薄明階段6章
給食の時間、桐代くんがペン回しをしながら僕に声をかけてきた。
僕は、爪を切ったので、牛乳のふたがあけにくくなってしまっていた。
「おれはね、間違っていると思うわけだよ」
一足先に給食を追えた桐代くんは言う。僕は牛乳を飲みだす。
「そう、たとえば戦争がこの世界のどこかで起こっているときとか、いじめで自殺しちゃう人の話を聞いたときなんかに、なんか違和感というか、間違っている感じがする。
もっと身近にだってあるぜ。たとえば、あいつ不細工だよな、とかいう子とか、あいつ気持ち悪いよね、っていう子とか、そういう人を見ると気分悪いんだ。
正直、なんでそういう行動を取るのか、おれは理解に苦しむよ。そんな生き方して楽しいのか、ってね。
それとも、なんとなくやっているのかね。習慣か?
別に悪口なんて言う必要ないじゃないか。お互いに仲良くやっていけばそれでいいじゃないか。ってそう思うわけだよ。
何もしなくても悲劇的な世の中なのに、なんでわざわざ世界を汚すようなことをするかなあ、ってな。
誰かが誰かをないがしろにしている様子って気持ち悪い」
「平和じゃないね」
ああ、誰かが誰かをゴミみたいに扱って、それは全く平和じゃない。
つまり、それは僕の望むところとは全くの正反対だった。だけど、どうすればいいだろう。
くだらない相手でも、敵に回すのは恐い。深く考えると恐くないのかもしれないけれど、なぜか恐い。くだらない相手に殺されそうな予感さえする。そんなくだらない相手など、それこそ価値がないと思うのに。
まわりの流れに流されて、くだらないスタイルで生きていくなんて駄目だ。僕は嫌だ。そう思うのに、保身に走りそうになる。やられている人間に、くだらない相手と対峙してまで助ける価値はないような気にもなってくる。対峙するといっても、それほど激しくぶつかりあうわけでもないだろうに。
人の意見なんて、どうでもいいはずだった。人は色んなことを言うけれど、言った人が自分のやったことの責任を取ってくれるわけじゃない。実に無責任にいいかげんに色んなことを言ってくれるのだ。
だっていうのに、まわりの人間の作る流れに自分も否応無しに巻き込まれている気がする。
そして望まぬことにも手を染めそうだ。
駄目だろう。
駄目だろう、それじゃあ。それはあんまりにも冴えてないやり方だ。
僕自身への背信行為だ。だけど、我を張っても生きられない。
参った。参ったけど、それでもまあ、平和を望んで安心な世界を自分のまわりに作ることは、きっとできないわけじゃない。
ああ、しかし。僕の気に食わない行動を取る他人をどうしよう?皆殺しになど出来ない。
しかたがないのか。僕に出来るのはここまでなのか。そんな他人には手出しが出来ないか。
結局のところ、他人を自分の意志に従わせるなんてことが、馬鹿みたいに難しいのだった。
「おーい、相川くん?」
「あ?」
顔をあげる。
「どうしたんだ、深刻な顔をして。いきなり黙っちゃって、びっくりしたぞ」
「ああ、ごめん、桐代くん。ちょっと、ね。平和について考察していたものだから」
「ふうん。ところで、相川くんにとっての平和って何さ?」
大きな質問だ。しばらく僕は考えた。
「誰かが誰かをゴミみたいに扱うことがなく―――つまり誰かが誰かをないがしろにすることがなく、お互いがお互いを大切にしあって生きている、そんな状況かな」
「なんと実現が難しそうな状況だろうね。人が増えれば増えるほど実現しにくくなりそうな気さえするぜ」
「………しかし、なんとかできないものかな」
「わからないな。まったく、わからんよ」
桐代くんは、ゆるゆると首を振って、そう言った。
そして首を振るのをやめて、彼は続けた。
「でもな、どうしようもないかもしれない。世の中は、もう本当にどうしようもなくて終わっているのかもしれない。殺人事件とか虐待のニュースを聞いて、これこれこういういきさつで人が死んだ、なんて言われるとき、おれはどうしようもない、という妙な絶望感を覚えるよ。
一体どうすればいいっていうんだ、一体おれに何ができるっていうんだ―――っていうね。
体の自由を奪われながら、眼の前で繰り広げられている悪夢を見ることしかできないような嫌な感じとでも言うべきか。
ニュースなんかで言われることは、本当にもう終わっちゃったことでさ、おれたちはまったく手出しが出来ないよな?これからに生かすことはできるのかもしれないけどさ。それにしたって嫌な話だぜ、そう思わないか?誰かが虐待されていた、そのときの様子を生々しく伝えられるとさ、嫌だろう?
