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小さな強盗犯

作者: K

背中や脇の下から溢れだす妙にひんやりとした汗は、脇腹を伝い僕の身体をくすぐり、それを拭おうとした僕の手を不自由なものにしていた。丸山が小さな声で僕に急ぐよう注意を促すと、僕は緊張のために濡れたTシャツから焦って手を引き離し、ポテトチップスの袋を音をたてないよう気を配りながら素早く持ち上げると、目の前にあった丸山の口のあいたリュックに突っ込んだ。僕は耳の側にできてしまった心臓が僕の手を震えさせるのを感じながらリュックから手を引き抜いて、一仕事終えたことに安堵して息をついた。死後の硬直したような右手に妙な達成感の空気が吸い付くようなので、僕は苦さをあらわし唾を飲み込んだ。すると今度は僕の後ろにいた島井がなんの前触れもなしに僕の背負ったリュックへとお菓子を突っ込んできたので、僕は驚きのあまり前のめりになって足踏みをし、足腰の弱さを二人に露呈する形となってしまった。しかし問題はそこではなく、最近一サイズ大きくなった靴が響かせた大きな接触音だった。万引き発覚の危機を覚えたであろう丸山は僕の頭を殴り付け、鼻頭と唇にひとさし指をあて静かにするよう指示をすると、何事もなかったかのように立ち上がって店番のおばちゃんと話をしているテツの所へと向かった。

店内は薄暗がりの中に様々な商品の影を落としていた。ポテトチップスにポップコーン、チョコ、おせんべい、マシュマロなどのお菓子はもちろんのこと、僕ら世代を熱狂的に引き付けて止まない魅惑のキャラクターを表面に据えた玩具等、この空間があらゆる子どもの理想に位置していることは疑いようがなかった。その中で僕らは最高潮のスリルに身を晒している。その誘惑が僕らをギリギリまでお菓子の棚に引き付け閉じ込めているのだ。僕らはやっとの思いでそこから身を引き離すと、レジ台を大きく越える身長に筋肉質な身体を揺らめかせて待ちぼうけるテツを視界に捉えた。暗くせまい店内のちょっとした距離が僕らに旅路の感覚を覚えさせる。

おばちゃんはテツに促され裏で商品の確認をしている。僕らは身震いのために若干のすり足で歩きながら、ズボンの裾がお菓子の袋に触れてガサつく音を立てることにすら果てしない恐怖を覚えた。島井は自分のリュックに何もないことをしきりに気にして新たなお菓子をリュックに詰めようと試みるが、おばちゃんがいよいよ戻ってくるであろう仕草の連続を敏感に察知した僕らは、島井の浅薄な行動に半ば怒り散らしながら、手足を絡みつかせるようにして必死に彼を止めにかかるのだった。

「テツ、なにしてんの?もしかしてアレ探してんのか?」

おばちゃんがいよいよ気怠そうな腰を上げたのを見た丸山は緊張のためか、もしくはたったいま店に来たことを誇示するために少しだけ息を荒くして言った。

「あのおもちゃ、探してんのか?」

「いやあ、探してくれてるみたいなんだけど、ないっぽいんだよ」

テツは堂々と、わざとらしいとも思える程大きな声でいった。その声が僕らに緊張と羞恥とを与えるが、僕はそれを外面に露出することは許されない。

「おばちゃーん、やっぱりない?」

テツの声が店内に反響し僕らは息を呑んだ。他人の怖じ気づかない態度は、どうして僕らに羞恥と焦燥とを与えるのだろう?と僕は丸山のやや膨れたリュックに気を取られながら考えた。

「見っかんねえなあ。お父さん帰ってきたら聞いてみっから、また明日来て」

井口のおばちゃんは曲がった腰に握り拳をあて、奥から出てきてそう言った。まるで顔中の皺から声を出しているような音の連なりは、僕らに緊張と落ち着きとを同時に与える。僕らは緊張の緩和に全員共通の快楽を覚えたが、表情だけは決して変えなかった。

「そっかー、ないんじゃ仕方ないや。帰ろうぜ」

テツが如何にも残念そうに装った声で言ったのを合図に店を出ると、僕らはお互いに顔を見合わせてニコニコしながら走り、僕らの放課後を実に充実したものとさせる空き地、通称ゴーゴー団秘密基地へと調達した物資を運んだ。


空き地には先客がいたが、僕らの顔を見るとまるで狼でも見たかのようなおののき具合で去って行った。そこまで酷い形相をされるとさすがの僕らとて良心が痛むのだが、しかし仮にやつらが空き地を譲らずに、僕らを鋭い眼差しで見つめ始めるようなことがあったなら、テツも丸山も激しい怒りに襲われて彼らをボコボコに殴り倒してしまっただろう。

「あいつら何年だ?後でこらしめてやる」と丸山がいかにも上級生を気取った調子で言った。

「たぶん四年じゃないかな。それにしてもあいつら、いつここを知ったんだろう?」と島井が誰に問いかけるとでもなく聞いたので僕は「たぶん最近だろ。見かけない玩具やお菓子のゴミが見つかるようになったのも、せいぜい、ここ一二週間の話だからな。それもあいつらで間違いない」

「四年も最近調子に乗り始めてるな。どうするテツ?いっちょやってやる?」と再び丸山が権力をふりかざすことに慣れない者特有の早口で言った。テツは半ば呆れたような苦笑いを浮かべた。

「いいさ、ほっとけ」

彼らの退散を満足気に見終えたテツは特等席であるベンチのど真ん中にかけると、脇に座る丸山に向けて静かに言った。「じゃあ、まず丸山から発表」

「オッケー。俺は、今日は一五○円のポテトチップスと、一○円のうまい棒三本、あとは一○○円のチョコレート。だから、えーっと……二八○円か」

切り替わりの早い丸山はそれらを自分とテツの間に自慢気に並べると、テツの顔を上目遣いで見た。テツが満足そうに頷いた後すげぇなと呟くと、丸山は目を輝かせて喜び、鋭い目を覗かせることで僕と島井へ精一杯の威張りを見せた。手柄を奪われたことへの激しい苛立ちの感情が僕ら組織の末端に襲いかかる。

「ちょっと待てよ、ポテチ盗ったのは俺だぞ?」と僕がやや強い語調で言った。

「俺のリュックに入ってたんだから俺のもんだよ。残念だったな」

丸山は目を大きく見開かせて言った。僕は屈辱とテツの信頼を勝ち得なかった悔しさとに歯ぎしりをし、拳を強く握ったが殴る気は起きなかった。デカイ図体に盛りのついたゴリラのような気性の丸山と喧嘩をしても負けることはわかっていた。だから僕はその拳を力なくおろして、悠然とも蔑みともとれる眼差しを僕らへと向けるテツの方を見つめた。

「ポテチは丸山のな。次は川上の発表」

テツはさらりと言った。その素っ気なさが僕の心を傷つけ、ポテトチップス以外に自分が何も盗っていないことを知る僕に深い失望をもたらしたが、諦め半分で開いたリュックから覗くポップコーンの袋、それを見るなり、僕は島井が僕のリュックにそれを入れていたことを明瞭と思い出すのだった。

「俺は三○○円のポップコーンだから、丸山より上だな」

僕はそれを見つけた瞬間得意になって、大きな袋のポップコーンを丸山に押し付けるように突き出した。丸山は焦りの中に沈んでゆく表情をうかべ激しく狼狽した。

「は?いや、ちょっと待てよ、それ島井が盗ったやつじゃんか。自分が盗ったやつじゃないとダメだろ。なぁテツ?」

「お前、バカじゃねえのか?」

「無茶苦茶だぞ、丸山」

丸山は焦って僕に難癖をつけるが、それはなんの意味も持たなかった。この丸山の言い分は先程のそれと激しく矛盾するからだ。丸山は言ってからどうにもならない恥ずかしさを感じたようで下を向き、それに対して気分良く笑うテツを見て僕は勝ち誇った。テツの上機嫌を読み取った島井も、自分の調達がなくなることなど関係なしに大声で丸山を笑った。



