第九回 荀彧と許攸が論戦で火花を散らし、曹操へ許攸が秘策を献ずる
荀彧さまと許攸が向き合っている。自分の同席も許攸になぜか許されて荀彧さまの斜め後ろに座を得ている。
「許子遠どの、この度は誠にありがとうございました。殿もお喜びでございます。子遠どのの智謀をもってすればこの戦、必ず良い方向に進みましょう」
「孟徳やその幕下がわしの言葉を信じるかどうかだな」
「何か策はございますか?」
「現在袁紹軍の糧食は烏巣にほぼ全てが集積されている。ここを攻め、奪えないまでも焼くことが出来れば袁紹軍を撤退に追い込むことができよう」
「なるほど、淳于瓊の守る烏巣はやはり食糧庫だったのですね。確証が取れず困っておりました」
「一万の兵で守っており、騎兵もいるが予備役の割合が多い。本隊よりは与しやすかろう」
「分かりました。さっそく殿に諮りましょう。殿は恐らくこの策を採用されると思います」
「ところで孟徳が袁本初を倒したら、曹家による王朝がいずれ建てられるのか。走狗煮られる、となっても堪らぬが」
許攸が突然話題を変える。
「子遠どのは殿の若い頃からの仲、問題は何もございません。私からも子遠どのが重く賞されるよう念を押しましょう」
「文若は孟徳が中華を統一したら劉邦を支えた蕭何のように相国 1) になるのかのう」
「いえ、殿もわたくしもあくまで漢王朝の復興が目的です。それがお互いの目的だということを確認した上で主従となりました。袁紹や劉表のような王朝に歯向かう群雄を全て平らげたなら、我々は退いて治世に向いた臣に代わるでしょう」
「そう上手くいくかな、人の欲望は限りがない」
「私は張良に倣って山にでも籠って隠遁生活を送ろうかと」
殿に「我が子房」2) と評された荀彧さまならではの身の処し方である。
「お主はともかく孟徳のほうはどうかな。わしもあやつが征西将軍と墓に書かれるのが夢だと言っていたのは、その場にいたから覚えておる。本初が大将軍で孟徳に命じて反乱や夷狄を討伐させる。そういう筋書きであったな。あの頃は皆若かった。孟徳には今でもその想いは残っているのかもしれんが、果たして周囲がその在り様を許すかな?」
「……」
「上に立つものは力を得ると変わってしまう。それは本人が変わってしまうのもあるが、周囲の期待に流されてしまう面もあるのだ。本初は変わってしまった。劉虞どのに擁立を断られた後は冀州の有力者を繋ぎとめるために自らの理想を曲げ、名士たちに阿り、ひたすら権勢を得る方向に進んでいった。果たして孟徳は周りの期待と自分の理想、どちらを優先していくのか?下手に身を引いて後で混乱を引き起こすくらいなら、いっそ帝位に即くほうが乱世に終止符を打てる可能性が高くなるとわしは思うぞ」
荀彧さまと許攸の国体に関する議論。乱世での男の生き方を問われている。そんな気がする。あえて本音を荀彧さまに晒すことで、二心のないことを主張したいのだろうか。老獪な許攸だが、やはり命がけで寝返ってきているのだ。
「さすがは私よりも殿とのお付き合いがずっと長い子遠どの、ご高説痛み入ります。私も子遠どののご懸念は全く妥当だと思います。中華の統一が出来たとしたら身を引くのが理想ですが、現実的には周の文王 3) のように宰相となってしばらく天下を治めることにはなるでしょう」
「しかしそれでは春秋の覇者たちの時代のように宰相は入れ替わり、結局戦乱は止まぬ」
「はい、殿には唯一の圧倒的な軍隊を持って天下を抑えていただきます」
「それだといずれは周囲に推されて簒奪に進んでいくな」
「簒奪はいたしません。天子は劉氏が永遠に引き継いでいきます。あくまで天命は劉氏にあるのです。その下で皇帝たる曹氏が天下を治めます。曹氏の統治が良くなければ取って代わられることはあるでしょう。」