嫌なくせにだぜ、しばらくするとそんなことなんて頭の表面からきれいさっぱり消えて、自分は日常をこなしていくんだ。そしてたまに何かのきっかけにびょこん、と出てきて自分の心をいつかと同じ嫌な状態にするんだ。
そりゃあ、事件の経緯っていうのは、すごく大事なんだろうけど、眼をそむけたくもなるね。
詳しく知りたい気持ちがなくなるよ。そんなことより、ピンチのときに助けてくれればいいのにな」
「ピンチのときに助けてくれる何かっていうのは、すごく良いね」
「ああ、いいよな」
給食を食べ終わった僕は、食器を片付けた。
そして座ると、また桐代くんが声をかけてきた。
「どうしようもない、といえばさ、世の中から殺人者をなくそうとしてもどうしようもないのかな、ってたまに思う。あんまりにも世界が広すぎて、確率的な問題からいっても、殺人者の出現は必然ではないのかとたまに思うんだ。
そうすると、なんらかの種類の人間の出現は確率の問題なのかということになるんだけど、確率の問題なのかもしれない。
ああ、でもともかく、おれが言いたいのは、世界を望む形に変えようとしても、結局のところそれはどうしようもないことで、理想郷なんかできっこないんじゃないか、ってことだよ。かといって、自分をねじまげるのもどうかと思うがね。まあ、でもきっとどっちにもかたむきっこないんだから、どちらも少しずつゆがんだ形で存続するしか能がないのかって思う」
でもな―――と、「魔術師」になりたい男の子は続けた。
「どうしようもない、なんて不愉快だぜ。まるで呪いの呪文みたいだ」
「それは、まったく同感だよ」
こういうなんてことのない日常の会話が、僕は好きだった。
桐代くんとの会話に触発されて、平和について考えてみた。
僕らは平和に洗脳されているんじゃないか、ってたまに思う。
僕らは、まわりの世界が平和はいいもので、戦争はいけないというから、ただそれにしたがっているだけなのではないのか。実は僕らは誰かが設定した教育を受けることにより、その教育に縛られ、精神操作されているのではないのか。
まわりのみんながそういうから、そういう風にしか考えられないのではないのか―――。
それはちょっぴり恐い考えだった。
自分はまわりと自分自身によって作られる、という説があり、それは正しいのかもしれない。
そしてまわりの何者かの教育によって、道徳観念なんてものも作られるのかもしれない。
それはやろうと思えば、誰かを自分の意志のまま操作できるようで恐い。
だが、実際に考えてみれば、きっとそう上手くはできていない。おそらく、他人から教わったことがそのまま真実となり、それが永遠に続くなんてありえない。
永遠なんてありえるものか。
永遠なんて死ぐらいのものだろうと思う。
もし仮に天国なんてものがあるとしたら、それを僕は死とみなさない。
天国にいけるなら、僕は死んだことにはならない。
もし、意思や感情や理性やらが消滅して、それで終わりなら、それは死だろう。
ならば、眠るっていうのも一種の死か。じゃあ、僕らは毎日死んでいるわけだ。
そして僕らは目覚めることによって毎日復活している。可逆的な死。
じゃあ、不可逆的な死こそ僕が最も恐れるものの一つというわけだ。
ああ、話がそれてしまった。洗脳の話だった。マインドコントロールの話だった。
僕は、狂信なんてしてやるつもりはない。だけど、もしかしたら僕は知らず知らずのうちに何かに操られているのかもしれない。気付かぬうちに、それが絶対だと信じ込んでいるのかもしれない。
たとえば車の来ていない通りの赤信号を渡れないのは、赤信号を渡ってはいけないという規則に縛られているから。いや―――渡れないのでなく、渡らないのか?渡る必要がないから?
あるいは、神様を絶対的に信じている人は、なぜそれを信じているのだろうか?そしてそうじゃない人はなぜ信じていないのだろうか?幽霊を絶対的に信じている人はなぜそれを信じているのだろうか?そしてそうじゃない人はなぜ信じていないのだろうか?
