第2話 保護枠の契り
握手の温度がまだ指先に残っている。
——明日、迷宮へ行く。そう決めた直後、カウンターの向こうから軽やかな声が飛んだ。
「はいはい、そこまで。続きは窓口で正式にね?」
受付嬢リオナが指先で合図すると、カイルとミリアは並んで戻った。真鍮色の登録証——Fの刻印が、灯りの下で小さく光る。カイルはそれを胸元で確かめる。登録は済んだ。今度は“組む”手順だ。
「まず確認。彼——カイルくんは本日付でFランク登録済み。ミリアちゃんは医療院の推薦あり、回復術士見習い。通常は同格同士なら申請だけで組めるけど、講習未了の新人ペアは“保護枠”を付けた方が安全。どうする?」
ミリアはすぐに一歩出た。
「私が保護者になります。上層限定で。……彼を、守りたい」
最後の一語は小さかったが、硬い芯があった。
リオナは瞳を細め、書類を二組取り出す。
「保護枠の規定。責任者=保護者には指示権がある代わりに、撤退判断も背負う。保護対象は独断の危険行動禁止。迷宮内の合図は——手のひら二回叩き=退避、三回=全停止。発声が封じられた場合でも通る。署名して」
羽根ペンが走る音。カイルは『従う』『戻る』の文字を見て、胸の奥で小さく頷いた。戻るための決まりなら、従える。
ミリアは規定の一行に視線を止め、唇を結ぶ。
「“迷ったら戻る”。……はい」
「反応テスト、行くわよ」
リオナが木札を放った。弧を描く札——投げる前、肩がわずかに沈む。気配が先に走る。
カイルの指先が空を裂く前に札を挟み取った。
「ナイス。農家の手ね」
彼は返事の代わりに札を返す。ミリアの琥珀色が、感嘆で丸くなった。
背後で椅子が軋む。昼酒の匂いが鼻に刺さった。
「新人に保護枠だぁ? ひよっこ同士で迷宮ごっこかよ」
酔った冒険者の声。カイルは振り向かない。リオナの声が、刃物みたいに平坦になった。
「ギルド規定第三十六条。新規への妨害は依頼停止二週間。今、聞こえた」
沈黙。酒の匂いが遠ざかる。窓口の空気が軽くなる。
「じゃ、初依頼。上層第一層周辺“青霞草”の採取。危険はスライムと、不用意な大声。静けさが急に濃くなったら、喉を開く前に目で合図して。いいわね?」
ミリアがこちらを見る。
カイルは掌を二度、次いで三度——音を立てないまま叩く真似をした。
「ばっちり。集合は明朝、東門で六つ半。これ、保護枠の腕輪。反応範囲は百歩。離れたら震える。救援信号は互いの腕輪を当てて三回叩く」
青い小石の付いた革紐が二つ。ミリアが一つを自分の手首に結び、もう一つをカイルへ差し出す。
「……よろしくね、カイル」
彼は頷き、腕輪を締めた。革の感触が脈に馴染む。たしかな重み。たしかな繋がり。
「それから噂話の真面目な話」
リオナは声を落とす。
「第五層で“発声がかすれる”現象の報告が本当にあった。全部が本物じゃないけど、油断は命取り。言葉は便利で、同時に狙われやすい。静けさに飲まれそうになったら、黙ること——自分から沈黙を選びなさい。強い沈黙は、奪われない」
ミリアが小さく息を呑む。カイルはその横顔を見て、胸の奥で同じ言葉を繰り返した。——望んで、黙る。
手続きを終えると、陽は傾き始めていた。石畳に長い影。迷宮口の方角から、氷のような気配が街路を撫でる。
「宿、取らなきゃ。……安くて、早起きしやすいところ」
ミリアが笑ってみせる。その笑顔は少し強がっていて、でも前を向いていた。
カイルは、親指を立てた。言葉にしない約束を添えて。
別れ際、ミリアがふと立ち止まる。
「ねえ——明日、戻ってきたら、ちゃんと“行けた”って、ここで報告しよう。声でも、紙でも。……どっちでもいいから」
カイルは短く息を吐いた。うなずく。
——戻る。
腕輪の重みを確かめ、宿の灯りへ歩き出す。空腹を満たし、靴紐を二度結び、眠る。
明朝、東門。沈黙の契りを腕に、彼と彼女は同じ扉をくぐる。次に必要なのは、最初の一歩だけだ。




