薄明階段8章
大きくなったら、自然と高いところに手が届くみたいに、大きくなったら、自分の望むところに行けそうな気がしていた。小さな頃に見た大きな人たちは輝いているように見えた。
だけれど、僕がその場所に立っていると、昔に僕が見た輝きは存在していなくて、今までと同じように望まない世界が広がっていた。そんなのは僕の望むところじゃなかった。
しかし、世界はまったく以前と変わっていないわけじゃない。
それは、絶対に、違う。
「微妙に以前と違っているけれど、大きく見ればそんなのは誤差の範囲内だ」、と言うことも出来るかもしれない。だけれど、その誤差は、上手く使えば世界を転換させることだって出来るんじゃないだろうか、と僕は思う。
つまり、僕が望むところ、行きたい場所、夢見ている世界に行けるんじゃないだろうかと僕は考える。
今まで空想や想像でしか存在しなかったものが、もしかしたら目の前に、僕の目の前にあらわれるかもしれない。そんな期待を僕はいだいている。
閑話休題。
達観した気持ちでいようとしても、そんなものはあっさりと他の何かで壊される。どんなに達観した気になっても、世の中のすべてはくだらないんだからどうってことないという気になっても、全校生徒の前でしゃべるようなときには緊張してそんな気にはなれないに違いない。
僕の気持ちなんてその程度なんだ。あっさりと変わっていってしまうんだ。
悟ったって、恐怖の前に悟りが頭から吹っ飛んじゃうことなんてざらにあるんだ。
幸せな気分なんて、なんでもない一言で足元から崩れ去ってしまうんだ。
ハイだった気分だって一気に憂鬱に沈み込むことだってありうるし、逆もまた然り。
死の恐怖にまるで恋みたいに憑かれたかと思うと、死ぬことなんてなんでもなくなったりする。
大好きだった彼女のことなんて一年もたてばただの赤の他人になり得る。
日常生活から消え去った誰かの顔なんて数ヵ月後にはもうはっきりと思い出せるものか!
なんだか、少しだけむなしかった。
だけど、むなしいだけじゃない。他にも僕は思うところがある。
上手く、言葉に出来ないけれど。ただむなしいだけで終わらない、みたいな。
まあ、でも世界はやっぱり一瞬だけだと思う。結局のところ、瞬間なんですよ。
話を変える。不敵な笑み。
素敵な言葉だ。だけど、僕にも浮かべられるだろうか?
この遊戯にたとえ勝利できないとしても、せめて不敵な笑みぐらいは浮かべられるといいなと思う。
そしてもちろん、勝利できるのだとしたら、当然のごとく戦闘中に浮かべたい。
しかしあるいは、決着なんてつかないのかもしれない。実はただの捉え方の問題なのかな?
あるいは、気に入らなくて、救いが無いように思える世界。
世界に転がっている機会を僕は上手く拾えるだろうか?
世界に仕掛けられている罠に僕はまんまと嵌ってしまわないだろうか?
チャンスがあっても、それを上手く望みどおりに活かせるかどうか、自信がない。
僕は今まで流れに乗ってきた。世界の流れに乗ってきた。たまにはさからっても、大抵そうやって生きてきた。そしてそれで普通は問題が無いのだった、だがしかし!
もしかしたら僕の世界の転換が可能かもしれないならば、従うべきは世界の流れでなく、己の流れであるはずだ。
ああ、しかし、まったく言葉に出来ているような、出来ていないような。
一応、言うべきことは言ったかのように見えて、実はそれが罠で大事なことはそれじゃないような気「も」する。僕は一体、何を言いたかったんだろう?僕はわかっている?わかっていない?
世界は実はどうしようもなく手の施しようも打ちようもないのか。
実は救いなんてないのか。救われたように思われるのはただの一瞬なのか。
永遠に救われることなんてないのか。人生なんてただの連続する一こま一こまの積み重ねなのか。
独立した今の積み重ねなら、あらゆるものなんてどうでもいいじゃないか、そのくせ心は恐怖し、歓喜し、憂鬱し、安心する。ああ、まったくそれこそどうしようもないじゃないか。
結局のところ―――、一体、なんなんだろう?
