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短編

健康診断オールAだった俺が不摂生を続けた結果痛風になりました。ドSなお姉さんが健康管理をしてくれるようです 〜食生活を改善しても健康診断の結果が悪い? 後悔してももう遅い〜

作者: 剃り残し

 ロウリュウによって水蒸気が部屋の中に舞い上がる。外の空気がムワっとしていると不愉快極まりないのだが、サウナの中だけはこの高温多湿な状況に心地良さを覚える。


 独身彼女ナシ会社員の僕にとっては貴重でも何でもない日曜の昼下がり。冷やかしにサウナに入ってきた中学生や親子連れがすぐに音を上げて、部屋の温度と湿度を狂わせる。文字通り部屋を冷やかしている。この辺では一番に汗をかけると評判のサウナなので、話題だけで食いつく馬鹿が多いのだ。


 キッチリ10分経ったところでサウナから出る。体を休めてはサウナに入ってを五回繰り返した。今日も満足したので、汗を流して水風呂に向かう。


 今日は体調が優れないようで、足先にジンジンとした刺激がある。昨日、行きつけの居酒屋で飲みすぎたようだ。だがサウナですべてが整う。明日からの激務に耐えるためにも体と精神をサウナで整えるのだ。


 水風呂まで目と鼻の先まで来たところで足が動かなくなった。この世のものとは思えない激痛が足先に走る。あまりの痛みに立っていられなくなり、その場にうずくまる。痛みで意識が朦朧としてきた。パシャパシャと親子で湯のかけ合いをする音が頭の中に響く。


「おい。兄ちゃん、大丈夫か?」


「きゅ……きゅう……きゅうしゃ……」


「おい! 誰か救急車を呼んでくれ!」


 かろうじて言葉を絞り出すことができた。何人もの男が裸で歩いた床に体をこすりつけるなんて普段であれば絶対にしない。だが、今はそれどころではない。楽になれる姿勢を探しながら、少しぬるぬるする床の上を転がる。だがいくら経っても楽にはならない。次第に意識が薄れていく。どうやら僕はここで死ぬらしい。願わくば異世界に転生できることを祈る。


 ◆


 目が覚めると、見知らぬ天井の下にいた。匂いやベッド周辺の設備からすると病院のようだ。どうやら一命を取り留めたらしい。異世界への転生もお預けとなった。


 五分くらいゴロゴロしていると、ベッドを囲んでいたカーテンが勢いよく開け放たれた。看護師だ。


「塩沢さん。塩沢冬馬しおざわ とうまさん。体調はどうですか?」


 看護師はニッコリと微笑みながら僕に訪ねる。


「あ……えぇ。何ともないです。足の痛みも良くなりました」


「そうですか。先生からお話がありますのでついてきてもらえますか? 入院の必要はないので、着替えてからで結構ですよ」


 どうやら親切な人が荷物をロッカーから取り出して一緒に運んでくれていたようだ。財布の中身も減っていない。まだまだ世の中捨てたものではないと思う。


 入院着から私服に着替え、靴を履く。少し違和感はあるものの、足の痛みはかなり軽くなっている。


 病室を出ると看護師が待機していた。後について診察室に入ると、いかにも医者といういで立ちの初老のおじさんが座っていた。促されるままに患者用の椅子に座る。


「塩沢さん、体調はいいですか?」


「はい。何ともないです」


「それは良かった。ただ、今は痛み止めが効いているだけですから。また薬が切れると痛み出しますよ」


「あの……あれは一体なんだったんですか? 急に足が痛みだしたんです」


「痛風ですよ。毎年、当院で健康診断を受けられてますよね? かなり危ないので要指導としていたのですが、ずっとお見えにならなかったので、なるべくしてなった、と言う事ですかね」


