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初夏の惰性

作者: sara@鳩

「桜が舞っていたのは、そう昔のことじゃなかったはずだ」と。

夜風に吹かれながら、俺はカラフルな彩りの駅前を歩いていた。

クールビズになっただけでは、暑さが抑えきれない六月初旬。

襟元の辺りに微かな汗を感じて、俺はシャツを前後を動かし、少しでも涼もうとしてみる。

途中、二人の女子高生とすれ違ったけれど、別にやめようとは思わなかった。

こんなことでみっともないなんて言っていたら、男は社会で生きていけない。

けれど、彼女たちが小さな扇風機を持って歩いていたことが少しだけ気になって、俺はほんのりと後ろを振り返った。

いつ頃から流行り始めたんだっけか、あれ。

もう、毎年見るようになったけどさ。

なんて思いながら、俺は再び前を向いた。

時折吹く夜風の涼しさに、夏の懐かしさを覚えていた。


「こちら、ホットのブレンドコーヒーになりますね。ごゆっくりどうぞ~!」

元気はつらつといった声で、店員の女性が笑顔を向けてくれる。

彼女は初めて見る顔だった。年齢は大学生くらいだろうか。

カップを渡された時に袖から見えた手首の切り傷が、今の多感で大変な女の子というのを表していた気がした。

「頑張ってね」なんて言いたい気持ちはあったが、老婆心だろうと思って、流石にやめておいた。

席についてからコーヒーを一口含むと、じんわりとした暖かさが口の中に広がった。

家に帰っても聞こえてこない「お疲れ様」が、心の中で響いてくれるような、そんな気がする。

少しの感慨に浸った後、俺は固さのほぐれたオフィスバッグを開けて、そこから一冊の文庫本を取り出した。

『青い軌跡』という題名の、高校生を題材にした青春小説、らしい。

俺は、それの四割ほどに刺さっていた栞を引き抜いた。

それから、深い息を吐き出して、自分を主人公に投影し始めた。


本を読むのは、昔から好きではなかった気がする。

ペンよりはバット。教科書よりはボール。図書室よりはグラウンド。

俺は、脳まで筋肉で出来ていると言われるほどの体育会系で育ってきた。

そんな、本や活字や栞なんてものと、一切無縁の俺だったけれど。

遠い昔に一度、俺は本好きの女の子と付き合ったことがあった。


高校二年の春。新しい出会いの香る教室で。

「えっ。渡邊くんって、本読まないの?」

「うん。教科書と漫画以外はほとんど読んだことが無い」

隣の席の女子生徒は、俺の返答に困惑していた。

「もったいない。私、人生で本より面白いものに出会ったことないよ?」

「そっちの方がもったいないって。野球に、ゲームに、映画に、カラオケ。絶対こっちの方が面白いから」

と対抗して力説する俺を、彼女は難しそうな顔で見ていた。

だから、俺も真似るように変な顔を彼女に向けて、二人で噴き出したのは、すぐ後のことだった。

彼女の真っ白で細い首。肩の上までのショートカット。

そして、コンタクトを通した綺麗な黒の瞳が、どうも印象的な女の子だった。

彼女が「岩田穂波」という名であることを、俺はその後に知った。


穂波と付き合い始めたのは、彼女との出会いから二カ月後。

丁度、今くらいの初夏の日のことだった。

高校生の恋に、深い理由なんて必要ない。

隣の席だったから。気が合ったから。それが当たり前だと俺は思っている。

けれど、特別きっかけと言えるものがあるのなら、それはやはり“本”だった。


「渡邊くん、これ読んでみなよ。貸してあげるから」

「やだ」

「そんな即答しないでさ、挑戦してみなよ。新しい扉を開いてみるって言うか。ね?」

俺は穂波にも分かるように顔をしかめながら、渡された本の青い表紙を眺めてみた。

これはハイウェイのイラストだろうか。

表紙からは、内容が全く想像が出来なかった。

「岩田がそこまで言うなら借りるけどさ。でも、俺読むの遅いぞ? 返すのも何か月後になるかわからない」

