薄明階段1章
学校祭がもうすぐ始まる。
放課後の校舎には、吹奏楽部の音楽が響いていた。
学校祭で吹く曲の練習だろう。大変だ。
ちなみにこちら、情報部の部室では、学校祭にむけて自分たちが何をするかを話し合ったところだった。
僕は照明をやることになった。
「少年、もうすぐだな」
高橋が声をかけてきた。
「学校祭?」
「ああ」
「これが終われば、三年生も引退か。受験戦争に向けて臨戦体制ってわけだ」
「一年後の君たちの運命だよ」
にやり、と笑って部長が言った。
「まあ、受験って言っても、やることやってりゃ、大丈夫だって。
学校で習っていることをだいたい修めりゃいいんだから。試験でいつも八十五点くらい取ってれば問題無いだろ」
「でも、先輩。みんながみんなそう出来るわけじゃないでしょ」
「まあな。でも、三年生は成績が伸びるからな。……いや、もちろんがんばればの話だぞ。がんばれば。
一二年の遅れを取り戻すやつもいる……だけどやっぱり理想的なのは常にある程度の力を出せるってパタンだな。これは強い。やっぱり最後にものを言うのは今までがんばってきた分の合計値だ。
―――って、これ、すべて兄貴の受け売りな。
じゃ、君たちも来るべき未来が見えているんだから、がんばれよ」
そう言って彼はミステリ小説に埋没した。
来るべき未来が見えているというのは、既に未来が決定しているということか。
それは、気持ちが悪いな。
「あー、そうだ。とりあえず、部活はこれで一応終わり。帰りたいやつは、帰れ」
思い出したように部長が言って、僕は部室を後にした。
僕には、行くところがあるのだ。
教室には、楓が一人で僕を待っていた。
「ごめんね。待たせて」
「ううん。いいよ」
「じゃ、行こうか」
僕らは歩き出した。
午後の風景は、なんだか平和な感じで、のんびりしているように見えた。
小学生のころ、よくこんな風景の中を帰った。
外に出る。
この空気は、昔、嗅いだことがある気がした。
確か、こんな空気の中、家まで帰った。
そのことを楓に言うと、なるほどと彼女は言ってくれた。
校庭の横を歩く。すると、
「よっ」
フェンスに指をかけ、向こう側で佐村が笑っていた。
「栗原先輩も、こんにちわ」
「あ、名前覚えててくれたんだ。佐村くん……だっけ?」
「そうですよ。あってます」
にっこりと佐村は笑った。
「それじゃ。楽しんで」
ひらひらと手を振って、彼は校庭に戻る。
陸上部の練習だろう。大変だ。
校庭を過ぎて、学校からの人目が無くなったところで、手をつないだ。
なんだか、夏に楓を抱きしめて以来、無性に楓の体が欲しい。
もっと、体をくっつけていたい。くっつけられる内に、くっつけておくべきだとも思う。
このまま、ずっと続くのか、不安だから、余裕が無くて、がっくつ感じだけど。
だけど、僕の趣味じゃないような気もする。だけど、趣味のような気もする。
余裕が無くてがっつくのは嫌いだが、そんなのとは関係なく、女の子の体は僕の趣味だ。
だけれどあくまでも優しく。凶暴なのは、僕が嫌いだ。
そのまましばらく歩いた。楓と手をつないでいるっていうのは、どきどきした。
すごく、素敵なことをしている感じがして、楽しいと思った。
「ねえ、貴理」
「うん?」
「学校祭、一緒に回ろうよ」
「ああ、自由時間のこと?いいよ」
学校祭には、文化祭と体育祭があって、それぞれ校内と校外で行われる。
そして、文化祭には、自由に自分の好きなところを回れる自由時間があるのだ。
特に行きたいところも無いし、楓についていってもいいだろう。
そうだ。いいことを思いついた。
文化祭では、ステージ発表があり、そのときには皆、自由に座ることが出来るのだが、楓を僕の隣にするというのはどうだろう?照明の僕の、隣。なかなか穴場じゃないかな。
さっそくその考えを伝えてみると、楓もいいよ、と言ってくれた。
せっかくのお祭りなんだから、楽しまなくちゃね。
気付いたら、建物と建物の間だった。
ちょっと薄暗い感じで、でも外はまだ明るくて。
