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薄明階段7章





 舞台は二年前と同じだった。

公園で僕は彼女を待っている。

ただし、麦藁帽子はかぶっていない。今年はかぶる気がしない。

そして自転車でなく歩きだ。

 暗い闇。

だけど、電灯の、人工的な明かりが光ってる。

空には月も出てる。ああ、なんだか二年前もこんな感じだった。

そう、二年前も僕は彼女を待っていた。

時間を、色々な考え事をしながらつぶす。

ときどき空想をしたり、頭の中で物語を作ったりもした。

「おまたせ」

 そして彼女が現れた。

「こんばんわ」

 にっこりと笑って僕は楓を迎える。

寒くて少しだけ不愉快な冬。夏に想像していたものとは違って、素敵ではない。

夏に想像していた冬は、素敵な感じだったのに、実際に冬に来てみると、それほどでもない。

想像と現実の格差。なんだかどこに行っても満足できないような予感。

「じゃ、貴理、行こうよ」

「うん、そうだね」

 だけどそんな予感も、楓の台詞で、意味をさなくなる。

だって、この子といると僕は幸せだから。

てくてくと道を歩いた。二年前も行った、例の小さな神社に行くことにする。

「なんだか二年前もこんな感じだったね」

「ああ、そうだね」

「確かこんなこともしたよね?」

 す、と手が握られた。

僕も握り返す。あたたかかった。

 何もかもが気に入らないような僕だけれど、実際は何もかもが気に入らないわけじゃない。

人との会話を面白いと感じないことのある僕だけれど、全ての会話が面白くないわけじゃない。

自分のそのときの気分の問題のときもあるだろうし、純粋に何かが僕の気を滅入らせるときもあるだろう。

ああ、でも何かこういうことを考えるのもくだらない気がする。

 僕は今、楽しんでいた。

ふと、思い出す。二年前、僕はこのあと終わりを告げられたんだなあということを。

ものごとがいつか終わるというのは知っていた。しかし、あれはなかなかにざくりときた。

ものごとがいつか終わる―――それならば、いつか死ぬこの人生はどうなのだろう。

いつか死ぬのなら、生まれなくてもよかったのではないだろうか。そもそも人生の意味とはなんだろう。

いや、人生の意味なんて考えると気が滅入る。そんなことを考える僕はくだらないと僕は思う。

 ところで、ちょっと待てよ。ものごとがいつか終わるということは、僕と楓の関係もいつか終わるということか。今、僕は中学二年生で、楓は中学三年生。いつまでもつだろう。

なんだか、ふっ、と体の芯が冷える気がした。

いつか僕らも破局するんだろうか。しなかったらこのまま結婚か。

破局するなら、きっと何か原因があるんだろうな。だって何も無かったら破局しないもんな。

きっと終わるときは痛いんだろう。もしかしたら後々まで残る呪いになるかもしれないぞ。

嫌だな。楓とはたとえ終わってもいい関係でいたいのに。ああ、でも終わるってことはきっと相手にとって我慢できない何かをもたらしたってことなんだろう。だったら、あとくされがない消滅の仕方なんて、きっと自然消滅のような別れしかないような気がする。

そういえば、最近、楓を抱きしめてもいないし、キスもしてないな―――。

「ねえ、貴理。何考えているの?」

「え?」

 唐突に現実に引き戻される。

きみとの破局について考えていたんだよ、なんて不吉なことは言えない。

「いや、昔の―――二年前のことをね」

 間違っていない。ただ、全部言ってないだけ。

「そう。二年前は終わりにいったんだったね」

「終わるなんて、駄目だよ」

 僕は否定した。

まだ、終わりたくない。

楓は真面目な調子で淡々と続ける。

「ねえ、貴理。私たちもいつか終わるのかな?」

「そりゃあ、いつかは終わると思うよ」

「じゃあ、いつ終わるんだろうね?」

 ああ、なんで楓はこんなことをこんなときに言うんだ。

下手をしたら雰囲気ぶちこわしじゃないか。それにこういうの、聞きたくない人もいると思うんだよね。

僕は平気だけどさ。まったく一向に僕はへっちゃらだけどさ。

「それは、わからないね」

「高校が違ったら、どうなるだろう?大学は?そのさらに後は?―――こう考えていくと、不安は尽きないというか、未来がよくわかんなくなるというか。でも、逃げちゃ駄目な気はするんだよね。絶対に来る未来なんだから」