そんなことを考えつつ、僕は楓を迎えにいくことにする。
あの平和な女の子を迎えに行くことにする。
今日はパーティ。さあ、楽しんでいこうか―――。
歩きながら、ぼんやりと考え事。
頭の中で会話を想像。楓に会ったらこんなこと言って、そしたら楓はきっとこんなことを言う、それで僕はこんなことを―――なんてね。
頭の中で即興の物語を作成。頭の中でそれを映像として流す。魔法使いが、夜明けの神殿で、青白い光が、とか。頭の中でぴょんぴょん魔術師が飛び跳ねている。
いつかの出来事を反省。あのときこういう風にしておけばよかったなって。あのときできなかったから、今度似たようなことがあったときは、ちゃんとやりたいようにやれるようにしておこうと決意。心の準備。
歩きながら、ぼんやりと考え事。
平和が崩れたときのこと。
もし、ある日を境に、たくさんの人が敵になったらって考える。
そんなときに思うのは、まずは予防をしておこうということ。
風邪を引かない最良の方法は風邪にかからないように努力すること。
おぼれないための最良の対策は水の近くにいかないこと。
だから、世界が平和じゃなくなったときの対策だけでなくて、世界を平和のままでいさせるための方法を考えて、とればいいんじゃないか。
それから、明日死んだら、ってことも想像する。
今までの自分の人生ってなんだったんだろうって考える。
まだ、死んではいけない気がする。いや、違う。死にたくないんだ。
やりたいことをやっていないから、とかそういうんじゃなくて、ただ純粋に生きていたいから。
いや、もしかしたら純粋に生きていたいのでなくて、純粋に死にたくないだけかもしれない。
まあ、僕の気持ちなんて、そのときどきで変わるのかもしれないけどさ。
でも、もし明日死んでしまったらって考える。自分の人生ってなんだったのかって考える。
僕の人生はきっとさまざまに解釈ができると思うけど、やっぱり僕の人生そのものであるってだけでいい。
別に解釈は要らない。僕の人生にも、僕自身にも、解釈は要らない。
それから、臆病な僕のことを思う。
本当はやりたいことがあって、それは物理的には出来るのに、心の壁がそれをはばむ。
歩き出そうとする僕の足を、臆病な僕がひっぱって震えてる。恐いんだって、言う。
だから抱きしめて「大丈夫」って言ってあげなくちゃ。
でも、僕が恐がるのもわかる気がする。この世界では万能のやり方なんて存在しないだろうし、なんだかわけがわからないし、それにいつか終わってしまうから。
それにしても、僕は僕のやりたいことをわかっているような、でも実はわかっていないような気がする。
また、その逆で、わかっていないような、でも実はわかっているような気もする。
少なくとも今やるべきことはわかっているような気がする一方、もしかしてわかってないんじゃないかという不安もある。
結局のところ、よくわからない。が、その一方、結局のところ、なんとなくわかっている。
わからないながら同時にわかっている。
いや、これは正しいのか?正しくないのか?正しいような正しくないような。
これは、わからないな。
そんなことを考えているうちに、楓のうちに着いた。
それにしたって僕の思考は混沌だ。下手に入ると何が何だかわけがわからなくなる。
エレベーターじゃなくて階段であがる。ちょっとした気分がそうさせた。
僕はだんだんあがっていって、楓のいる階へと辿り着く。
そしてドアの前に立って、僕は鐘を鳴らした。