「ばかな。天子と皇帝を分かつ、か」
「呼び名は別に皇帝でなくても良いでしょう。そもそも皇帝の称号は秦の始皇帝が作ったものを高祖劉邦が便宜的に引き継いだもの。天下がそれで治まりやすかったから使った「道具」に過ぎません」
「言うは易し、だがこれは本当に実現できるものであるか?」
「できるかどうか、ではなく、成し遂げます。殿と私で。子遠には青臭く思えるかもしれませんが――」
「青臭いな。実に」
許攸が荀彧さまを遮る。だがその目はそれまでの鋭さの中に温かいものをたたえていた。
「だが、嫌いではない」
「子遠どのならご理解頂けると思っておりました」
「まあ先の話はよい。まずは目先の本初じゃな」
「はい、殿にぜひ面会を」
ほどなくして許攸が殿と面会することになった。殿は大喜びではだしのまま迎えに出てきた。
「子遠よ、あなたが来れば我が事は成功するに違いない」
「阿瞞 4) よ、しばらくぶりじゃのう。審配めの毒牙に親族がかかってしまった。本初に最後まで忠義を尽くそうと思ったのだが、思い直してそなたのために働こうと思ったのだ。よろしく頼むぞ」
「子遠と私が組めばきっと冀州軍を打ち破れよう」
「しかし冀州の軍の勢いはまだまだ盛んだ。こちらには糧食はどのくらいあるのか?」
「あと一年分はありますぞ」
「まさかそんなにはないだろう。もう一度言ってみよ」
「流石は子遠。見抜いておったか。実は半年分しかない」
「そちは本初を破るつもりなのか?私を信じねば事を成すことはできんぞ」
「すまぬ、冗談であった。実はもう一か月分しかない、なので――」
「そなたの軍は単独で本初と対峙しており援軍は無い。糧食も尽きておろう。いまが正に危急存亡の秋!冀州軍の糧食は現在烏巣にまとめられている。ここを急襲して不意を突き糧食を焼き払えば勝機は見えよう」
しばし殿と許攸が沈黙する。最近精神が病んでいた殿のご決断は如何に。しかしすぐに殿は口を開いた。
「わかった。風向きが良い。天候もよい。烏巣に今晩夜襲をかける。敵将は淳于瓊。良将だが特段奇策は無い。手の内は知っておる。郭嘉軍師、徐晃将軍、楽進校尉は余と共に参れ。作戦は行軍しながら考える。荀攸軍師と子廉(曹洪の字)は官渡を守ること。また張郃が兵器で攻めてくるやもしれぬ。投石をたっぷりお見舞いしてやるのじゃ」
「ははーーっ!!」
殿が完全復活なされた。敵方から好機が飛び込んできての即断即決。殿の真骨頂である。もちろん敵は大軍で強大なのだが、何故かこの作戦は成功するようにしか思えない。そう思わせている時点で作戦は半ば成っているのであろう。そのように部下に思わせることができる主君は強いのだ。
1) 相国は国の宰相。常設ではなく特別な時のみに任命される宰相であり、前漢・後漢王朝を通じて蕭何を含む数名しか就任していないが、董卓は数百年ぶりに就任した。
2) 張良、字は子房、は劉邦の軍師。劉邦が項羽を倒すのに多大な貢献があったが、天下を取った後は自分の身を守るために隠遁して仙人になる修行をしていたという。
3) 周の文王は暴虐な殷の紂王に対して仕え、あくまで恭順を保ちながら諸侯の支持を得て力を伸ばした。しかし自分の存命中には紂王を攻撃せず、その死後に子の武王が殷を滅ぼして周王朝を建てた。
4) 阿瞞は曹操の小さい頃の呼び名。瞞とは悪い意味の字だが、一説によると悪い名前を付けると長生き
すると当時は信じられていたらしい。許攸は曹操の先輩で、性格も傲慢なので阿瞞と呼び捨てです。袁紹は曹操のことが大好きなので決してこの名前では呼ばず、ちゃんと「孟徳」と字で呼びます(つまり先輩面はしている)。
官渡の戦いもいよいよ大詰め!次回、烏巣攻めへ出陣!