 絶対に来る未来。それはいわば運命。不確定なはずの未来が決定事項。

「一番近い未来でいくと、高校が違ったら、か―――」

 僕はぼんやりと、空気に吐き出すみたいにつぶやいた。

「今でさえ、私の学校生活の大半に貴理はいないのに―――このままで大丈夫かな、ってちょっと不安ではあるんだ。まあ、大丈夫なんだろうけど。それに、貴理は、私をしばらないから―――それは貴理のすごく好きなところではあるんだけど、逆にいえば執着心がないのかとも思えて、それもちょっと不安」

「ん―――、僕は楓をしばってないのかな?」

「全然しばってないよ。私が友達と遊びたいときにはいいよって言ってくれるし、別にそれで怒ってないみたいだし―――それとも実は怒ってる?」

「いや、全然」

「私だって友達と遊びたいときだってあるから、それをわかってくれる貴理が恋人で良かったなあと思うんだ。でも、そのしばらない感じが、貴理の存在を希薄にするような感じで、ちょっと恐いときもある。

いや、大丈夫なんだけどね。ただ、たまに貴理が自然消滅しちゃう気がするだけ」

 それは、あとくされのない消え方なのかもしれないね。

なんとなく、ぼんやりと、気が付いたら、恋人じゃなくなっていた、みたいな。

 空気はそれなりに冷たい。僕は口を開く。

「いつか僕らの関係は終わるんだろうけどね―――それでも僕らには出来ることがある気がするんだな」

「それじゃあ、一体、私たちには何が出来るの?」

 さて、一体何が出来るんだろう。

「やりたいことができるんだと思うよ。よくわかんないけどさ」

 勇気があれば、やりたいことはやれるのかもしれないと思う。

「えー、でも、やりたいことができないときもあるんじゃないの?」

「そのとき、その人はきっと何か別の道を見つけ出すんじゃないかな。何か解決策をさ」 

 望むところに手が届かなくても、きっとその人はその人を納得させられる道を見つけるんじゃないだろうか。その道を選ぶかどうかは別として。

「でも……でも、私は貴理と別れるのは嫌だなあ」

「きっと別れるときには嫌じゃなくなっているよ」

 別にそんなのはなんのなぐさめにもならないだろうと思いつつも言葉に出す。

「やっぱり、別れるときにはそういう風になってしまうんだろうなあ……それもまた嫌だな。

なんだか、どうしようもない感じ―――無力感があるよ。このまま、私たちが続くとは思えなくてさ」

 未来の方を眺めると、やっぱりそういう印象を持つのかもしれない。

僕もなんだか、終わりそうな気配がする。今すぐにではないにしろ、一生もつ気がしない。

なんだか不安だ。なんだか未来に罠がしかけられていて、そいつにひっかかりそうな予感がする。

「だけど―――だけど、それがなんだっていうんだ」

 何の気負いもせずに言葉を言った。

そうだ、それがなんだっていうんだ。

 言葉に出来る結論をどうやら僕は持っていないみたいで、僕の持っている考えを僕はまだ抽象化できないみたいだ。だから僕はその結論を言葉ではとらえられていないのだけれど、それでもわかる。

心のどこかでわかっている。結論を言葉で出すことは、少なくとも今の僕には出来ないみたいだけど、結論を態度で出すことは、今の僕でも出来る。

僕が持っているのは言葉になってない混沌とした結論だけど、それでもその結論は決して暗いものでないし、絶望的なものでもないことはわかる。むしろその逆。こいつは勝利の結論だ。