僕らゴーゴー団はリーダーのテツ、丸山、島井、そして僕の四人で形成され、この人口五千人にすら満たない小さな町の小学校の一大派閥を成していた。また、僕らは駄菓子屋井口で常習的に万引きを働いてもいた。井口は小学校の近くにある、このあたりで唯一お菓子やおもちゃを扱っている店だったため、僕ら小学生の多くが放課後と言えば井口に集い、何もない町を恨みながらお菓子をお供に遊んでいたのだ。僕らは小学校の仲間の内で唯一万引きを行い、また、許されている存在だった。当初テツ以外のメンバーは万引きを働くことに躊躇の色を見せていたが、徐々にテツの信頼と小学校の仲間からの尊敬とを勝ち取り、特権的な地位を確立し、田舎の退屈な日々を有意義にするためちっぽけな正義感と罪悪感を押さえつけるまでに到っていた。テツは僕らの心を奪う程に絶対的な権力を誇っていたのだ。それは四年生になり転校してきたばかりのテツが六年生のリーダーを喧嘩で打ち負かしたという噂それのみによって支えられた都市伝説に近いものだったが、しかし僕、丸山、島井はその現場を目撃していたのだ。その時僕らはテツという人間の強さや冷酷さをありありと垣間見、彼に従属するしかないという一種の宗教的な信仰にすら陥った。五年生や六年生は四年生のテツに小学校のリーダーを任せる訳にはいかないというプライドからか、テツが武器を使いズルをして六年生を打ち負かしたのだと嘘の噂を流したが、それは僕ら三人にとってどんな効力も持ちはしなかった。僕らは実際にテツの九歳とは思えない腕力、鋭い目つき、そして二つ年上の強者にたった一人でかかっていく勇気とに見せられ、完全に心酔していたのだ。それから僕らはテツの金魚のフンとなり毎日の行動を共にするようになった。それは本当に自然なことであり、僕らは偶然喧嘩の場に居合わせたことに感謝すら覚えていた。

そんなテツの万引きをしようという提案は、僕らに一種の衝撃を与えたが、僕らが自らの感情さえ押さえつければ何事もなく済むという思考が、僕らに万引きの罪悪感を薄くさせていたのだ。井口のおばちゃんはほとんど万引きに対する警戒心はない上、六年生となり絶対的な地位を占めていた僕らの悪行を教師に告げ口しようものがいたなら、怒りに任せた僕らのとんでもない災厄がそれらの人間にもたらされることは目に見えていたから、そんなことを試みる人間はまずいなかった。それらの好条件は僕らに万引きをしやすくさせたし、それでも警戒心を怠らない用意周到なテツの作戦は僕らに連帯感を与え、とてつもなく大きな結束をつくらせる。万引きという行為を通して僕らは一つのチームとなったのだ。そのチームへの居心地の良さを壊す、万引きすることを止めるという選択は僕らにとって万引きをすること以上に許されないものだった。僕らが万引きを止める理由など、万に一つもない。

それでも時折、僕は犯罪を犯すという行為を躊躇いなく、常習的に働く自分に涙をもって夜を過ごすことがあった。だが、僕らはいざ万引きを行おうとすると、全身に汗をかいて身体の震えを抑えることができないのだ。それは前にいる丸山を見てもそうであったし、僕のリュックを掴む島井の手の振動からしても明らかだった。それら身体的な拒絶は僕ら人間としての生来の善を感じさせ、また僕らにとって唯一の救いでもあった。ただ僕らは人間的な良心を万引きの都度確かめあうことで、また次の万引きを助長させてもいた。僕らにとって万引きは、違法な薬物が引き起こす作用のそれとほとんど違わない、極めて依存性の強いものだった。


僕が通う町の唯一の小学校は、裏に薄気味の悪いお寺の墓地を携え、長らく放置されたグラウンドは雑草や小石で覆い尽くされており、さらに真っ白な外壁は虫が這いずりまわった挙げ句ボロボロにされてしまったような色のない、緩慢な造りだった。その内側に関しても外側に負けない程度にはみすぼらしく、衰弱した老人のように覇気が感じられない建物全体は教員のモチベーションにも伝染し、数え切れないほどの悪習が問題視されることすらなく蔓延していた。国名が消えかかった教室の地球儀、図書室の日焼けした古い書物、理科室の骨さえも削り取られ棒のようになった人体模型は凄惨な学習状況を如実に表し、料理をつくったとしても長年の埃が付着し、それを照らし出す太陽の方角とお昼の時間がちょうどよく噛み合うためにまるで食欲をそそらなくしてしまう家庭科室は、町の広大な田んぼでつくられたお米のおいしさをまるで無意味なものにしてしまう。さらに、それら身体のあらゆる器官を悪くさせるような食物を平らげて勢いよく駆け込むと、祖父母世代の小便まで染み込んでしまったようにきついアンモニア臭を放つ前時代的なトイレは、もはや僕にため息をつかせない程に酷い吐き気を催させた。

しかしそんな悲惨な設備状況にあっても、町にはそれを補強したり、改修したりする予算がなかった。町には特産物と呼べるものは何一つなく、辛うじて米の生産量が県のランキングに顔を出す程度だったから、町の商業は少しも発展せず、活気はまるでなかった。宅配ピザが届かないどころの話ではなく、食料品を手に入れるにも小さな個人店を利用するか、隣町まで車で出掛けねばならないような町の唯一の小学校なのだから、その生徒に関しても、活気のない町で育った人間の活気のない子どもなのであり、自然と活気のない小学校となっていた。

しかし、突然もたらされる外来種が生態系をがらりと変えてしまうことが珍しくないように、テツの転校がもたらした影響も通例に漏れなかった。テツが転校してきた時、生徒とその親には様々な根も葉もない憶測が飛び交った。テツが同級生を殴って無理矢理転校させられたとか、親がヤンキーだヤクザだというのはまだマシな方で、実は父親が法を犯して刑務所に収監されているのだといった、名誉毀損ともとられかねない悪質な噂を流す者もいた。しかしそういった状況になるのも無理はなく、テツとその母親の見た目は誤解を招いたとしても仕方がないような、奇抜で、衝撃的なものだった。それは、少なくともこの山あいの小さな町においては刺激的すぎるし、あまりに似つかわしくないものなのだ。テツの髪は陽を集めたような黄金色に染められ、着ている服には多数の意図的な穴があけられており、母親は腕に英字の刺青をいれ、重たそうなピアスが至るところに果実のようにぶらさげられていた。僕はそういった歪曲したような都会的外見に憧れを持つほど愚か者ではなかったが、テツが小学校の生態系をねじ曲げてしまう程の力とシティーボーイとしての不思議な魅力を備えたことに変わりはなく、結局僕もそれに巻き込まれる形となってしまった。が、僕はそのことを痛烈に後悔しているというわけではなかった。テツが転校してきてから幾らか経てば、テツが見た目ほどに暴力的でないことも、母親が著しく常識を欠いた人間でないということも、PTAや父母会に明瞭と認知されていったからだ。テツの一家にしても、ある意味で町の生態系にしっかりと溶け込み、溶け込まされたということであった。町の人間が持つ疑念の雲は、一度心を許しさえすれば一瞬にして晴れ間へと変わっていった。だから僕の両親においても、僕がテツと仲良くすることにはっきりとした抵抗の色を示さなかったから、家庭内における僕の肩身が狭くなることはなく、伸び伸びと日々の遊びに興じていれば良かった。いまになって考えれば、大人達を含めた僕らの町がテツに対する免疫を持ち、受容する体制を整え始めたこのあたりから、小学校は大人達に見えないなかで少しずつその形を変え始めていたのかもしれない。



僕が朝礼ギリギリの時間に学校へと着いたその日、教室に入ると、既にそこには異様な熱気が渦をつくるようにして立ち込めていた。僕は僕の方を見てニヤニヤする丸山や島井、他のクラスメートの顔を見るとそれらの正体を調べるために会話の輪へと入っていった。

「なんかあったのか?」

僕は極めて自然を装って彼らに聞いた。熱く沸き立つ彼らの議論は僕の登場にも一切遮られる様子がなかったので、ぼくはもう一度大きな声で聞いた。「なんかあったのか?」

「……いや実はさ、今度島井の家のあたりにコンビニができるらしいんだよ」

「コンビニ?あの更地に?」僕は突然降りかかる災厄のようなその話題に驚嘆の声で聞き返した。

「そうそう」

「あのなんっもないとこ」

丸山は何もないということをかなり強調して言ったため、島井に肩を強く叩かれた。

「まあ、確かにあそこは何もないけどさ……」

島井は殴ってからあながち丸山が大袈裟でもなかったことに気付いたのか、弱気になって坊主頭をかきむしりながら言った。

「だから言ってんだろうがこの野郎」

「ごめん……」

「しかし、うちの町にもやっとコンビニが来るのか……」

僕は丸山と島井のやりとりをほとんど無視して、しみじみと感じ入っていた。辛うじて村という呼称を免れているだけの寒村地域であるこの町にも、やっとコンビニが来る。それは僕らの生活を充実させたものにするだろうと思い、胸が躍った。

「で、どうするよ川上?」

「え?どうするって?」僕は丸山の言ったどうするの意味がわからずに聞き返した。

「あれだよ、あれ」

丸山の何かを隠すような言い方は僕に全てを悟らせた。やつは万引きのことを言っていた。僕らが万引きを働いていることは男子のクラスメートのほとんどが知っていることではあったが、優等生気取りの女子生徒や大勢の生徒に知られ親へと密告されることを怖れて大っぴらには言わないという暗黙の了解があったのだ。丸山はそれをしっかりと守っていた。