相川貴理。
それが私の恋人の名前だ。
いつもにっこりと笑っていて、安心させてくれるような人。
一緒にいてほっとする。気を使う必要もないと思う。無理に自分を曲げる必要もない。
今は春休み。私たちは桐代怜くんの家で開かれるパーティーに招待されていた。
ぴんぽーん、とベルが鳴る。
「はいはーい」
聞こえるはずの無い返事を言いながら、私は廊下を駆け抜けて、ドアののぞき窓から外を見る。
貴理が見えた。愛しているぜ。
ドアを開いて、貴理に会う。
「じゃあ、行こうか」
「うん。行こう」
彼はにっこりと笑って返事をした。ああ、この笑顔、いやされる。
「へい、おねーちゃん、行ってらっしゃい」
敬礼した手をこちらに向けて飛ばす双葉。一葉もひらひらと手を振っている。
「楽しんできなさいね。あーあ、わたしも彼氏ほしーい」
一葉はこちらを流し目で見て、そんな言葉を吐いた。
ああ、妹よ、欲しいものは自分の力で手に入れるのだよ。
まあ、私は流れに乗っただけだ―――そう、勇気は要らなかった。
でも、その流れを作ったのは、私や貴理じゃないだろうか?流れを作って、それがお互いの望むところだった。恐怖を出さずに望むところまで行けたような気がする。
たまたま、運が良かっただけかもしれないけど。でも、私は確かに貴理のことが好きだった。
多分、私たちの距離は、近かった。そして、今でも近い。なおかつ、それに問題が無かった。
「じゃ、いってきまーす」
「いってらっしゃい」
私たちは妹の声に見送られて、街に出た。
人気の無い昼。ビルディングには昼の光が当たっていた。
太陽がビルディングの向こう側に隠れたので出来た、昼の陰の中を歩く。
堤防を越えて、河川敷に出た。橋がかかっていて、その下を通る。ちっちゃな船が、私たちを追い抜いていく。気持ちのいい天気で、暑くもなく寒くもない。空は晴れていて、雲がぽこぽこ浮かんでいた。
空が、青い。どこかに出て行きたくなるような天気だった。
住宅街に入る。街を流れる川のほとりを二人で歩く。
隣にいるのは男の子だから、もうずいぶん慣れたけど、でもやっぱりちょっといい感じにどきどきする。
楽しい午後。
目の前に、桐代くんの家が見えてきた。
「うぃー、いらっしゃい」
うぃー、と意味不明な言葉を言って、桐代くんはドアから顔を出した。
「やー、相川くん。そして栗原先輩。まあ、どうぞ入って入って」
家の中に入り、廊下を抜け、部屋に入ると、そこにはちょっとした軽食が用意されてあった。
「ほら、この前も話した通り、先輩の合格祝いというやつも兼ねているんですけど、主な祝い事は―――」
「我々の帰還というわけだ」
聞いたことのない声がした。
見たことのない年配の外国人が立っていた。
「Welcome!」
実に流暢な英語だった。なんていうのか、もうすっごく本場って感じだ。
というかさっき日本語をしゃべっていたが、それも流暢だった。
「えっと、アーネスト=グレイさん。ジュンの父親ね」
桐代くんが説明をしてくれる。彼のことは桐代くんにパーティーに誘われたときに聞いている。
こんにちは、と私たちは挨拶した。すると突如、ひゅ、と彼が手をこちらに突き出した。
私は一瞬、その行動の意味が理解できなかった。
が、次の瞬間、彼の手に握られている物が見えた。
ぱぱぱ、ぱーん、と激しい音が鳴る。
「高校入学、おめでとう、栗原さん!」
クラッカーが炸裂したのだった。袖口に隠していた……のだろうか?