 医者はチクリと僕に嫌味を言う。


「い……いや、そんなはずはないです。オールAだった記憶もありますし」


「それはもう五年も前の話ですよ。これが塩沢さんの履歴です」


 医者は僕に過去五年分の健康診断結果を見せてくる。確かに五年前はオールAだ。僕が二十七歳の時。二十二歳の頃からずっと居酒屋に入り浸る生活をしていたがそれでもオールAだったので、その頃から健康診断の結果を見なくなっていた。


 改めて過去のデータを確認する。四年前は腹囲と尿酸値がC、つまり要観察となっていた。そこから年を経るごとに体重の増加、尿酸値の上昇が顕著になり、要精密検査と赤字で書かれていた。


「そっ……そんな馬鹿な。この五年間、ずっと健康でしたよ? 風邪すらひかなかったんです」


「痛風はある日突然やってくるんです。もう、認めませんか」


 罪を犯したことをひた隠しにする犯人のような扱いだ。七つの大罪の一つ、暴食。僕はその罪を償う時が来たらしい。


「分かりました……でも薬で治るんですよね?」


「短期的に痛みを和らげる事は出来ますが、長期的には生活習慣の改善が必要ですね。塩沢さんの場合は……お酒ですかね」


「酒、ですか」


「皆さん、最初は同じように嫌がりますがね。当院には食生活の指導員がおりまして、食生活の改善についてアドバイスをしています。利用されますか?」


 医者がパンフレットを見せてくる。どうやら松竹梅のような感じでグレード別のコースが用意されているようだ。正直金には困っていないので、とっとと治してまた元の生活に戻りたい。迷うことなく一番高額なコースを指さす。


「是非。このマンツーマンコースでお願いします」


「分かりました。担当者は追って決まるのですが、候補の者が今日は出勤していますので少し面談される事をおすすめします」


「分かりました」


 診察室を出て看護師の案内で別室に移動する。部屋の真ん中にモニターと机が置かれたこじんまりとした部屋だ。会社の会議室を思い出す。


 椅子に座って少し待っていると、扉が開いて一人の女性が入ってきた。思わず「うおっ」と声が漏れる。僕にとってドストライクな人だったのだ。


 濃い目にキリっと描かれた眉、ぷっくりとした涙袋と頬。すらっと眉間から伸びる鼻筋。白い肌。職場だからか長い黒髪を後ろでまとめているが、おろした姿も似合いそうだ。この人が担当なら高額なコースでもお釣りが来ると思った。


 どうやらこの女性がインストラクターらしい。柔らかい物腰で名刺を渡された。大通楓花だいつう ふうかという人だ。


「つうふう……」


 名前に痛風が入っている。何とも僕にぴったりなインストラクターだ。


「それ、面白くないですよ」


 昔から何度もいじられてきたのだろう。むっとした表情で僕を見てくる。


「すみません……」


「いえ、では始めましょうか。塩沢冬馬さんですね。えーっと……これ、酷いですね。食事抜きで強制労働でもさせられているんですか?」


 大通さんは僕の直近の健康診断の結果を見て苦笑いしている。


「食事はとっていますよ。昼は仕事が忙しいのでパソコンの前でコンビニのホットスナックとおにぎりですけど」


「なるほど。じゃあ、まずはこの一週間の食事の振り返りからしてみましょうか」


「いいですけど、まだ大通さんが担当と決まった訳ではないんですよね? しっかり目のカウンセリングみたいになってますけど良いんですか?」


「裏で引き継ぐので問題ないですよ」


 細かい事を気にするなと言いたげだ。僕の健康診断の数値を見ながら面倒くさそうに話してくる。見た目は穏やかそうなのだが、意外とサバサバした性格のようだ。


 大通さんはパソコンの画面をモニターに移して、メモ帳を開いた。どうやらカウンセリング用のテンプレートがあるらしい。


「じゃあ、今朝からお願いします」


「スナック菓子とコーラです」


 大通さんは呆れた顔でメモ帳に打ち込む。だが、タイピングが異常に遅い。キーボードを叩く手を見ると、人差し指だけで打ち込んでいる。今時、こんなにキーボード入力が遅い人がいるのかと驚く。