抱き寄せた。ふんわりと髪の匂いが鼻をくすぐった。
どうして、女の子の髪の毛って匂いがするんだろう?男の子からはあまりしないと思うけど。
小学生のときは、していなかったような気もする。女の子って、体に何か特別なことしてるのかな。
そんなことを思いながら、抱いていた。はっきりいって、背中のかばんが邪魔だった。
だから、お互いに下ろしてもう一度。背中に回した手でしっかりと抱きつく。
彼女が背中に回した手が、ひどく僕を安心させた。
しばらくして、そろそろ頃合いだから、抱きつくのをやめた。
そのまま、呼吸二つ分くらいの間があって、唇を奪われた。軽いキスだった。
「楓って、けっこう大胆なんだね」
道路に置いてあるかばんを肩にかついだ。
「貴理こそ。健全な青少年のお付き合いじゃないんじゃない?」
「健全だよ」
僕には、これが不健全だとはまったく思えなかった。
危ない橋を渡っているわけではないと思うし、正直に言えば、これは僕の望むところだった。
こういうことを、ずっとしたかった。
そしてこのまま――――――このまま、どこかへ、行きたい。
けど、どこに行きたいのかよくわからない僕は、楓と手をつないで、楓の家まで行った。
別れたくなかったけど、別れなくちゃいけなかった。同棲する人の気持ちがわかった気がした。
学校祭に向けては、全体のこととして、応援の練習が行われるし、部門ごとにもいくつか行事がある。
まったく用事が無い生徒というのは基本的にはいない。ちなみに僕は部門でいうなら、部活部門の情報部にあたる。
「苦しいのを乗り越えて、みんなで何かを掴むっていうの、嫌いなんだよね」
品森くんは、応援の練習のあと、僕にこう言ったことがある。
「そんなことして掴んだら、俺はその何かに価値を見出せなくなってしまうよ」
「どういうことさ」
「たとえばね、何かの運動部を思い浮かべてくれよ。そこでは厳しい練習が待っているとしよう。そして厳しい先生もいる。そうしてその練習に耐え、力をつけて、大会に出る。そして優勝する。
楽しいかな?俺は、楽しくなかったよ。今のたとえ話は俺のことなんだけどさ。
みんなから、すごいね、って言われる。うれしくないんだよな。今までが本当に嫌でさ。
今までの練習が本当に嫌だったから、そうして出てきた結果も喜べないんだよ。やっぱり、自主的にやるのが一番だと俺は思うね。まあ、理想論だとは思うんだけどさ。
でも、いい結果を出すことよりも、俺は楽しみたい。楽しくない練習の上にある優勝なんて俺にとっては価値が無いんだ。楽しい練習の上にある楽しい試合で負けても俺は楽しいよ。俺にとってそれは価値がある。きっとね。
これは、実際にやったことがないから、よくわかんないんだけどさ。楽しい気がするんだなあ。
だから、俺は応援練習とかあまり乗り気がしないし、ちゃんとやれよ、とかいう先輩を見ているとしらけるし、なおかつ腹が立つんだよな。ああ、ごめん。不愉快な感情を表に出すと、空気が汚れちゃうね」
じゃ、ばいばい、と言って、彼と僕は別々の道へ歩いていく。
「あ、そうだ」
彼が振り返った。
「選択教科の国語で、詩を載せたんだ。よかったら見てよ。意味不明かもしれないんだけどさ」
「うん、わかった」
僕の返答に、彼はにっこり笑った。
いい笑顔だと思った。気分が良くなった。
「ところでさ、なんで佐村はあんなにたくさんの女の子とつきあったの?」
学校祭を間近に控えていたから、陸上部の練習はもう休みに入っていた。
そんな時期に、たまたま佐村と会って、話していた。楓に会いに行く途中だったけど、少しくらいの時間はあったから。
「え?つきあったわけじゃないよ。ふたまたでもないし。まあ、ホストみたいなことやってたんだよな」
二年生の一学期ごろの佐村は、けっこうたくさんの女の子たちと「できている」といううわさが流れていた。どうでもいいことだったけど、こいつは悪いやつじゃないから、浮気なんてするとは思えなかった。