「あぁ……」僕は力なく言った。「とりあえずテツに聞いてみないことにはなあ」

僕がそう言うと丸山も島井も深く頷いていた。僕ら三人はテツがいなければ何も行動できはしなかった。そしてテツはほとんどの日を遅刻して登校してくるので、僕らは半ばテツの返答をわかりきっていながら、その間とても窮屈に感じられる時間を過ごさなくてはいけない。

テツは給食の少し前の時間になると登校してきた。僕らはいい加減あぶらものを大量に詰め込まれたような胃のダルさに嫌気がさし始めていたので、テツの登校は僕らを半ば強制的に喜ばせた。

僕らは給食の配膳をサボり、トイレへとテツを連れ立ち、丸山は朝僕に言ったのとほとんど同じ事を、時に息を切らしながら熱心に説明した。テツはそのことに興味津々なのだろうが、王者としての風格を出すためか、終始真顔で頷いているだけだった。

「で、コンビニはいつできんの?」テツは丸山の話を聞き終えると冷静に聞いたが、少し前のめりになった姿勢と早口とが僕らに異様な食い付き方を教えた。

「確かじゃないけど、大体、一ヶ月後らしい」

「ほーん、意外と早いんだな」

「どうすんの、テツ?」丸山と島井がほとんど同時に聞いた。

「まあ、やるしかないよな」

テツは考え込むでもなくさらりと言った。僕はテツの言葉に、やはりそうなるかという諦めに近い感情を抱いた。しかしテツがそう言ったからには、僕らはそれに乗るしかない。テツが右を向けば僕らも右を向き、テツが左を向けば僕らも左を向く。僕らはそうして生きてきたのだ。

「でも、コンビニだよ?井口とはちょっと違うだろ?」

島井が言った。テツは決して独裁者ではなかった。僕らの意見にもしっかりと耳を貸すし、僕らに高圧的な態度を取ったりもしない。だから僕らはテツについていくのかもしれない。

「大丈夫。ちゃんと計画立てればいけるって」

テツが余裕を見せて言った。それは決して自信があるのを装っているわけではなかった。その歯切れの良さは間違いなく自信に満ち溢れているのだ。

「コンビニってさ、たぶん、店員が四人くらいはずっといるんだけど、ほとんどがレジ打ちとか品だしで忙しいから、客一人一人までは目が届かないはずだぜ」テツがそう言うと僕らは顔を見合わせて大きな歓声をあげた。

「なんでそんなこと知ってんの?」

島井が聞いた。島井はいつも疑問文ばかりで話す癖があり、おとぼけ坊主というあだ名をつけられていた時期もあったほどだ。

「姉ちゃんが東京にいるんだけど、前までコンビニでバイトしてたんだよ。正月とか盆に帰ってくると、そういう話ばっかするんだ」

「東京……」

僕は東京という言葉に打ちのめされていた。駅一つない僕らの町と東京とでは、一体どれほど違うものなのだろうか。考えるだけで町の田舎加減に嫌気がさしそうだった。

「なに川上、お前東京行ったことねーの?」

僕の驚愕を敏感に察した丸山が得意気に言った。僕は丸山の家が金持ちで頻繁に旅行しているのを知っていたから、顔をそむけて無視をした。もし話にのれば、僕は散々おもしろくもない自慢話をされることになっていただろう。

「っていうか、時間大丈夫かな?もうみんな給食食べてたりして?」

「ヤベ、戻ろうぜ」

丸山が言うと僕らは走って教室へと戻った。戻ろうぜと言い放ち、一番最初にトイレを飛び出した丸山は最近少し太り気味のせいか、結局一番遅く教室へと辿り着きクラスメートの失笑を買ったが、テツとほぼ同時に教室へと入った僕と島井は、教師にもクラスメートにも咎められることはまるでなかった。テツには教師にさえ有無を言わせぬただならぬ雰囲気があったのだ。小学生すらも統制できない教師など、教師失格と言われても仕方ないだろうが、しかし僕らはテツを叱りつけねばならない場面にでくわす教師に同情をかけるほどなのだ。本当にテツは小学生離れした威圧感を放っていた。そして僕は大人をも飲み込んでしまうテツの威圧感、その殺し屋じみた天才的かつ他を寄せ付けない圧倒的な威圧感に、女の子に抱くそれとはまた異なった種の惚れ惚れする感情すら覚えていた。


放課後、僕らはいつも通り井口で万引きをした後に秘密基地へと向かったが、恒例の成果発表は行わなかった。僕らはもうコンビニのことが気がかりで仕方なかったのだ。一体テツはどんな方法でコンビニに挑むのだろう?僕はそう考えると遠足の前日のようにワクワクしてさえいた。

「なぁ、テツ」丸山がお菓子を貪りながら切り出した。

「コンビニって防犯カメラみたいのあるだろ、あれも大丈夫なのか?」

「あぁ」テツはポテトチップスを食べながら無関心そうに言った。「あれは店長がたまに見てるだけだよ。だから俺らは店長がレジに居るときに盗めばいいんだ」テツはやはり落ち着いて言った。

「それに、もし防犯カメラを見てたとしても大丈夫だよ。見つかっても顔さえ見られる前に逃げちゃえばいいんだ」

テツの言葉は一つ一つがホップするように軽いのだが、なぜか僕らを諭すような印象を受けた。教師の説教よりも心に響き渡るそれらの言葉に、僕らは感嘆するしかない。

「うちの町でも、コンビニってでかいのかなあ?」島井が憧れるように言った。

「コンビニなんてどこだって同じだろ」

丸山はわざと島井の夢見心地を打ち砕くように言ってから新しいお菓子の袋を勢いよく開けた。数個のお菓子の欠片が地面に落ちていく。

「いや、むしろ東京のよりも大きいかもしれない。都会は土地の値段が高いから狭くなるんだよ。でもここは知っての通りド田舎だから、案外広い店構えかもなあ」テツは袖をまくり、太い腕っぷしを覗かせながら言った。細かい分析と猛々しい腕との対比は僕にシュールな感覚を持たせる。

「そう言われると、確かに東京は数はあっても一つ一つは小さいかもしれないな」

都会をよく知る丸山の一言はテツの分析をがっちりと補助し、僕と島井は深々と頷いていた。

「カードもマンガもあるのかなあ?」

「そりゃあるさ。雑誌なんかも普通にあるだろ」島井の言葉にまた丸山が冷たく言った。

「これからはT町まで行かなくても色々と手に入りそうだな」僕は笑みを浮かべながら言った。そして全員がニヤニヤとしながらお互いを見つめ合った。

この日僕らは何もせず、ただお菓子を食べながらコンビニについて色々と話をし、徐々に夕焼け色に染まっていく空をぼんやりと見上げていた。僕らは誰一人時計を持っていなかったから、決まって四時にやって来ては大音量の演歌を撒き散らす野菜売りの車を見て初めて時間について検討し、恐らく五時だろうと思われる時間に各々家へと帰った。不思議な魅惑とこれから待ち受けるであろう快楽の経典に、僕は流行りのダンスを踊り出したい気分だったが、ほとんどが知り合い状態である近所からの鋭く光るたるんだ目を気にして、両足が揃ってしまうようなぎこちないスキップに思いをとどめた。土と雑草を引っ掻く湿った音と未だ頭の中で鳴り止まぬ野菜売りの古めかしい演歌の音のために、いつも僕に向かって親の敵のように吠えたてる犬の鳴き声はほとんど耳に入らないのだった。僕が家へと着いたのは、まさにちょうど五時をまわったところだった。


僕の家は木造の平屋だった。雨の日に匂い立てる湿った木材と歴史の教科書に載るような古代の日本を思わせる造り、それらは決して僕に嫌悪的な感情を持たせたりはしなかったが、よく遊びに行っていた丸山の西洋風な家屋を見る度に、僕は単純に羨ましく感じ、それを誇って低い鼻の鼻腔をひくつかせる丸山に怒りを感じるのだった。

僕が家へと着いたとき、母と祖母は台所で野菜か何かを包丁で切り、弟は真剣な眼差しでゲームの画面と対峙していた。恐らく祖父は自分の部屋でくつろいでいるのだろう。そして父は連日残業ばかりで早い時間に帰ってくることは滅多にない。この家は僕を除けばごくごく普通の幸せな家庭だった。いや、僕さえ表面上は田舎の純朴な少年というイメージから幾分も逸脱せず安らかに呼吸していただろう。

