夜神はそれじゃあと頷く。
「さっきはどうして助けてくれたの?」
「困ってたみたいなので⋯⋯。」
「もしかしたら、あなたも危ない目に合っていたかもしれないのに?」
「あぁ〜⋯⋯そこまで考えてなかったです。あの時は必死で⋯⋯。」
「⋯⋯⋯⋯私の噂、知ってるわよね?」
思わず手が止まる。顔を上げると、キャンバスの向こうで夜神が真剣な顔をしていた。
「男にだらしない女が、昔の男達から報復を受けていた。普通関わりたくないと思うものじゃない?」
「⋯⋯⋯⋯あの噂、本当なんですか?」
「本当よ。あの人達は、私が前に一夜を共にした人達。」
「そう、ですか⋯⋯。」
再び手を動かす。こんな美人が、と微妙な気分になる。
「先輩達の事情はわかりませんけど、暴力は違うと思うんです。あれは言葉を持った人間のやることじゃありませんよ。」
「⋯⋯⋯⋯ふふっ、そうね。」
何がおかしかったのか、夜神が笑う。張り詰めていた空気が弛緩していった。
「佐久間君って優しいのね。そんな感じだと苦労しそう。」
「なんですか、それ?」
「さぁ?ふふっ⋯⋯。」
気が付くと、窓の外の音は気にならなくなっていた。
「できました。けど⋯⋯。」
夜明け前に絵は完成した。しかし、何か物足りないと感じてしまう。
「私はいいと思うけれど⋯⋯。」
「うぅん⋯⋯。でもなんか⋯⋯。」
言葉にならない違和感に首を傾げていると、夜神が口を開く。
「じゃあ、犬を追加してくれないかしら。」
「犬ですか?」
「えぇ、昔飼ってたの⋯⋯。」
そう言って夜神は窓に視線を向け、遠い目をする。朝も近づき、すでに例の音はしなくなっていた。
「黒くて大きい子でね。クロって名前なの。単純でしょう?でも、大切な家族よ。」
「⋯⋯写真か何かありますか?どんな犬かわからないと描けないです。」
「あぁ、そうね。⋯⋯ごめんなさい、写真は無いの。私が小学校を卒業する前に死んじゃったから⋯⋯。」
目に見えて肩を落とす夜神。⋯⋯なんとかしてあげたいという気持ちが込み上げてくる。
「今度、ペットショップに行ってみますか?どんな犬だったかイメージが掴めれば描けますから。」
「⋯⋯⋯いいの?」
「先輩がモデルなんですから、先輩が満足いくものに仕上げたいんです。」
そう言うと、夜神は嬉しそうに微笑んだ。
「そうね。じゃあ、お願いしようかしら。」
「⋯⋯え、えっとそれじゃあ先輩の連絡先を⋯⋯⋯⋯。」
「ごめんなさい。私、携帯持ってないの。また今度予定を合わせましょう?」
「あ、そうですか⋯⋯⋯⋯。」
「⋯⋯⋯⋯あっつ⋯⋯。」
熱気の中で目を覚ますと、すでに昼前になっていた。
部屋を見回すが、夜神の姿はない。机の上を見ると、1万円札とメモが置かれていた。
『昨日のお詫びとわがままを聞いてくれたお礼です。 夜神』
メモには丸い文字でそう書いてある。佐久間は少し迷ったが、手を合わせてお札を財布にしまった。
服を着替えて部屋を出る。今日のバイトは夕方からだ。まだ少し時間に余裕がある。図書館に行って犬の写真を漁ってみるのもいいかもしれない。
「⋯⋯お、おい⋯⋯⋯。」
そんな事を考えながら廊下を歩いていると、後ろから声をかけられる。振り返ると、猫背の冴えない男が立っていた。
「お前、夜神茉莉と付き合っているのか?」
「⋯⋯⋯⋯違いますけど。」
男の態度に少し腹が立ったが、淡々と事実だけを告げる。それを聞いた男は、ふんと鼻を鳴らした。
「だったら、あいつには近づくな。」
「⋯⋯誰と関わるかは自分で決めます。」
佐久間はそれだけ言うと、アパートを出る。男が背後で何か言っていたが、追いかけてはこなかった。
せっかくの気分が台無しだ。さっさと図書館に行こう。
「いらっしゃ――って佐久間君。」