だから、前々から僕はうわさの真意というやつを確かめたかった。今までは機会がなかったが、今がそうだと思った。
「ホスト、っていうと?」
「うん、まあ、そうだな、短く言うと、俺のことを好きって言ってくれる女の子が幾人かいたんだよ。
だけど、俺はみんな同じくらい好きだった。だから、誰かとだけ付き合うのは嫌だった。
そこで俺は聞いた。『いったい、俺とつきあって何がしたいんだ?』って。
デートとか、長いこと一緒にいるとか、色々。って言ったから、俺は『そんなのつきあってなくったって出来るよ』って。それで、その子たちと、仲の良い友達、ってことで色々したんだ。
そういうところからうわさが立ったんだろうな。まあ、なかなか楽しかったよ」
「楽しかったよ、ってことは過去形か」
「うん。今はもう誰も俺のところにはいない。やっぱりあれかな。そういう風な付き合い方だと、そういう風な関係にしかなれないってことなのかな。今でもみんな仲の良い友達だけど、今思えば、あの子たちが言っていた、『デートとか、長いこと一緒にいるとか、色々』っていうのと、俺が思ってたそれとは、違うのかもしれないな。
いや、わかんないぜ、本当のところは。だけど、俺は一人しかいないからさ。一人でたくさんの相手をするのはけっこうつらいっていうのはわかった。……まあ、でも結構みんなのこと、愛してたんだけどな」
最後に、ぽつりと、彼は一言つぶやいた。
なんだか難しい話をされた気がした。
しばらくの沈黙のあと、僕は言った。
「……そっか。今はみんな、幸せなのかな」
「そうだといいな。相川も、彼女いるんだから、大事にしろよな。一人で一人の相手をするのも、深くまで行って大変かもしれないけどさ」
「うん。がんばる」
「がんばれ」
そう言って、僕らは別れた。
僕は、楓の待っている教室へ向かう。
僕は彼女と一緒に帰る。
いよいよ、文化祭当日だ。
まずは文化祭。そして体育祭。
僕は、祭りという言葉には興奮するのだが、実際の祭りにはあまり興奮しない。
祭り、と聞くと、なんだかどきどきわくわく、良い胸騒ぎがするのだけれど、実際に色んな祭りに行ってみても、どうにもなんだかしっくりこない。どきどきわくわくしない。
実は、学校祭も例外じゃなくて、僕はちっとも盛り上がってはいなかった。
そして、いつものことだった。
朝、教室にかばんを置いて体育館へ。文化祭は体育館集合なのだ。
朝も早いのに、前のいい席を取るために場所取りをしている人たちがいる。
まあ、基本的には先輩が優先というか、先輩が早くに来るというか、そういう風習なのだけど。
いつも学校に来る順番は、一年生が一番早く、二、三と続くのに、この日ばかりはそれが逆転する。
三年生は最後だから気合が入っているのだろう、けっこうみんな早く来て、場所を取る。
先生の姿もちらほら見受けられた。さて、情報部のみんなと最終的な打ち合わせをして、持ち場につこう。
持ち場は、体育館の高いところにある通路のような場所だ。
照明を照らすんだから当然といえば当然なんだけど。
ちなみに僕は正確にその場所をなんと言うのか知らない。
朝の光に、色々なものが照らされている。
ボールだとか、昨年の文化祭で使われただろう絵とか、なんに使ったのかよくわからないものも。
しばらく、高いところから下を見ていた。
不思議な気分だった。手すりにもたれて、ぼんやりと。
希望はあるような気がした。ただ、そこに手が届くかどうかという問題だと思った。
「おはよう、貴理」
「ああ、おはよう」
にっこりと笑って楓が手を振っている。
彼女は僕にとって希望になるだろうか?
「素敵な朝だね、楓」
なんで僕はこんなことを言ったんだろう?
きっと、そういう気分だったんだろう。洒落てみたかったのか。
「え?あ、ああ、うん。確かに」
とっさの返答は出来ないみたいだった。
それでよかった。ちなみに、出来てもよかった。
「手。つないでくれる?」
「うん」
僕の望みを楓はかなえてくれた。
手をつないで楽しいのは一体いつまでかな?