僕が平坦な調子でただいまと言うと、弟は視線をゲームに向けたままおかえりと甲高い声で言い、母も祖母も同様におかえりなさいと明るく言った。いつも通りの三人の温かい対応は僕に多少の罪悪感を植え付けた。

「ねえ、今日は何してたの?」弟はゲームに興味の半分を奪われていたが、もう半分の興味は僕に向いているらしく満面の笑みで質問してきた。

「いつも通りテツたちと遊んでたよ」

弟は僕らが万引きをしていることを知らなかったし、当然万引きのことを知らない母や祖母がいる手前そんなことを言えるはずもなく、僕はくぐもった声で言った。

「いいなあ。今度僕もテツヤくんと遊ばせてよ」弟は本心からそう言っているようで、蛍光灯を映したつぶらな瞳はより一層輝きを増していた。

「ダメだよ。テツは三年生なんて相手にしない」

「そっか……。確かに、テツヤくんは本当に強いもんね」弟は納得した声で言った。弟はテツに憧れを持っており、僕が家に帰るといつもテツに関する話ばかりをしてくるのだが、僕はそれを好ましいとは思っていなかった。弟には、兄である僕の方に尊敬の念を持って欲しかったし、テツを真似て万引きをするような人間にもなって欲しくなかったのだ。もちろん僕だって万引きを働いているわけだからとても弟の見本となれる兄だとは思っていなかったが、なぜか弟に慕われたい気持ちを捨てることができずにいた。

「僕、テツヤくんみたいになりたいなあ。周りもみんなカッコいいって言ってる」

「無理だよお前じゃ。テツは本当に強い、近くにいる俺はよくわかるんだ」

「まあね。でも、せめてお兄ちゃんくらいにはなりたいよ」その切なげな一言は本当に僕を喜ばせるものだったが、気恥ずかしさと多少の後ろめたさもあって僕は頷いているだけだった。

「そういえば、今度そこにコンビニができるらしいよ」

「ああ、知ってるよ。朝からその話で持ちきりだった」

「コンビニかあ」

弟が何か言いたげにふわふわした口調で言ったので、僕は弟を軽く睨んだ。八歳の無邪気な少年は、いつ余計なことを言うかわかったものではない。親に万引きを勘繰られ、それが発覚したら、僕は家族からどれだけ叱責され、どれだけ責められたことか、考えただけで全身から熱が湧いてくるようだった。

僕はこれ以上ゴチャゴチャと余計な話をすることが嫌になったので、弟がやっているゲームに参加して夕飯ができるまでそれを続けていた。僕は弟を楽しませつつも尊敬の眼差しを向けてもらえるように全ての勝負をギリギリで勝利した。母親と祖母がご飯を運び込み祖父が茶の間へとやって来たとき、僕らはまだ勝負を続けていたので、数分を経て区切りをつけてから食卓についた。

「二人は今日なにしったのや?」僕と弟がご飯を食べ始めると、陽気で饒舌な祖父が質問を投げかけてきた。

「俺はテツと丸山と島井と外で遊んでたよ」僕が言うと祖父は笑顔になって、そうかそうかと嬉しそうに頷いた。

「僕は、家でゲームしてた」今度は弟がそう言うと祖父の表情は少し靄がかって寂しげだった。

「ちゃんと外で遊ばないかんぞ。いまの子は中でゲームとやらばっかりしてて、じいちゃん、やんだくなる」祖父はそう言うと漬け物を箸で掴み、緩くなった口元へと運んだ。

「別にいいのよ。昔とはわけが違うんだから」寡黙な祖母は穏やかな口調で祖父を非難するように言った。

「いや、子どもはやっぱり外で遊ばんと。筋肉つかねから弱くなるぞ」祖父がそう言うと弟は筋肉という言葉に反応して赤ん坊のように祖父の方を見つめ始めた。

「確かにね……。僕、テツヤくんみたいに強くなりたいし、明日からは外で遊ぼうかな」

「じゃあ、お兄ちゃんと一緒に遊んでもらえばいいじゃないの」母がそう言うと僕は不意をつかれてドキリとした。母の言葉は本当に余計なものだったのだ。

「ダメだよ。テツヤくんは三年生なんて相手にしないって」弟が言った。僕は弟が僕の言葉をよく理解していたことに感動し、そうだと訴えかけんばかりの瞳で母を見つめた。

「んー、じゃあどうするのよ」

母は、弟を心配しているようだった。僕にしてもその気持ちは痛いほどわかった。少子高齢化が進み過疎地域であるこの町には、近くに弟と同学年の遊び相手がいない。テツ、丸山、島井と比較的家が近い僕は本当に遊び相手には恵まれていたのだ。

「智樹と遊ぶよ」弟は小さな声で言った。智樹は近くに住む弟より一学年下の男子で、少し前までは弟とよく遊んでいたのだが、やはり学年が違うと話も合わないらしく、徐々に遊ぶ頻度も減っていた。それから弟は例のゲーム三昧なのだ。

「そう、ならいいけど……。やっぱりお兄ちゃんとこはダメ?」

母は再度僕に弟の世話をするよう促してきたが、僕は全くもって聞く耳を持たなかった。仮に弟が僕らと一緒に遊んだとしても、万引きの際にやつは足手まといになるだけだろうし、弟を万引きに加担させることだけはなんとしても阻止しなければいけなかった。弟には万引きを働く理由が微塵もないのだ。もしまかり間違って弟を万引きに加わらせようものなら、兄としての僕のプライドはズタズタに傷つけられ、罪悪感が身体の底から溢れてあらわになり、僕ら一家は犯罪者のレッテルを貼られ僕は死にたくなるだろう。僕らの町は連帯感で成り立っていたのだ。全ての噂はまるで秋の火災のように井戸端会議でもって一瞬にして近隣を覆い尽くし、悪い噂を植え付けられたものは燃え尽き排除され、僕らの小さな小さな町の生態系は保たれる。それは小学生の僕でも理解している紛れもない事実なのだ。僕一人でもって家族を崩壊させるわけにはいかない。

「そう言えば、今度そこにコンビニができるみたいですね」

僕と弟の話題を終えた茶の間は母の一言によってコンビニへとそれを移し、僕はコンビニという言葉を聞いて動悸が速まるのを感じた。

「そうみたいだなあ」祖父が煮物を咀嚼しながら言うと祖母もそれに対して頷いた。

……僕は息を呑んだ。コンビニは既に僕らの町に浸透し始めていたのだ。恐らく島井の家の近くにコンビニができるという噂は、まるでインフルエンザのように伝聞でもって急速に広まったのだろう。僕らの町をコンビニが覆い尽くして近代化の波が押し寄せるのだ。

そして僕らは一瞬にして町民の心をつかんで離さない強大なコンビニを相手に万引きを働く、そう考えると、僕はまるでコンビニと町とを手玉に取れるような気がして武者震いが止まらないのだが、同時に失敗をしたときの恐怖心が強く押しよせて異なる種の震えを呼び起こすのだ。一見温かいだけの田舎の食卓は僕にとって巨大な情報ツールと化し、僕に様々な感情をもたらしていた。祖父母と母とのコンビニに関する会話が弾めば弾むほど僕は全てを見透かされているような気がして不安になり、それを悟られないよう食事の手を速めることでコンビニでの万引き計画を誤魔化そうと必死になった。母の声も祖父母の声も異様なまでに威厳を増し、僕を威圧するかのような暗い音を伴っているのだ。それは僕の耳がおかしくなっているのかと思うほどに騒々しく、僕は両手が耳を押さえ込むのを我慢する努力をせねばならない。僕が急いで食事を終えた時、よれたTシャツにはびっしりと汗が張り付いており、僕は早々と風呂場に逃げ込んだ。風呂場のドアを勢いよく開けて初めて吸った空気は、僕を苦しめる緊張を解き、心からの安堵をもたらした。僕は瑞々しく汚れることを知らない田舎の綺麗な空気よりも、僕の心を落ち着かせる湿った汚い空気を好むのだった。しかし、風呂場は決して僕にとって嬉しいものではない。湯につかる際に僕の目に飛び込むのは弱々しく毛の生えない性器のみであり、僕は合宿で見たテツの黒々としたそれと自分のものとを比較してとてつもなく憂鬱な気分になるのだ。どんなに熱く沸いた湯も、僕の暗く重たい気分や過去の万引きを洗い流してはくれない。

