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第五回 満寵が投石器の開発を語り希望を見せ、袁紹軍の高楼を破壊して見せる

 満寵(まんちょう)(あざな)伯寧(はくねい)曹操(そうそう)殿が初めて州牧(しゅうぼく)となって兗州(えんしゅう)を治めた際に仕えた。荀彧(じゅんいく)様よりは少し後からである。役人としても武人(ぶじん)としても優秀だがとにかく得意技が(とが)っているお人だ。


 役人としては非常に厳格である。殿の一族の曹洪(そうこう)殿の食客(しょっかく)が不正を行っているのを容赦(ようしゃ)なく取り()まって処刑したり、袁術(えんじゅつ)が皇帝を(しょう)した際に袁術と縁続きであった漢王朝の大臣の楊彪(ようひょう)を荀彧様らが止めるのも聞かず法令に従って(むち)打った。


 武人としても既に活躍が多い。特に兵器や(わな)を扱った防衛戦や攻城戦が得意、というよりは大好きである。最近は投石器(とうせきき)と呼ばれる大きな石を遠くに飛ばして敵自身や敵の建物を攻撃する兵器に()っているらしい。


 現在汝南(じょなん)郡の太守を(つと)めている。汝南は袁紹の故郷であり、袁家に心を寄せる豪族(ごうぞく)や元部下が数多く不穏(ふおん)な動きを見せている。満寵はそれら反抗勢力の(とりで)を一つ一つ攻撃してつぶしていったのだが、ついでに投石器をガラガラと牛車(ぎっしゃ)()かせて持って行き、砦に向かって石を発射して射程(しゃてい)射角(しゃかく)などの実験および改良にいそしんでいたという。


「荀彧様、ただいま汝南より戻りました」


満寵殿は笑顔で部屋に入ってきた。身長が高く堂々とした体格である。同じく背が高い荀彧様とはお似合いだ。


「お疲れ様です。汝南の賊どもの首尾はどうですか?」


「はい、手兵を率いて二十余りの砦を攻め潰し、首謀者をみな斬首(ざんしゅ)して(さら)しました。その他の袁紹に味方する豪族(ごうぞく)たちも呼び寄せて宴席で皆殺しにしました。その縁者(えんじゃ)は皆ばらばらに屯田(とんでん)に送り込んで耕作させるか、軍務に就かせています」


 満寵殿はにこやかに厳しい措置(そち)をさらっと報告する。


「ふふ、あいかわらず手厳しい。反乱の芽は()んだようですね。お伝えしている通り、伯寧さんには少しの間、汝南を離れて官渡へ行って頂きますが、不在の間の対策は?」


「お隣の陽安(ようあん)太守の李通(りつう)将軍に汝南も見て頂くようお願いしました。彼の所にも袁紹からの内通要請が来ていたのですが、彼は私の目の前でその書簡を燃やして見せました。心配ないでしょう」


「彼の所にも、ってあなたにも来ているのですね」


「ご明察。手あたり次第に送られてきているようです」


「私にも来ていますよ」


 と荀彧様は苦笑いした。皆あっけらかんと袁紹からの寝返り工作を受けたことを語っている。曹操陣営も元々は袁紹軍からの枝分かれ。親戚や元同僚、旧知の仲も多い。袁紹からの書簡を変に隠すほうがかえって怪しまれるというものなのだろうか。


「ところで投石器の開発状況は?」


「汝南で賊徒の砦を攻める際に三分の一の寸法で作成し、これを実戦運用しながら改良を進めました。射角(しゃかく)とそれにより得られる飛距離の一覧表を作成して、これを射表(しゃひょう)と呼んでいますが、これは戦国時代末期の墨家(ぼくか)が残した書物を参考にして――」


「はいはい、目途(めど)が立っているのあれば私としてはあとは伯寧さんにお任せします。ただ投石器の話は殿はきっと好きだと思いますので、殿が聞きたがったら詳しく説明してあげてください」


「わかりました。殿に希望のある話をできれば良いと思っております」


「殿からしても最近会っていない伯寧さんが新しい話題を持っていくのは良い刺激になるかもしれません。あとはなるべく些細(ささい)なことでもよいので殿を()めてあげてください。落ち込んでいるときにはあまり失敗には目を向けさせないことです。もちろん殿は人の上に立つ立場ですからありのままの報告は必要ですが、その場合は解決案も一緒に提示してあげてください。よろしくお願いします」


 荀彧様は()()()の箱に書簡を入れて自分に託した。かくして満寵殿を連れて再び官渡城に戻った。殿は相変わらず生気のない顔をしていた。すると満寵殿は模型の小さな投石器を殿に見せ、


「これで殿の悩みを解決して差し上げましょう」


 殿の目の色が変わる。


「汝南の賊徒の砦を攻撃するついでに投石器の研究を進めておりました。これはその模型にございます。このように岩を台の上に置き、ここの(ひも)を下に引く反動で台が前方に回転し、止まった勢いで石を前に飛ばします」


「ここまでは墨子(ぼくし)にも書いてあるおなじみの兵器ですが課題は(ねら)いを定めて飛ばすのが難しいこと。まずは弾丸(だんがん)は決まった重さの正しい球体のものを使うことです」