「あの、自分で打ち込んでいいですか?」


 ぎろりと僕を睨んでくる。どうやらキーボード入力が遅いのを気にしているらしい。


「どうぞ。普段は紙とペンのアナログ派なんです。それにタブレットならフリック入力の方が早いじゃないですか。あまりキーボードは使わないんですよ」


 聞いてもいないのに言い訳を並び立てる。サバサバしていて、プライドが高い人らしい。


 そこから、この一週間の食事を書き連ねていく。とはいえ思い出す必要すらない。平日の昼ご飯は会社のオフィスにあるコンビニでおにぎりと揚げ物と清涼飲料水を毎日買っている。夜は居酒屋で酒と焼き鳥。気分によってもつ煮込みも食べる。


 気分で種類を変えるものの、分類としては同じ物しか食べないので簡単に埋まった。


「これ、本当ですか? 間食もしてませんか?」


「スナック菓子を少々……チョコレートとか……」


「すべて包み隠さず話してください。でないと、この会話の意味がありませんから」


 またもや刑事の取り調べを受ける犯人のような扱いだ。暴食の罪はここまで重いのか。


 会社には夜遅くまで残ることが多い。コンサルタントという仕事柄、どうしても激務になりがちなのだ。そのため、夕ご飯の前に会社でお菓子をつまみながら仕事をすることが多い。頭を働かせるため、糖分の補給も兼ねているので必要経費だと割り切っている。


 昼食と夕食の間に「お菓子」と打ち込む。


「まぁ、想像はついていましたが、ここまで酷いと思いませんでした。プリン体を摂りすぎですね。痛風にもなりますよ。義務教育で家庭科ってありませんでしたか? 色別の栄養素の話とかありましたよね? 覚えてないんですか? 小学生からやり直しますか?」


 呆れた顔でそう言われる。金を払っているのにここまで言われるのは心外だ。美女に罵られるのが好きな人にとってはご褒美かもしれないが、僕はそうではない。


「あの……これって一応、一番グレードが高いコースですよね? もう少し改善にダイレクトに結びつく方法とか教えてもらえないですか?」


 大通さんが眉間に皺を寄せて僕を見てくる。「はぁ?」という顔文字がピッタリだ。元ヤンなのだろうか。クライアントにものすごい剣幕で怒鳴られることもあるのでこれしきでは動じない。美女は怒った顔も画になる。


「あのですねぇ……高い料金を払ったからって治るのが早くなるわけではないです。どのコースでも基本的にやることは一緒なので。食生活の改善が目的ですから。意思の弱い人を徹底的にサポートするために料金が高く設定されているんですよ。専門家を一人、あなた専用にあてがうんですよ? 高くなるのも当然じゃないですか。コンサルタントなのにそんな事も分からないんですか?」


 大通さんは、最初は苦笑から入ったものの、どんどんと熱が入ってきたようで目を大きく開いて僕に語り掛けてくる。綺麗な黒目をしている。二重は自前だろうか。左右対称の綺麗な目をしている。


「聞いてるんですか!?」


「はっ……はい!」


 大通さんの声で現実に引き戻される。大通さんの話はもっともなのだが、何かが引っかかる。


「あの……僕って職業お伝えしてましたっけ? 問診表にも書くところが無かったと思いますけど」


 大通さんは「しまった」と言いたげな顔で目を逸らす。


「ほっ……保険証を見たんです! 見たというか、チラっと見えただけですけどね。有名なところにお勤めなんだなって思ったから覚えてただけで、他意はないですから!」


 なんだか怪しい態度だけど、ここで問い詰めても仕方がない。僕の勤め先を知った経緯が分かったところで、僕の体が良くなるわけではないのだ。


 このまま食事の栄養バランスについて長々と説教されるのだろうと思った矢先、部屋のドアがノックされた。どうやら次の患者がここを使うようだ。


「すみません。時間ですね。次回の予約はホームページから出来ますので」


 大通さんは手早く荷物を片づけると、改まった態度で僕を見てくる。


「あの……耳が痛いことを色々と言ったかもしれません。ただ、食生活が原因で命を落とすような事になって欲しくないんです。その事だけは肝に銘じてください。あ、肝と言えば肝臓も少し悪かったですね。お酒も控えてください」