この日を境に、僕はテツらといる間は万引きに浸され、帰ってからの家族の団らんに罪悪感や不安を煽られ、そして風呂から上がった僕が遅く帰ってくる父と顔を会わせ酷く苦しい罪悪感を感じることを嫌い布団へと潜り込む夜は、自問をすることで涙を流すという生活を強いられるようになった。コンビニが僕の生活に悲しみの波動を送り始めたのだ。全く話題にも上らない井口と強大なコンビニとでは僕に与えられる家族からのダメージはまるで異なっていた。これまでの罪悪感とは比べ物にならないそれを全身に浴びた僕は、緑溢れるのどかな田舎でゆっくりと息をつく暇もない。そうなると心を落ち着かせるはずの町の匂いや景色も、僕にとってはただ苛立たしく感じられるだけのド田舎特有の悪臭であり、何もない辺鄙な土地の殺風景でしかないのだった。妄想の中の都会の匂いや景色は、常に僕の喉元を羨望で締めつけた。



コンビニが開店するまで一週間と迫ったその日、教員会議の都合で午前で授業を終えた僕らの放課後は、普段とはまるで異なる方向に運び込まれようとしていた。僕らはもう四人が四人とも、井口での万引きにまるで興味を失っていたのだ。そしてこの日、僕らは数ヶ月の間ほぼ休まず続けていた万引きを行わずに、コンビニが開店するその日までは主に草の生い茂る工場の脇に構えられた空き地で遊ぶことに決めたのだった。僕はホッとしていた。うまくいけば僕らは連帯感を保ったまま、飽きに任せて万引きを放棄できるかもしれないと考えたのだ。

僕が集合場所へと着いた時、丸山と島井は長い間放置されたために伸びきった芝生の上にボロボロのバットとグローブを無造作に置き、服が汚れることなどお構い無しに寝転がってゲームをしていた。そのかけ離れた時代性を感じさせる二つの遊び道具が僕には不思議に感じられた。

「お前らさあ、服汚れまくってるぞ」僕は丸山と島井の元へゆっくり近付くと、上から見下ろし呆れたような態度で言葉をかけた。

「いいじゃん?どうせ汚れるんだからさ?」島井が寂しげに言うと丸山も同意の意思を見開いた目で示した。

「テツは?まだ来ない?」

「まだ来てないみたいだな。まあ、あいつは時間にルーズだから」

僕は空き地の入り口のあたりを窺いながら、か細い声で言った。まだテツが来そうな気配はなかった。

「なあ川上、どう思う?」丸山はゲームの画面を閉じて、僕の方を見ずに言った。

「え?」僕は丸山の言ったどう思うの意味がわからずに聞き返した。この光景は僕らの間では日常茶飯事だった。

「もう俺ら、万引きなんてしなくていいと思うんだよ」丸山は普段と打って変わって神妙な面持ちで言った。

「そろそろ本気でヤバイって。捕まったら今までのこともバレるし、そもそもなんで万引きなんてしてんのかわかんねえよ」

丸山の言葉に島井も感じるところがあったのだろう。目には少しだけ涙を浮かべていた。

「まあ、わかるよ。でもさ、俺らがテツにそんなこと言えるか?あいつ、普段は俺らに偉そうにしたりはしないけど、キレたら何するかわかんねーんだぞ」

僕は言っている間に自分がテツの悪口を言っているような気がした。しかし僕はテツのことを悪く言うつもりなど微塵もなかったのだ。テツは確かに僕らの憧れでありリーダーで、僕らはテツについていくことで田舎のつまらない日々を辛うじて退屈せずに過ごせるのだ。やはりテツがいなくては僕らは何もできない。

「お前さ、本当はテツにビビってるだけなんだろ?本気で反抗したらお前みたいなヒョロヒョロ一発で殴り飛ばされるもんな」丸山は如何にも僕をバカにした口調で言い切った。僕はそれらの言葉に頷きたい思いを持ちながらも、自尊心を守るために心の火山を噴火させ、威嚇するようにして丸山を激しく睨みつけた。

「そんな怖い顔すんなよ。冗談だって」丸山は僕の視線に恐怖を感じたのだろうか、慌てて半身を起こして苦笑いを浮かべながら言った。

「いや、本当のことだしいいよ。でもそれはお前にしても同じだろ。俺らはテツには刃向かえない」

僕は努めて冷静に対応した。確かに僕は負け戦は好まない。けれど僕はテツにやられるのが怖いから反抗しないというわけではない。単純に僕ら四人の仲を壊したくないのだ。テツに殴り飛ばされ血を見ようが、プロレス技をかけられ骨を折られようが、結果的に僕らが仲良くいられればそれで良いのだから、余計なことを言う必要なんて少しもない。しかしテツに対する半端な甘えと恐怖のために、僕ら自身が持つ言葉の渦は胃の中で窮屈そうにうごめきながら閉じ込められているのだと、僕ははっきり理解してもいた。

「まあな。あいつは、本気になったら誰も止められねえよ。勝てるのは中学生くらいのもんだ」丸山は一人言のようにボソリと呟いた。

丸山の気持ちも島井の気持ちも、母が弟を心配するそれのように、僕には痛いほど理解できた。やはり犯罪に手を染めている人間にも、しっかりと善の心は宿っている。ただ、それがどうしてもうまく機能してくれないのだ。丸山も島井も僕と同じように、何か迷路の突き当たりにいるような、打開策を見出だすことができずもがいているのに違いなかった。二人の家庭でもコンビニの話題は蔓延し、その緊張の持続に耐えられなくなり始めたのかもしれない。丸山も島井も所詮は僕と同じ、自分の罪を正当性のあるものとして踏ん切りをつけることのできない田舎の純朴な少年なのだ。

そう考えると、僕ら三人がこの状況に黙って耐えられるのも、もしかすると時間の問題なのかもしれなかった。僕らはもう相当に神経をすり減らしていた。そしてそれを回避するために僕らが唯一できること、それはテツが万引きを飽きるよう仕向けるために、精一杯口を働かせることくらいしかなかった。

「なあ、丸山」

「ん?」

「それとなくさ、それとなくだぞ。テツに万引き辞めさせるよう誘導してみないか?」僕は丸山の目を見ることができずに、鼻のあたりを見ながら言った。

「うん。俺もそう考えてた」丸山が言って島井が頷いた。この光景もまた僕らにとって見慣れたものだった。

「どうすりゃいいかな?」

僕は全てを一人で背負い込む自信がなかったので、二人に意見を求めた。しかし二人も全くもって良い案を持たなかった。深い沈黙が僕らに焦燥をもたらしたが、僕らは考えることを止めなかった。深く沈み込んだ言葉の渦を、喉元に運ぶためには多少の時間を要す。しかし僕らには確実に言葉を探しだす意志と能力があった。丸山が表情を変えずに口を開く。

「やっぱ、運動もゲームもテツに楽しませるようにすればいいってことになるのかね」

「どうやってだよ?テツは運動もゲームも強いから俺らじゃ相手になんないぞ」僕は少し呆れたようにして言った。

「単純に楽しめばいいんだよ。俺らが万引き以外のことに熱中すれば、テツの考え方も変わるかもしれないだろ」

「そんなに簡単な問題か?」

「それ以外に何かあるかよ」

「まあ、ないけどさ……」僕は俯き、その姿勢のまま指のささくれをいじっていた。皮が取れそうになり痛かったが、我慢した。

「じゃあ、そういうことで頑張ろうぜ」

丸山が言った。僕と島井は戦いに向かう勇者のような顔付きでお互いを見つめあった。そして丸山もそうした。僕らは三人だけで別の友情を生み出していたが、それはテツを疎外したというわけではない。単純にそこにそういうグループがあるという、ただそれだけのことだった。

僕らは悪を取り除くために正しい方向へと踏み込み始めていた。しかし力強い言葉と目の輝きとは裏腹に、僕はふとした暗闇の中で戦争の場面を思い出すような漠然とした不安を拭うことができずにいた。真正面から向かわずにかわそうとする僕らの姿勢は合理的だし、犠牲を生まない理想の作戦だったが、そのぶん爆発力に欠けることを否めないのだ。そして万引きを破壊するために爆発力が欠けることは致命傷になるということを僕も丸山も、知見の乏しい島井でさえも理解していることを僕はよくよく知っているはずなのだ。僕らはある種の逃げを働いていた。だが、逃げが成功すればこの上はない。戦場で敵兵と鉢合わせた際、逃げることができればそれは最善なのだ。自分が生きるために敵兵を殺そうと試みて、成功しても後味は悪いし、失敗すれば死んでしまう。僕らにとっても死は全ての終わりを意味していた。