そんな台詞が心のどこかから聞こえてきた。
だが、そんな台詞は無意味だった。ただの言葉遊びだった。
そんな台詞ごときで僕の心にさしたる変化は起こらない。そんな台詞はただの感情を揺さぶらない言葉の羅列にしかすぎない。
ぎゅっ、と楓が手を握る。ぐっぐっ……と握ってくる。
そこに何の意味があるのかよくわからないけれど、僕への何かの行動だと思った。
だから、僕も手を握り返した。
飽きるまで、続けていよう。
明転。ホワイトアウト。
劇が始まる。役者が揃う。
照明の色を変えてゆく。
赤から青へ。信号機なら、渡れる変化。
青から赤へ。信号機なら、止まる変化。
そして白へ。信号機には、それはない。
暗転。ブラックアウト。
劇は終了した。
カーテンが閉められているから、下の人はぼんやりとしか見えない。
ステージのライトが点いた。次のところに移行する。
しばらく僕にはやることが無い。
ひまな時間。退屈。僕は嫌だ。
ただダラダラとした時間が続いていって、そしてどこへ行こうというのか。
恐怖すら感じる。
楓はステージを見ていた。
無防備な横顔。薄暗い明かりが彼女の様子を浮かび上がらせる。
この薄暗さは、いつも見ているのとはちょっと違った見方。
深呼吸。落ち着け。抱いちゃ駄目。
少しばかり暑く感じた。ちょっとだけイライラした。
吠えたい気分だ。狼みたいに。
今はまだ、満月の夜ではないというのに。
ステージ発表は終わった。
なんだか夢のような暗闇だった。
今はカーテンが開けられて、昼が中にまで入ってきている。
けれども、カーテンを閉めていたさっきは、まるでいつでもない時間みたいだった。
さて、あとは校内を見回るだけだ。
ああ、そういえば、食事もまだだった。
まあ、とりあえず、下に行こう。
照明のスイッチを切って、コンセントを抜く。
片付ける。といっても、脇に置いておくだけだけど。
年がら年中、照明はここにあって、祭りのときだけ使われるのだ。
扉を開けて、薄暗い階段を下りていく。
足元には気をつけて。
前を下りていく楓の頭を僕は見ていた。
なんだか抱きしめたい気分だった。まるで、楓の体に囚われたみたいだ。
もしや、魔法をかけられた?
扉を開けて、体育館に出た。
広い空間が僕たちの前に広がる。
上から見ていた景色が目の前にある。
さて、けれども、どうなるだろうか。
予定通りに行くわけないか。上等だね。
「ねえ、貴理。ご飯、一緒に食べようよ」
「わかった」
真顔で答える。
息を吐き出す。少し、考えすぎか。
「一緒に食べよう」
楓にほほえみながら返事をした。
うまく、笑えなかった気がした。
学校祭では、屋上が使える。
食事の場としてなのだけど、人気スポットだから、あまり人は入れない。
普通、一年生と二年生は遠慮して、三年生が食べる。
とはいってもやっぱり一、二年生も何人かは居る。三年生でも屋上に来ない人もいる。
そして僕らは屋上にやってきて食べることにした。
いつもは入れない場所にいつもは見られない風景。そして、いつもと違う人たち。
「へー、これが楓ちゃんの彼氏かあ」
「どうも、こんにちは。相川貴理です」
初めての人としゃべるとやや興奮気味になる僕は、自然と笑顔を振り撒いていた。
ハイになると、笑顔になるのだ。ゴキゲンドラッグが頭の中で軽く分泌されているみたいだ。
目の前には二人の女子生徒。そして楓と、僕。
「こんにちは。水谷 最中です」
「余 初香です」
彼女たちも自己紹介。
「もう、楓ちゃんもてるのに……幸せものだなあ、相川くんは」
水谷先輩が言う。
「あはは。ありがとうございます」
にこにこと笑える。ああ、人と話すって楽しいなあ。
適度な刺激に神経が悦ぶ。楽しくって中毒になりそうだ。
「でも、最中ちゃんには木村くんがいるしー」
流し目で水谷先輩を見る楓。
「それを言うなら、はーちゃんには流田川くんがいるよ」
「ちょっと、別にあいつとは付き合っているわけじゃないんだからね」
「でも、脈ありだと思うよー」
あははは、と笑う。うん、なんだか素敵な感じ。
「あ、最中、ここか。一緒に食べようよ」
優しげな感じの男の人がやってきて、声をかけた。
その後ろには、ちょっと格好いいような男の人がいる。
「これがわたしの彼氏の木村 優。で、もう一人が流田川 熾人。
あ、こちらは楓ちゃんの彼氏の相川貴理くん」
優しい感じの人が木村先輩で、格好いいのが流田川先輩か。