不可解だ。実に不思議だ。その信条の違いはどこに発生するのだろう。
一体僕らは誰の教えに従って生きているんだろうか、どうしてこんなにも僕らは考えていることや許せることが違うんだろう。今まで生きてきた環境が違うからか。すると僕らはその環境によってある程度設定されることになるけれど、どうなのだろう。
そうしたらある意味、みんな何かに洗脳されているということになる。みんな何かに設定されていることになる。みんな何かに縛られていることになる。だけれど、きっと、みんなそうやっていかないと生きていけないのだ。だってもし、そうじゃなかったら、いったい何を軸にして生きていけばいいというのか。
軸がなければ生きていけないじゃないか。
この世界は自由だから、何をしてもいいのだから、何をするかは自分の心に聞いてみるしかない。だけどそれは自由研究の自由みたいにたちの悪い自由で、あんまりに自由すぎて何をすればいいのかわかったものじゃない。だから誰かに何かに自分を設定してもらわないことには、きっと生きていけないはずだ。そして本能みたいにもともとの設定だけじゃあ、きっと駄目なのだろう。
それにそもそも軸がなかったら、なんでも出来てしまう。人を殺さないことも殺すこともできれば、人がぼこぼこに殴られているのを見て傍観することもできれば、助けにいくこともできれば、恐怖で逃げ出すことだって出来る。
だけど、そんなのは自我に統一性がない。暴力シーンで笑える自分と、それに嫌悪感を覚える自分とが同じ自分なのだとしたら、それはかなり気が狂いそうだ。
だけれどもしかしたら、そんなことは可能なのかもしれない。
たとえば今、僕のまわりの平和なこの世界が殺戮戦場と化したとき、僕は僕のままでいられるだろうか。
環境が変われば人も変わってしまうんじゃないだろうか。もし世界が戦場となったとき、僕はもしかして、人を殺すことなんてなんとも思わず、人を傷つけることなんて日常茶飯事で、それでも心は傷つくことなく、むしろそれを自然なことだと認識するんじゃないだろうか。
もっと身近な例をあげてみようか。たとえば自分のいる学級で学級のみんなが参加するような軽いいじめのようなものがあったとしよう。「あいつうざいよね」「あいつ嫌いだよ」みたいな台詞を、自分と、それを言われている「あいつ」以外の全員が言っているとしよう。口に出しているのだ。自分の心にまわりの世界が聞こえてくるのだ。
すると日ごろいじめはよくないと思っている人でも、それくらいの行為ならなんともないと軽くすごせてしまうんじゃないだろうか。そしてだんだんだんだん、まわりの空気に染められてきて、なんとなく「あいつ」に嫌な感情を持つんじゃないだろうか。そしてもしかすると、「あいつ」を嫌いになってしまうんじゃないだろうか。さらにひどくなると自分もそれに参加してしまうかもしれない。
それと同じ原理で世界が人殺しを容認すれば、自分も平気で人を殺せるんじゃないだろうか。
まわりの環境に流されてそうなるんじゃないだろうか。
まるで世界に食われるみたいに。
だけど、そうしたら、今もその原理は働いているはずで、すると僕らは今も世界に食われているということになる。世界が平和だから、その流れに流されている―――?
僕は、平和が好きだと言っている。平和な世界とそうじゃない世界の選択には迷わず前者を選ぶ。
しかし、僕の覚悟なんて、世界に食われて、見る影もなくぐしゃぐしゃに噛み砕かれ、消化されてまるで無かったみたいになるんじゃないだろうか。
平和が好きな僕だって、まわりの世界が平和じゃなくなれば、その世界の流れに乗らざるをえなくなり、平和じゃない僕になりさがるのかもしれない。いや、きっとそうなる。僕は確信する。
僕のような人間が、世界に逆らって自分を貫けるとは思えない。
しかし、それでも、僕は平和が好きだ。きっと人を平気で殺せるようになっても、なんとなくでも平和が好きなままでいるはずだ。頭が働かなくなって今やっていることがどういうことを引き起こすのかわからなくなっても、それでも好きなはずだ。人をなぐりながらでも好きだと思う。人をなぐることが平和じゃないと考えつかなくても。それでも好きだと思う。
だから、世界を平和にすればいいと思った。平和な世界を作ってしまえば、そこに住んでいる人を世界が食べてくれる。世界が食べて、そこに住んでいる人たちを乗せていってくれる。
世界は姿を変える。平和な世界は、次の瞬間には殺戮が横行する世界に変わっているかもしれない。
永遠に平和な世界が来る気はしない。残念だけれど世界の根本原理に諸行無常がある気がしてならない。
しかし、世界が壊れるまで平和な世界を続けることはできないわけじゃない気がする。世界の根本原理に諸行無常があっても、諸行無常には何を変化させるかまでは定義されていない。終わるまで平和のままで、平和よりかは小さな出来事を諸行無常の根本原理が変えていってくれればいいと思う。
こんなことは口に出しても仕方が無いことなのかもしれない。
世界に発信しても意味のないことなのかもしれない。胸にしまって、だけどそのために動いたほうがいいのかもしれない。だけど、別に口に出したっていいのかもしれなかった。
[アンビバレンス攻略]
世界がこんな風なのは、あなたが何もしないから。
誰も自分が傷つきたくない、君はそう言ったね。
でも、例え傷つきたくなくても、助けたい人だっているさ。
助けたい気持ちがない人なんていない。
みんな心の中に殺人者も聖者も住まわせてる。
みんな優しくてそれでいて残酷だ。
だれもが心から血を流す。
だから助けなくちゃ。
恐怖は確かに強いだろう、だけれど見捨てていいものか。
それとも君は恐怖を倒せるだけの愛なんか持ち合わせちゃいないかい?