 何かにつけては僕の食事に注意をしてくる。だが、大通さんの目は仕事だから最低限の内容をこなしている訳ではなく、顧客である僕を真剣に心配しているのだろうと言う事が伝わってくるようだった。


 大通さんの想いに応えるためにも、今日からは食事を改善しようという決意で病院を後にした。


 ◆


 二時間前はそんな事を思っていた。だが、家に帰ると沸々と酒を飲みたい欲求に駆られてしまい、痛む足を引きずって今日も行きつけの居酒屋に来てしまった。


 その居酒屋とは、鳥丸とりまる。三年前くらいに見つけてから、ほぼ毎日のように足繫く通っている。いつものように引き戸を開く。僕の顔を認識すると、店主の牛尾さんが大きな声で呼んでくる。焼き鳥が名物なのだが、店主は牛尾だ。


「おぉ! 冬馬君いらっしゃい! いつもの席、空いてるよ」


 カウンターの左端。僕がいつも座る席だ。いつの頃からか、牛尾さんがここを僕のために開けてくれるようになった。


 席について少しすると、何も言わなくてもビールと串焼きの盛り合わせが運ばれてきた。ここまではルーティンと言っても差し支えない。ビールはプリン体が多いそうだ。大通さんの顔が一瞬だけよぎったが、なみなみとビールが注がれたジョッキを前にすると自分を抑えることが出来なくなった。


 痛み止めももらっているし、明日からの仕事に支障はない。キンキンに冷やされているジョッキを掴み、ビールを流し込む。うまい。やっぱり、ビールを飲まないと生きている心地がしないのだ。病気とこのビール、天秤にかけたら圧倒的にビールが優勢なのは明らかだ。


 一気にジョッキの半分ほどを飲み干してテーブルに置く。冷えたビールが胃袋に落ちていくのを感じながら体をブルブルと震わせていると、不意に肩を叩かれた。


「塩沢さん。ビール、飲みまひたね?」


 聞き覚えのある声だと思いながら恐る恐る振り返る。そこには般若と相違ない顔をした大通さんが立っていた。


「えっ……大通……さん?」


「そうれすよ。大通ですよぉ」


 大通さんはそう言って僕の隣に座ってくる。座るやいなや、僕のビールを勝手に奪い飲み干した。よく見ると目が据わっている。かなり酔っているみたいだ。


「楓花ちゃん。飲みすぎだって。いつもならもう帰ってる時間じゃないの。今日はどうしたの」


「いいんれすよ。この人が私の言う事も聞かずにビールを飲むのが悪いんですから」


 言葉の合間合間でしゃっくりをしている。本当にべろべろに酔っているみたいだ。そのまま僕の隣で突っ伏して寝てしまった。いびきがうるさい。


「あの……牛尾さん。大通さんの事知ってるんですか?」


「もちろん知ってるよ。冬馬君の席はここだろ? 楓花ちゃんの席はあそこ」


 牛尾さんはカウンターの右端を指さす。そういえば店に入ってすぐのカウンター席を陣取っている人がいた気もする。病院では白衣を着ていたので、私服姿で座っている大通さんに気づけなかった。


「この人もここの常連なんですか」


「そうだよ。まぁ、冬馬君は遅めの時間に来るし、楓花ちゃんは早めに帰るからすれ違ってる事も多いかもね。今日は珍しくこんな時間まで飲んでたんだよ。冬馬君は楓花ちゃんと知り合いだったのかい?」


