閑話 お月様と白鼠
皆が寝静まる深夜の公爵邸、音もなく影から現れたアイリス・グランヴィルは、音も立てずに公爵邸の渡り廊下を平然と進み、奥へと足を進める、
やっと任務を終え、我が家である公爵邸に帰ってきたアイリスは、小さく溜息をこぼし、日頃のストレスと憤りを胸に溜め込んだ状態をどうにかしたかった。
だからこうやって寝る間も惜しんで公爵邸に帰宅し、“彼女”に話を聞いてもらいに来たのだ。
眠らないことを億劫だとは感じない。体が丈夫になってからは、睡眠は必要最低限に留め、時間を有意義に使うことが出来る。
むしろ降り積もるストレスを解消するには、眠っていても意味が無い。
隠し扉に入り、地下への階段を暫く進むと、ひとつの部屋にたどり着く。ドアを開けると、鬱蒼とした地下通路とは打って変わって、光の通る開けた室内。周辺には植物が植えられ、色とりどりの花がさいている。その中央に置かれた大きなガラス張りの棺。
「ずっと来れなくてごめんね。寂しかったよ」
その中で静かに眠っているのは、アイリスが命よりも大切な人レイシアが眠っていた。
「こんばんわ。遊びに来たよ、レイア」
アイリスは尚も返事を返すことの無いレイアに微笑み、棺の傍にそっと膝を付き、上半身を乗せる。
その棺は、数年間眠り続ける彼女の為に用意された特注の棺だ。外界から遮断することで棺内の時間を止め、彼女の身体の負担を無くすものだ。これでレイアは何年眠り続けたとしても、栄養失調になる事も体が老化することもない。
「ねぇ、聞いてよ。今日は嫌な事があったんだ。でも、良い事もあったの!きっとレイアが聞いたら驚くよ!あのね……」
アイリスはいつどんな時も、レイアの元にやって来ては今までの事を話す。時には叱咤され、論されることもあるけど、その時間だけはアイリスの心を温かくした。
何年経っても変わらない。
2人が路地裏の鼠と美しく輝くお月様だった時から____。
* * *
レイシア・インガルディア
その名を初めて知ったのは、路地裏の片隅に始まっていた新聞紙の切れ端だった。
その時は字が読めなかったけど、後に知ることになるその名前は、当時のイムシア王国で話題を集めていた第一皇女であった。
歴代随一の魔力を持ち、若干6歳にして古代魔法の習得に成功した天才。透き通るような金髪と空色をそのまま移しこんだような薄いスカイトパーズの瞳。まさに泡沫のような存在の彼女は、常に好奇の的だった。
魔術師の園の言われる魔塔の1つ、イーデンを国内に置くイムシア王国は、魔法による飛躍的な発展を遂げ、かくして大国と言われるようにまでなっていた。そんな魔法を重視するイムシアでは、魔力を持ち、操ることの出来る魔法使いをとても重宝していた。だからだれもが憧れる職業として、魔術師は人気なのだ。
そんな世界ですら、幼い少女にはあまりにも遠い存在に思えた。
少女が路地裏の痩せたネズミなら、皇女様は美しく輝くお空のお月様。
決して交わる事はないのだと思った。
「はぁっ、はぁっ!」
「まてガキぃ!」
後方から迫り来る男を巻こうと、暗くて狭い路地裏に逃げ込む。迷路のようなその路地裏は、人度入ると、抜け出すのに困難だ。狭く高い壁に囲まれ、方角を確認する術がない。だから敵を巻くには打って付けなのだ。
「チッ、どこに行きやがった!今度こそ逃がさねぇ。捕まえたら首をへし折ってやる!」
ようやく自分を見失ったようだが、その後も隠密しながら奴が完全に立ち去るのを黙って待つ。
小さいが故に多少の小さな穴にも入れる。
暫く行ったり来たりする足音が鳴り続けたが、とえとうその音は鳴り止んだ。
行ったことを確認してから、素早く外に飛び出し、自分の住処である売春宿の地下に潜り入った。そこは殆ど使われなくなってゴミの掃き溜めとかした物置小屋であり、少女はそこに無断で隠れ住んでいた。
親の顔は知らない。
物頃つくと娼館街の暗い路地裏で転がっていた。
基本は街の残飯を拝借し、たまに街の方に出ては、お金を盗んで生き長らえていた。
この生活に飽き飽きはするものの、案外何とかなるものだと自分でも思っていた。それには、少女が生まれながらに情というものを切り捨てていたからなのも大きい。だから情けをかけずに盗みを働ける。
いつか終わるこの生活に、未来を見た事など1ミリたりともない。ただ無作為に息を吸って、人間の平穏から滲み出た残りの油を一滴一滴舐めとっているだけの毎日。
そんな少女の生活にも、転機と言える事が起きた。
と言っても何のことは無い、今までのツケがまわってきて、今にも殺されそうになっているだけだ。
「さぁここで八つ裂きにされるか、奴隷になって売られるか選べ。なぁに、奴隷も案外いいもんだぞ?上手くいきゃ何処ぞの貴族に召し抱えられるかもしれねぇ。よく見るとお前器量は上等なようだしな」
どっちも嫌だった