関係がないからと冷たく見放してもう君は何も感じない?
感じないということは、慣れちゃったともいえるけど、そうじゃないとも言える。
それは、実感が湧かなくなったというだけのこと。
君はあの子の心を考えることがなくなったね。
そして貴方は自分の心を考えることがなくなったね。
耐えていればおさまる嵐だけれど、
君が心から血を流す必要なんてどこにもないじゃないか。
ねぇ、だからさ、助けにいこうよ。
それがいじめだったのか、と問われれば、いじめだと言う人もいるだろうし、そうじゃない、という人もいるだろう。
オレはどうか、といわれると、わからない、と言うだろう。
別にそれがオレの世界の軸を壊したわけじゃない。
世界の軸なんてものは五年生から六年生にかけて、オレの友人の手で除々に壊された。
だから中学一年生のあの秋の頃、オレは倦怠期……に似たところにいたんだと思う。
ただ、ダラダラと、暇に、つれづれに、やれやれと生きていた。
そう、まるであの友人のように。
ただ、もちろん、オレはあいつみたく、悟りきった笑顔をしないし、「下らない」という言葉を連発したりもしない。
オレはあいつと馬が合ったわけじゃない。
ただ、オレはあいつの言うことに腹を立てなかった、というだけの話だ。
それにあいつも自分の台詞が感情なしの理性だけで構築された正論だってことはわかっていたと思う。
秋のことだ。
まだ全然寒くない。
すごしやすい日々。と言っていいだろう。
オレのクラスには、ある女の子がいる。
無視されているような感じだ。シカト……みたいなのにあっている。
誰も彼女にしゃべりかけないし、彼女も誰にも話しかけない。
必要最低限のことだけを話し、ただ、それだけ。
誰かが企画してやりだしたわけじゃない。ただ、無口な子だったから、誰もしゃべりかけず、あの子も何も言わない。
ただ、友達のいない子、ってイメージだけがついてまわることになった。
だから、これはいじめじゃないのかもしれない。悪意はない。ただ、自然の流れとしてそうなっているだけだ。
そう、だからきっといじめでは無いんだとオレも思う。
自然の流れ、そしてその流れから出来た習慣、それだけのことだ。
だけれど、オレは思う。
彼女は、さびしくないのかな。
たまに、思う。視界の隅にあの子が横切ったときとか。ひとりで黙々と給食を食べているときとか。
思うんだよ。さびしくないのかな、って。
ちょっと、気になっていた。
ところで、小学生のとき、気障りな性格のせいで目障りに見えるその姿で、耳障りな理論を唱える理論家がいた。
小学校三年生くらいから、あいつの明るさには少しずつ陰がさしていった。
あいつは、いっぱしの厭世家気取りで、かっこうをつけていた。
「君には世界がどう見える?」
あいつは、ある日そう言った。
最近気障りだから目障りに見えてきたあいつは、いつものように耳障りな理論を、まるで呪文みたいに唱えだした。
「最高だ」
「ふぅん……君、最近楽しそうだもんね」
「お前は楽しくないのか」
すると、あいつは、ふっと肩をすくめて、
「全然。世界が楽しいはずないじゃない。私の世界は最低だ。こんなに汚い世界は最低だ。
だいたいね、世界がなんでこんなに汚いかわかる?
それは私たちが生きているからに他ならないわけよ。
生きているっていうことは、ほら、他の生き物の命を奪って屍の上に立っているわけだからすごく汚い行為。生きている、この世に存在しているってことはそれだけで罪なのよ。少なくとも私はそういう考え。
君もだよ。君も汚い。私も汚い。
最低なことをして、理性はこのことが最低だとわかっているのに、心は何も感じずに、平穏無事な生活を送る。昔っから人間はみんなそう。人殺しをしたって、理性しか最低だとしか認識できない。心は罪悪感なんてかけらも感じずに平穏無事な生活を送る。理論でこじつけて自己を正当化する。正当化できなくったって心が感じてないんだから罪の実感なんてかけらも無い。だから平穏無事に生活を送れる。
生きていることに実感が伴うなんてのは自分に関係のあることだけ。
人を殺したって、罪なんて実感がわかないくせに、自分が殺されるとなると実感が出てきてしょうがない。
でも、自分が殺されるまで実感なんて出てこなくて、自分に痛みが来てから実感が出てくる。
包丁を突き出されても怖くない、でも切られると死ぬのが怖くて震えてくる―――最低じゃない?
