グリス村
いくら時間が経ったのだろうか。風が豊かな自然の匂いを含みながら、俺の肌を優しく撫でる。ついでにフサフサとしたものが俺の四方を囲んでいる。
──ここはどこだろう。
期待する気持ちも込めて、ゆっくりと目を開けた。
「おぉ……!」
そこには風に靡いて黄金に輝く麦畑が一面に広がっていた。立ち上がって周りを見渡すと、右側には、少し先に森林があり、その反対側に村があった。どうやら森林と村は小道で繋がっているようだ。
目を凝らして村の家々を見てみるとそれは現世の建築物ではなかった。建築技術においては現世と劣っているのだろうか、木造とはいえ、非常に簡素だ。
きっと俺はすでに異世界にいるのだろう。間違いなくこのような景色を現世で見ることはない。
しばらくその光景に見惚れていると、突然重要なことを思い出した。
「あれ……あいつは?」
周りをぐるりと見渡すと、背後に、麦畑に埋もれたシャーリアがいた。俺と少し離れたところに横になっている。転移前は瀕死状態だったはずだ。もしかすると……死んでしまっているかもしれない。
俺は我を忘れたかのように麦の大群を振り分けて、急いでシャーリアのところへ向かった。
「おい! シャーリア!」
しゃがみ込んでシャーリアを強く揺さぶる。彼女はそのまま動かない。
(まさか、転移の影響でかなり体力を削られてしまった……とか?)
可能性はある。そう考えていると、俺も気が気でなくなる。
「シャーリア!」
一際大きい声で叫んでしまった。目を覚ましてくれなかったら俺は孤独だ。俺一人で異世界の秩序を管理するなんて無茶だ。藁にもすがる思いでシャーリアを揺さぶる。
するとやっとのことで彼女の体が一瞬ピクッと動いた。
「ん……んんっ」
シャーリアが捻り出したような声を出すと、すぐに体を起こし大きな欠伸をした。休日の日の朝のような光景である。瀕死のはずなのに随分と悠長としている姿に、俺は一瞬戸惑ってしまった。
「あぁ……えっと。体は大丈夫か?」
「ん? 私は大丈夫ですよ」
そういうと、シャーリアは体の部位を色々と動かして、大丈夫だとアピールして見せた。俺は安堵して口元を少し綻ばせた。
「瀕死だったんじゃないのか……?」
「いえ、治ってるみたいですよ?」
「なら良かった」
どうやら俺の勘違いだったらしい。ってことはシャーリアはただ寝てただけだったのか。まぁ欠伸までしていたわけだし、きっとそうなのだろう。
シャーリアが体を伸ばし終えて、よっ、と立ち上がる。そして俺と同様に周りを見渡した。
「見たことない景色……。もう異世界ですか?」
「ああ、多分そうだ。あっちにある村の家とかも、現世にはないものだ」
俺が村の方へ指を差すと、引きつられてシャーリアもそっちを向いた。しばらく眺めたあと、納得したように何度か軽く頷く。
「まぁ無事にこられたってことで! 良かったじゃないですか、先輩」
「あぁ」
「ブラッディアってやつに気に入られたんですか?」
「わからん。でも今生きてるってことはそういうことかもな」
「いやぁ、良かったですよ! 先輩のことだから私のこと裏切って一人だけ逃げちゃうんじゃないかと思いましたよ」
「バカかお前。そんなことするかよ」
そう言うと、シャーリアはこちらを振り向いてニヤっと笑った。小悪魔のようなその笑顔がまたウザい。
その時、ふとスクロールの事を思い出し、気を取り直して真剣な眼差しでシャーリアに目を向けた。
「それと、ブラッディアに渡されたスクロールの事だが」
「はい」
「ちょっと待ってろ。今取り出す」
腰に取り付けてあるウエストバッグから二つのスクロールを取り出す。死術に関するスクロールと身体能力に関するスクロールだ。これを開くとブラッディアが持つ能力を享受できる。しかし、スクロールに関しては基本、範囲効果がなく、あくまでも個人にのみ効果が付与されるため、二人とも能力を享受できるとしても、死術か身体能力のどちらかということになる。
「どっちが良い?こっちは死術のスクロールで、こっちが……」
「こっち!」
俺が言い切る前に、シャーリアが身体能力のスクロールを手に取った。
「身体能力が欲しい」
「あぁ、そうか」
意外とあっさり決めてしまうことに少し驚いた。これまでに幾度となくシャーリアに死術を教えてきた。ある程度の成長はしてきてはいたが、死術を上手く使いこなせていたかというとそうではない。ほとんど簡易死術しか扱えない彼女にとって、死術強化のスクロールは何が何でも欲しいものだと思っていたのだ。