よくわからない。その手さばきの見事さは、さすがは奇術師と言ったところか。
いや、桐代くんの話では、彼は自称「魔術師」だそうだ。自分で自分をそう言い切れるのはすごいと思う。
「いや、あの……ありがとうございます」
「おれからも、プレゼント」
そう言って、桐代くんは手首をひねる。
するとその手には一本の薔薇の花。うわあ、初めて見た、こんな手品。
「ありがとー。それにしてもすごいね、奇術の腕」
「魔術!」
アーネストさんの声が飛ぶ。
ひとさし指をちっちっちっ……と振っている。
ついでに首も振っている。
「あ、いえ……すいません」
なんだか謝らないといけない気がした。
「いや、別に謝る必要は無いよ」
なんかあっさりと言われてしまった。
「ねえ、その薔薇の花、ちょっと見せてー」
貴理が言ってきたので、貴理に渡す。
貴理はしげしげと薔薇の花を見ている。
「本物みたいだな……どうやって出したんだろ?」
と、ぶつぶつ呟いている。
「あ、みなさんいらっしゃーい」
ジュンちゃんも部屋に顔を出した。後ろにはお兄さんらしき人―――きっとこの人がネロさんだろう。
なんだか、格好いい名前だ。名前だけじゃなくて、見た目も格好良いが。格好良さだけなら軽く貴理を上回るだろう。まあ、貴理の方が今は私は断然素敵だと思うけど。
「おじゃましてまーす」
仲良く貴理と返事をする。
「あ、二人とも立ってないでさ、座ってよ」
桐代くんが言う。そう言えば、立ったままだった。
貴理と私は近くの椅子に座る。対面にジュンちゃんと桐代くんが座る。
「そういえば、このパーティーには誰が来るの?」
「うん?そうだね、あと佐村が来るよ。そうそう、食事については、カナッペは一人みっつ、サンドウィッチも一人みっつで、飲み物はお代わり自由、と言っても、用意した分が無くなったら問答無用で水道水ね」
貴理の質問に、桐代くんはユーモアを交えつつ答えた。
「約束の時間にはまだあるけど……佐村が来るまで話していようか」
桐代くんの提案で、私たちはグレイ家の人々と簡単な自己紹介を済ませる。
ちょうど、そのとき、呼び鈴が鳴った。
「あ、きっと佐村だな。つれてくる」
桐代くんが立ち上がった。話し声がする。やっぱり佐村くんだったみたいだ。
しばらくすると、桐代くんが佐村くんを伴って入ってきた。
「いやー、みなさん遅れてすいません」
明るい笑みを浮かべつつ、実際の時間には全く送れていないのだけど、最後に来た人の礼儀として、そんな言葉を佐村くんは口にした。
佐村くんも自己紹介を言って、私たちはご飯を食べながら、会話を楽しんだ。
パーティーというよりも、なんというのか、会話を楽しもうぜ、みたいな感じだ。
いや、実際なかなか面白い。初対面の誰かと話をするというのは、なかなかに新鮮で良い感じだ。
それをしばらく続けたあと、パーティーはお開きとなった。
私たち三人は帰ることにする。
「いやいや、なかなか楽しかったねー」
楽しそうな笑顔で佐村くんが言った。
「確かに楽しかった。だけど、最後の方は疲れて楽しむのにエネルギーをけっこう使ったよ……うん、つかれた」
貴理はなんだか疲れているみたいだ。
「ねえ、貴理、今の台詞ってどういうこと?」
「僕は、楽しむんだけど、体がもたないんだ。長いこと楽しむということに、体が耐えられない。
いくら面白い本でも、あまり長いこと読んでいると頭が熱を持ったみたいにぼんやりとして、少しくらくらする。とても面白い会話も、長いこと続けていると頭が熱を持ったみたいにぼんやりとして、少しくらくらする。だからどんなに楽しい時間も、そう長くは続けない。楽しい時間に体が耐えられない。
楽しい時間が続くなら、僕は疲れて、楽しむことができなくなるだろう。
疲れて、休んでいるうちに、楽しい時間が終わりを告げてしまうこともある。
例えば、楽しいパーティーが二時間あったとして、一時間楽しんで、疲れて楽しめなくなったので、一時間休んだら、すでにパーティーは終わってしまうんだ。やれやれだよ。まあ、今回はけっこういい線だったかな。限界近くまで楽しめた気がする」
「へぇ……相川も大変だな」
「佐村はそんなことないわけ?」
「あー、あんまり意識してないけど、たまにあるな。楽しむことに集中するんだろ?