よろしく、とお互いに挨拶を交わした。
「それにしても、相川くんはすごいな。どうやって上級生とつきあえるんだ?俺には無理だ」
流田川先輩が言う。
「そういえば、出会いは公園でしたね……」
ぼつぼつと思い出を語りだす。
「そういえば、なんであのとき楓は飛行機飛ばしてたのさ」
ふと、疑問に思った。
「え?ひまだったからだよ」
「でも、ひまだから、飛行機を飛ばす人って少ないよね」
水谷先輩は言った。
「ま、いいんじゃない?人それぞれだよ」
にっこりと、木村先輩。
そのあとも僕らは談笑して、ご飯を食べた。
楽しいひと時だった。
「じゃ、行こうか」
階段を下りていく。
隣には楓。さて、でもどこに行こうか。
特に行きたいところも無いし―――あ、いや。
品森くんのところがあったな。詩を見てみよう。
「楓。僕はちょっと詩を読んできたいんだけど、どこか行きたいところってある?」
「ん?そうだね、一通りまわりたいけど、これといって行きたいってところはないから、先に詩、見ちゃおうか?」
「そうしよう」
僕らはおしゃべりしながら校舎を抜けていく。
ざあ、と中庭から風が吹いてきて、楓の髪を揺らした。気持ちのいい風だ。
選択国語の作品展が開かれている教室に来た。
短編小説、短歌、俳句、詩、習字などもこの作品展のところらしい。
品森くんの詩を探して見ると、しばらくして見つかった。
夜に至る、という題名だった。
夜が来る。
今まで綺麗なものを具現してくれていた太陽は地に沈む。
最後に一切れ、きれいな残光を君の目に焼き付けて。
おそらく月は昇るだろう、満月か新月か何かはわからないが。
もしかしたら星のない夜になるかもしれない。
君のもとに風がふいて、心地よい闇が君を包むかもしれない。
でも、君は見るだろう、暗く冷たく理想とは遠い悲しく望まぬ、夜を。
凍れる大気のもとで、君は誰かの太陽か月か星になるかもしれない。あるいは夜か。
これが真実だ、世界はまことの姿をあらわし始めた。
誰かの張った結界は除々に消えていき、真実が君の前に横たわるだろう。
今は最後の残りわずかになった束の間の光を楽しもう。
暮れる光の中、宴に興じよう。もうすぐ夜が来るのだから。
せめて準備はしておこう。いくばくかの魔法と希望と知識と何か。
そして君は夜に至る。
けっこう意味深な詩だった。
「夜……か」
怖い夜に、ならなければいいけど。
それに、「凍れる大気」という言葉。もしかして品森くんは睦月さんの喫茶店のことを知っているのか?
色々と考えさせられる詩だった。
僕らはしばらくそこにいて、ほかの作品も見てから、教室を出た。
さまざまな教室の、さまざまな展示を見た。
それからステージに行き、僕らはそこでの出し物を見ていた。
カラオケだとか、バンドだとか、漫才だとかもある。
楓は、けっこう盛り上がっているみたいだった。
さっき出会った水谷先輩たち四人組もいて、その人たちと盛り上がっていた。
僕は、さめていた。
あの独特のやるせなさが僕を包んでいた。
いや、それでも心のどこかは楽しんでいるのだった。
ぼんやりとたたずんで、笑顔ではしゃぐ楓を見ていた。
楓が楽しそうだったので、僕は幸せだった。
この暗い体育館に、たくさんの人がいて、楽しんでいるみたいだ。先生たちも、何人かいる。
そうだ、みんな楽しめばいい。唐突にそう思えた。
ステージ上ではバンドのお兄さんがギターをかきならしていた。乗っているみたいだ。
いい感じ、いい感じ。このまま乗って、いけるところまで。
なぜかしら今、僕は興奮できないけれど、きっとそれでも大丈夫なのだ。
大丈夫じゃないという気もする。だけれど、大丈夫じゃないかもしれないという危険性をわかっている今の僕なら、それなりに大丈夫だと、僕は思った。
もうすぐ、文化祭が終わる。
夕焼けがきれいだった。楓と一緒に帰る。
明日は体育祭だ。楓と同じ色だった。つまり、楓と僕は味方同士。同じグループだ。
また、どうしようもなく、楓を抱きしめたくなった。
ああ、僕は致命的に楓の体に依存しているみたいだ。
女の子の体は男の子にとっては麻薬みたいなものかもしれない。
まあ、それでもいい。それでも、よかった。
そっと手を握る。機会があったら抱きしめよう。
でも、それまでは手を握っていよう。
それにしても、家にたどり着くまでに、チャンスはあるかな?