「あぁ……実は、痛風になりまして。病院で食生活を改善するプログラムに申し込んだらこの人が担当だったんです」


「へぇ。世間は狭いもんだねぇ。ビールなんて出しちゃってごめんね。お代はいいからさ。ハイボールにするかい?」


 さすがに大通さんの真横でビールを飲み続ける勇気は無い。ハイボールを貰おうとした瞬間、寝ていた大通さんがガバっと起き上がった。


「ハイボールもらめ……でしゅ。お酒はじぇんぶ……らめ。お水をたくしゃん飲んでくだしゃい……」


 どうやら寝てはいるようでも意識はあるみたいだ。牛尾さんと二人で苦笑いをしながら目を合わせる。


「水っていうのも悪いので、炭酸水で。口も寂しいですし」


「あいよ。中々大変な生活になりそうだな」


 炭酸水が注がれたジョッキがすぐに運ばれてきた。さすがにこっそりとお酒を混ぜるような事はしていないみたいで、純度百パーセントの炭酸水だ。少し寂しいが、最初に飲んだビールでほんのりと酔いながら、ササミや冷奴を炭酸水で楽しんだ。


 食の楽しみは大通さんによって奪われたものの、鳥丸に来る理由はそれだけではない。ここに来れば人と話が出来るのだ。


 就職のために上京したものの、学生時代の彼女に振られて以降浮いた話はない。仕事が忙しすぎて友人もいないため、家にいると孤独を感じるのだ。そのため、仕事を終えた後は鳥丸に閉店するまで居座り、家は寝るためだけに帰るという生活をずっと続けてきた。


 今日は僕の隣は酔っ払いの居眠りによって占領されているため、良く話す常連組も近寄ってこない。さすがにこれでは鳥丸にいる意味がないので、大通さんが起きたら一言詫びて帰ろうと思った。


 ◆


 深夜二時。閉店時間になっても大通さんは起きない。僕は明日も朝から仕事なのでいい加減に家に帰って寝たいのだが。


「楓花ちゃん。起きて。お店閉めるよ」


「うーん……白子もダメです……」


 牛尾さんが体を揺らしても全く起きようとしない。まだ夢の中では僕に注意しているらしい。現実では炭酸水に枝豆なので十分に大通さんの想いは伝わっている。


「大通さん! 起きて! 牛尾さんが困っちゃうよ!」


 僕も大通さんを起こすために耳元で大きな声を出す。


「聞こえてますよ。うるさいです」


 スクっと起き上がると、昼間に会った大通さんに戻っていた。結構長い事寝ていたので酔いも醒めたのだろう。


「牛尾さん。ご迷惑をおかけしました。塩沢さん、帰りますよ」


「だから、ずっとそのつもりだったんだけどなぁ」


「うるさいですよ。裏切者」


 大通さんは頬を膨らませて子供のように怒っている。実はまだ酔っているのだろうか。可愛げのある怒り方なので、次の面談でもほろ酔いで来て欲しい。


 牛尾さんに見送られながら二人で店を出た。九月ともなると、深夜になれば蒸し暑さが和らいでくる。


「塩沢さん、家はどちらですか?」


「すぐ近くですよ。大通さんは?」


「奇遇ですね。すぐ近くです」


「じゃあ送りますよ」


「いえ、今日は塩沢さんの家に泊まります」


「え?」


「目の前であんな裏切り行為を見たんです。どうせ家にも大した食材を置いていないのでしょう。私が徹底的に指導します。明日になったら上司に塩沢さんの担当にしてもらうよう直談判しますので。よろしくお願いします」


 大通さんは真面目な顔でペコリと頭を下げる。僕としては大通さんが担当になってくれるのであれば願ったりかなったりではある。


 ただ、熱意が有り余って少しめんどくさそうな人にも見えてきていたところなので、家に連れて行くのは迷ってしまう。そもそも妙齢の女性を家に上げたことはほとんどないのだ。


