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レモン&ソルト

 今日のために、ヘアゴムを新しく買った。産まれて初めて他人の顔を思い浮かべながら手に取った。明るい紫で目立ち過ぎず、だけどほんのりラメが入ってる。いつものと大した違いは無いけど。普段使うヘアゴムは、部活のとき髪が邪魔にならないようにって理由だけで選んだ物。黒色の、2本で100円のやつを、小学生の頃からずっと。


 今日のために、コンタクトにした。不自然じゃないよう二週間くらい前に。やっぱりメガネだとバスケは危ないんだもん、なんて用意周到に流布して。本当に狡賢い、そんな自分が浮き彫りになるたび、君に会うのが怖くなる。何かが取り憑いたみたいに肩の力が変に抜けてぎこちなくなってしまう。けれども、そういったものを祓ってくれるのも君なんだろうって、私は直感している。


 今日のためにと用意したリップグロスは、止めることにした。校則で化粧はしちゃいけないことになってるし。きっと少しくらい塗ってても、先生たちは気が付かないでしょう。ただ、率直に言えば、勇気があと一握り出なかった。想像してみて?友達に気取られた場合の気恥ずかしさを。そこまでして、フラれた時の惨めさを。だから逃げ道を作った。正々堂々と勝負はするんだ、それくらい許してください神さま。そうだ、軽く香水を付けていくのはどうだろう。みんなボディシートとか使う季節だし、悪目立ちしないんじゃないかな。確か棚の奥にお母さんのが……柚の香り。うん、いいんじゃない。


 たまに――しかし毎日ではないというだけ、それなりの頻度で――とある夢を見る。今日も見た。誰もいない浜辺を、ふたりで砂を蹴飛ばし歩いている夢。ところが夢は所詮夢、波打ち際に君の袖を引こうと伸ばした手が、掴めもしないカーテン越しの朝日に透ける。何度、虚しいまでに天井を仰ぐ腕を眺めたことか。いつからこんなものを見るようになったんだろう。何か月も以前からに感じるし、たかだか数日しか経っていないような気もする。確実なのは、夜に君に出会うと、学校ではより喋りにくくなるということ。何だか筒抜けな感じがして、必死に取り繕うのだけど胸が縮んだように苦しくなる。もしも私の心臓がゴムで出来ていたなら、とっくに事切れているんだろう。平静を装う高鳴りに耐え切れず。


 革靴を履いて、行ってきます、と言った自分の声が少し上ずっていた。咳払いをしてもう一度。「行ってきます」寝起きのお天道様を尻目に、高架下を自転車で駆け抜けた。半袖のシャツに吹き抜けるそよ風が、本格的な夏の到来を告げていた。





 鼻をつく塩素の匂いと、騒めきが収まらない教室。水泳の授業はいつも仄かに私たちを興奮させる。この授業が終わればお昼休みっていうのもあるんでしょうけど。あ、プールに入るんだったら香水を付けた意味が無かったかもしれない。


 気怠い太もも。絵画のように目を眩ませる青い空。その果てには、長いこと動かないでいる入道雲があった。濁りなく夏であることを予感させ、おろしたてのワイシャツのように白く、爽快な薄浅葱の陰影を纏い、そして筋骨隆々と巨大なそれが佇んでいた。そんな雲の向こう側に私は、授業に耳を傾ける君の背を見つけていた。


 君の背中は黒板よりもはっきりとこの目に映るのに、その奥を覗けないのは何故なんだろう。君は話すときによく胸の前で腕組みをするけれど、陽に焼けた腕に見惚れるのに、その奥を覗けないのは何故なんだろう。


 「おいそこ、うるさいぞ。もう授業始まってるんだからな」


「はーい、すいませーん。アンタのせいで注意されちゃったじゃん」


「へへ、ごめんて」


 ――ジリリ、ジリリ。


 ――セミ。


 そう言えばこの辺りの蝉って、三年ほど地中で過ごすのだってね。君が教えてくれたことだけど、覚えているかな。三年もひとりで居て、それからやっと想い伝えたり、砕けたり。私は、そんな蝉にはなれない。これから三年なんて待てないもの。三年も過ぎたら、きっと遠く離れてしまうもの。


 暑さにぼやけた蝉の唄が翔る空。


 淡々と授業を進める先生の声を遮って、雨が降り出した。突然に世界をグレーに染めて、教室を蒸し暑くしていく。さっきまで胸を張っていた入道雲はどこかへ逃げてしまったみたい。


 天から落ちる小さな雫は、この大きな地球に恋慕の情を抱いているのかもしれない。恋愛指南をお願いしたら私に教えてくれるだろうか。傘を忘れていれば君と一緒に帰れたかもしれない。 こうなることがわかっていたら、折り畳み傘なんて家に置いてきたのに。自分の行動も、己が性質すら憎くなってしまう。君のせいで。そう、君のせいなんだよ。


 まだ未熟で、酸っぱくて。「おはよう」に飛び跳ねて、「また明日」に胸は割かれて。


 もっと暑くなれば、蝉たちはさらに腹から声を出して歌うでしょう。私ときたら掠れた細い声でしか君と話せない。私の方がよっぽど身体は大きいのにね。


 グラウンドが濡れて重い土の匂いが髪を撫でる。新品のヘアゴムも一緒に。


 この夏を越えてみんな大人になるに違いない。それでも果実が熟れるにつれてこの胸の痛みを、君に抱いたこの切なさを、忘れてしまうのなら私はいつまでも青くありたいとすら思う。


 地面に染み込むことさえ叶わない雨粒は海をつくった。


 きっと彼女たち地球に好かれなかったんだ。遥々、勇気を振り絞って来ただろうに。海は、失恋の色なのね。透き通った色。人を魅了する色。けれど、悲しい色。


 それがわかっていても私は君と海が見たい。地平線に腰掛ける真っ赤な太陽を望みたい。滑る砂浜を、肩並べ歩きたい。この夏だけは永遠じゃないだろうから。


 「よし、だいぶ早いけど今日の授業はここまで。昼休憩にしていいぞ」


 方々から席立つ音が鳴った。がたつくイスと、次第に増える話し声が私を焦らせた。待って、まだ購買に行かないで。言いたいことが、言わなくちゃいけないことがあるから――。そそくさと近寄ると、まだ板書を丁寧に写していた。軽く、鼻から息を吐いて、吸って。


 「ねえねえ」


「うわ、びっくりした。ちょっと待ってここだけ書いてないから……。よしおっけー。で、何?」


「放課後、部活前に少しでいいから時間貰っていい?話があるんだけど」


「ええっと、うん、大丈夫。今日は掃除当番じゃないし」


「それなら良かった。じゃ、六限終わりに」


 ふう、上手く喋れてたかな?告白だって勘付かれたかな?いや、地中に潜り続けてるわけにはいかないんだから。もう何にせよ伝えるしかないんだ。頑張れ、頑張れ私。


 ねえ、必ず海、行きましょうね。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです! 告白する寸前で終わらせるところ、その終わらせ方に、鼻っ柱がつーんとしました。
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