夕方になったのでバイト先の喫茶店に行くと、都筑が不機嫌そうに近づいてきた。
「お疲れ様です、先輩。」
「ん。それより、佐久間君にお客様だよ。」
そう言って都筑が指さした先では、夜神が手を振っている。
「あんまり関わらないほうがいいって言ったのに⋯⋯。」
「あはは⋯⋯ちょっと色々ありまして。」
不機嫌そうな都筑をあしらい、夜神に近づく。
「いらっしゃいませ、夜神先輩。」
「えぇ。いいお店ね、ここ。」
夜神はカップに口をつけて微笑んだ。
「朝の話の続きをしようと思って来てみたのだけれど、今からバイトなのよね?今日は帰るわ。」
「すみません⋯⋯。」
こんなことなら早く来ればよかったと後悔していると、夜神は首を振った。
「いいのよ、まだ機会はあるのだから。⋯⋯それじゃあバイト、頑張ってね。」
夜神はそう言って帰っていった。
「お昼過ぎに来て、ずっと佐久間君を待ってたんだよ?連絡しようか聞いたんだけど、顔が見たいだけだからいいって。」
夜神を見送った都筑が戻ってきて言った。
「色々注文してくれてね。あっという間に食べちゃうんだ。あんなによく食べる子、初めてだよ。また来てくれるといいなぁ。」
マスターも話に入ってくる。
そんなに長時間待たせてしまったのか。罪悪感が湧いてくる。
「⋯⋯で?佐久間君は昨日の今日でどうして夜神さんと仲良くなってるのかな?」
「だから、色々あったんですって。」
「だからその色々について聞いてるんだけど?」
ジト目で追求してくる都筑を躱しながら、佐久間は店の奥へと引っ込んでいくのであった。
バイトが終わった頃には日も暮れ、佐久間はコンビニの袋を提げて帰路についていた。
だが、なにか違和感がある。視線を感じる気がするのだ。あたりを見回してみても誰もいない。焦燥感に駆られながら足早にアパートまで戻って来た。
「よぉ、ヒーロー。」
「!」
階段を上ろうとしたとき後ろから声をかけられ、背中を蹴飛ばされた。
振り返ると昨日の男達がニヤニヤとした笑みを貼り付けて立っている。
「⋯⋯どうして、ここが⋯⋯⋯⋯!」
佐久間の声に、前にいたリーダーらしき男―浅黒い肌の筋肉質の男が隣にいた男と肩を組んだ。朝に話しかけてきた猫背の男だ。
「こいつは俺のダチなんだけどよぉ。隣の部屋から茉莉が出てきたって言うんだよ。で、詳しく聞いてみりゃあ俺に弁当投げつけたやつが茉莉とよろしくやってるって言うんだぜ?笑えるだろ?」
背中の痛みに耐えながら、男達を睨みつける。それが癇に障ったのか、さらに蹴飛ばされてしまった。
「テメェのせいであいつをヤり損ねただろうが、あぁ!?このままじゃ腹の虫が収まんねぇんだよ!!」
後ろにいた男達も加わり、囲まれて蹴りを入れられる。激しい暴力に意識が朦朧としてくる。
「落とし前付けてもらうぜ。テメェには茉莉をおびき出す餌になってもらう。」
その言葉を最後に聞き、佐久間は意識を手放した。
「⋯⋯⋯⋯何?」
生暖かい風が、夜神の髪を揺らした。
「⋯⋯⋯⋯佐久間君が?」
急いで佐久間の住むアパートに向かう。すると、階段の前に猫背の男が立っていた。
「や、やぁ。待ってたよ。夜神さん。」
「⋯⋯誰、あなた?」
男はヘラヘラとした笑みを浮かべ、夜神に近づく。
「あいつならいないよ。俺の友達と君を待ってるんだ。ここでね⋯⋯。」
そう言って一枚の紙を差し出した。開いてみると、近くの公園までの地図が書かれている。
「お、俺は関わり合いになりたくないから、ここで待ってるよ。恨むなら、自分を恨むんだね。ヒヒヒッ⋯⋯。」
「⋯⋯⋯⋯あなたも、これに関わっているの?」
夜神は男に背を向ける。
「あぁ。俺、あいつの隣に住んでるから。君があいつの部屋から出てきたのを教えたんだ。」
「そう⋯⋯。」
グシャッ!