「じゃあ、俺が死術強化のほうを貰う」
各々スクロールを手に取り、お互いに向かい合って、手の中でゆっくりと広げていく。意外とそこまで長くはなかったため、開き終えるのにそこまで時間はかからなかった。
スクロールを開き終えるとすぐに、それが自ら輝きを放ち始めた。
「うっ」
とんでもない眩しさである。思わず目を瞑ってしまった。以前別のスクロールを開けたことがあるが、ここまでの強さではなかった。
存分に光を放ち続けたのち、瞼の内側が再び暗くなっていく。
「終わった……?」
ブラッディアの力を授かった俺はどんな風になっているのだろう。ものの見方とか感覚とかが変わっているのだろうか。そんなことを期待しながら、恐る恐る目を開けた。
──しかし目の前に広がっていたのは、何も変わらない風景。そしてキョトンとした顔をするシャーリア。地面にはスクロールの焼けた灰が虚しく落ちている。そして焦げ臭い。
……何というか、思った以上に自分が強くなったという感じがしない。腕を組んで再度目を瞑り、自分の心の中を見つめてみる……が、やっぱり強くなったという感じがしない。
「どうだ? 何か変わったか?」
シャーリアは首を傾げた。
「実感が湧かないです」
「だよな」
「あ、これもしかしたら詐欺じゃないですか? 私たちを『力が強くなるから』ってことを口実に、異世界に閉じ込める、みたいな……?」
「バカか」
シャーリアは詐欺と言うが、『異世界に閉じ込める』といったようなことは流石にないということは俺も感じていた。確証はないが、この実験に関してブラッディアは、非常に興味のありそうな口ぶりだったし、そもそも俺たちの存在を現世から抹消したいのであれば、あの時点で俺たちを殺していると思う。
今現在、自分が強くなったかどうかは分からない。しかし、それは試してみないと分からない。とりあえず、それを試すことができる場所に移動すべきだろう。やはりそこの森林の中だろうか……。
そう思案して、あちこち見渡していたとき、とあるものが俺の目に映り込んできた。
「……あ」
それは、そこの小道からポカーンとした顔でこちらを覗く、人間の男女子供二人だった。どうやらこちらが見えているらしい。
(おかしい……。人間に死神は見えないはずだけど……)
いや、もしかすると俺の周辺の麦を眺めているだけかもしれない……。そんな淡い期待をかけながら、少し左右に移動してみる。
が、やはり子どもたちは、俺の姿を目でしっかり追ってきた。
(いや、もしかすると子どもたちが実は死神で、俺たちの姿が見えるって可能性も……)
と思案したが、その望みもすぐに打ち砕かれた。ブラッディアが言っていたように、この異世界には彼の実験のために死神がいないのだ。だから多くの問題が発生しているとも言っていた。
──とすれば、この子どもたちは本当に俺たち死神の姿が見えている、ということになる。
子どもたちは中世ヨーロッパの庶民のような服装をしている。だいたい六、七歳くらいだろうか。
異世界で初めて会った人間である。とりあえず一声かけてみるべきか。
「やぁ、君たち」
親身に言ったつもりだったが、子どもたちは何の言葉も発しない。ただポカーンと見ているだけだ。
「おい。聞こえてたら何か言ってくれないか?」
やはりだめだ。何も反応しない。目だけは追ってくるのに。
そこで痺れを切らしたのか、シャーリアが「ちっ」と舌打ちし、止める間もなくザクッザクッと小麦を踏み倒しながら、子どもたちに向かって駆け出していった。
「おい! 待て!」
そう叫んだが、全く話を聞いていない。
子供たちはシャーリアの形相に驚いたのか、逃げ出してしまった。
「ママー!」
子どもたちがそう叫んで間もなく、シャーリアが子どもたちに追いついた。そして子どもたちの後ろ襟を両方の手でそれぞれ掴み、がっちり離さない。
制止するため、俺もそっちへ駆けていく。
「おい人間ども。見えてるなら見えてるで言えよ。はっきりしないと殺すぞ」
シャーリアが殺人鬼のような顔で背後から二人にそう告げた。
シャーリアは生きている人間が嫌いだ。仕事中も愚痴をこぼすことがあったが、まさかここまでとは思わなかった。俺の推測では、前世で、彼女が人間嫌いになってしまった何らかの要因があると踏んでいる。詳しくはわからない。