人間なんて最低。最低の種族。
だけれど、同種族である人間を最低って言っている人間の私が最も最低の人間ね。
ま、醜く生きなさい。
人を踏みにじって、怖くて何も言わず誰かを見捨てて、ほほえみながら誰かを裏切り、
それでも実感なんて無くて、罪の意識なんて無くて、結局何も無くて、
中身のない何かを理性で捕らえて、心では何ひとつ感じられずに、
血を吸うように、地を這うように、追われるように、終われるように、
ただただその醜い姿を晒しながら、恥なんて全く知らずに生きなさい。
と、いうより、それが生きるということよ」
その理論は、知っていた。
「でも、お前、そんなこと人には言うなよ。あまり他人にいい感じを与えないからさ」
ざっくばらんに言うと、耳障りということだけど。
「言わない。君が言ったことくらいわかってるよ。ただ、思ったことを言っただけ。君じゃないと言わないさ」
つまりオレはあいつの、誰かに言いたい理論の掃き溜めってわけだったのかもしれない。
「まあ、でも、あまり、断定なんてするなよ。正しいかどうかわかんないんだし」
「でも、そう思ったから、それを言っただけよ。私にとっては真実なわけだし」
オレは、議論には弱かった、そして今でも弱い。
オレはあいつと議論して、勝ちをおさめた覚えがない。
あんまり議論したことは無いが、誰にも勝ちをおさめた覚えがない。
ただ、お互いに正しいと言い合って、負けたほう、つまりオレが不快感を覚える。
議論をすると、それがいつものことだった。
まあ、勝負事っていうのは、どちらかが勝ってどちらかが負ける、だけでなく、両方勝ち、両方負け、という場合もあるだろう―――自分が勝ったと思えれば勝ちだし、負けたと思えれば負けだと思うから―――だけれど、オレはいつも敗北を感じていた。
そして勝負事は勝てなくては面白くない。
少なくともオレは。
だからオレは議論が嫌いで、基本的に口をつぐむ。
言い返さなければ議論は成立しない。ただ聞いているだけ。
だから負けることはない。勝つことも無いにしても。
いや、だけれどオレは、だんだんこの聞くだけという行為にも敗北を感じるようになってきていた。
まあ、そんなことより。
さっきの台詞に、これだけは返したかった。
「まあ、でも、そんなに否定的な言葉をつむぐなよ。否定構文は、人にとってあまりよくない」
「ふぅん?まあ、良くないかもしれないけどさ、どんな言葉を吐くかはやっぱり個人の自由。
ただ、君が嫌なだけでしょ、否定的な言葉を聞くのは。良薬は口に苦し、ってときもあるんだし。
真実が、君にとって都合の悪いときがあるように」
オレは沈黙した。
負けを感じた。なんだか、あいつの暗い言葉に参ってしまいそうだった。
あいつのああいう言葉はオレにとって精神的に少し苦痛だった。
オレはあんな否定構文を聞きたくは無かった。
―――オレは絶望なんかいらない。
あいつはたまに心から笑っているように見えるときがあって、その笑顔がオレは好きだった。
そうあいつに言ったら、あいつは、
「心から笑っているかどうかなんて私にもわからないよ」
と言った。確かにそれは正論だった。
だけど、あいつの笑顔は、本当にオレをほっとさせるようなものだった。
正直、もっと笑って欲しかった。
オレは、世界の色々なところの写真を見るのが好きだった。
そこには面白いものが広がっている気がして。
でも、それはきっと違う。
どこまで行ってもオレの望むところじゃない。
マシなところとか、ひどいところとかの差はあれど、どれも違うと思う。
閉鎖された世界。
息が詰まりそう。
逃げ出したい。希望が無いような気がする。
オレがいたいのはこの場所じゃない気がする。
鍵が欲しい。
この閉じられて完結している世界を開く鍵を。
でもね……いったいどこにあるっていうんだろうね。
気になる彼女。
彼女が助けて欲しいなら、オレは助けたい。
なんだか、そうすることが、オレの望むことだと思うから。
なんだか、望む世界に近づきそうな気がするから。
だけど、彼女が助けて欲しいのかどうかよくわからない。
だったら、別にほっといてもいいんじゃないか。
――――お前、これでいいのかよ。
ふと、心の底から浮かんできたみたいな台詞。
なんとなく、ほうっておく、っていうのは間違いな気がした。
ああ、駄目だ。これはオレの道じゃない。
そしてオレはひらめいた。なるほど。助けて欲しいかどうかわからないなら聞けばいい。
誰に?彼女に。どうやって?話しかけて。
臆病で助けられなかった幼馴染がいた。
謝罪も、もう遅い。
あやまったけれど、それはそれなりに意味があり、あやまらないよりかはずっといいと思うけれど、でもオレの失敗は取り返せない。
オレがつけた傷はずっと傷のままだ。
なんとなく流れにのって参加していた人々。あるいは無関心な人々。
あいまいに笑う人々、もしくは参加者。
群れる人々。
どうして誰も助けてくれないの
別に、言われた台詞じゃない。
だけど、オレも助けて欲しかったし、きっとあの人も。
そして、オレは助けてもらえたんだろうか?あの人は?