「い……いや、さすがにそれはちょっと。大通さん、まだ酔ってますよね?」


「酔っていたら何が悪いんですか? 成人同士の合意に基づいた宿泊です。何も問題ないでしょう」


 まだ僕は合意していないのだが、大通さんは一方的にお互いの合意があるとみなしているらしい。一人でそそくさと僕の家と反対方向に向かって歩き出してしまった。


 十メートルくらい歩いて立ち止まる。どこに行けばいいのか分からない事に気づくのに結構な時間がかかるくらいには酔っているらしい。


「あの、家はどこですか?」


 首を傾げながら聞いてくる大通さんはとても可愛らしい。人生初のお持ち帰りという事に気づいてから胸の高鳴りがおさまらない。勝手知ったる自分の家なのに、そこで何が起こるか分からない不思議な感覚に包まれながら二人で家に向かった。


 だが期待したような展開にはならず、家に着くなり大通さんはシャワーも浴びずにベッドを占領して寝てしまった。いくら好みの女性とはいえ、さすがに限度というものがある。


 大通さんが散らかした荷物をまとめて、リビングに置いてあるソファに横になる。ほとんど使ったことは無い。リビングとしての見てくれを整えるために買って置いていた物だ。


 寝転がると少し硬い。こんな風に寝転がるならもっと良い物にしておけば良かった。こうして、一人で悶々としながら夜を明かした。


 ◆


「起きてください。そろそろ一般的な企業の始業時間です」


 体を揺すられて起こされる。目を開けるとエプロンをつけた大通さんが僕の顔を覗き込んでいた。昨日は大通さんがうちに泊まっていた事を思い出す。ソファで寝ていたので体がガチガチだ。


「あ……おはようございます」


「おはようございます。遅刻確定ですけどどうします? 休みますか? ちなみに私は有給を取りました」


「あ、いえ。うちは特に始業時間とかないんですよ。裁量労働ですし。打ち合わせが午後にあるんで、午前はゆっくりしてから出社します」


 打ち合わせ用の資料の準備は後輩にやってもらおう。出来る子だしそろそろ独り立ちの練習もさせたかった。


「それでまた夜遅くまで働いて、鳥丸に深夜まで居座るおつもりですか?」


「これまではそうですね……」


「なるほど。今日からは違うとおっしゃる訳ですか」


「もちろんじゃないですか」


「ほう……では、これは何ですか?」


 大通さんはソファの前にあるローテーブルにビールのケースを置く。プリン体カットのタイプだ。病院からの帰り道、どうしても我慢できなくなった時のために一ケース買っておいたのだ。


「こ、これは最後の手段なんです」


「最後の手段ですか。既に一本開けていますけれど、早すぎませんか?」


 どうやら大通さんにはお見通しだったらしい。昨日、どうしても我慢が出来なくて一本だけ飲んだ。すると歯止めが効かなくなって家を飛び出し、鳥丸まで行ったという経緯がある。


「クソ雑魚メンタルの塩沢さん。分かりましたか? 自分を甘やかしても良い事はありませんよ。そろそろ昨日飲んだ痛み止めも切れてくる頃じゃないですか?」


 大通さんの言う通りで、脳が覚醒してくるにつれて足先がジンジンと痛み始めていた。


 返事をせずに薬を探しに行こうとソファから立ち上がると大通さんが素早く僕をソファに押し戻す。勢いのまま、ドスンとソファに腰掛ける。そのまま大通さんは眉間に指を突き立ててきた。


 何かがおかしい。眉間を一本の指で突かれているだけなのに立ち上がることができない。


「秘孔を突きました。あなたはこのまま立ち上がる事ができず、痛みに苦しむ事になります」


「い……いや。何の冗談ですか。その指をどけてください。それのせいで立てないだけじゃないですか」


「二本の腕はぶら下げるためについているアクセサリーか何かですか? 腕の先についている手という部位を使うと簡単に振り払えますよ」


 そうしたいのはやまやまだ。だが、出来ない事情もある。


「さっきから胸ポケットに携帯を仕込んで撮影していますよね? 僕の方から触ったという証拠にして何かしらの脅しに使おうとしているのが丸わかりです。故に僕から触ることは出来ないんですよ」