何かが潰れる音がアパートに響く。
夜神は振り返ること無くその場を後にした。
「待ってたぜぇ、茉莉ぃ。」
微かに聞こえた声に佐久間が顔を上げると、男達と向かい合うように夜神が立っていた。
住宅街の一角にある小さな公園は街灯が多く設置され、夜なのに明るい。そこに浮かび上がった夜神の表情は怒りを堪えているようであった。
「佐久間君は無事?」
「あぁ、ここにいるぜ。」
聞いたこともないほどに冷え切った夜神の声に驚いていると、背中に足が乗せられた。
「お前がこんな冴えないガキに目をかけるとは驚いたぜ。こんな安い挑発に乗るほど気に入ってんのかよ。テクがあるようには見えねぇけどな。」
男達が下品な笑い声を上げる。
「その汚い足をどけなさい。」
「⋯⋯あぁ?」
夜神の静かな声に、リーダーの男は眉を寄せた。
「まずはテメェが土下座すんのが先だろうが!!『一生あなたの奴隷になります』って言えたら許してやるよ。」
リーダーが下卑た笑みを浮かべる。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯嫌よ。あなたの物になるくらいなら、死んだほうがマシ。」
「⋯⋯⋯⋯だったら死ねや。」
「ぐぅっ!」
佐久間に乗せられた足に体重がかかり、思わず声が出た。夜神は一瞬ハッとしたように目を見開いたが、すぐにリーダーを睨みつけ、口を開く。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯もういいわ。食事の時間よ、クロ――。」
そう宣言すると同時に、公園を照らしていた街灯がすべて消えた。
グシャッ!
次に、肉が潰れる音がして佐久間の背中にかかっていた重さが消える。
ガリッ!ゴリッ!ボキャッ!
「佐久間君以外は、みんな食べていいわ。」
佐久間は後ろを見上げた。闇の中でリーダーのものらしき足がブラブラと揺れている。
次の瞬間には足は見えなくなった。闇の中で赤い光が二つ、男達に狙いを定める。
「な、なんだ⋯⋯?ヒッ!?」
誰かが声を上げると、それに反応した何かが手を伸ばす。黒く長い指でつままれた男は宙に浮き上がり悲鳴を上げるが、何かに齧られ物言わぬ肉塊になった。
眼の前の光景に危機感を覚えたのか、残された二人が走り出す。しかし、何かは両手を伸ばして二人を掴むと、そのまま口に押し込んだ。
バリッ!ボリッ!ゴリッ!――!
静寂が戻り、街灯が本来の役目を思い出したかのように灯りだす。しかし、何かは消えない。昨日と同じように赤い瞳で佐久間を見下ろし、顔を近づけてくる。
「だめよ、クロ。」
思わず顔を背けると、夜神が声を上げた。それにビクリと反応した何かは佐久間から離れていく。
ギャアアアアアアァァァァ!!
何かが悲鳴のような咆哮を上げた。
「大丈夫、佐久間君?」
「⋯⋯夜神、先輩。今のは⋯⋯?」
「説明は後よ。立てる?」
夜神が近づいてきて肩を貸してくれる。色々と聞きたいことはある。
しかし、今は――。
「先輩⋯⋯。もう一度、先輩を描かせてください⋯⋯。」
「え⋯⋯?」
「佐久間君、本当に大丈夫なの⋯⋯?」
キャンバスの先で、椅子に座った夜神が心配そうにこちらを見ている。
「⋯⋯大丈夫です。」
本当はすぐにでも意識を手放してしまいそうなほどに疲れ切っていたが、先程の出来事が佐久間の脳裏に強烈に残っていた。昨日描いた絵に足りないものがわかった気がしたのだ。イメージが消えてしまわないようにキャンバスに叩きつける。
「⋯⋯⋯⋯あれがクロ、ですか?」
夜神は公園で、あの影をクロと呼んでいた。かつて飼っていたという犬の名前。
「⋯⋯えぇ。あの子が死んで少し経った頃に、帰ってきたの。」
「⋯⋯先輩とクロは、ずっと一緒だったんですね。」
眠気が意識を鈍らせる。体が限界だと悲鳴を上げている。しかし、手を止めたくない。必死に己を騙す。