わかることが少しだけ。
助けてくれないのは、よくない。
オレの気分が、悪い。オレの気持ちが、悪い。
SOSを出しているのに、助けが来ないのは、間違いだ。
たとえSOSを出していなくても、助けが来ないのは、間違いだ。
オレが幸せになれないのは間違いで、オレが幸せにしたいものが幸せになれないのは、間違いだ。
いや、間違いというよりも、間違いに思えるほどいやだ。
それくらい、いやだ。
でも、オレは臆病だ。
彼女には誰も話しかけていない。
それが長いこと続いていて、習慣になっている。
それを変えることは難しい。真剣になって変えようと思っても難しい。
ただ流されているようなやつにさえもはばまれる。
そして自分自身から湧き出てくる抵抗にもはばまれる。
みながやっていないことをやるのは怖い。
勇気が要る。下手したら大変なことになりそうに思える。
だから、幾人かは目を逸らす。あるいは逃げる。もしくは忘れる。
たとえ何かに気がついても、そこから尻尾を巻いて逃げる。
怖いからな。
オレだってそうやったことがある。
それにどうすればいいのかわからないことだってあった。
オレはなんとなくそうじゃないと思ったけれど、みながそうだと言ったから、流されたことがある。
気がする、とでも言えばよかったのかもしれないが、言わなかった。
何かを決めるのはむずかしい。本当に心の底からどうすればいいのかわからないことだってある。
でも―――でもなあ。
それでも、なんとなくでも、よわくっても―――しまっておかずに、だしてしまえば――――あるいは。
あるいは、きっと、なにか。
だから、せめて、彼女に一言くらい話しかけてもいいんじゃないか。
今、口から出せる台詞でいいから。当たり障りのない台詞でいいから、何か。
なんとなくの台詞でいいから、何か出さないと、きっと、零のままだから。
あいつは本当はみんなとただ笑いたいんじゃないかと思ったことがある。
「くだらない。でも、あらゆるものをくだらないとする私こそが、最もくだらない」
そんな理論的な台詞を吐くあいつ。
だけどさ、おまえ、自分の笑顔が素敵だって気づいているのか?
「そういえばさ、佐伯くんの笑顔っていいね」
いつもとは違うあいつの台詞。
ありがとう、と答えた。心からうれしかったよ。
だけどさ、おまえ、おまえの笑顔だって―――それは、ほんとにもう最高だってのに。
「人間の悩みなんてね、絶対今までに誰か悩んだことがあるし、そしてこれからも誰かが悩むわけよ。
だから、悩みなんて平凡でくだらないものよ。
ホント、教科書や本や漫画や映画や、もうそれこそ色んなもので取り上げられているほど一般的でつまらない、価値の無い、ありふれているものなんだから」
「―――――だからさ、そんなに否定構文使うなよ。
それに、きっとその人の悩みはその人だけのものだぜ?
その人にとって大事なものじゃないのか?