僕らはテツがやって来ると、野球をしようとできるだけ熱心に、なるたけ少年の目でそれを訴えかけた。たった四人では、二人ずつに分かれて、投手、捕手、打者、守備を割り当てて行うだけの決して本格的ではない野球遊びしかできなかったが、僕らは本当にそれを楽しんだ。バットとボールが織り成す芸術的とさえ言える金属音は、雲一つない真っ青な空に響き渡り、町の広くて何もない田んぼ道は、僕らの笑い声をより一層温かくさえさせた。僕らはこういった時だけは田舎に対して好意的だった。僕らは本当にちょっとしたことでも頭のネジがはずれてしまったかのように大声で叫びたてたし、笑いつかれた挙げ句立っていることも困難なほどに腹部が優しく痛み始めるほどだった。島井が空振りをして、どうして当たらないんだろう?と右手の上に重ねられた左手を見つめても僕らはわざと指摘せずにゲラゲラと笑ったし、丸山の睾丸にボールが当たり急激な腹痛に襲われている時にも、丸山は目に涙を溜めながら笑っていた。テツのホームランが林に飛び込めば、僕らはここでもないあそこでもないと言い合って、友情を確かめ合いながら必死にボールを探した。僕はボールが見つかろうと見つからなかろうとどうでも良かった。本当にこの時間そのものだけがいとおしく、永遠にあって欲しいと思ってしまうのだ。しかし僕はしっかりと胸に忍び込んでくる一つの悲しみを忘れ去ることはできなかった。

だから、こうした遊びも三日目になると何かがおかしく思えてくるのだ。僕は自分たちが大きな声をたてて笑い転げている所を、肉体から眼球が飛び出したかのように客観的に見つめ始めるようになったし、笑いがおさまった後の静けさが、僕の身体を急速に冷凍させていく感覚は脳だけを熱くさせてしまうのだ。そして、既にこれらの純粋に楽しいはずの遊びが、僕らにとってはもう三日ともたない物足りない遊びとなってしまっていることに気付かされ、僕はもう純粋ささえも失った田舎の問題児だということをはっきりと自覚せねばならないのだ。僕はそういった悲しい事実に浸される瞬間に、丸山と島井の顔を覗き込み、二人も僕と同じ深刻な病気、どんな治療を施そうと完治することのない極めて悪性の腫瘍を脳に植え付けられた病気にかかっていることに頭を抱え、うなだれて深く絶望しなければならなかった。

さらに僕らを深い深い絶望へと追い込んだのは、万引きという行為を、まるで真夏に大量の水分を欲するかのように身体が求めてしまうことだった。僕らが野球やゲームをしている最中にそういった類いの悲しみや絶望が僕の身体に染み入ってくると、僕は本当に自分でもどうしようもないほどに万引きをしたいと思ってしまい、その思考は何かに取り憑かれてしまったかのように歯止めがきかないのだ。それはまるで脳ミソを頭の中から引きずりだして掻きむしりたいような、十二歳の少年ではとても対応できないような激しい衝動なのだ。

そしてその衝動に耐えきれなくなって心のダムが決壊した時、僕らはテツに言うのだ。「やっぱり今日は万引きをしないか」と。僕は万引きを行った後に激しい後悔に襲われた。ほとんど泣き出したい思いだった。友情のため仕方なしに行ってきたはずの万引きが、僕らの身体に必要なものとして入り込んでしまっている。それは本当に僕を絶望のどん底に突き落とした。井口もコンビニも関係なく、僕らは万引きという行為に魂を吸いとられていた。

そしてこの万引きという行為、いや、万引きという僕らを取り巻く一つのアイデンティティーを失うためには、教師や親へとこのことがバレ、とんでもないほどの叱責を受ける他にないと僕は思いはじめるのだ。それは僕らにとって家族にも迷惑をかけることになるし、小学校の中心を担う僕らの地位を確実に下げるであろうとんでもない屈辱だ。しかし僕はそういった犠牲を払ってでも、万引きを食い止める他にはないと思った。罪は罰せられる、そして万引きは罪である、つまり僕らは罰せられるべきだという当然の思考はまだ失っていなかったのだ。僕は全ての崩壊を願った。僕ら四人の関係が崩れ去り、家族が周囲から非難の目を向けられ疎外される、その後僕は一体どうなってしまうか。そういったことを考えなかったわけではない。しかしその罰せられるという事象には、確実に僕らの行ってきた行為とモヤモヤした心を打ち消す特別な効果があると信じて止まなかったのだ。そこに全ての拠り所が存在しているような気がしていた。そして僕はそれに賭ける以外に方法はなかった。どんな悪が僕を取り巻いたとしても、僕が弱い人間であるということは根本的に変わらないのだから。……


コンビニでの万引きを決行するその日、僕は死にそうなほどの身体の震えを押さえきれずに奥歯をガタつかせていた。というのも僕は不安でそうなっていたわけではない。もちろんそれも影響していたのかもしれないが、僕はとんでもない高熱にうなされていたのだ。三十九度近くまで上昇した熱は万引きを行う時同様に僕の背中や脇を大量の汗で濡らし、熱さと肌寒さが同居する感覚はまさに万引きをする瞬間そのものだった。

僕は丸山に電話を掛けるため、這って階段を降りて丸山の家の番号を押した。テツ、丸山、島井、一体誰に電話を掛けるべきか僕は一切悩まなかった。テツと一対一で会話をするのは気が引けたし、島井では内容がうまく伝わらないかもしれない。そう考えると、自ずと丸山以外に電話を掛ける相手はいなかったし、僕は丸山に妙な信頼を寄せている節があった。

「もしもし、丸山ですが」電話に出たのは丸山本人だった。声が明らかに丸山のものだったので、僕は名乗らずにいきなり切り出すことにした。

「もしもし、俺だけど。川上」

「ああお前か。……で、なに?」

「今日、アレ行けそうにないわ」僕はいかにも辛そうな声で言った。

「え?ああ、学校休んだし大体はわかってたよ」

「わるいな」

「別に悪くはないけどさ……」丸山はなんともいえない声の小ささで呟いた。「テツには俺が言っとくよ」

「ごめん。頼むよ」僕は一言目は本当に申し訳なさそうに、二言目は託すように言った。僕はふと僕の不在によって万引きを延期する選択肢はないのかと訝った。

「延期はないのか?」

「ない。テツが今日やるって」僕は落胆した。しかし取り決めとあっては仕方ないという思考が僕の落胆を急速に回復させた。

「なあ、いま誰かいるか?」と不意に丸山が言った。

「いや、誰もいないけど、もしかしたらじいちゃんかばあちゃんが入ってくるかも」

「……そっか、じゃあいいや」丸山は考え込んでから言った。

「なんだよ?なんかあんのか?」僕は丸山の言い方が不安を煽るような言い方だったので熱心に聞いた。

「正直、ヤバイと思うんだよ」と丸山は会話が誰かに悟られることに怯えながら言った。

「え?」僕は顔をしかめた。「アレが?」

「うん。昨日親と話してて、中学生が捕まったって聞いたんだよ」

「中学生が?」

僕は驚愕した。それは捕まったのが中学生だったということ以上に、僕らと同じことを企む先客がいたということへの驚きでもあった。

「テツのあの作戦じゃ無理だよ」

テツの作戦というのは、井口で行っているものと大して変わらないものだった。テツが店員の気をひいている間に丸山と島井、予定では僕が商品を盗むというもので、少しだけ違うことと言えば、念のため監視カメラを遮るように一人が背伸びして立つことで、残り二人が働いている盗みを隠すというものだった。

「中学生はどんな感じで捕まったんだろ?」

「知らねーよ。知らねーけど、その話聞いた時俺明らかに動揺しちゃってさ。親にバレてなきゃいいけど」

「それは大丈夫だろうけどさ……」僕には何も言えはしなかった。今日万引きを行わない僕が丸山にかける言葉など何もない。僕はやり場のない感情に涙ぐんだ。

「俺も熱でも出したかったよ」

「言うなよ……。俺だって好きで具合悪いわけじゃないんだから。それに遅かれ早かれやることだろ」

「まあな……つーかもうこんな時間か。俺そろそろ行くわ」そう言って丸山は電話を切った。僕も悲しく受話器を置いた。

僕はまた這って階段を上り布団に入ると、再び寒気が襲ってきたので目を閉じて様々な思考を巡らせた。

僕はもう万引きがバレることを望んでいる、それは確かだった。しかしもし僕が不在の今日万引きがバレたらやっかいなことになりはしないか、そういった考えが僕を満たしていた。

先日、コンビニがオープンした日に僕は母と弟を伴いコンビニを訪れた。いくら生まれてから田舎に住み続けてきたとは言え、隣町にあるショッピングセンターや電車を乗り継いで大都会であるところの仙台に足を踏み入れたこともあったから、さして大きな感慨があるはずはなかったのだが、やはり僕らの町という酷い田舎具合を理解していたことも相まって、大きな構えのコンビニは僕に驚嘆の声を発させた。中は決して華美なわけではなかったが、しかし僕にはそれが異様にキラキラして見えたし、商品の一つ一つを井口と比較しては埃が被っていないことや賞味期限が切れていないことを確認して軽い笑みを浮かべたりした。そして僕は万引きを行うことを前提にして様々なことを確認した。店員の数、彼ら彼女らの視界の範囲、監視カメラの角度、店内のざわめき、既に小さな強盗犯と化してしまった自分の手際の良さを客観視することはやはり僕を悲観の境地へと引きずりこんだが、しかし僕は崩壊に向けて動き出している。一つの確たる目的意識が僕の理性を正常の範囲に止まらせた。