子どもたちは……というと、後ろを振り返ることができずに、恐怖で涙目になってしまっている。
流石にマズいと思い、すぐにそこへ駆け寄った。
「おい、子どもたちを恐怖で煽るのはやめろ。いいか、俺たち、しに……」
“死神”と言いかけて言葉を引っ込める。子どもたちも話を聞いているからだ。
俺たちが死神であることが人間にバレてしまっては元も子もない。異世界がまだ完全に把握できていない状態で下手な真似をしてしまっては、後々困ることも出てきてしまうかもしれない。
そこで、子どもたちには聞こえないように、シャーリアの耳元で差囁いた。
「子どもたちを怖がらせるな。第一、我々死神の仕事は恐怖の感情を減らすことにある。ここは俺に任せろ」
ふんっ、と気に食わないような顔をして二人から手を離す。そして俺は子どもたちの目線に合わせてしゃがみ込む。
「ごめんな、このお姉ちゃん、ちょっと怖いんだ。俺は何もしないから大丈夫。安心してくれ」
そう言って優しく微笑むと、子どもたちの目がまっすぐ俺を見てきた。さっきほどの恐怖心はなくなったとはいえ、まだ怯えた表情をしている。疑心暗鬼のようだ。
すると、男の子のほうがその重い口を開いた。
「……おにーさんは、だれ?」
男の子が不安そうな顔で見上げてくる。ここでまさか「別の世界の者」なんて言うことは出来ない。とりあえず一番ちょうどいい回答を探す。
「ああ、俺たちはただの旅人だよ。遠い国から来たんだ」
「とおいくに……?」
「うん、まぁ……遠い国だ」
そう言った途端、子どもたちの顔がすぐさま安堵に満ちていくのが見えた。これで正解なのだろうか。しかし、旅人でない別の何かだったら嫌だ、と言わんばかりの反応でもある。
会話を通して、子どもたちとの関係も少し解れたちょうどその時、村の方から、一人の庶民服を着た女性が小走りでやって来るのが見えた。三十は過ぎているように思う。
俺たちの姿を確認すると、女性の顔はみるみる恐怖に支配されていくのが分かった。すぐにこちらへ向かって小走りで歩み寄って来る。そして子どもたちの前へ出ると、俺たちの目の前で土下座をしてきた。
「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。私の子どもらが何か失礼なことでもしましたでしょうか?私はどうなっても構いませんから、どうかこの子らだけは……」
……この女性は何かを恐れている。普通であれば、子どもが他人にちょっかいを出したぐらいで、ここまで本気になって謝ることはない。どう考えてもこの謝罪は、単に子どもがちょっかいを出したからということに起因するものであるとは思えない。これは何か重大な事情がありそうだ。
「頭を上げてください。私たちはただの旅人です。子どもたちに対して失礼な事をしてしまったのは逆に私たちの方ですよ」
と俺は後ろを振り返って、シャーリアに皮肉混じりの微笑を見せる。シャーリアはそれを見ると、こんな茶番劇には付き合ってられないとでも言いたいのか、呆れたようにフッと鼻先で一蹴し、麦畑の方へ視線を移す。
女性は俺たちがただの旅人であるということを聞くと、顔を上げ、すぐさまその顔に疑問の表情を呈する。
「いや、ですが……あなた様が身に纏っているその服からして、ザリアス様の侍従魔術師の方ではございませんか?」
女性がそう言うと、俺はかなり重要な情報を得られた気がして、考え込むように俯いた。
身に纏っている服っていうのは、このローブのことだろうか……?いやしかし、それより気になったのは”ザリアス”という人物と、侍従魔術師という存在だ。この女性は俺たちを、そのザリアスの侍従魔術師だとかいうものと勘違いして土下座をしてきたわけだ。つまり、ザリアスの侍従魔術師というのは、少なくともこの女性にとっては恐れるべき存在なのだろう。
ザリアスや、侍従魔術師がどのような存在なのか。まずは、ここから詳しく話を聞いてみるべきだろう。そのためにはまず、この女性の勘違いを払拭せねば。
俺は未だに頭をついて謝っている女性のすぐ近くへ行き、腰を下ろして、その肩に優しく手を添えた。
「たまたま服が被ってしまっただけです。本当にそのような者ではありません。どうかご安心を」
「それならば良いのですが……」
女性はゆっくりと立ち上がり、姿勢をこちらへ向けた。今にも泣き崩れそうな顔だ。その表情は、事態がよっぽどのことであることを予感させる。