奴隷になったやつの最後を見たことがある。2年前にどこかの国から逃げてきた奴隷に会ったことがある。奴隷になったら、一生消えない奴隷の印を付けられて、慰みものにされるだけの生き物になる。一時は奴隷を超えて人として生きることが出来たとしても、奴隷と分かった瞬間蔑みを受け、暴行をうける。一度なったら奴隷の身分からは、一生抜け出せない。
それだけは嫌だ。誰かに所有されて死ぬ人生なんてまっぴらごめんだ。
自らがひるむことを許さず、頑なに小さい身体でにじり寄る大柄の男を睨み続ける。
男はうっすらと笑みを浮かべ、余裕そうな態度で少女を弄ぶように少しづつ近付いてくる。
当時の少女は、この時の出来事を一生忘れないと思った。
自分が犯した最初の罪であり業だ。
己の生きたいという欲を持って、人を殺めたその時の事を____。
気付くと、自分を追い詰めていた大柄の男の上に跨り、死に物狂いで小さな短剣を男の首元に向けていた。
何度も何度も、何度も
人とは、本当に相手を殺めたいと決断した時、躊躇した意識など嘘だったように手が軽くなる。
躊躇いを捨てると、心が羽のように軽くなって、途端に目の前の敵を人と思わなくなる。
人間とはなんて繊細で、純粋で、罪深いものだと、少女はその時の事を振り返りながらいつも思う。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ
心臓の鼓動が止まらない。
鼓動が耳まで響いて、すごくうるさかった。
呼吸がしずらい、
手が痛い。
少女は軽くパニック症状を起こしていた。
多分ナイフを強く握ってるせいで、爪が手にくい込んでる。なのに固くて離れない。
「おい!ここから男の悲鳴が聞こえたぞ!」
ハッ!!
先程男が出した死に際の悲鳴が誰かに聞かれていたようだった。
逃げなくては
「何やってるの!!!」
突然響いた高い声に、少女は心臓が跳ねる。
見られた。
そう思って声の方を振り向くと、その場に似つかわしくない幼い少女が立っていた。
お忍びの貴族だろうか。
汚れのない上等か服の上に、黒いローブを大きく羽織っている。フードは脱げており、金髪の美しい髪が流れていた。
思わず一瞬見とれるも、警戒して持っていたナイフを向けようすると、それよりも早く少女に腕を掴まれた。
しまったと思ったが、少女から発せられる言葉は想像と違った。
「逃げるわよ!」
「……」
呆気にとられ、引かれるままに少女の後ろを黙って着いていく。脇目も振らず、先程人を刺し殺した人間を逃がそうとするなんて、訳が分からなかった。
子供サイズの小さな抜け穴を抜けて外に出ると、人気を避けて必死に逃げる。
気付けば少女の手からナイフが無くなっていた。
走って走って、それでも警戒して走って
途中道に迷っていた彼女の手を今度は引いて、少女の住処に入れた。
驚いた。
思わず引き入れてしまったの後悔した。
「ここまで来れば大丈夫」
自分で言って不思議になるが、自分と、自分の住処には全く似つかわしくない女の子を入れてしまったのだ。
自分の手を見ると、血が着いており、よく見ると体の所々にも飛び散っていた。
この姿を見て、彼女には何も思わないのだろうか、
「どうして…、にが…したの?」
「そんなの決まってるじゃない!あなたが助けを求めていたから!」
「………もとめて、ないけど」
「いや!求めてたわ!あなたの目が!言ってたの!」
「めは、はなさいよ…」
「ああ!比喩よ!ひゆ!」
「ひゆ?」
「そ!私は最初から見てたの。怖くて、直ぐにあなたを助ける事が出来なかったけど、兎に角あの場であなたを逃がさなきゃと思ったの!」
彼女のテンションに押され、困惑する。
少女は尚曇った表情で、俯きながら彼女に聞き返す。
「アイツ、やっつけちゃった。わたし、わるいやつ、…なのに」
「……っ!あなたは!悪くなんかないわ!」
少女の言葉を彼女は強く否定する。
「あなたは抵抗しただけ!あなたはあなたの命を守ったのよ!正当防衛よ!」
「せいとう、ぼうえい?」
「そう!やられたらやりかえすの!」
「じゃあ、わるいやつ、違う?」
「ええ!あなたは凄いわ!」
「……」
彼女に褒められながら頭を撫でられ、少女はほんのり頬を赤らめる。
「善と悪ってものは、誰かが勝手に決めた戯言に過ぎないわ。誰かにとっての悪が、誰かにとっての善な時もあるの。他人が兎や角口を出して、指を指す権利なんてないの」
「?」
「ふふ、いつかまた話してあげる。あなたにもきっと分かる時が来るわ」
微笑みながらそう言う彼女の表情は、少女の心を溶かし、安らぎを与えた。
自分とそこまで変わらない年齢なのに、妙に大人びていているその少女。
彼女がなにを言っているのか分からないけれど、彼女の声を、微笑んでる姿を見ると、今までに感じたことの無い胸の温かさを感じた。
「私はレイシア。あなたの名前を教えて下さいな」
幼い2人の少女は出会った。
片方は国の宝であり美しき月の女神に愛されたお姫様。方やスラムの路地裏で隠れて生きる灰鼠の少女。
これは、そんな2人の隠された軌跡の物語。
2話目は次章閑話