なんだか勝てそう、満足できそう、充実しそう、うまくいきそう。そんな言葉が聞こえてきそう。

きっといつでも勝利は僕の傍らにあって、待っているのだ。

僕が手を伸ばして勝ち取るのを。

「どうってこと、ないんだよ、楓」

 ぎゅ、と手を強く握る。僕の勝利は常に僕の隣にある。手を伸ばせばすぐ届く。

「だいじょうぶ」

 ね?とにっこり笑って、僕は夜の道を歩き出した。

目指すは神社。お賽銭を入れて、おねがいごとをしてみることにする。


 今年も人がいない。

二年前に入れたお金がまだお賽銭箱に残っていそうだ。

いや、でもここも人が管理しているんだろうから、流石にそれはないか。

 僕は二年前と同じに五円玉を入れた。ご縁があるように。

楓も五円玉を入れていた。僕は聞いてみる。

「ご縁があるように?」

「そのとおり」

 がらがらと鐘を鳴らして、おねがいをする。

こういうところにおねがいをしたところで、何かが変わるわけではないと思うし、僕はこういうところにおねがいごとをしても別に精神の安定は得られない。

習慣的にやっているわけでもない。ただ、楓についてなんとなくやっているだけだ。

来年は、別にお金を入れなくていいし、おねがいもしなくていいか。おねがいごとをするようなことが、ないのだから。願いを言葉にしようとしても、僕はどういえばいいのかよくわからなくなってきた。

「ねえ、楓は何を願ったの?」

「合格祈願。そして自分の幸せ。それと貴理の幸せ。そっちは?」

「楓の合格祈願。世界平和。自分の無病息災むびょうそくさい。楓の幸せ」

 ふーん、と言ったあと、楓は、

「ねえ、もしどちらかだけが相手の幸せを願っていたら、せつなくない?」

「まあね、ちょっとだけ切ない。でも、僕がされるなら、切ないけど、どうってことないと思うよ。僕は相手から見返りを期待して相手の幸せを祈ったんじゃないと思うし。するのは、ちょっとまずいと思うかもしれないけど」

「そうだね」

「それにしても、なんだか楓、今日は否定的じゃないか?暗いぜ?」

「え?うーん、なんでだろうね。受験勉強のせいにしておいて」

「じゃあ、そういうことにしておこう」

 別に、この理由はどうだっていいか。……いいか?