「いいよいいよ。いつになってもいいから。返してくれさえすれば」

穂波は明るい笑みを浮かべていた。


穂波が貸してくれた本は、青春小説と言われるものだった。

当日、家に帰ってから飽きるまで。

あとは、休み時間の合間とか、部活が終わったあととか。

ちょっとずつ、借りたそれを読み進めていくのが俺の日課になっていった。


「そういえば、これ読み終わったよ」

「えっ、もう? まだ一か月しか経ってないよね。あと二カ月はかかると思ってたのに」

「俺もそう思ってたんだけどさ、結末が気になって。最後の方とか一気に読んじゃったわ」

「ほんと? でさ、終わり方どう思った?」

といった様子で、穂波はキラキラした目で俺を見つめてくる。

その日の昼休みは、本の感想戦だけで消えた。

けれど、決して悪い気はしなかった。

面白いオチを期待することと、人と感想を言い合うこと。

退屈だと思っていた本にも、他に譲れない楽しさがあったことに気が付いた。


穂波から本を借りて、読んでは返して、二人で感想戦をする。

気が付いた頃には、席替えで隣ではなくなってしまったけれど。

そのようなローテーションを何度か繰り返したあとに、やがて俺たちは付き合うことになった。


それからは、時が流れるのは早かった。

本を借りては話し合って。

夏休みには遊園地と花火大会に行ったりして。

秋には文化祭を二人で回って。

互いの誕生日を祝い合ったりもした。

だから、次はクリスマスになるはずだった。


“もう、別れようよ”

くだらない意地の張り合いから始まった喧嘩。

途中に贈られてきた短いLINE。

ただそれだけの短い言葉が、それまで多くの言葉を交わし合ってきた俺たちの関係に終わりを告げた。


ぼやけていた頭に意識が戻ると、本はいつのまにか見知らぬ展開に変化していた。

どうやら、俺は本の内容をちゃんと読まないままで滑り読みをしていたようだ。

ゆっくりと一ページずつページを戻していくと、最終的には十数ページほど戻ることになった。

「悪い癖だ」と思いながら、俺は本の間に指を割り込ませると、再びコーヒーに口をつける。

どれほどの時間が経ったのかは定かではないが、まだコーヒーは辛うじて温かいと言える温度を保ってくれていた。

ふと、円形のテーブルの端においていた栞が目に入った。

月と兎と桜が描かれた、黒と金のデザイン。

12月24日のクリスマスイブに、穂波にプレゼントするつもりだったものだ。

別れたというのに、こいつをどうしても捨てることが出来なくて。

結局、買った時に頼んだ包装は自らの手で解くことになった。

五年以上も使ってしまっているから、金色の塗装は剥げかけているところも見られる。

けれど、今更買い換えるつもりはなかった。

こいつを捨ててしまったら、きっと俺は本を読まなくなってしまうだろうから。


結局、別れ話の後に穂波と話すことはなかった。

復縁の話なんて当然無ければ、三年には違うクラスになってしまったから、顔を合わせることも殆どなかった。

彼女がどこの大学に行ったのかも、今はどこで働いているのかも、俺は何一つ知らない。

知る必要もないのだと思っている。

今後、彼女と会うことは無いだろうから。


だからこそ、惰性だった。

俺が本を読み続けている理由なんて。

元々、俺は彼女のように本だけを読んでいたいなんて思わない性格なのだから、きっと、生まれた時から性に合わないのだ。

ずっと、そのように思っている。


けれど。

それでも、今も俺が本を読み続けてしまうのは、きっと。


「本ってね、凄いんだよ?」

「何が?」

「私をさ、なんにでもさせてくれるんだから」


そう言って、眩しいほどに笑った彼女の顔が、今でも忘れることができないからなんだろう。

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