第一話 落下する少女は空を知る
それは、雨が一段と強く降る日だった。連日北国ティルナに向けて飛び立っていた飛行艇が、その日だけは見れなくて残念だったのが印象に残っている。
私は、十五階は軽くあるマンションの最上階のベランダから落とされた。いや、マンションと呼べるかも怪しい。部屋同士を縦に横に適当に繋ぎ合わせたような、何とも不恰好な居住地。落とされる瞬間の母の顔を、今でも覚えている。
憎くて仕方がない…その表情だけで、十分に伝わった。
正直、少しだけ安堵した。物心がついた頃から体はいつも痣だらけで、殴られ、蹴られることが日常だった。
だから、ようやく終わるのだと感じた。二桁にも満たない年で死ぬことを、辛いとは思わなかった。
落下の途中、私は地面を見つめていた。あそこに辿り着けば、すべてが終わる。
そう信じていた…けれど、その願いは唐突に裏切られる。
急に体が軽くなり、落下の速度が緩やかになっていったのだ。まるで見えないパラシュートが開いたかのように、体がふわりと軽くなった。
地面に降り立った私がキョトンとしていると、マンションから降りてきた母が駆け下りてきた。中は迷路のようになっている筈なのに、やけに早いなと思った。母は濡れた髪を振り乱し、私に飛びつく。笑っていた。
けれど、その笑みが私に向けられたものではないことは、すぐにわかった。母が歓喜していたのは、“私が生きている”という事実ではなく、“私が落ちても死ななかった”という現象そのものだった。
あの日から、何もかもが変わった。
良くも、悪くも。
ジリリリリリリリリリ
「……むにゃ……っ、はっ!」
けたたましい音で目が覚めた。私は慌てて身を起こし、アラームを止める。窓の外はすでに明るく、寝坊寸前の朝だった。
「まずい……!」
急いで布団から飛び上がると、羽織を脱いで制服を手に取る。ついでに髪を整えて、角も触ってみる。悪く無さそう。
そのまま制服を身につけていく。深い青のブレザーに白いネクタイ、漆黒のロングスカートを身につける。鏡の前で姿勢を正す。
我ながら綺麗な顔だな、なんて思う。白銀のストレートにアクセントの赤い角。黒い瞳に整った顔…って、自画自賛してる場合じゃなかった。
最後に、いつもの確認をする。
(……出ておいで)
そう心の中で呟くと、背中に連動するように純白の翼がふわりと現れた。光を受け、白い羽がわずかにきらめく。
「……よし、問題なし」
翼を静かにたたみ、部屋の隅に置かれた弓を手に取る。弦を軽く弾くと、澄んだ音が響いた。
支度を終えた私は、部屋を飛び出し、コンクリートの廊下を駆ける。遅刻はできない。今日こそは。
…私の名前はカルミア。十六歳。
“龍人”と呼ばれる、龍の力を宿す種族の一人だ。人間の中にごく稀に現れるが、力はきっかけがなければ目覚めない。
私がその力に目覚めたのは、九歳のとき…あの日、母に突き落とされた瞬間だった。
それ以来、祖国ライラの軍に所属している。この国には龍人が六人おり、私たちは「龍人隊」という独立部隊として活動している。
私は“白龍”に相当し、翼を持ち、空を自在に飛ぶことができる。
そして、この手にある弓――“スノー”が私の相棒だ。その純白な美しさに惹かれて名付けた。
武器に名前を付けるなんて、と仲間たちには笑われたけれど、私にとっては大切な存在だ。
「龍人隊所属カルミア、只今参上致しました」
私は上官である龍人隊司令官の部屋に着くと、デスクワーク中の司令官に敬礼しつつ報告した。上官は顔を顰めてこちらを見ないまま言い放つ。
「…相変わらず遅刻目前の不真面目さを挨拶の真面目さで補うつもりだな、貴様は」
リオネル司令官は冷たく言い放つ。少女ばかりの龍人隊を統率するため、戦場経験豊富な猛者が司令官として置かれている…そのことは知っている。
だが、書類に目を落としたままの彼の振る舞いからは、戦場で鍛えられた威圧感しか伝わってこない。その赤い眼は常に目の前ではなくどこか遠い何かを見つめているように感じる。
「東の森に盗賊団の一派が逃げ込んだ。直ちに現地へ赴き、制圧せよ。生死は問わん」
冷たい声が耳に残る。命令に逆らう選択肢などない…いや、あったとしても挑める勇気は私にはない。背筋が自然と伸びる。
「承知致しました」
私はリオネル司令官の部屋を後にすると、東の森へ向かった。
軍本部の重たい門をゆっくり開けて外に出ると、冷たい風が髪をすくい上げる。ふと空を見れば、それはそれは大きな飛行艇が何十機とついたプロペラを回しながら北へ向かって動いていた。
祖国ライラはかれこれ数十年もの間、北国ティルナと戦争をしている。恐らくあの飛行艇もその戦線に駆り出されるのであろう。軍の内部情報を聞く限り、双方の軍部は辞めたいのにお互いの国民がそれを許さないらしい。戦線は膠着し、泥沼と化しているそうだ。
「戦線の奴らが恐れているのは前方の敵じゃない。後方の民衆だ。それも、お互いに」
リオネル司令官が一時期ティルナとの戦線に行って戻ってきた際に放った言葉が脳裏をよぎる。カルミアはどこかもどかしい思いをしながら、石畳みの道が整備された街中を抜けていった。