 階段をあがっていく。夜。そろそろこの楽しい宴もクライマックス。

きっと終わったあとは、花火大会のあとのむなしさが待っているに違いない。

「とうちゃーく!」

 今、楓が住んでいる建物の最上階。

残念ながら、ここの屋上には鍵がかかっていた。

「しかし、飛行機はないのでありました」

「それに、ここは屋上でもないしね」

 楓の言葉に僕がつけたす。

そう、飛行機はないし、屋上でもない。

でも、けっこうここは高いし、眺めも悪くない。

しばらく僕は夜景に見入った。

「ねぇ、貴理はこれからどうするの?」

 楓がこちらを向いた。僕も楓の方を見る。

まるで何か一仕事片付いて、再び冒険の旅が始まるかのような口調で彼女はさっきの言葉を言った。

僕は少しだけ楓の目から視線を逸らして、

「これから―――というのは?」

「これからの人生のこと。どうするのかな、と思ってさ。大げさな言い方をすれば、どうやって生きていくのかな、って」

 僕は夜景を見ていた。

そして僕は夜景を見ていた視線を楓に移して、言った。

「笑って生きていくよ」

「楽しくなくても?」

 挑戦するみたいに聞かれた。

「楽しくなるように努力する」

 その挑戦を受ける調子で答えた。

「そっか……」

 それから、しばらくして、

「そっか……貴理の笑顔は良いものね」

「ありがとう」

 そしてまた僕は楓の目から視線を逸らす。

人を直視すると、たまに少しだけ緊張する。

楓だとめったに緊張しないけど。

 ふいっ、と楓の横顔を見た。

美しいとか、かわいいとか、きれいだとか、そういうのを越えている。

僕にとって楓は―――やっぱり何か、特別なのかもしれない。

ああ、またこんなことを考えていると、思考の混沌にはまり込んでしまいそうだ。

「ところで、楓はどうするのさ?これから」

「うーん、そうだねえ……」

 そう言って、夜空を眺めてから、

「幸せになるかな」

 と呟いた。


 そのあとも僕らはしばらくおしゃべりをして、2002年が2003年になって、そして僕らは家に帰った。

僕は笑って生きていき、楓は幸せになるらしい。僕はなんだかいい夢を見たあとのように満足だった。




 時間は一気に飛んで二月。僕は自宅で寝込んでいた。

健康は失ってからでは遅い―――そんなことは知っている。

しかし、そんなこと、日ごろはまったく考えていない。楓は受験生ってことでインフルエンザの予防注射だかを打ったらしい。どうやら僕が今かかっているのは、そのインフルエンザみたいだ。

確か学校を休んだことにはならないのだったっけ。出席停止扱い、とかなんとか。

ああ、せっかく神社で無病息災を願ったというのに、このざまだ。願っただけでかなうなら、誰も苦労はしないのか。まあ、願っただけでかなうというのは、かなり恐い話だが。

とにかく僕の不注意だった。もっと日々、うがい手洗いをしておけばよかった。

風邪は予防が第一だっていうのに。ああ、風邪が治ったら気をつけよう。

 それにしても、熱がひどく出て、体の節々がいたい。内側から、力が抜けるような痛みが走る。

すうっ、と体の中の何かを空にするような痛みだ。

 ふとんに横になりながら、熱にやられた頭でちょっとだけくらくらと考えた。

 世の中には時期ってものがあって、それを逃してしまうとどうしようもなくなってしまうことがあるんじゃないか。

たとえば、僕らがこんなに高度に考えることが出来るのは、小さい頃に適切な時期に言葉を学んだり、人間らしい営みの中にいたからだ。そうじゃなかったら、あの例の狼に育てられた子供のようになってしまう。

たとえば、小学校のときには投球力、中学校のときには持久力つまり心肺機能、高校そして大学は筋力を伸ばすのに最適だと言われた。つまりそれを逃してしまったら、それを捕まえた人間よりも、確実に劣るということではないのか。

まあ、こういう時期の話はたとえであって、考えているのは、世の中にはもうどうしようもないことが転がっているんじゃないかということ。

 さらにたとえを出そうか。最近、新聞を読んでいる。読んでいるというほどしっかりとは読んでいないけど。ぱらぱらと見る程度か。なんだか暗くなる。

なんだか自分の手の届かないところで世界が回っているようで嫌だ。

僕にはどうしようもないうちに、僕の嫌なことが行われそうで、嫌だ。

新聞を見ていてそう思った。手の出せない世界を見ているようで、不愉快になる。

嫌なことが行われている世界が見えても、手が出せないなら、どうしようもないじゃないか。

でも、本当に手が出せないのかな。僕はそこに住んでいるっていうのに。世の中は、僕にはどうしようもないことがそれこそどうしようもないくらい転がっているのかもしれない。たとえば核戦争の恐怖をなくすために一体僕に何が出来るっていうんだろう。

でも、もしかしたら、あるいは何か出来るのかもしれない。それは本当にささやかでちっぽけかもしれないけど、何かできるのかもしれない。

また、僕らのやっていることはすべて無意味で無価値であると思えるときがある。

一葉の物語に出てきた女の子みたいに、「くだらない」と思えるときがある。

きっとこれは、解釈の問題で、そういう風に解釈しようと思えば解釈できるといった程度の問題なんだろう。でも、もう本当に最後にはみんな死んでしまうのだし、誰もが、誰かあるいは何かに操られているのだし、何をやってもそんなのはくだらないちっぽけなことなのだと、そう解釈することは出来る。