別にみんながどれだけとりあげようが、その人の悩みはそんな教科書に載っているものとは別物だろ。
きっと、次元が違うぜ」
「佐伯くんって、やさしいよね」
人を一言でくくる、っていう行為は嫌いだ。
だけど、そう言われて、喜んでいる自分がいた。
オレは、やさしくありたかったのかもしれない。そして、おそらく、今もってまだ。
「希望なんて幻なのかもしれない」
あいつはたまにそう言った。
いっぱしの厭世家気取りのはずなのに、そう言った。
まるで、希望はもしかしたらあるかもしれない、という言葉の裏返しみたいに、そう言った。
だから、オレはいつもその台詞にはこう返した。
「でも、希望はもしかしたらあるかもしれない」
するとあいつは、かすれたように笑った。
すぐに消えてしまうような笑顔だった。実際、すぐ消えた。
もっと、見ていたかったのに。
「結局さ、みんな自分中心で回ると思うんだよ。自分以外のところから世界を見ることなんてできないんだからさ。
だからさ、結局のところ、全ては自分から始まると思うんだよ。鍵を握っているのはあくまでも自分だと思うんだ」
あるとき、あいつはそう言った。
珍しく、否定構文では無かったが、別に愉快な文でも無かった。
ただ、あいつにしては、比較的マシな構文だった。
「確かに、そうだとオレも思うよ」
「でさ、ゴールが無くてもスタートは切れるわけよ」
「まあ。確かにな」
「でもねえ、ゴールが無いとどこらへんでスパートかけていいのかよくわかんないんだよね。
それにゴールが無いとどこに走ればいいのかも問題になってくるわけでさ、下手したら走ることすらできないよ」
なにやら、ひどく抽象的で何かを象徴しているかのような台詞だった。
「ふうん……なるほどね」
「ところでさ、佐伯くんは、何を望むわけ?」
それは、きっとすごくあいつにとって大事な質問だったんだろう。
なんだか含みや深みがあるような質問だったし、それになにより難しい質問だった。
「うん?そうだな、正義の味方にでもなりたいね」
だけど、それなりに答えはあるのだった。
オレだって、答えの一つや二つは、持っている。
「へぇ……人助け、って感じ?」
「まあ、そんな感じ。助けるわけだよ、オレがさ」
だけれども、正直な話、助けて欲しいのはオレだった。
ついでに言えば、過去だけでなく、今も助けて欲しいのだった。
助けて欲しいからこその人助け、という面もある。
人助けが頻繁に行われる世界なら、誰かオレだって救ってくれるんじゃないだろうか。
そんな感じの希望を持ち続けている気がする。
自分で自分を助ける方法がわからない。
だからといって、人にもオレを助ける方法がわかるとは思えない。
だけど、自分や他人が色々やってみれば、偶然でも何とかなるかもしれない。
偶然に何とかなるのなら、それでもいい。
助けて欲しいオレだから、助からないっていうことが嫌なんだろう。
たとえそれが他人事でも、助からないということがあるのが許せないのだろう。
まあ、自分が何かを知った時点で、ある意味、もうその何かは他人事とは言えないのかもしれないが。
聞きたくなかった。信じていたかった。
誰でも、自分が痛いのはいやだし、みんなに飲まれちゃうと思う、でも。
そうでない人もいると思いたい、信じていたい。
暗い話ばっかりだけど、ここにそうでないオレという人が一人いるじゃないか。
駄目だ、駄目だ。負けちゃ駄目だ。
真実は違って、人がただの醜く汚い生命体なのかもしれないけど、それを偽ってでもいいからそんな世界にしたくない。
死ぬまで嘘をつきつづけたら、それは真実に昇華されないか。
人生がコーヒーみたいに苦いなら、砂糖を入れて甘くしてやる。
アンビバレンス。
一つのものに、まったく正反対の感情や態度を同時に持つこと。
まるで自分の中に正反対な二人の自分がいるような、そしてただの傍観者の第三番目がいるような、そんな感じ。
たとえば、
オレは彼女を助けたい。
オレは彼女を助けたくない。
そして、その二つの思考を追う、第三番目。
朝日、きれいな空気、そんな中を学校に向かって進んでゆく。
いじめはよくない。だけどあれがいじめなのかどうかわからない。
心奪われてしばらくはしらふの考え事が出来ない。そうだ、オレはいつも何かにとらわれている。
環境に左右されるオレが悲しい。そうだ、オレはまわりに流される。
誰からも存在を認められないって悲しい。そんなことがあってはならない。
オレの制御。どうすればいい?そして、どうしたい?