なければ、つくるか。
それとも、運に任せようか。
これは、なかなか難しい問題だった。
この問題を頭のすみっこでコトコト煮ながら、僕は僕の頭の大半を楓との会話に使うことにした。
どうなるのかは、僕も知らない。
体育祭。朝だった。
今日の僕は、死にたくない、と痛切に願いながら青空を眺めていた。
「おはよう、相川くん」
「ああ、品森くん。詩、読んだよ。意味深だね」
「ありがと」
僕の前に、にこやかに笑って品森くんが立っていた。
「ところでさ、あの詩のなかに『凍れる大気』って文字が出てきたけど、同じ名前の喫茶店、知ってる?」
「ああ、知ってる。あの喫茶店からその表現は取ったんだよ」
なるほど。納得だ。
「実は、あれ、楓の血縁がやっている店なんだよ」
「へー、そうなんだ。中までは入ったことがないなあ」
「機会があったら、どうぞ」
「ああ、そうするよ。ところでさ」
品森くんは言った。
「俺、恐い映画見たんだよね。ある避暑地だったかに家族や親戚や友達と一緒に来た主人公がいるんだけど、まわりのやつがどんどん死んでいくんだ。基本的に自分と親しくないやつからなんだけどさ。あと、年齢順もあるな。
でも、例外的に死ぬやつも出てきて……で、最後に主人公が死んで終わり。
そして怖いのは、なぜ自分たちが死ぬのか最後の最後までわかんないままなんだよね。わけもわからず、殺されていくんだ。怖いぜ。
で、俺がこの映画を見て本当に怖いと思ったのはさ、現実もそうだな、って思ったからなんだよ。
いつのまにか生まれていて、わけもわからず周りのやつが死んでいく……映画は、そのスピードを上げただけだな、って思ったら……すごく怖くなったよ。映画館を出ても恐怖に震えてた」
晴れた朝で、空気はすがすがしいし、僕の気分も悪くなかったし、この会話で僕は気分を悪くしなかった。もともと今朝から僕は死の恐怖で気分が悪い。この会話のせいじゃない。
そして、品森くんの言う恐怖は、僕には理解ができた。
その恐怖を、僕は知っていた。
「ああ、そうそう。その映画で人が殺されていく最中に発狂する友人がいるんだけどね。
そいつ、『どうせみんな死ぬんだーっ』って叫ぶんだけどさ。あれもなかなかにやってくれた台詞だよな」
「的を得た台詞だね」
「まったくだよ」
そんな会話をした。
「ところで、相川くんは、楓さんとはうまくいってるの?」
僕は、返事の代わりに、にやりと笑って親指を立ててやった。品森くんも、にやりと笑った。
「じゃ、お互いにがんばろうね」
「うん」
品森くんの声援に、うなずく。
そうだ、とりあえず、楽しもう。
また、青空を見る。
死にたくない。今年の夏は、なんとか乗り切れたけど。
毎年、退屈になってくると、死にたくなる。そしてしばらくすると、僕を死の恐怖が襲う。
死の恐怖―――あの最高位の絶望感と無力感、そしてありえないくらいの確実性、それらを伴うあの感情。
死の恐怖を生まれて初めて感じたとき、生まれて初めて自分ではどうしようもないことがあると実感した。
このまま生きていると、いつか死ぬっていうことは、知識としては知っていたはずだった。
しかし、そんな事実を知っていても、そのことに別に恐怖は感じていなかった。
だけれど、あるとき恐怖を感じた。退屈で死にたくなったとき、絶望的な恐怖を感じた。
いつか死ななくてはならないとは、なんて人生だ。
死んだら一体どうなるんだろう?