「でも、クロはただ死ねなかっただけだった。ずっと叫んでいるの⋯⋯痛い、苦しい、死にたい、殺してって⋯⋯。私は、あの子を救う方法をずっと探してた。」
カリカリ⋯⋯。
夜神が窓に視線を向けると、あの音が鳴り出す。きっと窓の外では、クロがこちらを見ているのだろう。
「佐久間君は、クロが見えるのね?⋯⋯ごめんなさい。あの子が迷惑をかけたみたいで。あなたが気付いてくれたのが、よっぽど嬉しかったみたい。」
「⋯⋯それで、クロを救う方法は、見つかったんですか⋯⋯?」
眼の前がぐにゃりと歪む。意識が朦朧としてきて、これが夢なのか現実なのかも曖昧になっていく。
「えぇ⋯⋯。佐久間君は、転生って信じる?」
途切れそうな意識の中、柔らかい感触と甘い匂いに抱きしめられる。その心地よさに思わず抱きしめ返した。頭上から夜神の声が囁く。
「死ぬことができないなら、死ねる存在になればいい。あなたも手伝ってくれる?」
「⋯⋯⋯⋯俺で⋯⋯よければ⋯⋯⋯⋯。」
もう何も考えられない。自分が何を言っているかもわからない。ついに耐えられなくなり、佐久間は意識を手放した。
「⋯⋯⋯⋯うぅ⋯⋯いたた⋯⋯。」
目を覚ますと、体中の痛みが思い出したように押し寄せてくる。
顔を上げると、開け放たれた窓から生暖かい初夏の風が入り込んできた。
部屋を見回すと、イーゼルにはキャンバスが立てかけてある。痛む体に鞭打って起き上がり近づくと、絵は完成していた。
椅子に座った夜神の上には黒い影が描かれている。獣のような細長い頭、白い鬣、暗い眼窩から赤い瞳を爛々と輝かせ、骨と皮だけの左手で夜神の肩を掴み、右手をこちらに伸ばしている。
「⋯⋯⋯⋯せんぱ――」
振り返るが、部屋には佐久間以外に誰もいない。
「⋯⋯⋯⋯ま、いいか。」
そのうちどこかで会えるだろう。その時に話せばいい。そう考えると、なんだか力が湧いて来た。窓の外の空を見上げ、伸びをする。夏ももうすぐ本番だ。
――その日以来、夜神茉莉は姿を消した⋯⋯。
それから六年の月日が流れ、佐久間英二は保育士の資格を取り地元で就職していた。
「せんせいさよーならー!」
「はい、さようなら。」
あれ以来、キャンバスとは向かい合っていない。あの絵がすべてを吸い取ってしまったかのように、佐久間は絵を描くことができなくなってしまった。
「さようなら。⋯⋯さようなら。」
夜神とも会えていない。佐久間が目を覚ました頃には大学を辞め、連絡する手段もなかった。
「⋯⋯⋯⋯ふぅ。」
子ども達の見送りを終え、息を吐く。子ども達は帰ったが、まだまだ仕事は山積みだ。
顔を上げると、突き当りの丁字路が目に入る。ぼうっと眺めていると、一人の少女が現れた。
小学校低学年くらいだろうか。真っ黒な髪に病的なまでに白い肌。遠くにいるはずなのに、赤茶色の瞳がはっきりとこちらを見ているのがわかる。
言いようのない不安感が押し寄せ少女から目を離せずにいると、少女がニィッと笑いゆっくりとこちらを指さす。そしてクイックイッと指を曲げた。
⋯⋯まるで、何かを引っ掻くように。
「っ――!」
このまま見ていてもいいのだろうか。そう思いつつも動くことができない。
しばらくそうしていると、少女の来た曲がり角から日傘を差した女性が現れた。日傘で顔は見えないが少女の頭を撫でて何やら話した後、少女と手を繋いで歩き出す。
「待っ――!」
「佐久間先生?」
思わず追いかけようとしたが、後ろから声をかけられた。振り返ると同僚が不思議そうな顔で立っている。
「何かありましたか?」
「あっ、いや⋯⋯⋯⋯。」
もう一度振り返ると、親子はいなくなっていた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。」
「もぉ~。ぼうっとしてないでこっち手伝ってくださいよ〜。」
「⋯⋯はい、今行きます。」
佐久間は園内に入っていく。もう、振り返ることはなかった。
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