でも、人間はあんまり長いこと集中していることはできないから、しだいに疲れて意識が拡散する、っていう感じか?」
「なるほど、佐村くんの説明、わかりやすいね」
「あ、楓さん、ありがとうございます」
私が佐村くんをほめると、
「楓、それってまるで僕の説明がわかりにくいみたいじゃないか」
ちょっとすねた感じで、でも笑いながら貴理が口をはさんだ。
「いや、貴理のほうが丁寧だったよ。たとえも出していたし。ただ、佐村くんは貴理の説明を受けて、うまくまとめたな、と思っただけ」
「うん、ならいいけど」
えへ、と貴理は笑った。
「あ、じゃあ、俺はここでさよならってことで」
ばいばーい、と手を振って、佐村くんと私たちは別れた。
しばらく歩くと、なつかしの「凍れる大気」が見えてきた。普通はフローズンエアーとか呼ばれているみたいだけど。
「どう?貴理、なんか飲んでいく?」
「そうだね、パーティーのだけでも大丈夫だけど、もうちょっと食べよっかな」
店に入って、私はイチゴパフェを、貴理はバナナジュースとバナナクレープを頼んだ。
「貴理、ひとくちちょうだい」
「楓のもね」
そんな会話をしていると、睦月お姉ちゃんがやってきた。
「おお、二人ともおひさしぶり。なかよくやってるね」
ちょこちょこと会話したあと、注文を取って、お姉ちゃんはさがった。
しばらくするとイチゴパフェとバナナジュース、バナナクレープがやってきた。
うん、おいしい。貴理の頼んだのもおいしい。しあわせ。
勘定を払って店を出る。
「あ、あれは……」
貴理が道の向こう側を指差した。
並木道を走る自転車が四台。ああ、木村くん、最中ちゃん、流田川くん、初香ちゃんの四人組だ。
みんな楽しそうにしゃべりながら走っている。みんな笑顔だ。あ、木村くんがこちらに気付いた。
ひょいっ、と手を上げてくれる。他の三人も同様だ。私も手を振り返す。貴理も手を振り返す。
一瞬の交錯。なんだか、彼らはとても楽しそうだと思った。あのまま自転車で青い空に飛んでいけそうな気さえする。
しばらく歩いた。そのとき、ぽつぽつ……と音がした。地面に染みが出来ている。
雨―――?上を見上げると、空は青い。狐の嫁入りってやつだろうか。近くを見まわした。図書館がある。
「貴理、たぶんしばらくしたらやむと思うから、図書館に入らない?」
「了解」
しん、とした空間が広がっていた。
一種異様な緊張感を持った静寂。静かにしなくてはならないという規則が生み出す独特の緊張。
ただでさえ、無音というのは緊張するのだけれど、まあ、なれればどうってことないか。
春休みなだけあって、人はいつもよりはたくさんいる。私たちは窓際の椅子に座った。
ふと見ると、貴理が笑顔を浮かべて、小さく手を振っていた。数人の人たちが手を振り返す。
どこかで見たような顔もあるけれど、見たことのないようなのもいる。
「え、貴理、どちらさま?」
小声で聞いた。貴理も小声で答える。
「高橋、久万方くん、絹崎さん、北見さん……勉強しているみたい」
「へえ。男女関係無く、ってのがいいね」
「うん」
窓の外を見ると、ちょっと強くなってきた雨から逃げるためだろう、走ってゆく人々の姿が見える。
図書館に向かう人も見える。どんどん街から人がいなくなってゆく。
「あ、楓。ちょっと本を見ていてもいいかな」
「うん、いいよ。あ、でも私も付いてっていい?」
「問題無い」
書架をめぐる。
そういえば、最近、本を読んでないなあ。
児童書や、小説のところを貴理は見ていっている。物語以外にはあんまり興味はないのかな?