叫びたいくらいの恐怖だった。あの恐怖は一生の中で味わう恐怖の中でも最高位だと思う。
怖い。怖い。ひたすらに怖い。
まさか僕は自分がホラー映画の中に迷い込むとは思ってもみなかった。
絶対にいつか殺されるという恐怖が理解できた。逃げられない恐怖を知った。
どうしようもないというのはこういうことか、と理解した。
本当にもう、救いようが無かった。
なぜ僕らはいつか死ななくてはならないのか。摂理?黙れ。
僕は死にたくなんかないんだ、なのになんで死ななくちゃならないんだ、僕は何か悪いことをしたのか。
それともそんなことは関係がないのか。くそ、なんでこういう世界なんだ。なんでこんなことになるんだ。
ずっと幸せな生活が続くと思っていたのに。いつか終わるなんて事実、実感なんて伴っていなかったのに。
僕は今のこの状態が好きだ。このまま続いて欲しい。終わってほしくない。
でも、いつか終わるんだね。僕が生きていてもこの状態は変わっていくよね。
ああ、まるで悪夢を見ているかのようだ。いっそ、悪夢だったら良かったのに。
青空の向こうには暗い宇宙が待っているのだ。
ああ、背筋が凍る。世界から安心が消えていく。
もし仮に思考が脳内の細胞を飛び回る電気信号でしかないのだったら、死んだら僕らは何も考えられなくなるのか。永遠に、夢の無い眠りにつくのか。二度と覚めることが無い眠りに。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。ああ、やめてくれ、そんなのはごめんだ。
これからどうなるんだろう?僕が死んだ後、この世界はどうなっていくんだろう。
やっぱり人間がしばらく地球を支配するのだろうか。そのあとはどうなるんだろう。
地球が駄目になったらどうなるんだろう。ああ、そもそもこの宇宙はどうなるんだろう。
僕の意識が永遠に戻らないままで、この世界は続いていくのだろうか。ああ、怖い。
暗い宇宙がその恐怖の神秘で僕を押しつぶしていく。
まるで永遠の暗闇が僕を待っているようだ。この世界の周りは真っ暗闇だ。
そもそも僕の意識はどこから来たんだろう?そしてどこに行くんだろう?
死んだらもうこの景色は見られないんじゃないかな?みんなと会えないんじゃないかな?
そもそも僕なんてものがきれいさっぱりなくなっちゃうんじゃないかな?
天国があるとしても、それはどんなところだろう?本当にあるのかな?
答えられない。知らない、わからない、理解できない。そしてもう本当に怖い。
どうなってしまうのか、本当にわからない。わからないということが実感できる。そしてこわい。
ただ、妙に暗闇が迫っている、そんな予感がする。
そして、心臓をわしづかみにされている、そんな恐怖感がある。
いつもはこんな恐怖、日常に埋没しているのだけれど、たまにひょっこりと出てきて、確かな事実として僕の目の前に展開するのだ。そして僕は現実に目の前で起こっている恐怖に為す術も無く立ち尽くすのだ。
そしてひたすらに祈る。どうかこの恐怖が再び日常に埋没しますようにと。どうか見なくても済むようにと。なぜなら、見たところで、どうしようもないからだ。救いようがないからだ。
だから僕は目を逸らしたい。直視なんてしたくない。底知れぬ闇に心が壊されそうになるから。
だけど、心の中に芽生えた恐怖はなかなか出て行ってはくれない。自分自身の中から湧き出たものは、自分自身でしか直接対決はできない。だから、この恐怖がおさまってくれるのを待つばかりなのだ。
ひたすらに底なしの暗闇を有する最恐の夜が僕の周りを囲んでいる、そんな実感に震えながらも、僕はなんとか我慢して立つしかないのだった。
しかし―――そう、しかしだ―――こんなのは間違いだろう?