でも、もしかしたらこういう客観視は余裕があるから出来るのかもしれない。

そう思うとこの客観視も世の中のほかの事象と同様に不安定で今にも消えそうな事象であるとわかる。するとやっぱりこの客観視も頼りないちっぽけなことなのだと―――くだらないことなのだと思えてしまうのだった。

 だから結局世の中なんて悲劇で、結局全てがどうしようもないことで、すでに僕らの手には負えず、不安定で頼りないくせにもう致命的にどうしようもないのだ。たとえば、あまり多くの人から愛されていない人の心がどうにかなってしまっても、それは自分自身が今の自分自身であるのと同様、どうしようもないじゃないか。今なんてすごい低確率で今の形になっているのに、そのくせひどくどうしようもない絶対性があるじゃないか。

やっぱりこの世の中は全部奇跡で出来ていて、だけどそれが自分の望む奇跡かどうかとは別問題であると、そういうことなのかもしれない。

 いや、まあ、世の中なんてよくわかんないけどね。

そう思って、僕は目を閉じた。

 夢を見た。

悪夢だった。

風邪のときに見る夢は大抵、悪夢だ。

ひどく、嫌な夢。

寝たり、起きたり、考えたり、ああ、頭がくらくらする。


 そしてある朝、目が覚めた。

まだ朝も早い時間。体の節々の痛みは消えている。

まだ少しふらふらするけど、今日はけっこう大丈夫そうだ。

今日一日様子を見て、大丈夫だったら、明日は学校に行こう。

 部屋を出た。ひどくいい空気。寒いけれど。

夜明けのあのきれいな空気のいい匂い。元気が出る。

なんだか希望が持てそうな雰囲気。満足して笑えそう。

すごく良い感じ。安心して、僕は僕の望むところに手が届きそう。

階段をおりる。夜明けの光に照らされて、これはまるで薄明階段。

青白いような透き通った光が世界に満ちているような気がする。

きらきらと光が舞い、空気がきれいで、この時間帯だけの魔法のよう。

呪文を唱える必要も無く、ただこのままきれいなままでいればいいと思う。

しかしながら、今起きても、誰にも会えないや。みんなはまだ寝ているから。

ちょっと孤独な時間帯。誰かが起きてくれればいいのに。

こんなにきれいなところだっていうのに、僕は今日もひとりきり。

まあ、それでもいいでしょう。仕方がないから。

けれども、僕はまだいける。

仕方がないので現状に満足することもできるけれど、やっぱりそれは駄目な気がする。

望むところに手を伸ばして、駄目だったときに、今を満足すればいい。

僕が逃げないように、僕を安心させて、僕は満足したまま、いくことにする。

そして今の夜明けは、まだひとりきり。

僕は薄明階段の最後の段をおりた。

多分、とっくの昔にはじまっていた。




 楓の受験も終わって、しばらく経った。

そして僕は今から、楓の合格発表を見に行く。

楓と合流して、楓の受験した高校へ。

 高校に着いた。

何人かの女の子が抱き合っている。

合格したのだろう。

飛び跳ねている男の子がいる。

この子もだろう。