ふと、随筆やエッセイみたいなところに入った。
「あ」
軽く貴理が声をあげた。
前の男の子を見たからだろう。私も知っている。
品森誠一くんだ。
声が聞こえたのだろう、彼はこちらを見て、ちょっとだけ眉を上げた。
そして笑って、やあ、と口だけ動かした。手には、「もちろん餅論」なんて洒落た題名の本を持っている。
こんにちは、とお互いに挨拶を交わして、それじゃあ、と別れた。
ただそれだけの会話なのに、なぜか少しだけ心がはずむ。いつもと違う場所で知っている人に会う、あの興奮。なんだか、やっぱり少しだけわくわくする。
そのあとも私たちはしばらく書架を回って、貴理は面白そうなのを一冊見つけ、借りた。
ちゃんとカードを持っていたことはすばらしい。財布の中に入れていたみたいだ。
気付いたら雨もやんでいたので、外に出ることにする。
「ああ、にじだ」
上を向いた貴理が、そう言った。
きれいな昼に、にじが浮かんでいた。
ひさしぶりに見たなあ、虹なんて。
「いつもは昼というと、気が滅入るけど、にじはいいなあ。……ところで、楽しい昼ってどうやれば手に入るんだろうな」
ぼんやりと、誰に言っているのかよくわからないようなぼんやりとした声色で貴理は言葉を出した。
もしかしたら私に言っているのかもしれないし、そうじゃなくても答えていいと思ったから、
「私にも、わかんないや」
なんて、毒にも薬にもならない台詞を言った。
しばらく歩く。貴理の手には一冊の本。貴理のとなりには私。
ふいっ、と貴理が口を開いた。
「僕の頭の中には、僕がやりたいことの、イメージや想像や空想や、そういったものがあるんだ。でも、思い描いたイメージの再現をしようとすると、失敗しちゃうんだよね。なんか違うんだよなあ。
それに僕にとって常に面白いものなんてないのかもしれないし―――いやあるのかな。僕にとって常に面白くないものがあるんだから―――いやいや、常に、なんて断定は駄目か?
まあ、とにかく、なんだか自分の望むものがよくわかんないままに人生が終わっちゃいそうで嫌だなって思うんだ。僕はずっと楽しく幸せに暮らしていきたいだけなんだけど―――なんて難しいんだろうね。
どうすればいいのか、よくわかんないや」
ふうっ、と深呼吸だかため息だかよくわからない呼吸を貴理はした。
「あああ……これじゃあ、昔と本質的にはあんまり変わってないや。遠い昔は、まだ充実していた気もするんだけど―――実はしていなかったのかな。よく覚えてないけど」
「でもさ」
なんだか、そんな風に絶望しているような貴理を私は見たくなかった。
「貴理は、素敵だよ」
貴理はにっこりと笑った。
「そう言ってくれる楓が素敵だよ」
私はそれからちょっと間を置いて、
「ありがとう」
って、言った。
私は嬉しかった。
「あれー?相川くん?」
どこからか声が聞こえた。
私たちは声の主を探す。ベンチで軽く手を振る男の子。
「間宮くん?なぜここに?貴月さんも……それに、ええっと、巳束くん、だっけ?」
貴理は次々とベンチに座っている三人の名前を呼ぶ。
私は誰が誰なのかわからない。だけど、貴月「さん」といったところからすると、一人だけいる女の子が貴月さんなのだろう。
「ご名答。お久しぶり」
「二度目だね」
女の子と男の子が順に答えた。
「ああ、そうだ、みんなに紹介するよ。栗原楓。僕の恋人。ちなみに年上だ」
「!?……相川くん、恋人いたのか……!しかも年上……」
間宮くん、と呼ばれた子が驚いた声を出す。
「あ、どうも、みなさんはじめまして」
とりあえず挨拶を交わす。
みんなも口々に自己紹介をしてくれる。
それによると、巳束くん以外は貴理と同級生だったことがあるらしい。
「ところで、三人は何してたのさ?」
貴理が聞く。
「うん?ああ、巳束と遊んだあとそこらへんをぶらぶらしながら色々なことを語り合ってたら、貴月さんに出会って、また色々語り合ってた」
「語り合うって……何を?」
疑問をもった私はたずねてみた。
「うーん……社会情勢とか?物事の原因を色々推察してみたりとか?それから人生における諸問題とか?