駄目だ―――良くない―――こんなことがあってはならない―――。
救いがどこかになければおかしい。クリア出来ないゲームと同じ原理でおかしいと感じる。
ミッションはオールクリアーできるはずだ。
なんとかならなくてはならないはずだ。逆転しなくてはならない。
このまま終わるはずがない。妙な実感を持って僕はそう思う。
だけれど理性がこうも言う。現実とは、どうしようもないのだ、と。
救いがないというのも、それがただそういうものであるだけで、正しいとか間違っている次元の問題ではないのだと、頭のどこかで誰かが言うのだ。
それでも僕は、嫌だった。この状況は許せない。
笑わなくてはいけないし、楽しまなくてはいけない、幸せでないといけない。
幸福な結末までたどり着かなくては嘘だ。
だから僕はなんとかする。僕は望むところへ行く。絶対に行くのだ。半ば怒りをもって、僕はこれを断言する。
現実問題として、僕がいつか死ぬということは変えられそうもない。けれども何か道はあるはずだ。
そう、僕は知っている。八方塞でどうしようもなくて救いようもなくても、それでも笑えるということを。
満足なんてしてやらないかもしれないし、結局幸せじゃないのかもしれないけど、それでも望むことを続けていたのなら、それは僕にとって価値のあることだから、だから――――
「おはよう、貴理」
僕の長い考え事を破ったのは、僕の恋人だった。
「おはよう、楓」
僕は、彼女に笑い返した。
体育祭が、もうすぐ始まる。
自分たちの出る競技をこなして、昼食は楓と一緒に屋上で食べた(あの四人とも一緒だった)。
そして午後でも同じような繰り返しが続いてゆく。ああ、少しばかり駄目だな。
なぜだか知らないけれど、僕は体育祭でも盛り上がることがあまりない。
僕にとって別に盛り上がるようなことではない。僕を興奮させてはくれない。
まあ、僕を興奮させるような出来事というのは少ない。
以前、誰かにクールだ、って言われたことがあったけれど、それは多分、僕があんまり興奮しない、つまり感情が表に出る機会が少ないためだろう。
別に感情が表に出にくい性格ではないと自分では思っている。むしろけっこう感情的な性格だと思う。
ただ、表に出る「機会が少ない」んじゃないか―――そう、自己分析する。
いや、実際のところはよくわかんないけどね。
というわけで今はリレー。
みんなはわーわー、盛り上がっている。
応援団の方々が一生懸命、声を張り上げて応援していた。
しかし、正直、僕にとってこのお祭りは別にどうでもいいものに―――
違いない、と思うんだけれど、そんな言葉を発する僕を僕自身が見てみると、あまり素敵だと思えないし、なおかつ、どうでもいいと口に出してしまったら体にたまっている気合みたいなものが抜けていってしまって、生きる気力が無くなりそうな気がするので、ちらりと思う程度にして口には出さないことにした。
あ、楓が走っている。
きれいだ。うん、そう思う。
若い体だからだろうか、と考える。
ああ、ひどく気の滅入る考え事だ。若さだけが、現在の唯一の救いだという気もする。
年を取ったら、もうどうにも手遅れになるんじゃないかという気がする。
だってほら、大人が働いている様子を見ると、どうにも吐き気がするときがあるから。
もちろん全ての大人に対してそう思うわけじゃないけれど、たとえば少し頭のうすくなってきたおじさんが少し退屈そうなあくびの一つでもしながらコピーを取っていたりすると僕は気が滅入る。
少なくとも気が滅入るときがあった。
いやいや、あるいは拡張も可能だ。
つまり、大抵のものごとに気を滅入らすことだってできるはず。
中学校の一年生のときにはあらゆるものに吐き気をもよおしたこともある。
たとえばお母さんがご飯を作っている光景なんかすらも、もう最高に気が滅入るって状態だった。
もちろん授業も気が滅入るのだ。黒板にチョークで何か書く先生とか授業を聞いている生徒とか聞いていない生徒とか授業に参加している自分とか、当然のように僕を憂鬱な気分にさせてくれた。
当時の僕は、ブルーなんだよ、とひたすらに言っていた気がする。
つらく、くらく、沈んでいた。そのわりにちょっとしたことで不安になったりして、常に沈んでいられるわけではなかった。ほんのちょっとしたことで沈んでいられなくなるくらい、自分の憂鬱さは軽いものなんだと思って、それもまた最高に気の滅入る話なのだった。
ほんのちょっとしたことで駄目になるくらい軽い憂鬱は、だけれど沈んでいるときにはなかなかに重くて、軽いはずなのに重い、重いはずなのに軽い、そういう感じで、やっぱり気が滅入った。
多分、全ての発端は楓のせいだ。責任転嫁っぽいけど、そう思う。
楓がいなくなったから、会いたいけど会えなくて、どうしようもなくってわけがわかんなくなって、心のつりあいが滅茶苦茶になっちゃったんだろうと思っている。
まあ、実際のところは誰にもわかりはしないだろうけれど。
そう、とにかくなぜだか世界のどこにも救いが無い気がする。
いやな気分だ。楓に抱いてもらって気を紛らわすことも出来るけど、それだと逃げてることになる。
逃げてもきっと追いつかれてやられてしまうなんてのは、実に簡単にはじき出せる結論だった。
あ、逃げ切った。
ああ、今のはリレーの話。
僕らの勝利が今、決定した。