 大通さんはニヤリと笑って答え合わせをしてくれた。


「では私の後に続いて復唱してください。『塩沢冬馬は、今日から酒を断ちます。ナメクジにも満たない、ナメクジ様と同列にされるのも恐れ多い雑魚メンタルの私ですが、これからは心を入れ替えて健康的な食事に励みます』」


 ナメクジはメンタルは強そうだが、大通さんの中ではナメクジはメンタルが弱い生き物らしい。そして僕はそのナメクジ以下だ。


「では私の後に続いて復唱――」


 空いている手で頭を軽く叩かれる。


「そういう古典的なボケはいいんです。早くしてください」


「私、塩沢冬馬は今日から断酒します。ナメクジ並みのメンタルの私ですが、これからは心を入れ替えて健康的な食事に励みます」


「少しアレンジされていましたが、まぁいいでしょう。ナメクジと同列にさり気なく格上げしている所なんか、小物感があって良かったですよ」


 見下すように笑いながら指を外してくれる。


「ご飯にしましょう。そこで待っていてください」


 どうやら大通さんが朝ごはんを作ってくれていたらしい。白米や味噌汁が次々と運ばれてくる。見た目からも健康的な事が分かる和食だ。こういうご飯は久しく食べていない。


「どうぞ、食べてください」


 大通さんは味が気になるのか、ローテーブルの横に正座している。


「あの……一緒に食べませんか? それとここ、どうぞ。床は硬いですから」


 ソファの左半分を空けるようにずれる。


「ありがとうございます。ですが、結構です」


「そんな事を言わずに。なんだか居心地が悪いんですよ」


「いえ、結構です」


 頑なに拒否するのでこだわりでもあるのだろう。大通さんが用意してくれた食事に手を付ける。うちの炊飯器でこんなに米が美味しく炊けるとは知らなかった。


 味噌汁は味が薄めだ。そんな事を言えば「あなたはナメクジなので塩分が濃いと死にますよ?」とか言われそうなので指摘はしない。


「あの……もう一度誘ってください」


「え?」


「ですから、もう一度、ご飯を食べようと誘ってください」


 どうせ断るつもりなのだろう。僕をからかいたいのかもしれないが、座っているだけで暇なのだろう。


「ここに座って一緒に食べませんか?」


「はい、喜んで」


 待ってましたと言わんばかりにキラキラとした笑顔で自分のご飯を用意してソファに座ってくる。


「さっきまで断ってたじゃないですか……急にどうしたんですか」


「あれですよ」


 目線の先には本棚があり、三国志の漫画が一巻から順番に収納されている。どうやら三顧の礼を模していたらしい。


「今になって思えば、担当になってくれと再三請われて受ける方が良かったかもしれませんね」


 自分は僕にとっての諸葛亮孔明だと言いたいのだろう。朝起きてから暇つぶしに読んで三顧の礼のエピソードにたどり着いたとは思えないので、元々知っていたのだろう。大通さん、意外と話が合うのかもしれない。


 何故かは分からないけれどこの人は本気で僕の生活を良くしようと思ってくれていると実感した。大通さんが孔明なら僕は劉備。必ずや僕の健康は改善するだろう。


「大通さんは三国志で好きな武将とかいるんですか?」


「孫策と周瑜のカップリングですね。君主と軍師という立場を超えた関係性……たまりませんね」


 大通さんは所謂、腐の人だった。




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― 新着の感想 ―
[良い点]  文章も地の文もお手本の様に綺麗で、とても読みやすかったです。  キャラの表現の手法も素晴らしいの一言です。 [気になる点]  掛け合いのテンポはよかったのですが、何を伝えたいのかがいまい…
2021/09/28 00:05 退会済み
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