ひとまずはザリアスや侍従魔術師について教えてもらうよう、話を切り出した。
「私たちは先ほども申し上げましたが、ただの旅人です。遠い場所から来たので、こちらの国のことについてはよく分かりません。ですから、そのザリアスやら、侍従魔術師やらについて教えていただけませんか」
「ええ、わかりました。あのう、もしよければ私の家へ来ませんか。ゆっくり話すには場所も必要でしょう?」
「……それではお言葉に甘えて」
女性が軽く会釈をすると「こちらへ」と手を使って村の方へ誘導する。それに従うままに俺たちも歩き出した。が、その時、母親と手を繋いでいた男の子がシャーリアの方を睨み、皆に聞こえる声で、
「ママ、あの人はやだ」
と言い放った。シャーリアはそれを見て再び舌打ちをし、嫌悪感を示す。
「おい、人間の分際で……うっ!」
流石にこの状況で不信感を持たれてはまずいので、咄嗟にシャーリアの口を覆った。女性はすぐに子どもを注意し、俺たちに謝る。
死神と人間が接触できるこの状態は、シャーリアにとっては苦手なのかもしれない。こうして実際に交わると、不快感は自然と現れるのだろう。シャーリアには、人間が嫌いになってしまった何らかの原因がある。だから致し方ないことなのかもしれない。
それでも、ダメなものはダメなので耳元で囁くように注意する。
「激昂するな。どんなに人間が嫌いでもだ。愚痴はいくらでも聞いてやるから、今は我慢しろ」
「マジでムカつくんですよ。あいつら」
そうは言うものの、軽く頷いて了承してくれた。
夕暮れが近づき、空が徐々に赤く染まりゆく。そんな良い雰囲気に包まれた道中で、子どもたちとその母親によって、村の大まかな説明がなされた。
まず、今俺たちがいる村の名は『グリス村』という。エーデンゲール王国という国の西端に位置しているそうだ。
人口は200人程度で、ほとんどの村人が小麦の栽培に専念している。
男は一年中、種蒔きから刈り取りまでの時期を小麦畑と過ごし、女は水を汲み、洗濯をし、料理を作る、というサイクルを毎日欠かさず続けている。のんびり、ゆったりな時間が流れており、まさにスローライフという言葉が似合う、そんな村である。
貨幣経済はほとんど浸透しておらず、たまに行商人や旅人がグリス村を通る時に、小麦や食料と銅貨を交換するぐらいだそうだ。しかも交換した銅貨を使うようなこともほとんどないという。
グリス村は隣国の『ゼスティア帝国』との国境付近にあるため、帝国と王国との戦争で被害を被っていた時期もあったが、現在は大きな戦争もなく、平和な状態にあるという。
そして代々、王国貴族の名門『ブルフハット家』による支配を受けており、毎年小麦を納めているのだが、納入日に遅れることはなく、十分な量の小麦を納めていたため、お咎めを受けることもなかったという。
そんな平和な毎日が続いていたが……現在はそうにもいかないらしい。
この村に住む女性──フィアナはここまでの説明をした上で、俺たちを彼女の家に案内した。
この時間は村人も家に籠っているのか、村へ行く途中に村人を見かけることはほとんどなかった。寂しさを感じながらも俺はフィアナの家に入る。そして、入って右側の部屋へ進む。ドアはない。
そこには小さく暗い部屋があった。飾りっけのない個室には、小さい窓、侘しく佇むキッチン、木製の机と椅子がただ並べられているだけだった。ダイニングルームには間違い無いだろうが、外の小麦畑の雄大な景色と比べてしまうと、ある種の監獄のようにも感じられる。
「アクツさん、ゼリーさん、こちらへどうぞ」
「どうも」
フィアナに勧められるままに机の方に移動する。
ちなみにだが、俺たちは既に自己紹介を終えており、そこでは偽名を使っている。『アクツ』──というのは俺だ。なぜ偽名を使ったのかというと、ここで死神の名である『ソラ』を出してしまえば、今後の時局において不都合なことが起こる可能性があるからだ。あくまで可能性の話ではあるが、ここで迂闊に死神の情報を教えるわけにもいかない。というわけで、今回は俺の前世の苗字──『阿久津』を使用した。ちなみに『ゼリー』とはシャーリアのことであり、彼女が前世に飼っていた猫の名前のようである。
「お水を入れてきますね。どうぞお座りになって」
「ありがとうございます」
フィアナが木のコップに水を注いでいる間に、俺たちは手前側にある椅子に座る。