落ちた衝撃で気がおかしくなって、飛び跳ねているという可能性もゼロではないが。

泣いている女の子がいる。

うれしいのか、かなしいのか。

それが僕には判然としない。

ただ、黙って立っているだけの男の子がいる。

そこからは何の表情も浮かんでこない。

ただ、誰かに声をかけられて、笑ったところを見ると、もしかしたら受かったのかもしれない。

携帯電話で誰かに連絡をとるものがいる。

うれしそうだ。

 よろこぶもの、悲嘆に暮れるもの、歓喜するもの、泣き出すもの……さまざまな想いが交錯している、この場所。

 そして、でん、と自己主張する合格発表の用紙。

さあ、見たまえ。結果はここにある。といわんばかりのその傲慢ごうまんさ。

審判しんぱんを任せられたうすっぺらい白い紙。

それがここに集まった生徒に判決を下す。

なんとなく、悲しかった。なぜなのか、よくわからない。

誰かが不幸になるからか。

それとも、力による不平等のためか。

あっさりとくだされる結果によるのか。

よくは、わからない。

 とりあえず、楓の番号を探す。

あった。

「ん、見つけた」

 楓も見つけたか。

「うれしいか?」

「別に」

 僕も、あまり嬉しくなれない気はする。

「なんていうのか―――殺さなくちゃ殺される状況で、人を殺した気分ってこんな感じかも」

 なるほど。

おもしろい比喩ひゆだ。

「別段うれしくもなければ悲しくもないよ。ただ、私は合格しただけ。

だけど、よく考えてみると、あんまり合格したって実感はないな。うん、実感がないよ。

ああ、それと、落ちた人に対して、ちょっとだけ気の毒って気持ちもあるかな」

 淡々として、真面目に、彼女は言った。

「別にそれだけのことだよ。本当にただそれだけのことだよ。嬉しがる必要も悲しがる必要もない。

ただそれだけのことでさ、だけどなんだか嫌な感じもする。一体こんなことになんの意味があるんだろう?

意味なんかないとしても、なんでこういうことが存在するんだろう?なくなればいいのかな。

それとも、あったほうがいいのかな。よくわからないや。よくわからないけど、それじゃあどうすればいいのかな。別にこんなことぐらいあってもいいけどさ、だけどなんだかどこか駄目だよ」

「そうか―――」

 なんと言えばいいのか、何を楓にすればいいのか、すぐには考えつかなかった。

「帰ろうか」

 楓が言った。

「うん。帰ろう」

 僕は彼女の手を握った。

あたたかかった。生きているんだなあと思った。

 帰り道で受験のことを考える。

世界が本質的には平和じゃない実感を僕は抱いていた。

世の中はこんなことで満ち溢れている気がする。

ああ、どうしようもないんじゃないか?

一体、僕に何が出来るっていうんだろう?

なんだかまるで僕が無力みたいで気分が悪い。

 望んでも至れないんじゃないか。そんな気がした。

僕らがいつか死ぬことがどうしようもないことであるように、どうしようもなく終わっていて救いようがないことが普通に転がっているんじゃないだろうか、この世の中は?