オレは自分の感情ってものがわからない。だけど同時にわかるようでもあり。
オレはヒーローになれるかな?なるのさ。
がらり、と教室の戸を開けた。
「おはよう」
オレは彼女に声をかける。
少しオレは微笑みを浮かべてる。
教室が、面白いほどシン、となる。
「おはよう」
彼女が応えた。
オレは、自分の席に座った。
「これ、一葉が書いたのか?」
僕は聞いた。
「うん」
「これで、完成?」
「うん」
「すごいねー、僕も物語を書いてみたことはあったけど、未完なんだよねー」
「やっぱり物語は完成してないと駄目だと思うな。どんなにいい作品でも、完成してなかったらそれはやっぱりゼロだと思うよ」
「きびしいね」
僕らは楓の家で話をしていた。
僕はPCの前に座っていて、一葉の書いた話を読み終わったところだった。
一葉がPCで打っていた作品なのだ。
「ところでさ、この後ってどうなるの?」
僕は一葉に聞いてみる。ちょっと中途半端な終わりかたのような気がして。
「うーん……女の子が、まったく今までのことなんて無かったかのようにクラスに溶け込んでいくっていうのも考えたし、何も変わらないっていうのも考えたんだけど、どうしても上手く決まらなくてさ。だったら無理に決めなくてもいいかと思って、ここで切ることにしたの。
つまり、読者任せってことかな」
「なるほどね」
それもそれで一つの終わり方だろう。
「裏切られるのって恐いよね」
会話がとぎれてしばらくしてから、一葉が言った。
なんだか突然の会話のような気がした。
「だまされているのって嫌じゃない?自分が利用されたくはないよね」
「うん?そうだね、それは嫌だね」
「だけど自分が利用されているかどうかなんてわからないし、人を信じないことには生きていけないよね」
「そのとおりだね」
「誰が幸せになろうとしったことじゃなく、誰が不幸になるかが問題だ―――そういうことなのかもね」
「それならいくら利用されたって知ったことじゃないね」
「誰かが不幸にならない限りね。
うふふ、実はね、考えていたエンディングの中に、主人公が今度は誰にも声をかけてもらえなくなるっていうのも考えたんだ。裏切りだよね、これ」
なんて恐いエンディングだろうか。
「しかもどうしようもない裏切りだよね。誰が不幸になるのかが問題だ―――自分自身が不幸になるのだ。
なんてさ。最悪だよね。そもそもシカトなんて存在否定のいじめ自体が最悪だと思うけど。まあ、いじめはすべからく最悪か。
まあ、助けたのにも関わらず自分がやられる羽目になるっていうのは最悪な話で反吐がでるけど、まったくありえない話じゃないよね。それくらいの覚悟がないで人を助けたら痛い目みるのかな」
「でも、一葉。そんな恩を仇で返すような人間は、もう人間未満だよ」
そんな人間、いちゃ駄目だ。
たとえそういうことをした方が楽だからって、そんなことはしちゃ駄目だ。
「それならきっとこの世の中には人間未満が吐いて捨てるほどいるよ。幸運にも恩を仇で返すような事態にめぐりあっていない人間だって、きっとそういう事態になったら恐怖のあまり恩を仇で返すんだ。わたしはそう思ってる」
「そんなの―――そんなの、最悪じゃないか」
「他人の協力が必要な行動っていうのは、なかなか難しいんだよね、色々とさ」
だけど、そんなの絶対に駄目じゃないか。
冷静に考えれば、一緒に仲間になったほうがいいに決まっている。
裏切りなんて愚か者のすることだ。自分の望まない世界に自分から行くなんて馬鹿げている。
そんなのは馬鹿のすることだ。そんなことをするやつは阿呆だ。
「疑心暗鬼も裏切りも、世界のどこにだって住んでいるんだ」
まるで謳い上げるように一葉は言った。
「だから、気をつけてね、貴理くん」
彼女は僕の目を見ていた。僕は彼女の目を見ていた。
彼女は、ちょっとだけ、いたずらっぽく、不敵な笑みを浮かべていた。
「あ、そういえば、貴理くん。もうすぐお正月だよ?いつかみたいにお姉ちゃんと初詣いくんじゃないの?」
一葉が言う。
「あ、そうかも」
いまさらながらに僕は気付いた。まったく失念していた。
二人でPCのある部屋から楓のいる部屋へ行く。
楓と双葉はなにやら話をしていた。僕らはさきほど、一葉が自分の作品を見せてくれると言うので、PCのある部屋に行ったのだった。
「貴理、おかえり」
「ただいま、楓」
楓がにっこり微笑んでくれた。
僕はさっきの初詣の話を楓にする。
「そういえばさ、初詣って今年も行くかい?」
「ああ、そういえば二年前はしたね。覚えてる?最終飛行だよ」
「夜景がきれいだったね」
世紀末、終わりゆく世界で僕らは紙飛行機を飛ばした。
「え、ちょっとなんか知らない話なんだけど」
「っていうか二人だけの世界ってこと?」
双子が何か言っているが、気にしない。
「じゃ、今年も行こうか、初詣」
「うん、そうだね、行こうよ」
「楓は今年、受験だしね。合格祈願もしてくるか」
「神頼みするしかないような代物じゃないよ。努力こそがものをいうんだよ」
「ふふ、いいこと言ったね」
楓は受験生といえど、けっこう僕と会っている。塾にも行っていないし、休日は僕と一緒に過ごしたりする。大丈夫なのか、と聞いたけど、貴理に会えない方が勉強の効率は悪いと言っていた。
実際、成績は問題無いみたいで、志望校にはまず合格するだろうと先生に言われたと楓は言った。
「じゃあ、ちょっと計画立ててみますか?」
「いいよ、えっと、それじゃあ―――」
僕らは計画を立て始める。
来年は2003年。特にどうということはない年だとは思うけれど、大事なのは年代じゃない。
きっと初詣は楽しい。僕はそう思った。もうすぐ十二月も終わる。