ちなみに、初めて会った子どもたちのうち、男の子の方がフィオ、女の子の方がリューナといい、フィアナはその母親である。
フィオとリューナはここには同席していない。それだけ重い話なのだろう。
フィアナが俺たちの前に水を優しく置くと、奥へまわり、対面になるように座った。
そして俺はすぐさま話を切り出す。
「早速ですが、ザリアスとその侍従魔術師についてお聞かせ願えますか」
「……はい」
フィアナが返事をすると、彼女の虚ろな目は蝋燭の方に向かった。その仄かな明かりがフィアナの顔を寂しく照らす。
「まず、ザリアス様は、王国貴族、ブルフハット家の出身です。五年前ほどからこの地を支配していらっしゃいます。そしてザリアス様のもとに仕えるのが侍従魔術師です。現在何名いるのかは分かりませんが……」
「んで、そいつらは悪いやつってことで合ってる?」
いきなりシャーリアが口を挟んできた。長々とした説明はいいから、とりあえず恐怖の対象なのかどうかを聞かせろ、という態度である。
フィアナは一瞬困惑したようにも見えたが、すぐに落ち着いて話を続ける。
「……まぁ、ええ。ザリアス様が領主となってから、村の若者が連れて行かれているのです。しかも、理由も教えてもらえず……」
そう言うと、フィアナは、胸の奥にしまい込んでいたものが溢れ出すかのように涙を流し始めた。
「……私の弟も連れて行かれました。去年のとある日の朝のことです。はっきり覚えています。ザリアス様の侍従魔術師が、多くの兵士を引き連れて、村へやってきました。そして『若い男は全員連れて行く。従わなければ武力行使も辞さない』ということを告げられました。相手の力は圧倒的で、どうすることもできず、弟を含め、村の若者がただ連れて行かれるのを見ることしかできませんでした……。しかも話によると、他の村の若者も連れて行かれてしまっているみたいです。こんなことがあって良いのでしょうか……」
「……残酷ですね」
「ええ」
フィアナが虚しそうに、片手に持っていた水をストンと置く。そして長い沈黙。
ザリアスはやはり、恐怖の感情を生み出す元凶なのだろう。理由を教えることもなく若者を連れて行く、ということは、何か隠さなくてはならない、都合の悪い事情があるはずである。死神として、恐怖の感情が蔓延してしまうのを見過ごすことはできないが、解決の前にまずは冷静に情報収集から始めていくべきだろう。ザリアスの本性、侍従魔術師の存在、若者が連れていかれる理由、などなど。分からないことが多すぎる。
まずは彼らに会ってみないと何も始まらない。そこで、俺はとある提案をした。
「……フィアナさん。しばらくここに泊めていただけませんか?是非ともザリアスと会ってみたいのです」
「え?」
「は?」
フィアナとシャーリアが同時に声を上げた。フィアナは困惑、シャーリアは驚きの表情である。
「もちろんタダでとは言いません。少しばかり農作業のお手伝いをさせていただきます」
「はぁ……」
フィアナが腕を組んで考え込む。その間にシャーリアが俺の耳元で、不快な顔をしながら囁いてきた。
「バカなんですか? 先輩。ザリアスとかいうやつのところへ直接行けばいいじゃないですか! わざわざこんな人間の家に泊まらなくても」
「いや、直接行くのはまだ危険だろう。まだこっちの世界に来たばかりだ。不確定要素も多い。自分たちの力が分からないままで飛び込むのは流石にマズい」
「でも、ブラッティアの力をもらってるんですよ? 私たちより強い存在がいるはずないと思うんですけど」
「実際、まだブラッディアの力が本当にもらえたのかも分かっていないのに、そんなこと言うのか?」
そう反論すると、シャーリアも黙り込んで、不機嫌なままでそっぽを向いてしまった。そうしているうちに、フィアナが顔を上げた。考えがまとまったようだ。
「……わかりました。手伝いをしていただけるということなので、しばらくはこの家を自由に使ってください。ですが、アクツさんはまだ若いですし、もし侍従魔術師の方が再び来てしまったら、連れていかれてしまう可能性もあります……」
「大丈夫です。その時はうまく対処しますので」
俺がフィアナに微笑みかけると、フィアナは空になった木のコップに視線を落としてしまった。再び沈黙。俺が連行されてしまうようなことでも考えているのだろうか。
俺とシャーリアはただそんな彼女の姿をじっと眺めていることしかできなかった。