もう手遅れで、間に合わなくて、それはそれはどうしようもないことばかりじゃないのか。

あるいは、あまりにも厳格で強すぎる流れで、僕らは流されるしかないんじゃないのか。

そんなのは嫌だ。気に食わない。腹が立つ。怒る。いきどおる。許せない。

だけれどそんな感情とはおかまいなしに、ひたすらに流れとして僕を無視して世界は進んでいく。

ああ、なんてこの世界はとことんまでに八方塞なんだろう。

まるで根本的なところで戦争は終わらないと告げられているようだ。

人生とは、永遠に続く戦争である―――いかにもありそうな台詞だ。

 なんだか一生、僕は僕の望むところに至れない気がして嫌な感じを覚えた。

夏休みの絶望や、休日の昼の空気のような、あの嫌な感じだ。

誰に会うあてもなく、誰にも会えない、あの感じ。

どこに行くあてもなく、どこにも行けない、あの感じ。

何をするというあてもなく、なんにもできない、あの感じ。

 深呼吸。まだだ。まだ終わっていない。そもそも始まっていない。

巳束あおいくんの台詞を借りる。始まってもいないのに、終わったような気になって、そんなのは駄目だ。

まだ始まってもいないのに、終わったような気になって、絶望してどうするんだ。

ちょっとだけ元気が出た。

 唐突に、僕が今まで考えてきたようなことは、きっと今までにも誰かが考えたことで、そしてその人も大きくなっていったんだろうと思った。

だから僕も大きくなっても、結局のところ本質的に世界は変えられないままに思えた。

 きっと世界は不平等で、だけどそれが自然ということなのだ。

しかしながら、当然のように僕はそれを否定する。だってそんなの腹が立つから。

怒りで胸が震える。世界の不平等に胸が悪くなる。そんな世界はまちがっている。

けれどもともとそれが世界というものだから、残念ながら僕は敗北するのだろう。

 あぁ、だけど―――だけれども、まだ打つ手はあると思う。

思い違いじゃなく、確かにここに。世界は根本的にどうしようもないかもしれないけど、それでも何か僕を満足させる一手があるのは確かなような気がする。

そしてその一手が一体何なのかを、無意識のうちに僕はわかっている気がするのだ。

だからその一手は、問題の認識だったり、その問題について考えたり、その問題を解決するためにささやかな努力をしたり、友達と楽しい話をしたり、楓と楽しいときを過ごしたりすることなんだろう。

そして、問題を知り、その問題の解決法を考え、その解決法を実行するということができたり、おなかをすかしている人もいなくて、友達や恋人と一緒にいることができる―――そしてなんだか楽しいというのが、僕の思う平和なのだ。

「ねえ、楓」

 だから、今の僕は楓に声をかけよう。

「とりあえず、合格おめでとう」

 笑顔なしで、真面目に言ってみた。

「おめでたくないしおめでたくないわけでもないのかもしれない合格だけど、ありがとう」

 彼女も真面目だった。

しばらく真面目に見つめあう。

 僕は笑いそうになるのを我慢できなくなって、楓のふくよかなほっぺたをつかんだ。

とたんに二人で笑い出す。

「ねえ、ちょっと貴理、なんで笑い出す前にほっぺたつかむのよ!?」

「いやいや、なんかあんまりにもふっくらとしててかわいかったもんでさ、つい……」

「いや、理由になってないから」

「から?」

「ちゃんと説明してよ」

「うーん、心の中で高ぶった感情―――この場合は笑いたい気持ち―――を外に吐き出すため、かな。

笑って吐き出すんじゃなくて、別の方向で吐き出したわけ。今の場合はほっぺたをつかむ」

「………わけわかんなーい……でも面白いからいっか」

「そりゃどうも」

「まあ、それにしても入試って野蛮だね」

 楓がぽつりとつぶやいた。

「野蛮……か」

 僕は彼女の言葉をくりかえす。

「勝ちを望んでそのために必死になるなんて野蛮だと思うよ。勝負事は全て野蛮だと思う。

選手も野蛮なら、観客も野蛮で、もちろん主催者も野蛮―――なんて、とても個人的な意見だけどさ。

でも、ついでにもういっちょ個人的な意見を吐かせてもらうと、気持ち悪いんだよね、そういうの」

 珍しく、楓にしては激しい意見だ。

「だけど、世の中って全て勝ち負けなのかもしれなくてさ―――嫌だなあ、って思うんだ。

しかしね、別に私も含めたみんなが幸せで、その幸せがずっと続くなら、別に何がどんな風でも私はかまわない。

まあ、誰かが言ってたけど、おとぎばなしのおしまいみたいに、『そしてお姫様はずっとずっと幸せに暮らしました』、なんてことは無いんだってさ。そのあとはきっとその幸せはもう色あせちゃって、王子様とみにくい夫婦げんかでもはじめるらしいよ」

「だけど、そんなの僕は嫌だ」

「私も嫌だよ」

 やさしい笑顔で彼女が言った。

「まあ、たとえそれが真実だとしても、上等だけどね」

 楓が言った。あれ、それは僕の台詞じゃなかったっけか?

「つまり笑ってやるわけ?」

「そゆこと」

 ふっ、と楓は笑った。

なんだか、二年前に出会った魔術師みたいだった。


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