僕はコンビニを隅々まで観察した。そこから導きだせたことはいくつかあったが、最も重要なことは、あそこで万引きを働くのには、相当のリスクを伴うということだった。そしてそれは先程の丸山の話を聞きほとんど確信に変わっていた。

僕らはあそこで万引きを三回も行えば、ほぼ確実に捕まる。その答えはある程度のところで僕を安心させたが、しかしその安心はいまや漠然とした不安へとその形を変えている。僕が不在でやつらが捕まった時、やつらは僕が万引きに加わっていたことを言うだろうか?もし言わなかったとしたら、僕だけが罰を受けないままに万引きが終わる、それは本当にバツが悪いことだ。

そう考え始めると、不安はむくむくと勢いよく膨張し始め、僕に体調的な吐き気を起こさせ始めた。しかし、自己が介入しない世界で起こる出来事が僕にもたらす影響を操作することはできない。どんなに優秀な学者がどんなに深い思考に辿り着こうとも、それは限りなく無意味な思考なのだ。僕は全てを投げ捨てて眠りについた。



翌日、すっかり風邪の具合が良くなった僕は重たい気持ちで登校した。一体昨日三人がどういった結末を迎えたのか知りようもない僕は、まるで呼吸することを忘れてしまった鳥のように唇を尖らせながら歩いていた。僕の背中を押すはずの強い追い風が障害物を経て少し逆戻りした微風を敏感になった唇に冷たく張り付かせてくる度に、向かい風が強く吹き付ける錯覚を起こして悲しく強く小さな瞳を閉じた。僕はその風が僕を家まで押し戻してくれることを願ったが、段々と履き慣れ始めた靴に吸い付く素足がその調子を良くさせるために、むしろ歩行速度はいつもより増してさえいるのだった。学校までの道が地理的にも道路的にも直線であるのは基本的に嬉しいことだったが、道を考えなくていいことが僕に他の思考をさせる猶予をつくることは今日に限って本当に恨めしいことだった。僕は同じことばかりを延々と考えてしまうのだから。

僕が学校に着いたのはいつもとほとんど同じ時間、担任の教師が教室へとやってくる五分前だった。教室にテツ、丸山、島井の姿はなかった。テツがいないことはなんの問題もなく、むしろそれは当たり前にある日常だった。しかし、問題は丸山と島井の姿がないことだった。二人は普段僕よりも早い時間に登校してくる。その二人の姿がない。僕は心臓が唸りをあげて飛び出してしまうほどのバクバク音を聞いて視界が歪み、ドア付近に立ち尽くした僕を見てくるクラスメートの数々の視線は僕に喉奥の腹部から大きな息を吐き出させた。僕は自分の中で葛藤し始めた何かをコントロールするために背筋を伸ばすように努めたが、それは焼け石に水だった。僕はそれを押さえられないままに早足で席について、ランドセルを下ろしもせずに両手を机に置いたまま浅く腰掛けていた。

担任はやって来なかった。鐘が鳴っても担任がやって来ない、僕は積もり積もった緊張と角ばった不安の最高潮にいた。日直の二人が担任を呼びに教室を出ていってから戻ってくる五分の間に、教室で行われていたあらゆるおしゃべりの雑音の中に丸山と島井の名前を見出だした僕が二人のことについて考え始めると、僕の身体の中でどろどろと融けて下腹を重たくさせていた疑念は熱の高まりに伴い凝固し始め、その物質を頭の中でしっかりと噛み締めた僕はほとんどある一つの答えを確信せざるを得なかった。だから教室へと帰って来た日直が丸山、島井、テツが教師から叱られているところを覗き見たと大声で教室に響き渡らせても、僕は全く驚きはしなかった。たくさんの人を殺した人間が死刑を宣告されるそれのように、僕はやはりそうなるかという冷めた感慨しか持たなかった。しかし、僕を驚かせたのは日直が言い放った、テツが泣いているという号外にも似た叫び声だった。

丸山でも、島井でもない、僕が尊敬して止まず、万引きという悪の行為を選んでまでついていったテツが教師に怒られて大粒の涙を流す、僕は信じたくなかった。人気を誇った有名人が急逝した時のような浮いた感情が僕を短く取り巻き、それはあたかも僕が吸収性の高い物質であるかのように急速に染み渡ったので、僕は目の焦点を合わせることができない。


……テツが涙を流す。テツはこれまで受けたことのなかった大目玉をくらい、反省の色に浸っているに違いなかった。テツは文字通りの怖いもの知らずだったのだ。僕は焦点の合わないまま一点を見つめていたが、思考だけは異様に冴えてテツを冷静に批判していた。テツには泣いてはいけない理由がある。それは僕らを自分の世界へと引きずりこんで、悪の契約書を結ばせたこと、テツはその責任を果たさなければいけない。その責任はどんな時においても僕らを統率していくという一つの固い意志だけで良いのだ。しかし、それすらも失い弱々しく泣いているであろうテツにはどんな強者の面影も残ってはいないだろう。僕はそんな姿は見たくなかった。テツの背中にはいつも強者の力が宿ってなければいけない……。

ほどなくして三人は教室に入ってきた。目を真っ赤に腫らしたテツとどんよりした表情の丸山と島井、二人はすっかり昨日で傷心しきっていたのだろう、今朝の叱りで改めて自戒している様子はなかった。とぼとぼと歩くテツは予想通り強者の面影を残さなかったが、僕は視線を反らさずに冷たい視線を浴びせ続けた。しかしテツは僕に軽く微笑みかけて、好意的ともとれる視線を向けてきさえしたのだ。僕は始めてテツを嫌悪し、そしてほとんど確信していた答えが事実として確定したことを悟った。

テツが虚偽的な優しさに捉われて共犯者であった僕の名を出さなかったのか、それとも打ちのめされて声を出すことさえできなかったのかはわからない。しかし、僕が心をどこに属して良いかわからない宙ぶらりんになったことだけは確かだった。僕はやつらの嘘の優しさか、もしくは臆病な心に紛れて万引きをやめることが出来、万引きをなかったことに出来る。論理的に言えばこれは最適解のはずだった。しかし僕はもう、自己を処罰することでしかはっきりとコンビニとの、万引きとの決別を計ることができそうにないのだ。このモヤモヤが僕の身体全体を取り囲む間は、僕はもう正常な思考を取り戻すことができそうになかった。

けれどそんなこととは無関係に時間は進み、いつも通り授業は行われる。休み時間になっても三人はほとんど僕に声をかけず、三人で集まっては慰めあっている様子だった。やつらは三人で謎の結束をつくっていたのだ。僕は意味がわからなかった。僕は風邪という正当性をもって万引きを行わなかった、その間に三人が捕まって僕がやつらの輪から疎外される、それはどんな正当性も伴っていない。やつらは僕が裏切ったとでも思っているのだろうか。だとしたらそれは酷い筋違いだし、僕には弁解する権利があって、実際にそうするべきだったのだろう。けれど、僕はもうやつらと仲を取り持ちたいとは思わなかった。泣き出すテツとそれにへこへこする丸山と島井、やつらがとてつもなくスケールの小さい男に見えてくるのだ。

全ての授業が終わり、再度三人が呼び出された時に僕は自白するべきだったのかもしれない。しかし行き方のわからない情熱が僕を不用意に揺り動かしたため、気付くと僕は学校から飛び出していた。


歩みを進めながら物思いにふける時、人はどうして電柱にぶつからないのだろう。それは僕らの町に電柱がないからとか、そういうつまらないことではない。僕は本当にどうやって帰路に着いたのか全くわからないほど深遠な思考に耽っていた。

テツも人の子だ、涙を流すことはある。しかし泣いてはいけない場面というものがある、それがどれだけ僕を悲観させ、絶望させたか。テツが僕に優しく微笑みかけた瞬間、涙が乾いて円い跡がぽつぽつとついていた顔は悪という悪で塗りたくられていた。そして三人がつくりあげてしまった万引きに対しての緊密な輪、あそこには僕が入り込む余地はまるでないのだ。コンビニでの万引きをしていないことが僕に疎外という形で襲いを為している。しかし一体僕にどうすることができるだろう?万引きをしなければグループから疎外され、万引きをすれば家族から疎外される。僕は八方塞がりの中で壁に身を打ち付けている他に方法がないのだ。テツの笑顔が実に憎らしい幻影となり僕の戸惑いの思考を更に混濁したものへと変えてしまう。