それから何か愉快な解決策でもないかなあ、と色々模索してみたりとか、してましたね」
巳束くんが答える。
「何か愉快な解答は見つかったの?」
貴理の質問に、三人は笑顔になった。
『どうしようもないなら、笑ってやるさ』
なぜに三重奏、というかよく揃ったもんだ。
私たちは言葉を失った。というよりむしろ、言うべき言葉が見つからなかった。
「ま、そういうことですよ」
にやり、と間宮くんは笑った。
「常に問題を解決する万能策ってわけでもないですけどね」
ふふっ、と貴月さんは笑った。
「でも、この策はけっこう愉快ですし、万能策なんて『考える』ぐらいしかないと思います」
くきっ、と巳束くんは笑った。
「まったく―――みんなは最高だ」
にこにこと貴理は、ほほえんだ。
私はただ黙って、ほのかに笑っていた。
例の三人と別れてから、さらにぶらぶらと散歩した。
「面白い三人だったね」
「哲学的で論理的なんだよ、彼らは」
「へー、貴理もけっこうああいうところ、あると思うけどね」
理屈っぽいというか、理詰めというか。
理論や議論で全てにかたがつく、とまでは思ってないんだろうけど、そういう雰囲気がある。
まあ、実際はけっこう議論には弱いらしくて、そこはそれなりに笑える。どうも、何かを倒す、ということに情熱が沸かないらしい。闘志、というか、敵意、というか、そういうものを持ちにくいようなところが、貴理にはあると思う。
「うん、まあね。『お前は色々と考えすぎなんだよ、もっと気分まかせでいこうぜ』、という風なことを言われたこともあるよ。これでもけっこう気分まかせなんだけどね。その気分のまま理論を組み立てるだけで」
「怒りながら、悲しみながら、それでも理論は外さない、ってこと?」
「理性を失わない、と言ってほしいね。怒りたくなんてないんだよ。我を忘れず、ひたすらに真剣に、ってね」
「確かに貴理は比較的クールだよね。でもたまに熱くなっちゃったりして。そこもまたかわいいけど」
「まあ、僕だって僕の感情を抑えきれないときもあるよ。絶対に許せないことってあるもん。もう頭じゃなくて心が爆発するみたいな勢いであふれてくるときはあるよ」
しかたないんだ、というような顔で、貴理はそう言った。
「まあ、私はやさしい貴理が好き。……表面はあくまで冷静に見えるようにしてるんでしょ?心はけっこう、ぐらぐらしててもさ」
「………わかる?」
「貴理は素直だからね。わかるときはわかるよ。それに貴理は、怒ってても悲しんでても、やっぱり我を忘れてないかぎり、やさしいと思うよ」
私がそういうと、貴理はゆるゆると首をふった。
「買いかぶりすぎだよ、楓。僕だって人を殺したいと思うほどに憎んだことはあるし、願うだけで人が死ぬなら、中学校に入る前に僕のまわりじゃ五、六人は死んでる。頭の中で嫌なやつをひどい目にあわせる想像をして気を落ち着かせたことだってある。……あ、僕はけっこう弱いやつだからね、嫌な目にあうことはあっても、逆の場合はあんまりなかったんだ。いや、少なくともあんまりないと思ってる。もしかしたら、気付いていないだけで、あったのかもしれないけど」
「それでも、」
私は反論する。貴理を肯定する。
「それでも、やっぱり貴理は―――なんていえばいいのかわかんないけど―――そんなにわるいやつとも、思えないよ」
「そんなに、聖人君子でもないつもりだけどね」
さらり、と貴理は私の言葉をかわす。
「まあ、そりゃそうだろうけどさ、そういう次元の話じゃなくて、ほら、言葉に出来ない思いっていうの?」
「ほう、そりゃまたどんな思いかな?」
ぐ、と貴理をひきよせた。
そのまま抱きしめてしまう。
「こんな思い」
しゃらしゃらと貴理が私の髪をなでる。貴理は髪をなでるのが好きだ。
頭をぽんぽん、と叩いて、さらに髪を一度なでたあと、手は首筋あたりで止まる。
そのままちょっとだけ首にかけられた力が強まった。
そして、貴理は言う。
「ありがとう」
そして、私は答える。
「どういたしまして」
了