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その音はまだ止まない

作者: 青狐
掲載日:2026/04/19

それは、あまりに軽い音だった。

 乾いた土産袋の中から出てきたその笛は、観光地の量産品にしては妙に古びていて、触れた瞬間、指先にざらついた冷たさが残った。ドイツに行ってきたと笑っていた友人は、これが一番“らしい”と思って買ってきたと言ったが、どこか冗談めかした調子の裏で、ほんのわずかに視線を逸らしていたのを、彼は覚えている。

 笛は細く、黒ずんだ木でできていた。飾り気はないが、よく見ると表面に細かな刻印が走っている。意味のある文字なのか、ただの傷なのかも判別できない。吹いてみろよ、と言われたが、そのときは何となく気が進まず、ポケットに押し込んだまま帰宅した。

 夜、静まり返った部屋で、ふと思い出したように取り出した。時計は二時を回っていた。眠気はなかった。いや、正確には、眠る気がしなかった。理由はない。ただ、あの笛のことが、妙に気になっていた。

 口を当てた瞬間、冷たさが歯に伝わる。息を吹き込む。かすれた音が出ると思っていた。だが実際に鳴ったのは、驚くほど澄んだ、しかしどこか奥に濁りを含んだ音だった。

 その音を聞いたとき、彼は自分の部屋がほんのわずかに歪んだように感じた。

 気のせいだと笑い飛ばすには、あまりに明確だった。机の角度、壁の影、カーテンの揺れ、すべてがわずかにズレている。だがそれは不快ではなく、むしろ心地よかった。現実の輪郭が緩むことで、何かから解放されたような感覚があった。

 もう一度吹いた。

 今度は、外で何かが動いた気配がした。

 窓の外を覗く。街灯の下に、猫が一匹、じっとこちらを見ていた。次の瞬間、もう一匹、さらにもう一匹と、暗がりから現れる。気づけば、十数匹の猫が、無言で彼の部屋を見上げていた。

 ぞっとするよりも先に、奇妙な確信が胸に落ちた。

 呼んだのだ、と。

 それから、彼は毎晩笛を吹いた。

 最初は猫や鳥だった。やがて犬が来るようになり、その数は増えていった。近所で騒ぎになったが、原因は分からないままだった。彼はカーテンを閉め、音を小さくし、誰にも気づかれないように続けた。

 ある日、ふと考えた。

 これは、どこまで届くのだろう。

 試すことにした。

 昼間、人通りの多い場所で、あえて吹いた。ほんの一瞬だけ、短く。

 最初は何も起こらなかった。だが数秒後、立ち止まる人が現れた。視線が彷徨い、やがて一人、また一人と、彼の方へ歩き出す。声をかけられても応じず、ただ音の余韻を追うように。

 怖くなって、彼はその場を離れた。

 だが、胸の奥で何かが熱を帯びていた。恐怖と同じくらい、いや、それ以上に強い、抑えきれない高揚だった。

 数日後、彼はもう迷わなかった。

 笛を吹けば、人が集まる。命令しなくても、彼らは従う。最初はただ歩かせるだけだったが、やがて簡単な指示を与えるようになった。立ち止まれ、振り向け、手を挙げろ。彼らは一切の疑問を持たず、それを実行した。

 ニュースが騒ぎ始めた。原因不明の集団行動、意識障害、失踪。だが彼はテレビを消した。関係のない話のように感じた。いや、正確には、自分のことだと認識しながら、それを他人事として扱うことに慣れていった。

 ある夜、友人から電話があった。あの笛、大丈夫か、と。

 何が、と聞き返すと、少しの沈黙のあとで、低い声が返ってきた。

 あれは、持っていかれたものだ。見つけてしまったんだ、あの町で。

 意味が分からなかった。だが、そのとき、無性に腹が立った。何かを隠している口調が気に障った。

 だから、電話口で笛を吹いた。

 短く、しかしはっきりと。

 通話の向こうで、息を呑む音がした。そのまま、何も言わなくなった。やがて、通話は切れた。

 それきり、彼とは連絡が取れなくなった。

 その頃から、夢を見るようになった。

 石畳の道、湿った空気、遠くで響く鐘の音。細い路地を、無数の影が歩いていく。大人も子どもも、皆同じ方向へ、同じ足取りで。先頭には、誰かがいる。背中しか見えないが、その手には、同じ笛が握られている。

 目が覚めると、必ず口の中に木の味が残っていた。

 彼は理解し始めていた。これは道具ではない。これは、役目だ。

 笛は、持つ者を選ぶのではなく、続かせるのだ。終わらなかった行進を。

 それでも、止める気はなかった。

 むしろ、どこまで行けるのかを知りたかった。

 街を一つ、沈黙させた。交通は止まり、人々はただ歩き続けた。警察も軍も動いたが、意味はなかった。彼らもまた、音に引かれていく。銃を構えたまま、ゆっくりと列に加わる。

 映像が世界に流れた。

 彼は高い場所に立ち、笛を吹いた。風が音を運び、都市を越え、海を越える。見えない糸で繋がれたように、人々が動き出す。

 そのとき、初めて、ほんの一瞬だけ恐怖がよぎった。

 これが、止まらなかったらどうなる。

 だが同時に、どうでもよかった。

 止める理由が、もうどこにも残っていなかった。

 世界は、静かになっていく。喧騒は消え、ただ足音だけが残る。規則的で、揃った、無数の足音。まるで巨大な心臓が脈打つように、大地が震える。

 彼は歩きながら、笛を吹き続けた。

 どこへ向かっているのかは分からない。だが、知る必要もなかった。前を歩く影が、かすかに振り返る。その顔は見えない。ただ、同じ笛を持っていることだけが分かる。

 ああ、と彼は思う。

 自分は、続きなのだと。

 音が途切れない限り、行進は終わらない。誰かが吹き続ける限り、この列は世界の果てまで伸びていく。

 彼は息を吸い、もう一度、強く吹いた。

 その音は、どこまでも遠くへ届いた。

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