……この町は、全てのものがそのまま受け入れられ過ぎている、皆が真正面から物事を捉え過ぎている、と僕は思った。田んぼでは米がつくられ、畑では野菜がつくられる、楽しいことがあれば笑い、悲しければ泣き、優しさは善であって、欺瞞は悪、夕暮れが来たら僕らは家に帰り、暗くなったら眠りに就く。それらは、どんなシチュエーションをも度外視してその立ち位置を変えることはなかった。しかし、先程のテツの優しさは僕にとって間違いなく悪に変容していたのだ。こんなことは初めてだった。

万引きは悪だ、その認識はいまも変わっていない。しかし、僕は自分の中にある悪を万引きという悪でもって除去する以外の何かを見つけ出すことができそうにないのだ。それはマイナスとマイナスを掛け合わせればプラスになるようなものであり、そうするしかないという一方通行でもあった。僕はドラマのワンシーンを思い出していた。余命を宣告された主人公がすぐに治るのだと恋人に嘘をつくシーン、あれもまさにこういった類いのものだろうか。

……僕は駆けた。力なく横たわる枯れた雑草と生き生きとした稲穂を横目に見ながら石が敷かれただけの砂利道を走る、重たい足を踏み込む度に足首が大量の砂利に埋もれてしまいそうだった。行きの追い風は向かい風に変わり、重たく沈む砂利と風とが僕を町の深い土壌へ誘う。町が僕をここに止まらせる、従順な少年であることを町が望んでいるようだった。僕は走る速度を上げた。風を切るような音が耳に吸い込まれる度に温かさを失うのがわかった。畑から顔を出すネギの緑と土の茶色、僕はすぐに目を離して駆けた。帰り道の途中にある井口には人は全くおらず、店番のおばちゃんが浮かべる表情は心なしか悲しげに見えた。井口はコンビニに客を取られていたのだ、井口は弱者だった。しかし、それはテツと同類の弱者ではないのが僕にはよくわかっていた。井口は被害者だ、そして加害者はコンビニでありコンビニは悪なのかもしれない、その回り込んだ思考はテツに乗っ取られた僕とコンビニに乗っ取られた井口の悲しい運命を重ね合わせるのには充分過ぎた。僕はそのことを自分によく言い聞かせて、足りない脳みそに液状のものと化させた曖昧ではない正義をすりこませると、僕の情熱は舵を切ったように向かうべき島の方向へと足取りを決めたようだった。

家に着くと僕はランドセルを放り投げて財布を持ってすぐに家を飛び出した。コンビニへの近道は酷く険しい。駆け抜けるスピードによっては鋭く牙を向く危険物質へと変化する笹の葉や血を吸ってぶくぶくと大きくなった蚊、ひんやりとした地面に吸い付く僕の靴底。温かい季節になると踊り出すように出現してくる虫達と生え狂う無数の植物、僕をつまずかせ異なる思考を呼び起こそうとするそれら下等な生物はいつも僕の邪魔ばかりしてくる。羽虫はうじゃうじゃと天井を覆い尽くし僕の快適な睡眠を阻害し、夏の日の無防備な素足に触れてくる植物は僕の足に痒みをもたらし苛立たせ、その上軟膏を激しく消費させる。しかしそれらの嫌な思い出ばかりをよみがえらせる障害物を乗り越え綺麗なレンガ造りのコンビニを視界に捉えた時、僕は身体が勇気と希望とでコーティングされていることに気付くのだ。僕は勢いよくコンビニに入った。高く鳴り響く短いメロディーを耳で聞き、視線は無数の小学校の仲間達から離さない。それら二つは僕の複雑に入り混じった感情を良い具合に打ち消した。パンや弁当の陳列を行う店員とレジで佇む年配の店員、夕方を目前に控えた半端な時間のため、僕の確認できる範囲において店員はこの二人のみだった。僕は小学校の下級生が僕の万引きをしっかりと視界に捉えうることを確認してから雑誌コーナーに目もくれずお菓子コーナーに足を運ぶと、勢いのみにまかせていくらかのお菓子を抱え込んで飛び出した。扉を突破する直前で鳴り響く「ありごとうございました」の機械的な女性の声は僕に動揺を走らせない。店員が自己の責任と正義感に駆られて僕の退出を拒もうとしたか、長年の外部との接触で得た常識的な悪への対処を行おうとしたかはわからなかった。しかし少なくとも僕は逃げ切ることに成功したようだったし、僕を唖然と見つめる下級生をはっきりと確認することもできた。僕は心臓が平常なことと炎天下でもないのに乾ききったシャツに驚き誇りながら走って井口へと向かった。

やはり井口にはこの世が終わってしまったかのように誰一人としていなかった。僕は持ってきたお菓子を店番のおばちゃんにバレないように運び込みお菓子のコーナーに置くと、財布の中身を確認して違う大量のお菓子を持ってレジに向かった。

「これ全部一人で食べんのかい?」おばちゃんはきょとんとした顔で言った。

「いえ、一人では食べないです。家族で食べます」

「そうかい。家族の分まで買うなんて、優しい子だなや」

「いえ、全然優しくなんかないです。むしろ……」僕は伏し目がちに言った。

「今日は、あまりお客さんいないんですね」僕はつけ足してから余計なことを言ったと思い、おばちゃんからそそくさと顔をそむけた。

「んなのよ。コンビニができたから客さっぱこねえの。もうダメかもわからんね」

「そうですか……」

「まあでも、あんだみたいな子がいるうちはやっがもしんねえな」

おばちゃんはそう言うと少し笑った。僕は頭をさげ店を出た。おばちゃんの笑顔を見ると僕はほんのりと温かい気持ちになったが、僕の目から溢れだす大粒の涙は、何度も何度も瞼をこすってみても、一向に止まる気配を見せなかった。その涙が僕をどういった方向に向かわせるものでもないことはよくわかっていたが、弱い存在である僕にはその涙を止めることができない。けれどそういった弱さは、常に尊重されるべきものだという温かい観念が僕を包み込むようにして離れないのだ。その観念はすでに僕の凝り固まった真っ直ぐな樹木のような思考に無数の風穴を開けていた。僕は二度と万引きをしないと誓った。


次の日、すっかり権力を失った僕は小学校の誰かによって万引きのことを摘発され、職員室へ呼び出された。僕はこっぴどく叱られた。どうして三人が呼び出された時に名乗り出なかったのだと何度もしつこく問いただされたが、僕はその理由をうまく説明することができなかった。だから僕は何度も正当性という言葉を使って説明しようとしたが、それは教師には全く認めてもらえなかった。しかし僕にとってはそんなことなどどうでも良く、少しの涙も流さずに教室へと戻った。僕に対して熱い視線をそそぐクラスメートと奇怪な目で見てくるテツ、丸山、島井、しかしそれらの視線はむしろ僕にとって誇らしく、テツのことが異様に小さな、ただの普通の小学生に見えてくるのだった。そんな中で一人筍のように背筋を伸ばし独立している僕。僕はクラスの誰よりも強い心を得ていた。

その日の夜、母は僕のために涙を流し、父は接する時間をつくってやれなかったことを嘆きうなだれていた。そしてその挙げ句二人は僕を見放したような言葉を投げ掛けはじめた。町から疎外されるのは家族であり、その家族から疎外されるのは僕だった、そして町からすっかり疎外されていく僕。しかし僕はもう鼻をたらしてぼんやりしている町の小僧ではなかった。僕は町よりも確実に大きく膨張して僕を苦しませる葛藤に自らで折り合いをつけたのだ。その自信だけが僕の成長しきってない体を鋼の肉体にさせた。そしてその強靭な心と身体は、僕が小学校を卒業するまでしっかりと僕を覆い尽くすであろう持続性の高いものであり、放課後一人で井口へと向かい全ての商品を確かに現金で購入する度に、僕は心の中で過去の過ちを謝罪した。僕はすっかりひとりぼっちになっていたが、万引きをしていた頃よりも数段充実した毎日は自然と笑顔の数を増加させていた。


夜になると鳴き始める昆虫たちは僕らの意識が及ばない昼の間にも鳴いているのかもしれない。昼間の雑音でかき消されるそれら昆虫の声に耳を傾けた翌日の昼下がり、悲鳴にも似た鳴き声は僕の脳に染み入って一つの悲しみを増殖させた。しかし僕はその声を遮断せずに、その声に耳を傾けながら、五感を使ってしっかりと記憶に焼き付けていた。虫の下にある地熱を得た土壌はすっかり固まって砂のようになり、ジリジリと照りつける太陽は敷き詰められた砂利を徐々に焼いていった。

夏がすぐそこまで近付いていた。





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