「つぎに弾丸の飛距離を予測すること。投石を行う際の地面に対する上下の向き、これを射角と呼びます。この上下の向きによって飛距離が決まることは分かるのですが、九章(きゅうしょう)算術(さんじゅつ)など様々な算術書を読んでもその解法(かいほう)は見つかりませんでした。噂によると天竺(てんじく)にはそのような算術があるらしいのですが、所在を確認するのは困難のようです。そこで墨家(ぼくか)の書物を読み漁ったところ『射表』と呼ばれる射角と飛距離の一覧表を作ることで法則性を見出していく方法が書いてありました」 1)


満寵は説明を続ける。殿は時折強くうなずきながら身を乗り出して聞いている。


「この射表を作成するために汝南での各城砦の攻撃に投石器を持って行き、射角総当(そうあ)たりで投石を行い、射表を完成させたのです」


「なるほど。そこまではよい。天竺の話なら洛陽の白馬寺(はくばじ)浮図(ふと)の者に聞いてみると良いだろう。が、今はそのような悠長(ゆうちょう)なことは言っておれぬな。この戦が片付いたら行ってみよ。2) それより汝南の小さな砦を攻撃していた投石器と同じ大きさのもので官渡を囲む高楼を破壊するほどの飛距離と破壊力が出るのか?例えば二倍の大きさのものを作成すれば良いであろうが、射表は作り直しなのではないか?」


「そこはぬかりありません。汝南で既に五割大きい投石器についても射表も作成しております。微調整(びちょうせい)は必要ですがこれら二つの射表を元に、より大きな投石器の射表を計算することが可能です。ただし飛距離が大きくなると上空の風の影響も大きくなります。そこでお願いがあるのですが城内のなるべく高い場所に吹き流しを複数設置して風向きを一目(ひとめ)で分かるようにしたく思います。また――」


 殿の表情にはいつもの生気が戻り、満寵殿と活発に議論している。難しい算術の話でもう自分にはついていけない。もともと強力な殿の好奇心を満寵殿の工作と算術の話が呼び起こしてくれたようだ。


 翌日から何台もの投石器の製造が始まり、ほどなく城内の各地に設置され、投石が始まった。投石は山なりに放物線(ほうぶつせん)を描くように行われるため、城壁の真後ろの高楼が直接見えない位置に投石器を配置しても問題無い。したがって袁紹軍の高楼から放たれる矢からも安全なのであった。


「二番機外れー!左手前十(じょう)


城壁にいる兵士が外れた弾丸の着弾場所が高楼からどのくらいの距離であったかを叫ぶ。


「よーし、右に二目盛、上に一目盛、射角変更」


 投石器の上下方向および左右方向の向きの微調整を行う。各機でこれを繰り返して高楼に当てていく。二分の一の大きさの投石器で射表を作成しているので微調整の精度は高く、すぐに調整できる。


「三番機、命中!!三階部分に破損(はそん)


 兵士たちから歓声が上がる。一刻もすると全ての投石器が命中するようになり、敵方の高楼は穴だらけになった。中には倒壊したものもあった。中に油を仕込んだ弾丸に火をつけて発射する「火炎弾(かえんだん)」も実験的に投下されたが高楼を焼き払い、袁紹軍の陣営(じんえい)に火事を起こすなど大戦果を挙げたのであった。

 

 袁紹軍は恐れて陣営を後退させるほどで、落ち込んでいた官渡城内の士気も上昇。開催された宴会では殿が直接兵士に酒をふるまい、はしゃぎまわっていた。どうやら殿も復活されたようで、荀彧様にも書簡を送って良い報告ができたのであった。


 その後も袁紹軍が今度は地下通路を掘って官渡城への侵入を試みているということが判明したが殿は


「ばかめ、城壁の内側沿いに塹壕(ざんごう)を掘って川の水を流し込んでおけ。公孫瓚(こうそんさん)には効いても(わし)にはそのような策は効かぬぞ」


 と即座に指示をした。数日後、哀れな袁紹軍の掘削(くっさく)部隊は水で埋められた塹壕を掘り当てて溺死(できし)したのであった。


 荀攸殿と郭嘉殿が殿に呼ばれ、袁紹軍の輜重(しちょう)部隊を攻撃する案が練られ、曹仁(そうじん)殿が出陣して袁紹方の輸送隊長の韓猛(かんもう)を散々に打ち破って敵の物資・食料を焼き払う戦果を上げて帰還してきた。満寵殿は任務を終えて汝南に戻っていった。殿の精神も曹操軍の戦況も少し盛り返した感じであるが、それでもまだ袁紹軍は曹操軍の三倍を超える戦力を維持したまま、季節は冬を迎えようとしていた。



1) 九章算術は後漢ごろに成立したとされる算術書。著者は不詳。角度の概念は中国算術には無かったようですが、インドまではギリシャから入ってきていたとのこと。この辺りは薮内清「中国古代の科学」や様々なネット上の情報を参照しました。

射表が墨家うんぬんは僕の創作です。正史のほうの三国志で、官渡の戦いで投石器を使って袁紹軍の高楼を破壊したとさらっと書いてあります。これって相当高い技術のはずで当てるための何らかの方法論があったと考えないと砲弾はかすりもしないだろうと思いました。トライアル&エラーを繰り返して適切な仰角を編み出したのだろうと。


2) 浮図とは当時の仏教徒の呼び名です。仏教は後漢の時代に中国に入り、洛陽の西に白馬寺という寺院が建てられて布教や天竺(インド)から取り寄せた経典の翻訳などが行われていました。三国時代に入って江南で盛んとなり孫呉に仕えた仏典の翻訳者や僧侶がいます。


官渡の戦況は良くなったのだが……次回、曹操軍に大耳野郎の脅威が迫り、荀彧様は頭を悩ませる

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